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華夏の巻
公孫脩を追え
「それで、ここからその東南の大海とやらに至る水路についてだが」
と劉昕は目的を思い直して話題を転じた。
「今、一罪人が遼東__レウトゥン__#から船を浮かべて南へ逃げているとしよう。これを追うとするとどうなる」
どうやらこれが一番聞きたい事であったらしい。張政はそう理解した。帯方から南の海路、狗邪国の辺りまでの岸に沿っては、無数の小さい島が有る。島が岸に添っている所では、海が急に狭く浅くなっている。従って潮の流れにも急な変化が有る。それをよく知らなければそこを行くのは危ないのだ。
「慣れた船乗りでなければいけません」
梯雋が答えた。
「我々の往来には倭人や韓人を雇うのが常です」
張政が補足する。青州や徐州から連れて来た水夫ではいけない。劉昕は、そこで再び床机に腰を落とした。自分の手勢を使ってその罪人を追うのは諦めなければなるまい。新太守として赴任したばかりで、何かと勝手が分からないし、この土地は人情も内地とは違っている様だ。こんな外地の事などは、在地の者に任せるに越した事は無い。
梯儁は、これがどんな事件で、罪人とは何者であるのか、を知りたくてうずうずしている。ひょっとしたら、大きな手柄を立てる、滅多に無い好機かもしれない。事によったら京師洛陽に上る緒が攫めないとも限らない、と思っている。張政は、好哥々が口元の皮膚の下で筋肉に力を篭もらせているのを睹た。こちらから太守に推して問うのは僭越だから、訊きたいのを堪えて次の言葉を待っているのだ。劉太守の口が開く。
「……你らは、公孫脩という名前を知っているだろうな?」
二人は顔を見合わせるよりも喉に空気を吸いかけた。その名前はもちろん知っている。公孫脩は、つい先日までこの土地を支配していた公孫淵の息子である。しかし伝えられた所では――去る八月二十三日、追い詰められた公孫淵と脩は数百騎を率いて、司馬仲達の包囲を破り、襄平城から脱出したものの、その東南の郊外で追手に捕まり、父子ともども斬刑に処された、そう聞いている。
「それが、脩については間違いだったらしいのだ。本物の脩は、舟を浮かべて南へ逃げたということだ。それで未明に急使が来た。今頃どこに居るか、或いはもう韓地に入ったかも知れない。この辺りの海岸には兵士どもを張らせているが……」
と説明する劉太守を遮って、梯儁はようやく口元の筋肉に物を言わせた。
「吾どもで韓人や倭人の方に手を回しましょう」
もし公孫脩が南へ入ったら消息くらいは屹度すぐに分かります、こんな時の為にこそ普段から彼らの世話をしてやっているのですから、と強調する梯儁を張政はやや困った気持ちで見守っている。そんなにまで言って捕まらなかったら、寧ろ咎めを受ける事に成りはしないだろうか。劉太守は黄紙を広げて硯と筆を机の上に出した。
「今、令状を取らせる」
筆が走るのを見ながら梯儁は、
(良い紙だなあ!)
