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暗殺
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その日は、泊瀬部王の第五年十一月三日である。
豊浦宮では、東国からの使節を迎えて宴を催す饗応の儀式が、炊屋姫尊の主宰で盛大に行われている。蘇我馬子大臣を首として、倭国の重だった貴族たちも、晴れ着に身を包んで集まっている。
東漢直駒は、馬子の嶋の屋敷の庭で、河上娘が仕度するのを待った。若い跡取り息子の蝦夷と、馬子の弟にして支族の境部氏を領する摩理勢が、河上娘を連れて奥から出てくる。河上娘は、絹の頭巾をはだけぬように巻いて、痘痕のある顔を固く隠している。
(美しき眼なるかな)
と駒は思った。そこだけが素顔を覗わせている。
午はとうに過ぎた。
駒は馬に跨がり、若干の護衛を連れて、河上娘を乗せた輿を先導する。嶋の屋敷を出て、まずは北へ向かい、途中までは豊浦宮へ行くのと同じ通りを、賑やぐ門へは背を見せて、東へ折れて谷筋の、寂しい道を倉梯へ、ことさらにゆるゆると歩く。空高く寒い風が飂々と吹いて雲を流している。
倉梯宮は、人の粥すするほどの音も無く、冬の宇宙の底深く沈んでいた。冬至の近い頃だから、太陽は落ち急いで、西の空ははや赤らみかけている。
宮人が案内して、駒と河上娘だけを奥の庭に通す。庭の片隅に、王の離れ家が建っている。小さいことは駒の小屋より小さいほどだとはいえ、さすがに王宮の一棟だけあって、上等の木材で精巧に加工を施してある。二人は軒前にひれ伏して控える。
宮人が取り次ぎをして、戸が開き、中から泊瀬部王が軒に臨む。
「東漢直駒、嶋の大臣になりかわりて侍りまつる」
と駒は、額を土に着けたまま、言上する。王の顔を視ることはできない。本来であれば、謁見を許されるような身分でさえないのだ。覚えず、肝が震えるのを感じた。かつて手にかけた穴穂部王子は、この王の兄だったが、世の人と異なるとまでは思わなかった。しかし王位に即けば、やはり神さぶる霊力が身に宿るものなのであろうか。
「常の礼にこだわること勿。これへ参れ」
庇の陰からとどく声が、駒の鼓膜をぼうと響かせる。駒と河上娘は、膝で二三歩を進む。
「構うことあるべからず。これへ」
また膝でいささか前に進む。来いと言われても、そうすぐには寄らないのが、こういう際の礼儀である。
「これ、今日はそう礼々しくするには及ばぬ。仏の前にてあれば」
仏の前では何人も平等、俗世の身分にこだわらずとも良いと、王は二人に許す。新鮮な驚きが、駒の胸を打った。今までは、神の前という場こそは、身分による秩序を再確認する所であったのだ。
駒は、進み行く先に、何か明るいものが開けているのを感じた。それは漠然として把みがたい。それが何なのかはどうでも良い。
河上娘は、ずっと押し黙っている。
王は、呼ばない限り誰も近付けぬようにと命じる。二人が堂に登ると、宮人は外に出て戸を閉め切った。燭台に灯る火だけの薄明るい室内である。見回すというほどの広さもなく、部屋の全容が目に入る。いくつかの仏像と、積み上げられた経巻が、狭い空間をさらに圧迫している。中でもひときわ目立つのは、弥勒菩薩の像で、香炉と鈴を供えた台の奥に鎮座している。
弥勒菩薩は、釈迦牟尼の入滅後、五十六億七千万年後にこの世に現れ、仏陀の説法に漏れた衆生を救うと謂われている。その日ははるか遠くとも、誰もが前へ進むしか無い。
一つ座敷に、身分違いの三人が、互いの息する音を聞いている。河上娘は、黙って睫を伏せている。駒は慎重に息を整えた。
「畏れながら、申し上る」
駒は、馬子の念書を差し出し、使者として約束を確認する。これから王には、河上娘の顔をご覧に入れる。河上娘の貌には、瘡の病が痘痕を残している。そこで王が少しでもお嫌に思われるなら、この縁談は無かったことにしていただく。
「約定には違わずあらむ」
と王は宣誓する。駒はすっと横へ退いて間を空ける。王は河上娘に膝を寄せる。
「面を上げよ」
王の仰せにもかかわらず、河上娘は床に額づいたまま、口を閉ざしている。王が手を添えて促すと、娘はようやく腰を起こす。頭巾で堅く顔を隠した中に、美しい睫をしなだれさせている。
王は、頭巾を取らせるのも忘れて、しばしその睫に魅入られた。
駒は、懐に隠した五寸の針を確かめた。使いやすいように、紐を巻いて簡単に柄を付けてある。王のうなじを視る。かつて病をする前、穴穂部王子を殺めた時が、ありありと想い出される。形だけならば、そっくりで、何の違いも無い。ただ王の首とこそ思えば、懼ろしくもある。しかし逡巡はしない。
河上娘は、ゆっくりと、頭巾をほどく。黒い、豊かな髪が、蛇の尾のように溢れ出る。王はその髪の流れを追って、ほんの一、二瞬間、目を泳がせた。首筋を、冷たい隙間風がかすめたような気がする。娘の顎の輪郭が、視界から逃げて、光の中に消えた。
(あな、しそこねたるや)
駒は唇をかんだ。前のめりに、どうと仆れた王は、まだ息をしている。手足には力が無く、目はうつろ、いずれ死ぬだろう。
(一刺しですませられぬとは、わが腕も鈍りつかし)
確かに生を奪わなくては、使命を果たしたことにならない。駒は王の身をあおむけに転がし、その腰の脇差を奪って逆手に取り、心臓めがけて打ち下ろす。前身頃に、赤い血が鮮やかに滲み出る。その時に、ガチリと、金属質の物をかすめた手応えがあった。
王の懐を探る。手に血がまとわりつく。血は暖かく、誰とも違わない。ふつう、という新鮮な外来語が想起される。仏の前では平等、何人も普通。誰もがいずれは大乗の救済に与るという意味なのである。
駒は、死にゆく王の魂を感じる。魂はどこまでも沈んでゆく。沈み、沈みゆくのに、暗くはない。光が満ちている。ただ暖かさを覚えない。北に向けた枕辺に、誰か立って、はるか高くから泊瀬部を見下ろしている。それは泊瀬部が最後に見た女性の姿をしている。しかし死にゆく魂は、それは天王と称する人、炊屋姫尊であると思った。
泊瀬部は思う。この国、民、全ての宝は、わが物ではなかった。この世の栄光はもとよりこの手に付くものではなかった。今はなおさら遠ざかるだけである。
遠ざかる。何も知らず幸せだった幼いころ、遊び暮らした少年の日々も、夢の如く遠ざかる。死に堕ちる、そのとめどなさだけが確かにこの身に存る。王座という牢獄から解放され、今は自由な魂となって、やがて六道輪廻の生を享ける。
駒は、王の懐から、赤く塗れた小さい袋を探り当てる。中には〔倭王之印〕が入っている。これは好い。持っていれば自分が殺したという証拠になる。
駒はその金印を自分の懐に入れて、代わりに般若心経を写した手拭いを取り出し、王の胸にはらりと落とした。素の地も朱に染まる。
「直に道を往くべし」
と声をかけて、掌を合わせる。死者の魂よ、迷うこと勿れ。自分はもうそう言われて来ている。死ぬのは後先になる。
駒は外に人の気配を探り、誰もいないのを確かめると、そっと堂を出た。河上娘は、黙っていた。塀を越え、細い月の下、暗い野を往く。
(……是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故……)
般若心経を諳誦しながら、のろのろと歩く。肺に重るものを感じるが、心は軽い。
(……菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿褥多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚、故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経)
しばらく逃げて、いずれ適当な時に捕まり、死刑に処されるはずである。
天王という称号は、音を通わせて天皇と書き換えられ、これより百年ほど後に、義務的に世襲される制度として確立した。それで歴代の王者にも追尊して天皇号が与えられた。泊瀬部王には、崇峻天皇という諡号が贈られた。
崇峻天皇は死んだ。(了)
豊浦宮では、東国からの使節を迎えて宴を催す饗応の儀式が、炊屋姫尊の主宰で盛大に行われている。蘇我馬子大臣を首として、倭国の重だった貴族たちも、晴れ着に身を包んで集まっている。
