倭王が殺されるまでの事

敲達咖哪

文字サイズ
小 中 大 特大
15 / 15

暗殺

 その日は、泊瀬部王はつせべノおおきみの第五年十一月三日である。
 豊浦宮とゆらノみやでは、東国あずまノくにからの使節を迎えて宴うたげを催す饗応きょうおうの儀式が、炊屋姫尊かしきやひめノみことの主宰で盛大に行われている。蘇我馬子大臣そがノうまこノおおおみを首はじめとして、倭国やまとノくにの重だった貴族たちも、晴れ着に身を包んで集まっている。
 東漢直駒やまとノあやノあたいこまは、馬子うまこの嶋の屋敷の庭で、河上娘かわかみノいらつめが仕度するのを待った。若い跡取り息子の蝦夷えみしと、馬子うまこの弟にして支族の境部さかいべ氏を領する摩理勢まりせが、河上娘かわかみノいらつめを連れて奥から出てくる。河上娘かわかみノいらつめは、絹の頭巾をはだけぬように巻いて、痘痕あばたのある顔を固く隠している。
(美しき眼まなこなるかな)
 と駒こまは思った。そこだけが素顔を覗わせている。
 午ひるはとうに過ぎた。
 駒こまは馬に跨またがり、若干の護衛を連れて、河上娘かわかみノいらつめを乗せた輿を先導する。嶋の屋敷を出て、まずは北へ向かい、途中までは豊浦宮とゆらノみやへ行くのと同じ通りを、賑やぐ門かどへは背を見せて、東へ折れて谷筋の、寂しい道を倉梯くらはしへ、ことさらにゆるゆると歩く。空高く寒い風が飂々りょうりょうと吹いて雲を流している。
 倉梯宮くらはしノみやは、人の粥すするほどの音も無く、冬の宇宙の底深く沈んでいた。冬至の近い頃だから、太陽は落ち急いで、西の空ははや赤らみかけている。
 宮人が案内して、駒こまと河上娘かわかみノいらつめだけを奥の庭に通す。庭の片隅に、王の離れ家やが建っている。小さいことは駒こまの小屋より小さいほどだとはいえ、さすがに王宮の一棟だけあって、上等の木材で精巧に加工を施してある。二人は軒前のきさきにひれ伏して控える。
 宮人が取り次ぎをして、戸が開き、中から泊瀬部王はつせべノおおきみが軒に臨む。
「東漢直駒やまとノあやノあたいこま、嶋の大臣になりかわりて侍はべりまつる」
 と駒こまは、額を土に着けたまま、言上する。王の顔を視ることはできない。本来であれば、謁見を許されるような身分でさえないのだ。覚えず、肝が震えるのを感じた。かつて手にかけた穴穂部王子あなほべノみこは、この王の兄だったが、世の人と異なるとまでは思わなかった。しかし王位に即けば、やはり神かむさぶる霊力が身に宿るものなのであろうか。
「常つねの礼いやにこだわること勿まな。これへ参れ」
 庇ひさしの陰からとどく声が、駒こまの鼓膜をぼうと響かせる。駒こまと河上娘かわかみノいらつめは、膝で二三歩を進む。
「構うことあるべからず。これへ」
 また膝でいささか前に進む。来いと言われても、そうすぐには寄らないのが、こういう際の礼儀である。
「これ、今日はそう礼々うやうやしくするには及ばぬ。仏みほとけの前にてあれば」
 仏の前では何人も平等、俗世の身分にこだわらずとも良いと、王は二人に許す。新鮮な驚きが、駒こまの胸を打った。今までは、神の前という場こそは、身分による秩序を再確認する所であったのだ。
 駒こまは、進み行く先に、何か明るいものが開けているのを感じた。それは漠然として把つかみがたい。それが何なのかはどうでも良い。