と思う。確かにそれは高そうな紙である。命令を書き終えると、劉太守は青い綬の付いた銀印を出して書面に押す。印面には〈帯方太守章〉の五文字が読み取れる。銀印の輝きは、梯儁の目に眩しく映る。それは遙か中国より、この辺境に差し込んだ、鋭い文明の光に思える。二人は、
「公孫脩の追捕につき、韓地以南の捜索を任せる」
という令状を受け取った。これを示せば、太守の名に於いて、必要な人員や費用を上司に請求する事が出来る。
「人相書きは追って届けさせるであろう」
と言って、劉昕は二人を送り出した。
さて張政が倭、梯儁が韓、というのが平生からの分担なので、手分けは自然に決まる。帯方の邑の中には倭館と呼んでいる家が有って、往来する倭人が常に宿としている。今そこには倭の邪馬臺国からの常駐の使者として、都市牛利という人物が滞在している。としぐりは、中国風に呼ぶと都市牛利である。難斗米が張政と同便してきたのも、都市牛利に会う事が目的であった。難斗米と都市牛利の関係は、丁度張政と梯儁に似た所が有る。こんな時に親しい難斗米が来てくれているとは、幸いな事に話しがし易い。
「いつも世話になっている子文さんの頼みだ」
と難斗米は言ってくれる。
「おう、そんならおれたちもすぐに行こう」
と都市牛利が応じた。なまじい損得勘定をする事に慣れた漢人とは違って、素朴な倭人は話しが早い。出来る事はやると直ちに決めてくれる。それだけに見返りも疎かには出来ない、と張政は考える。もし成果が有った時には、この倭人たちの為に、それなりの報酬を劉太守から引き出さなければ成るまい。
「韓の奥地にでも入ると厄介だが、なぁに海沿いなら、怪しい舟がうろついていれば、おれたちで気付かないわけはないのだ」
と都市牛利が言う。韓地でも港市には倭人が住んでいて、絶えず往来が有るから、連絡を取り合えば船舶の動きは把めるという事を、張政もよく知っている。
「早舟をやって、ひめおうのお耳にも入れてみよう。もし大王が号令をかけてくだされば、倭人の足のおよぶ所に逃げ場はない」
と難斗米は提案した。それがいい、と都市牛利も同意する。
ひめおうと云うのは、難斗米たちの主君にして、倭の邪馬臺国の王、倭人諸国の盟主でもある。その家の旧語を聞くと、自ら呉の太伯の裔と謂う。古の呉王は周の王室と同じ姫姓を称していたから、郡ではひめおうを姫氏王と呼んでいる。倭人たちは姫の字義を訳してひめと読み、姫氏の王だからひめおうと呼ぶのである。
さあ果たして、公孫脩が倭人たちの目に付く途を行ってくれれば、確かに取り逃がす気遣いは有るまいと、張政も姫氏王の名を聞いて、いささか胸が落ち着く様な気がするのであった。
と劉昕は目的を思い直して話題を転じた。
「今、一罪人が遼東__レウトゥン__#から船を浮かべて南へ逃げているとしよう。これを追うとするとどうなる」
どうやらこれが一番聞きたい事であったらしい。張政はそう理解した。帯方から南の海路、狗邪国の辺りまでの岸に沿っては、無数の小さい島が有る。島が岸に添っている所では、海が急に狭く浅くなっている。従って潮の流れにも急な変化が有る。それをよく知らなければそこを行くのは危ないのだ。
「慣れた船乗りでなければいけません」
梯雋が答えた。
「我々の往来には倭人や韓人を雇うのが常です」
張政が補足する。青州や徐州から連れて来た水夫ではいけない。劉昕は、そこで再び床机に腰を落とした。自分の手勢を使ってその罪人を追うのは諦めなければなるまい。新太守として赴任したばかりで、何かと勝手が分からないし、この土地は人情も内地とは違っている様だ。こんな外地の事などは、在地の者に任せるに越した事は無い。
梯儁は、これがどんな事件で、罪人とは何者であるのか、を知りたくてうずうずしている。ひょっとしたら、大きな手柄を立てる、滅多に無い好機かもしれない。事によったら京師洛陽に上る緒が攫めないとも限らない、と思っている。張政は、好哥々が口元の皮膚の下で筋肉に力を篭もらせているのを睹た。こちらから太守に推して問うのは僭越だから、訊きたいのを堪えて次の言葉を待っているのだ。劉太守の口が開く。
「……你らは、公孫脩という名前を知っているだろうな?」
二人は顔を見合わせるよりも喉に空気を吸いかけた。その名前はもちろん知っている。公孫脩は、つい先日までこの土地を支配していた公孫淵の息子である。しかし伝えられた所では――去る八月二十三日、追い詰められた公孫淵と脩は数百騎を率いて、司馬仲達の包囲を破り、襄平城から脱出したものの、その東南の郊外で追手に捕まり、父子ともども斬刑に処された、そう聞いている。
「それが、脩については間違いだったらしいのだ。本物の脩は、舟を浮かべて南へ逃げたということだ。それで未明に急使が来た。今頃どこに居るか、或いはもう韓地に入ったかも知れない。この辺りの海岸には兵士どもを張らせているが……」
と説明する劉太守を遮って、梯儁はようやく口元の筋肉に物を言わせた。
「吾どもで韓人や倭人の方に手を回しましょう」
もし公孫脩が南へ入ったら消息くらいは屹度すぐに分かります、こんな時の為にこそ普段から彼らの世話をしてやっているのですから、と強調する梯儁を張政はやや困った気持ちで見守っている。そんなにまで言って捕まらなかったら、寧ろ咎めを受ける事に成りはしないだろうか。劉太守は黄紙を広げて硯と筆を机の上に出した。
「今、令状を取らせる」
筆が走るのを見ながら梯儁は、
(良い紙だなあ!)
