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死生の巻
以に死す
帯水の津に、梯儁は六つと五つになる二児の手を引いて見送りに来た。張政は海を渡る。荷物は少ない。必需品の他は、難斗米に与えられる黄幢、黄幢を授けるという詔書、それに昨年の夏に禿骨鋭から信書で頼まれて、送れないままになっていた薬種だけである。人員も多かったあの年の渡航よりずっと身軽に行ける。
今度の邪馬臺からの使者は、難斗米の下で働いている載斯と烏越という若者で、新しい情報を伝えてくれた。正始六年に前の狗奴王は死に、狗古智卑狗が今の王となったが、新王の政治の評判は余り良くない。姫氏王は狗奴国傘下の小国に手を回して、じわじわと離反を誘う。戦争を避けて政治的に、または経済的に圧力を掛けて行く。しかし狗奴国も手を拱いてはおらず、近頃武器を増産して、実力による反撃を準備しているらしい。それで張政は予定を前倒しする必要を感じたのである。
航路は前と同じく、海岸に沿って諸韓国を経て、乗り換えの為に弁韓の狗邪国に入る。
「張子文! 錯過去になるところだった」
そこには禿骨先生が来ていた。
「頼んでいた物は持って来ておくれかな。……よろしい、これだけ有れば足りる。行き会えて良かった。さあ急いだ方が良い。難斗米さんもあんたに来て欲しいと言ってる」
「そんなに急ぎで、何の薬が要るんですか」
「ああ麻沸散だ」
というのは、一種の痺れ薬である。
「麻沸散なら、確か向こうでも原料が採れると、前に言っておられたでしょう」
「ああ採れるが、これにも色々な調合が有ってな。処方によるんだ」
「目的によって違いが?」
「そう、医術を用いる局面には三つ有る。一つは病を避ける段。二つは患者を治す段。三つは……」
と言って先生は、一つ句を切って、声を低くする。
「……三つは、治らぬ病人を死に導く段だ」
先生はそれ以上は何も言おうとしない。ここには狗奴の人間も交易に来る。張政も押して問いはしない。どんな耳に聞かれるかも知れない。張政はとにかく舟の支度を急がせる。まだ荒れがちな季節なのに、不思議と波は穏やかで、ただ空の色が鈍い。狗邪を出て、対馬、一支を経、伊都の港まで何時に無く順調に着いた。
伊都国には小さい厩舎が出来ていた。張政はあの正始二年に、居残る人たちの為に小雷を置いて行ったし、この六年程の間にも、張政の周旋によって果下馬を何頭か取り引きしたので、乃くこの土地でもわずかながら馬が使われる様になりつつある。伊声耆が張政たちを出迎えて、港からそのまま厩舎に通した。
「難大率は邪馬臺へ上られました。張政さんもお急ぎくだされ」
三人は馬に乗って走る。昼夜兼行で行くつもりである。張政はそこでやっと問いを発する。
「それほど良くないのですか」
「うむ、この冬に寒気に中られて、薬を差し上げれば熱は下がるが、ややもするとまたすぐに調子を崩される。春になっても寒邪が抜けず、次第に臓腑を傷るから、魂魄の座が損なわれて――」
禿骨先生は馬上で空を見上げた。西は深紅、東は漆黒で月は視えない。
「ああ、死期を測るのも医術だが――。とにかく行こう」
暗い内は松明を持った歩哨に先導させ、明るくなれば騎馬の三人だけで駆ける。
邪馬臺の邑より北東へ三里半程の所に、姫氏王が数年前から自身の墓として築かせていた塚が有る。経は百歩余りの円形で、周囲を掘り下げて溝にしてある。今、難斗米が指揮を執って、最後の仕上げをさせつつある。墳丘の北には殯の宮が建てられ、石の棺が安置されている。女王は以に死んでいた。
「可哀想なこと――」
王碧は再会の挨拶もそこそこに、臺与の様子を張政に伝える。
「日がな一日あそこで、棺のそばを離れずにおられます。女王さまの頭巾を抱いて」
裁縫の指導をする為にここに残った王碧は、臺与の教育にも関わっていた。この六年、臺与の成長を近くで看ている。臺与には母なる姫氏王がこの世の全てであった。臺与はこの世の全てを、姫氏王の行為を通して感じて育った。狗古智卑狗――今の狗奴王は、あの後も何度か、姫氏王の不在を狙って来たという。この実の父も臺与にとっては、たまに会わせろと言って怒鳴り込んで来る怖い男に過ぎない。
「あの男が相続権を主張したらどうなるのでしょう。どうか臺与さまに悪くないようにして差し上げてください」
張政も戸の陰から臺与の様子を垣間見る。体の弱い男児は女子として育てれば丈夫になるという俗信に従って養われた臺与は、今も美しい少女に見える姿で、冷たい棺に傅いている。
「女王さまの容態が重くなられてからずっとああです。夜もなかなか寝付かれないので、先生に眠り薬をお願いしていたところでした」
訃報は早くも諸国に伝わり、狗奴王も弔問の意向を示してこちらへ向かっている。難斗米は狗奴王を丁重に迎え入れよとの指示を出していた。二三日後には到着しそうだと云う。まだ少し時間が有る。張政は旅の疲れを感じている。今の内に休んでおきたい。それにも関わらず、やけに眼が開く。禿骨先生は麻沸散をわずかに包んでくれた。この粉を酒に溶かして服めば、すぐにぐっすり眠れる、と先生は言った。張政はその通りにして瞼を閉じた。
今度の邪馬臺からの使者は、難斗米の下で働いている載斯と烏越という若者で、新しい情報を伝えてくれた。正始六年に前の狗奴王は死に、狗古智卑狗が今の王となったが、新王の政治の評判は余り良くない。姫氏王は狗奴国傘下の小国に手を回して、じわじわと離反を誘う。戦争を避けて政治的に、または経済的に圧力を掛けて行く。しかし狗奴国も手を拱いてはおらず、近頃武器を増産して、実力による反撃を準備しているらしい。それで張政は予定を前倒しする必要を感じたのである。
航路は前と同じく、海岸に沿って諸韓国を経て、乗り換えの為に弁韓の狗邪国に入る。
「張子文! 錯過去になるところだった」
そこには禿骨先生が来ていた。
「頼んでいた物は持って来ておくれかな。……よろしい、これだけ有れば足りる。行き会えて良かった。さあ急いだ方が良い。難斗米さんもあんたに来て欲しいと言ってる」
「そんなに急ぎで、何の薬が要るんですか」
「ああ麻沸散だ」
というのは、一種の痺れ薬である。
「麻沸散なら、確か向こうでも原料が採れると、前に言っておられたでしょう」
「ああ採れるが、これにも色々な調合が有ってな。処方によるんだ」
「目的によって違いが?」
「そう、医術を用いる局面には三つ有る。一つは病を避ける段。二つは患者を治す段。三つは……」
と言って先生は、一つ句を切って、声を低くする。
「……三つは、治らぬ病人を死に導く段だ」
先生はそれ以上は何も言おうとしない。ここには狗奴の人間も交易に来る。張政も押して問いはしない。どんな耳に聞かれるかも知れない。張政はとにかく舟の支度を急がせる。まだ荒れがちな季節なのに、不思議と波は穏やかで、ただ空の色が鈍い。狗邪を出て、対馬、一支を経、伊都の港まで何時に無く順調に着いた。
伊都国には小さい厩舎が出来ていた。張政はあの正始二年に、居残る人たちの為に小雷を置いて行ったし、この六年程の間にも、張政の周旋によって果下馬を何頭か取り引きしたので、乃くこの土地でもわずかながら馬が使われる様になりつつある。伊声耆が張政たちを出迎えて、港からそのまま厩舎に通した。
「難大率は邪馬臺へ上られました。張政さんもお急ぎくだされ」
三人は馬に乗って走る。昼夜兼行で行くつもりである。張政はそこでやっと問いを発する。
「それほど良くないのですか」
「うむ、この冬に寒気に中られて、薬を差し上げれば熱は下がるが、ややもするとまたすぐに調子を崩される。春になっても寒邪が抜けず、次第に臓腑を傷るから、魂魄の座が損なわれて――」
禿骨先生は馬上で空を見上げた。西は深紅、東は漆黒で月は視えない。
「ああ、死期を測るのも医術だが――。とにかく行こう」
暗い内は松明を持った歩哨に先導させ、明るくなれば騎馬の三人だけで駆ける。
邪馬臺の邑より北東へ三里半程の所に、姫氏王が数年前から自身の墓として築かせていた塚が有る。経は百歩余りの円形で、周囲を掘り下げて溝にしてある。今、難斗米が指揮を執って、最後の仕上げをさせつつある。墳丘の北には殯の宮が建てられ、石の棺が安置されている。女王は以に死んでいた。
「可哀想なこと――」
王碧は再会の挨拶もそこそこに、臺与の様子を張政に伝える。
「日がな一日あそこで、棺のそばを離れずにおられます。女王さまの頭巾を抱いて」
裁縫の指導をする為にここに残った王碧は、臺与の教育にも関わっていた。この六年、臺与の成長を近くで看ている。臺与には母なる姫氏王がこの世の全てであった。臺与はこの世の全てを、姫氏王の行為を通して感じて育った。狗古智卑狗――今の狗奴王は、あの後も何度か、姫氏王の不在を狙って来たという。この実の父も臺与にとっては、たまに会わせろと言って怒鳴り込んで来る怖い男に過ぎない。
「あの男が相続権を主張したらどうなるのでしょう。どうか臺与さまに悪くないようにして差し上げてください」
張政も戸の陰から臺与の様子を垣間見る。体の弱い男児は女子として育てれば丈夫になるという俗信に従って養われた臺与は、今も美しい少女に見える姿で、冷たい棺に傅いている。
「女王さまの容態が重くなられてからずっとああです。夜もなかなか寝付かれないので、先生に眠り薬をお願いしていたところでした」
訃報は早くも諸国に伝わり、狗奴王も弔問の意向を示してこちらへ向かっている。難斗米は狗奴王を丁重に迎え入れよとの指示を出していた。二三日後には到着しそうだと云う。まだ少し時間が有る。張政は旅の疲れを感じている。今の内に休んでおきたい。それにも関わらず、やけに眼が開く。禿骨先生は麻沸散をわずかに包んでくれた。この粉を酒に溶かして服めば、すぐにぐっすり眠れる、と先生は言った。張政はその通りにして瞼を閉じた。
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