 河上娘かわかみノいらつめは、ずっと押し黙っている。
 王は、呼ばない限り誰も近付けぬようにと命じる。二人が堂に登ると、宮人は外に出て戸を閉め切った。燭台に灯る火だけの薄明るい室内である。見回すというほどの広さもなく、部屋の全容が目に入る。いくつかの仏像と、積み上げられた経巻が、狭い空間をさらに圧迫している。中でもひときわ目立つのは、弥勒菩薩みろくぼさちの像で、香炉と鈴りんを供えた台の奥に鎮座している。
 弥勒菩薩みろくぼさちは、釈迦牟尼しゃかむにの入滅後、五十六億七千万年後にこの世に現れ、仏陀の説法に漏れた衆生しゅじょうを救うと謂いわれている。その日ははるか遠くとも、誰もが前へ進むしか無い。
 一つ座敷に、身分違いの三人が、互いの息する音を聞いている。河上娘かわかみノいらつめは、黙って睫まつげを伏せている。駒こまは慎重に息を整えた。
「畏れながら、申し上たてまつる」
 駒こまは、馬子うまこの念書を差し出し、使者として約束を確認する。これから王には、河上娘かわかみノいらつめの顔をご覧に入れる。河上娘かわかみノいらつめの貌かおには、瘡かさの病やまいが痘痕あばたを残している。そこで王が少しでもお嫌に思われるなら、この縁談は無かったことにしていただく。
「約定ちかいには違たがわずあらむ」
 と王は宣誓する。駒こまはすっと横へ退ひいて間まを空ける。王は河上娘かわかみノいらつめに膝を寄せる。
「面おもてを上げよ」
 王の仰せにもかかわらず、河上娘かわかみノいらつめは床に額ぬかづいたまま、口を閉ざしている。王が手を添えて促すと、娘いらつめはようやく腰を起こす。頭巾で堅く顔を隠した中に、美しい睫まつげをしなだれさせている。
 王は、頭巾を取らせるのも忘れて、しばしその睫まつげに魅入られた。
 駒こまは、懐ふところに隠した五寸の針を確かめた。使いやすいように、紐を巻いて簡単に柄を付けてある。王のうなじを視る。かつて病やまいをする前、穴穂部王子あなほべノみこを殺あやめた時が、ありありと想い出される。形だけならば、そっくりで、何の違いも無い。ただ王の首とこそ思えば、懼おそろしくもある。しかし逡巡しりごみはしない。
 河上娘かわかみノいらつめは、ゆっくりと、頭巾をほどく。黒い、豊かな髪が、蛇の尾のように溢れ出る。王はその髪の流れを追って、ほんの一、二瞬間、目を泳がせた。首筋を、冷たい隙間風がかすめたような気がする。娘いらつめの顎の輪郭が、視界から逃げて、光の中に消えた。
(あな、しそこねたるや)
 駒こまは唇をかんだ。前のめりに、どうと仆たおれた王は、まだ息をしている。手足には力が無く、目はうつろ、いずれ死ぬだろう。
(一刺しですませられぬとは、わが腕も鈍なまりつかし)
 確かに生を奪わなくては、使命を果たしたことにならない。駒こまは王の身をあおむけに転がし、その腰の脇差を奪って逆手さかてに取り、心臓めがけて打ち下ろす。前身頃に、赤い血が鮮やかに滲み出る。その時に、ガチリと、金属質の物をかすめた手応えがあった。
 王の懐ふところを探る。手に血がまとわりつく。血は暖かく、誰とも違わない。ふ・つ・う・、という新鮮な外来語が想起される。仏の前では平等、何人なんぴとも普・通・。誰もがいずれは大乗の救済に与あずかるという意味なのである。
