33 / 41
死生の巻
以に死す
しおりを挟む
帯水の津に、梯儁は六つと五つになる二児の手を引いて見送りに来た。張政は海を渡る。荷物は少ない。必需品の他は、難斗米に与えられる黄幢、黄幢を授けるという詔書、それに昨年の夏に禿骨鋭から信書で頼まれて、送れないままになっていた薬種だけである。人員も多かったあの年の渡航よりずっと身軽に行ける。
今度の邪馬臺からの使者は、難斗米の下で働いている載斯と烏越という若者で、新しい情報を伝えてくれた。正始六年に前の狗奴王は死に、狗古智卑狗が今の王となったが、新王の政治の評判は余り良くない。姫氏王は狗奴国傘下の小国に手を回して、じわじわと離反を誘う。戦争を避けて政治的に、または経済的に圧力を掛けて行く。しかし狗奴国も手を拱いてはおらず、近頃武器を増産して、実力による反撃を準備しているらしい。それで張政は予定を前倒しする必要を感じたのである。
航路は前と同じく、海岸に沿って諸韓国を経て、乗り換えの為に弁韓の狗邪国に入る。
「張子文! 錯過去になるところだった」
そこには禿骨先生が来ていた。
「頼んでいた物は持って来ておくれかな。……よろしい、これだけ有れば足りる。行き会えて良かった。さあ急いだ方が良い。難斗米さんもあんたに来て欲しいと言ってる」
「そんなに急ぎで、何の薬が要るんですか」
「ああ麻沸散だ」
というのは、一種の痺れ薬である。
「麻沸散なら、確か向こうでも原料が採れると、前に言っておられたでしょう」
「ああ採れるが、これにも色々な調合が有ってな。処方によるんだ」
「目的によって違いが?」
「そう、医術を用いる局面には三つ有る。一つは病を避ける段。二つは患者を治す段。三つは……」
と言って先生は、一つ句を切って、声を低くする。
「……三つは、治らぬ病人を死に導く段だ」
先生はそれ以上は何も言おうとしない。ここには狗奴の人間も交易に来る。張政も押して問いはしない。どんな耳に聞かれるかも知れない。張政はとにかく舟の支度を急がせる。まだ荒れがちな季節なのに、不思議と波は穏やかで、ただ空の色が鈍い。狗邪を出て、対馬、一支を経、伊都の港まで何時に無く順調に着いた。
伊都国には小さい厩舎が出来ていた。張政はあの正始二年に、居残る人たちの為に小雷を置いて行ったし、この六年程の間にも、張政の周旋によって果下馬を何頭か取り引きしたので、乃くこの土地でもわずかながら馬が使われる様になりつつある。伊声耆が張政たちを出迎えて、港からそのまま厩舎に通した。
「難大率は邪馬臺へ上られました。張政さんもお急ぎくだされ」
三人は馬に乗って走る。昼夜兼行で行くつもりである。張政はそこでやっと問いを発する。
「それほど良くないのですか」
「うむ、この冬に寒気に中られて、薬を差し上げれば熱は下がるが、ややもするとまたすぐに調子を崩される。春になっても寒邪が抜けず、次第に臓腑を傷るから、魂魄の座が損なわれて――」
禿骨先生は馬上で空を見上げた。西は深紅、東は漆黒で月は視えない。
「ああ、死期を測るのも医術だが――。とにかく行こう」
暗い内は松明を持った歩哨に先導させ、明るくなれば騎馬の三人だけで駆ける。
邪馬臺の邑より北東へ三里半程の所に、姫氏王が数年前から自身の墓として築かせていた塚が有る。経は百歩余りの円形で、周囲を掘り下げて溝にしてある。今、難斗米が指揮を執って、最後の仕上げをさせつつある。墳丘の北には殯の宮が建てられ、石の棺が安置されている。女王は以に死んでいた。
「可哀想なこと――」
王碧は再会の挨拶もそこそこに、臺与の様子を張政に伝える。
「日がな一日あそこで、棺のそばを離れずにおられます。女王さまの頭巾を抱いて」
裁縫の指導をする為にここに残った王碧は、臺与の教育にも関わっていた。この六年、臺与の成長を近くで看ている。臺与には母なる姫氏王がこの世の全てであった。臺与はこの世の全てを、姫氏王の行為を通して感じて育った。狗古智卑狗――今の狗奴王は、あの後も何度か、姫氏王の不在を狙って来たという。この実の父も臺与にとっては、たまに会わせろと言って怒鳴り込んで来る怖い男に過ぎない。
「あの男が相続権を主張したらどうなるのでしょう。どうか臺与さまに悪くないようにして差し上げてください」
張政も戸の陰から臺与の様子を垣間見る。体の弱い男児は女子として育てれば丈夫になるという俗信に従って養われた臺与は、今も美しい少女に見える姿で、冷たい棺に傅いている。