と思う。確かにそれは高そうな紙である。命令を書き終えると、劉太守は青い綬の付いた銀印を出して書面に押す。印面には〈帯方太守章〉の五文字が読み取れる。銀印の輝きは、梯儁の目に眩しく映る。それは遙か中国より、この辺境に差し込んだ、鋭い文明の光に思える。二人は、
「公孫脩の追捕につき、韓地以南の捜索を任せる」
という令状を受け取った。これを示せば、太守の名に於いて、必要な人員や費用を上司に請求する事が出来る。
「人相書きは追って届けさせるであろう」
と言って、劉昕は二人を送り出した。
さて張政が倭、梯儁が韓、というのが平生からの分担なので、手分けは自然に決まる。帯方の邑の中には倭館と呼んでいる家が有って、往来する倭人が常に宿としている。今そこには倭の邪馬臺国からの常駐の使者として、都市牛利という人物が滞在している。としぐりは、中国風に呼ぶと都市牛利である。難斗米が張政と同便してきたのも、都市牛利に会う事が目的であった。難斗米と都市牛利の関係は、丁度張政と梯儁に似た所が有る。こんな時に親しい難斗米が来てくれているとは、幸いな事に話しがし易い。
「いつも世話になっている子文さんの頼みだ」
と難斗米は言ってくれる。
「おう、そんならおれたちもすぐに行こう」
と都市牛利が応じた。なまじい損得勘定をする事に慣れた漢人とは違って、素朴な倭人は話しが早い。出来る事はやると直ちに決めてくれる。それだけに見返りも疎かには出来ない、と張政は考える。もし成果が有った時には、この倭人たちの為に、それなりの報酬を劉太守から引き出さなければ成るまい。
「韓の奥地にでも入ると厄介だが、なぁに海沿いなら、怪しい舟がうろついていれば、おれたちで気付かないわけはないのだ」
と都市牛利が言う。韓地でも港市には倭人が住んでいて、絶えず往来が有るから、連絡を取り合えば船舶の動きは把めるという事を、張政もよく知っている。
「早舟をやって、ひめおうのお耳にも入れてみよう。もし大王が号令をかけてくだされば、倭人の足のおよぶ所に逃げ場はない」
と難斗米は提案した。それがいい、と都市牛利も同意する。
ひめおうと云うのは、難斗米たちの主君にして、倭の邪馬臺国の王、倭人諸国の盟主でもある。その家の旧語を聞くと、自ら呉の太伯の裔と謂う。古の呉王は周の王室と同じ姫姓を称していたから、郡ではひめおうを姫氏王と呼んでいる。倭人たちは姫の字義を訳してひめと読み、姫氏の王だからひめおうと呼ぶのである。
さあ果たして、公孫脩が倭人たちの目に付く途を行ってくれれば、確かに取り逃がす気遣いは有るまいと、張政も姫氏王の名を聞いて、いささか胸が落ち着く様な気がするのであった。
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