東漢直駒は、馬子の嶋の屋敷の庭で、河上娘が仕度するのを待った。若い跡取り息子の蝦夷と、馬子の弟にして支族の境部氏を領する摩理勢が、河上娘を連れて奥から出てくる。河上娘は、絹の頭巾をはだけぬように巻いて、痘痕のある顔を固く隠している。
(美しき眼なるかな)
と駒は思った。そこだけが素顔を覗わせている。
午はとうに過ぎた。
駒は馬に跨がり、若干の護衛を連れて、河上娘を乗せた輿を先導する。嶋の屋敷を出て、まずは北へ向かい、途中までは豊浦宮へ行くのと同じ通りを、賑やぐ門へは背を見せて、東へ折れて谷筋の、寂しい道を倉梯へ、ことさらにゆるゆると歩く。空高く寒い風が飂々と吹いて雲を流している。
倉梯宮は、人の粥すするほどの音も無く、冬の宇宙の底深く沈んでいた。冬至の近い頃だから、太陽は落ち急いで、西の空ははや赤らみかけている。
宮人が案内して、駒と河上娘だけを奥の庭に通す。庭の片隅に、王の離れ家が建っている。小さいことは駒の小屋より小さいほどだとはいえ、さすがに王宮の一棟だけあって、上等の木材で精巧に加工を施してある。二人は軒前にひれ伏して控える。
宮人が取り次ぎをして、戸が開き、中から泊瀬部王が軒に臨む。
「東漢直駒、嶋の大臣になりかわりて侍りまつる」
と駒は、額を土に着けたまま、言上する。王の顔を視ることはできない。本来であれば、謁見を許されるような身分でさえないのだ。覚えず、肝が震えるのを感じた。かつて手にかけた穴穂部王子は、この王の兄だったが、世の人と異なるとまでは思わなかった。しかし王位に即けば、やはり神さぶる霊力が身に宿るものなのであろうか。
「常の礼にこだわること勿。これへ参れ」
庇の陰からとどく声が、駒の鼓膜をぼうと響かせる。駒と河上娘は、膝で二三歩を進む。
「構うことあるべからず。これへ」
また膝でいささか前に進む。来いと言われても、そうすぐには寄らないのが、こういう際の礼儀である。
「これ、今日はそう礼々しくするには及ばぬ。仏の前にてあれば」
仏の前では何人も平等、俗世の身分にこだわらずとも良いと、王は二人に許す。新鮮な驚きが、駒の胸を打った。今までは、神の前という場こそは、身分による秩序を再確認する所であったのだ。
駒は、進み行く先に、何か明るいものが開けているのを感じた。それは漠然として把みがたい。それが何なのかはどうでも良い。
河上娘は、ずっと押し黙っている。
王は、呼ばない限り誰も近付けぬようにと命じる。二人が堂に登ると、宮人は外に出て戸を閉め切った。燭台に灯る火だけの薄明るい室内である。見回すというほどの広さもなく、部屋の全容が目に入る。いくつかの仏像と、積み上げられた経巻が、狭い空間をさらに圧迫している。中でもひときわ目立つのは、弥勒菩薩の像で、香炉と鈴を供えた台の奥に鎮座している。
弥勒菩薩は、釈迦牟尼の入滅後、五十六億七千万年後にこの世に現れ、仏陀の説法に漏れた衆生を救うと謂われている。その日ははるか遠くとも、誰もが前へ進むしか無い。
一つ座敷に、身分違いの三人が、互いの息する音を聞いている。河上娘は、黙って睫を伏せている。駒は慎重に息を整えた。
「畏れながら、申し上る」
駒は、馬子の念書を差し出し、使者として約束を確認する。これから王には、河上娘の顔をご覧に入れる。河上娘の貌には、瘡の病が痘痕を残している。そこで王が少しでもお嫌に思われるなら、この縁談は無かったことにしていただく。
「約定には違わずあらむ」
と王は宣誓する。駒はすっと横へ退いて間を空ける。王は河上娘に膝を寄せる。
「面を上げよ」
王の仰せにもかかわらず、河上娘は床に額づいたまま、口を閉ざしている。王が手を添えて促すと、娘はようやく腰を起こす。頭巾で堅く顔を隠した中に、美しい睫をしなだれさせている。
王は、頭巾を取らせるのも忘れて、しばしその睫に魅入られた。
駒は、懐に隠した五寸の針を確かめた。使いやすいように、紐を巻いて簡単に柄を付けてある。王のうなじを視る。かつて病をする前、穴穂部王子を殺めた時が、ありありと想い出される。形だけならば、そっくりで、何の違いも無い。ただ王の首とこそ思えば、懼ろしくもある。しかし逡巡はしない。
河上娘は、ゆっくりと、頭巾をほどく。黒い、豊かな髪が、蛇の尾のように溢れ出る。王はその髪の流れを追って、ほんの一、二瞬間、目を泳がせた。首筋を、冷たい隙間風がかすめたような気がする。娘の顎の輪郭が、視界から逃げて、光の中に消えた。
(あな、しそこねたるや)
駒は唇をかんだ。前のめりに、どうと仆れた王は、まだ息をしている。手足には力が無く、目はうつろ、いずれ死ぬだろう。
(一刺しですませられぬとは、わが腕も鈍りつかし)
確かに生を奪わなくては、使命を果たしたことにならない。駒は王の身をあおむけに転がし、その腰の脇差を奪って逆手に取り、心臓めがけて打ち下ろす。前身頃に、赤い血が鮮やかに滲み出る。その時に、ガチリと、金属質の物をかすめた手応えがあった。
王の懐を探る。手に血がまとわりつく。血は暖かく、誰とも違わない。ふつう、という新鮮な外来語が想起される。仏の前では平等、何人も普通。誰もがいずれは大乗の救済に与るという意味なのである。
駒は、死にゆく王の魂を感じる。魂はどこまでも沈んでゆく。沈み、沈みゆくのに、暗くはない。光が満ちている。ただ暖かさを覚えない。北に向けた枕辺に、誰か立って、はるか高くから泊瀬部を見下ろしている。それは泊瀬部が最後に見た女性の姿をしている。しかし死にゆく魂は、それは天王と称する人、炊屋姫尊であると思った。
泊瀬部は思う。この国、民、全ての宝は、わが物ではなかった。この世の栄光はもとよりこの手に付くものではなかった。今はなおさら遠ざかるだけである。
遠ざかる。何も知らず幸せだった幼いころ、遊び暮らした少年の日々も、夢の如く遠ざかる。死に堕ちる、そのとめどなさだけが確かにこの身に存る。王座という牢獄から解放され、今は自由な魂となって、やがて六道輪廻の生を享ける。
駒は、王の懐から、赤く塗れた小さい袋を探り当てる。中には〔倭王之印〕が入っている。これは好い。持っていれば自分が殺したという証拠になる。
駒はその金印を自分の懐に入れて、代わりに般若心経を写した手拭いを取り出し、王の胸にはらりと落とした。素の地も朱に染まる。
「直に道を往くべし」
と声をかけて、掌を合わせる。死者の魂よ、迷うこと勿れ。自分はもうそう言われて来ている。死ぬのは後先になる。
駒は外に人の気配を探り、誰もいないのを確かめると、そっと堂を出た。河上娘は、黙っていた。塀を越え、細い月の下、暗い野を往く。
(……是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減、是故空中無色、無受想行識、無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法、無眼界、乃至無意識界、無無明、亦無無明尽、乃至無老死、亦無老死尽無苦集滅道、無智亦無得、以無所得故……)
般若心経を諳誦しながら、のろのろと歩く。肺に重るものを感じるが、心は軽い。
(……菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃、三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿褥多羅三藐三菩提、故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚、故説般若波羅蜜多呪、即説呪曰、羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶、般若心経)
しばらく逃げて、いずれ適当な時に捕まり、死刑に処されるはずである。
天王という称号は、音を通わせて天皇と書き換えられ、これより百年ほど後に、義務的に世襲される制度として確立した。それで歴代の王者にも追尊して天皇号が与えられた。泊瀬部王には、崇峻天皇という諡号が贈られた。
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