 駒こまは、死にゆく王の魂を感じる。魂はどこまでも沈んでゆく。沈み、沈みゆくのに、暗くはない。光が満ちている。ただ暖かさを覚えない。北に向けた枕辺に、誰か立って、はるか高くから泊瀬部はつせべを見下ろしている。それは泊瀬部はつせべが最後に見た女性の姿をしている。しかし死にゆく魂は、それは天王てんのうと称する人、炊屋姫尊かしきやひめノみことであると思った。
 泊瀬部はつせべは思う。この国、民、全ての宝は、わが物ではなかった。この世の栄光はもとよりこの手に付くものではなかった。今はなおさら遠ざかるだけである。
 遠ざかる。何も知らず幸せだった幼いころ、遊び暮らした少年の日々も、夢の如く遠ざかる。死に堕ちる、そのとめどなさだけが確かにこの身に存ある。王座という牢獄から解放され、今は自由な魂となって、やがて六道輪廻ろくどうりんねの生を享うける。
 駒こまは、王の懐ふところから、赤く塗れた小さい袋を探り当てる。中には〔倭王之印わおうのいん〕が入っている。これは好よい。持っていれば自分が殺したという証拠になる。
 駒こまはその金印を自分の懐に入れて、代わりに般若心経はんにゃしんぎょうを写した手拭いを取り出し、王の胸にはらりと落とした。素しろの地も朱に染まる。
「直ただに道を往くべし」
 と声をかけて、掌を合わせる。死者の魂よ、迷うこと勿なかれ。自分はもうそう言われて来ている。死ぬのは後先になる。
 駒こまは外に人の気配を探り、誰もいないのを確かめると、そっと堂を出た。河上娘かわかみノいらつめは、黙っていた。塀を越え、細い月の下、暗い野を往く。
(……是諸法空相ぜーしょーほうくうそう、不生不滅ふーしょうふーめち、不垢不浄ふーくーふーじょう、不増不減ふーそうふーげん、是故空中無色ぜーくーくうちゅうむーしき、無受想行識むーずーそうぎょうしき、無眼耳鼻舌身意むーげんにーびーぜっしんいー、無色声香味触法むーしきしょうこうみーしょくほう、無眼界むーげんけー、乃至無意識界ないしーむーいーしきけー、無無明むーむーみょう、亦無無明尽やくむーむーみょうじん、乃至無老死ないしーむーろうしー、亦無老死尽無苦集滅道やくむーろうしーじんむーくーじゅうめつどう、無智亦無得むーちーやくむーとく、以無所得故いーむーしょーとくくー……)
 般若心経はんにゃしんぎょうを諳誦あんしょうしながら、のろのろと歩く。肺に重るものを感じるが、心は軽い。
(……菩提薩埵ぼーだいさったー、依般若波羅蜜多故えーはんにゃーはーらーみったーくー、心無罣礙しんむーけーげー、無罣礙故むーけーげーくー、無有恐怖むーうーくーふー、遠離一切顛倒夢想おんりーいっせちてんとうむーそう、究竟涅槃くーきょうねっばん、三世諸仏さんせーしょーぶつ、依般若波羅蜜多故えーはんにゃーはーらーみったーくー、得阿褥多羅三藐三菩提とくあーのくたーらーさんまくさんぼーだい、故知般若波羅蜜多くーちーはんにゃーはーらーみったー、是大神呪ぜーだいじんしゅー、是大明呪ぜーだいみょうしゅー、是無上呪ぜーむーじょうしゅー、是無等等呪ぜーむーとうとうしゅー、能除一切苦のうじょーいっせちくー、真実不虚しんじちほっこー、故説般若波羅蜜多呪くーせちはんやーはーらーみったーしゅー、即説呪曰そくせちしゅーおち、羯諦羯諦ぎゃーてーぎゃーてー、波羅羯諦はーらーぎゃーてー、波羅僧羯諦はらそうぎゃーてー、菩提薩婆訶ぼーじーそわかー、般若心経はんにゃーしーんぎょーう)
 しばらく逃げて、いずれ適当な時に捕まり、死刑に処されるはずである。
 