「女王さまの容態が重くなられてからずっとああです。夜もなかなか寝付かれないので、先生に眠り薬をお願いしていたところでした」
訃報は早くも諸国に伝わり、狗奴王も弔問の意向を示してこちらへ向かっている。難斗米は狗奴王を丁重に迎え入れよとの指示を出していた。二三日後には到着しそうだと云う。まだ少し時間が有る。張政は旅の疲れを感じている。今の内に休んでおきたい。それにも関わらず、やけに眼が開く。禿骨先生は麻沸散をわずかに包んでくれた。この粉を酒に溶かして服めば、すぐにぐっすり眠れる、と先生は言った。張政はその通りにして瞼を閉じた。
今度の邪馬臺からの使者は、難斗米の下で働いている載斯と烏越という若者で、新しい情報を伝えてくれた。正始六年に前の狗奴王は死に、狗古智卑狗が今の王となったが、新王の政治の評判は余り良くない。姫氏王は狗奴国傘下の小国に手を回して、じわじわと離反を誘う。戦争を避けて政治的に、または経済的に圧力を掛けて行く。しかし狗奴国も手を拱いてはおらず、近頃武器を増産して、実力による反撃を準備しているらしい。それで張政は予定を前倒しする必要を感じたのである。
航路は前と同じく、海岸に沿って諸韓国を経て、乗り換えの為に弁韓の狗邪国に入る。
「張子文! 錯過去になるところだった」
そこには禿骨先生が来ていた。
「頼んでいた物は持って来ておくれかな。……よろしい、これだけ有れば足りる。行き会えて良かった。さあ急いだ方が良い。難斗米さんもあんたに来て欲しいと言ってる」
「そんなに急ぎで、何の薬が要るんですか」
「ああ麻沸散だ」
というのは、一種の痺れ薬である。
「麻沸散なら、確か向こうでも原料が採れると、前に言っておられたでしょう」
「ああ採れるが、これにも色々な調合が有ってな。処方によるんだ」
「目的によって違いが?」
「そう、医術を用いる局面には三つ有る。一つは病を避ける段。二つは患者を治す段。三つは……」
と言って先生は、一つ句を切って、声を低くする。
「……三つは、治らぬ病人を死に導く段だ」
先生はそれ以上は何も言おうとしない。ここには狗奴の人間も交易に来る。張政も押して問いはしない。どんな耳に聞かれるかも知れない。張政はとにかく舟の支度を急がせる。まだ荒れがちな季節なのに、不思議と波は穏やかで、ただ空の色が鈍い。狗邪を出て、対馬、一支を経、伊都の港まで何時に無く順調に着いた。
伊都国には小さい厩舎が出来ていた。張政はあの正始二年に、居残る人たちの為に小雷を置いて行ったし、この六年程の間にも、張政の周旋によって果下馬を何頭か取り引きしたので、乃くこの土地でもわずかながら馬が使われる様になりつつある。伊声耆が張政たちを出迎えて、港からそのまま厩舎に通した。
「難大率は邪馬臺へ上られました。張政さんもお急ぎくだされ」
三人は馬に乗って走る。昼夜兼行で行くつもりである。張政はそこでやっと問いを発する。
「それほど良くないのですか」
「うむ、この冬に寒気に中られて、薬を差し上げれば熱は下がるが、ややもするとまたすぐに調子を崩される。春になっても寒邪が抜けず、次第に臓腑を傷るから、魂魄の座が損なわれて――」
禿骨先生は馬上で空を見上げた。西は深紅、東は漆黒で月は視えない。
「ああ、死期を測るのも医術だが――。とにかく行こう」
暗い内は松明を持った歩哨に先導させ、明るくなれば騎馬の三人だけで駆ける。
邪馬臺の邑より北東へ三里半程の所に、姫氏王が数年前から自身の墓として築かせていた塚が有る。経は百歩余りの円形で、周囲を掘り下げて溝にしてある。今、難斗米が指揮を執って、最後の仕上げをさせつつある。墳丘の北には殯の宮が建てられ、石の棺が安置されている。女王は以に死んでいた。
「可哀想なこと――」
王碧は再会の挨拶もそこそこに、臺与の様子を張政に伝える。
「日がな一日あそこで、棺のそばを離れずにおられます。女王さまの頭巾を抱いて」
裁縫の指導をする為にここに残った王碧は、臺与の教育にも関わっていた。この六年、臺与の成長を近くで看ている。臺与には母なる姫氏王がこの世の全てであった。臺与はこの世の全てを、姫氏王の行為を通して感じて育った。狗古智卑狗――今の狗奴王は、あの後も何度か、姫氏王の不在を狙って来たという。この実の父も臺与にとっては、たまに会わせろと言って怒鳴り込んで来る怖い男に過ぎない。
「あの男が相続権を主張したらどうなるのでしょう。どうか臺与さまに悪くないようにして差し上げてください」
