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第一章 離宮の住人
名前で呼んで
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殿下からの思ってもみなかったお願いに、私は一瞬呆気にとられた。
「えっ、そんなことは、さすがにできかねます!」
すぐさま拒否を示すと、殿下が不満げに眉を寄せて、私を見上げる。
「どうして? 僕がいいって言ってるのに……」
殿下は賢いけれど、まだ幼いし、長い間きちんと教育を受けられていない。名前で呼ぶのを許すことがどういう意味を持つのか、恐らく理解できていないのだろう。
私は殿下としっかり目を合わせて、説明を始めた。
「殿下、使用人に軽々しく名前を呼ぶ許可を与えてはなりません。本人や周囲にいらぬ誤解を与えかねませんし、また王族としての威厳を保つためでもあります。わたくしは殿下より四つも年上ですし、殿下はまだ幼いですから大丈夫かもしれませんが、邪推する人がいないとも限りません」
使用人は、王族に対して名前で呼びかけることなどほとんどない。国王陛下、第一王子殿下など、立場で呼ぶのが普通だ。乳母など多少の例外はあるが、いずれにしてもかなり近しい者に限られる。
私は殿下の世話係だが、まだ勤め始めて四ヶ月ほどだし、乳母のように年が離れているわけではない。一応私には貴族令嬢という側面もあるので、名前で呼んでいると知られたら妙な誤解をされてもおかしくない。
実際、そんなことをすれば、私はきっと周囲から不適切だと注意を受けるだろう。
「……」
そう指摘すると、彼は眉間のシワをさらに深くした。彼の感情が、不満から憤懣に変わったようにも思える。
先ほどの発言のどこに怒りを感じたのかわからなくて、私は困惑した。
けれど殿下は次の瞬間、不満げな顔から一転、悲しげなため息を吐いた。
「……じゃあ、二人でいる時だけでいいから。だから、お願い。名前で呼んで? 僕はもうずっと、誰からも名前を呼ばれていないんだ」
「あ……」
……そうだわ。殿下は一年前にお母様を亡くされてから、誰かに名前を呼んでもらうことさえなかったのね。
私は改めて認識した事実に愕然とした。思わず、ギュッと胸元で自身の手を握りしめる。
母親を亡くして以降、彼がずっと一人でこの離宮に閉じこもっていたのをわかっていたはずなのに、そんなことにも気づけていなかったのだと、思わず自責の念にかられた。
私は決意を込めてクッと顔を上げると、少し体を屈めて殿下と視線を合わせた。
「殿下……いえ、その、ノラード殿下。わかりました。二人きりの時だけになりますが、わたくしでよろしければ、お名前を呼ばせてくださいませ」
殿下の目がパッと輝く。そしてなんと、笑顔でさらに難題を追加してきた。
「『殿下』もいらない」
「そ、それは絶対に無理ですっ!」
私はブンブンと首を横に振った。まさか、王族を呼び捨てになどできるはずがない。
……なんという恐れ多いことを言うのですか!
「でも、それだとあまり変わってない感じがする……」
殿下は上目遣いで口を尖らせ、不満をあらわにしている。
「うっ……。で、では……ノラード様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
これが最後の譲歩である。呼び捨てだけは、断じてできない。私の内心を読み取ったように、殿下が息を吐いた。
「うーん……まぁ、いいか。今はそれで」
……今は、とはどういう意味なのかしら。
まだ呼び捨てを諦めていないような言いように冷や汗が出るが、殿下はとりあえず満足したらしい。最後には嬉しそうな笑みを見せた。
だから、きっとこれでよかったのだと、私もつられて笑みを浮かべた。
彼がこの日重大な決意をしていたことを、知ることがないままに。
「えっ、そんなことは、さすがにできかねます!」
すぐさま拒否を示すと、殿下が不満げに眉を寄せて、私を見上げる。
「どうして? 僕がいいって言ってるのに……」
殿下は賢いけれど、まだ幼いし、長い間きちんと教育を受けられていない。名前で呼ぶのを許すことがどういう意味を持つのか、恐らく理解できていないのだろう。
私は殿下としっかり目を合わせて、説明を始めた。
「殿下、使用人に軽々しく名前を呼ぶ許可を与えてはなりません。本人や周囲にいらぬ誤解を与えかねませんし、また王族としての威厳を保つためでもあります。わたくしは殿下より四つも年上ですし、殿下はまだ幼いですから大丈夫かもしれませんが、邪推する人がいないとも限りません」
使用人は、王族に対して名前で呼びかけることなどほとんどない。国王陛下、第一王子殿下など、立場で呼ぶのが普通だ。乳母など多少の例外はあるが、いずれにしてもかなり近しい者に限られる。
私は殿下の世話係だが、まだ勤め始めて四ヶ月ほどだし、乳母のように年が離れているわけではない。一応私には貴族令嬢という側面もあるので、名前で呼んでいると知られたら妙な誤解をされてもおかしくない。
実際、そんなことをすれば、私はきっと周囲から不適切だと注意を受けるだろう。
「……」
そう指摘すると、彼は眉間のシワをさらに深くした。彼の感情が、不満から憤懣に変わったようにも思える。
先ほどの発言のどこに怒りを感じたのかわからなくて、私は困惑した。
けれど殿下は次の瞬間、不満げな顔から一転、悲しげなため息を吐いた。
「……じゃあ、二人でいる時だけでいいから。だから、お願い。名前で呼んで? 僕はもうずっと、誰からも名前を呼ばれていないんだ」
「あ……」
……そうだわ。殿下は一年前にお母様を亡くされてから、誰かに名前を呼んでもらうことさえなかったのね。
私は改めて認識した事実に愕然とした。思わず、ギュッと胸元で自身の手を握りしめる。
母親を亡くして以降、彼がずっと一人でこの離宮に閉じこもっていたのをわかっていたはずなのに、そんなことにも気づけていなかったのだと、思わず自責の念にかられた。
私は決意を込めてクッと顔を上げると、少し体を屈めて殿下と視線を合わせた。
「殿下……いえ、その、ノラード殿下。わかりました。二人きりの時だけになりますが、わたくしでよろしければ、お名前を呼ばせてくださいませ」
殿下の目がパッと輝く。そしてなんと、笑顔でさらに難題を追加してきた。
「『殿下』もいらない」
「そ、それは絶対に無理ですっ!」
私はブンブンと首を横に振った。まさか、王族を呼び捨てになどできるはずがない。
……なんという恐れ多いことを言うのですか!
「でも、それだとあまり変わってない感じがする……」
殿下は上目遣いで口を尖らせ、不満をあらわにしている。
「うっ……。で、では……ノラード様、とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
これが最後の譲歩である。呼び捨てだけは、断じてできない。私の内心を読み取ったように、殿下が息を吐いた。
「うーん……まぁ、いいか。今はそれで」
……今は、とはどういう意味なのかしら。
まだ呼び捨てを諦めていないような言いように冷や汗が出るが、殿下はとりあえず満足したらしい。最後には嬉しそうな笑みを見せた。
だから、きっとこれでよかったのだと、私もつられて笑みを浮かべた。
彼がこの日重大な決意をしていたことを、知ることがないままに。
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