 天王てんのうという称号は、音を通わせて天皇と書き換えられ、これより百年ほど後に、義務的に世襲される制度として確立した。それで歴代の王者にも追尊ついそんして天皇号が与えられた。泊瀬部王はつせべノおおきみには、崇峻天皇すしゅんてんのうという諡号しごうが贈られた。
 崇峻天皇すしゅんてんのうは死んだ。(了)
感想 0

この作品の感想を投稿する

1000文字以内

ログインすると感想の投稿ができます。

ログイン  新規ユーザ登録

あなたにおすすめの小説

我慢なんてしていませんわ。だって、面倒でしょう? 表紙

我慢なんてしていませんわ。だって、面倒でしょう?

「クロエに子供ができた。準備が整い次第、離れで暮らすことになるからそのつもりでいてくれ」 普段ほとんど屋敷にいない夫が前触れもなく告げてきた言葉をきっかけに、レティシアは“三年間”の契約を終わらせることにした。 赤の他人を屋敷に迎えることはしない。 不要なものに感情を砕く理由などない。 「だって、面倒でしょう?」 不誠実な夫も、無意味な結婚も、 この際すべて切り捨ててしまいましょう。
恋愛 完結 短編
文字数:4,095
(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」 表紙

(完結)醜くなった花嫁の末路「どうぞ、お笑いください。元旦那様」

容姿が気に入らないと白い結婚を強いられた妻。 本邸から追い出されはしなかったが、夫は離れに愛人を囲い顔さえ見せない。 しかし、3年と待たず離縁が決定する事態に。そして元夫の家は……。 *6月18日HOTランキング入りしました、ありがとうございます。
ファンタジー 完結 短編 R15
文字数:70,116
王子を身籠りました 表紙

王子を身籠りました

婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
恋愛 完結 短編
文字数:9,819
終わりにします 表紙

終わりにします

「終わりにします」 その言葉とともに、侯爵令嬢シルヴィアは毒を飲んだ。 婚約者は妹を選び、父は妹だけを信じた。 誰にも必要とされなかった人生を終えたはずなのに、目を覚ますと三か月前へと時間は巻き戻っていた。 もう、誰かに愛されるためだけに生きるのはやめよう。 そう決めた彼女は、静かに運命を書き換えていく。 これは、一度死んだ少女が、自分自身の人生を取り戻すための物語。
恋愛 完結 ショートショート
文字数:14,386
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~ 表紙

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。
恋愛 完結 ショートショート
文字数:9,943
別れし夫婦の御定書(おさだめがき) 表紙

別れし夫婦の御定書(おさだめがき)

★第11回歴史・時代小説大賞 奨励賞受賞★ 嫡男を産めぬがゆえに、姑の策略で南町奉行所の例繰方与力・進藤 又十蔵と離縁させられた与岐(よき)。 離縁後、生家の父の猛反対を押し切って生まれ育った八丁堀の組屋敷を出ると、小伝馬町の仕舞屋に居を定めて一人暮らしを始めた。 月日は流れ、姑の思惑どおり後妻が嫡男を産み、婚家に置いてきた娘は二人とも無事与力の御家に嫁いだ。 おのれに起こったことは綺麗さっぱり水に流した与岐は、今では女だてらに離縁を望む町家の女房たちの代わりに亭主どもから去り状(三行半)をもぎ取るなどをする「公事師(くじし)」の生業(なりわい)をして生計を立てていた。 されどもある日突然、与岐の仕舞屋にとっくの昔に離縁したはずの元夫・又十蔵が転がり込んできて—— ※「今宵は遣らずの雨」「大江戸ロミオ&ジュリエット」「大江戸シンデレラ」「大江戸の番人 〜吉原髪切り捕物帖〜」にうっすらと関連したお話ですが単独でお読みいただけます。
歴史・時代 完結 短編
文字数:45,517
【完結】私の出産日に初恋の人を選んだ夫、あなたを彼女に返品します 表紙

【完結】私の出産日に初恋の人を選んだ夫、あなたを彼女に返品します

「子供っぽい嫉妬はやめろ」私が命懸けで出産した日、夫のヴィンセント侯爵は初恋の人の所へ行ってしまった。理由を説明して欲しいと言うと、子供っぽい嫉妬をやめろと厳しい声で言われてしまう。しかも初恋の相手がいきなりやってきて「侯爵様は昔から私を命懸けで助けてくれるんです」と悪びれもせずに言い放った。妻よりも初恋相手を優先する夫は必要ないので私は夫を初恋相手へ返品した。すると生まれてから一度も人に頭を下げたことのないヴィンセントが、ボロボロになって私に頭を下げてきて⋯⋯。
恋愛 連載中 長編
文字数:94,149
完結 さようならと言った少女と、家族を失った父 表紙

完結 さようならと言った少女と、家族を失った父

私の本当のお母様は、もうこの世界にはいない。 6歳で母を亡くした少女。父親が連れてきた「新しい家族」の輪に入ることも許されず、食事さえ拒むようになった彼女に突きつけられたのは、父からの容赦ない暴言と手酷い一打だった。 「お母様のところへいきます」 一通の遺書を残して冷たい池に消えた少女の、切なくも温かな再スタートの物語。
ファンタジー 完結 短編
文字数:49,486