張政も戸の陰から臺与の様子を垣間見る。体の弱い男児は女子として育てれば丈夫になるという俗信に従って養われた臺与は、今も美しい少女に見える姿で、冷たい棺に傅いている。
「女王さまの容態が重くなられてからずっとああです。夜もなかなか寝付かれないので、先生に眠り薬をお願いしていたところでした」
訃報は早くも諸国に伝わり、狗奴王も弔問の意向を示してこちらへ向かっている。難斗米は狗奴王を丁重に迎え入れよとの指示を出していた。二三日後には到着しそうだと云う。まだ少し時間が有る。張政は旅の疲れを感じている。今の内に休んでおきたい。それにも関わらず、やけに眼が開く。禿骨先生は麻沸散をわずかに包んでくれた。この粉を酒に溶かして服めば、すぐにぐっすり眠れる、と先生は言った。張政はその通りにして瞼を閉じた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
日本の運命を変えた天才少年-日本が世界一の帝国になる日-
ましゅまろ
歴史・時代
――もしも、日本の運命を変える“少年”が現れたなら。
1941年、戦争の影が世界を覆うなか、日本に突如として現れた一人の少年――蒼月レイ。
わずか13歳の彼は、天才的な頭脳で、戦争そのものを再設計し、歴史を変え、英米独ソをも巻き込みながら、日本を敗戦の未来から救い出す。
だがその歩みは、同時に多くの敵を生み、命を狙われることも――。
これは、一人の少年の手で、世界一の帝国へと昇りつめた日本の物語。
希望と混乱の20世紀を超え、未来に語り継がれる“蒼き伝説”が、いま始まる。
※アルファポリス限定投稿
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
紫房ノ十手は斬り捨て御免
藤城満定
歴史・時代
本所北割下水七十俵五人扶持小柳一郎兵衛が三男伝三郎は心鏡一刀流の腕前を買われて常日頃から南町奉行所年番方与力笹村重蔵に頼まれて凶賊や辻斬りなどの捕物出役の手伝いをする事がしばしばあった。その功績を認められて、南町奉行大岡越前守忠相様から直々に異例の事ではあるが、五十俵二人扶持にて同心としてお召し抱えいただけるというお話しがあったので、伝三郎は一も二もなく食い付いた。また、本来なら朱房の十手なのだが、数多の功績と比類を見ない剣術の腕前、人柄の良さを考慮されて、恐れ多くも将軍家から大岡越前守忠相様を介して『紫房ノ十手』と『斬り捨て御免状』、同田貫上野介二尺三寸五分、備前祐定一尺五寸、定羽織、支度金二十五両を下賜された。ここに後の世に『人斬り鬼三郎』と呼ばれる同心が誕生したのだった。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
日露戦争の真実
蔵屋
歴史・時代
私の先祖は日露戦争の奉天の戦いで若くして戦死しました。
日本政府の定めた徴兵制で戦地に行ったのでした。
日露戦争が始まったのは明治37年(1904)2月6日でした。
帝政ロシアは清国の領土だった中国東北部を事実上占領下に置き、さらに朝鮮半島、日本海に勢力を伸ばそうとしていました。
日本はこれに対抗し開戦に至ったのです。
ほぼ同時に、日本連合艦隊はロシア軍の拠点港である旅順に向かい、ロシア軍の旅順艦隊の殲滅を目指すことになりました。
ロシア軍はヨーロッパに配備していたバルチック艦隊を日本に派遣するべく準備を開始したのです。
深い入り江に守られた旅順沿岸に設置された強力な砲台のため日本の連合艦隊は、陸軍に陸上からの旅順艦隊攻撃を要請したのでした。
この物語の始まりです。
『神知りて 人の幸せ 祈るのみ
神の伝えし 愛善の道』
この短歌は私が今年元旦に詠んだ歌である。
作家 蔵屋日唱
改造空母機動艦隊
蒼 飛雲
歴史・時代
兵棋演習の結果、洋上航空戦における空母の大量損耗は避け得ないと悟った帝国海軍は高価な正規空母の新造をあきらめ、旧式戦艦や特務艦を改造することで数を揃える方向に舵を切る。
そして、昭和一六年一二月。
日本の前途に暗雲が立ち込める中、祖国防衛のために改造空母艦隊は出撃する。
「瑞鳳」「祥鳳」「龍鳳」が、さらに「千歳」「千代田」「瑞穂」がその数を頼みに太平洋艦隊を迎え撃つ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる