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氷の王女の誕生
右の暗闇
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正午近く
廊下の光がやわらかく揺れ、部屋の守りの膜が、息に合わせて小さくふくらむ。
扉の外で家令ジョゼフがささやく。
「もうすぐ魔術師団がいらっしゃいます」
――遠くで鈴がひとつ。魔術師団が来た合図だ。
深いフードの術師が三人、音もなく入る。
団長はまず守りの結界に手を当てランプの火が一拍だけ細くなりすぐ戻った。
「今日は外からの調べるだけです、本人にも印にも触れません」
杖の先が空をなぞる。
小さな魔法陣が開き細い光の糸がふわりと浮かぶ。
糸は青薔薇の真上には降りない。ひと呼吸ぶん距離を置いて静かにめぐる。
若い術師が糸を両手で受け、薄い光の板に数字を落とす。
副官が低く読む。
「拍は静かで乱れもごく少ない。――初期値も良好。幼いながら刻まれたにしてはかなり落ち着いています」
静けさを確かめ、団長はカイルのそばへ半歩だけ進む。声は小さくやさしい。
「アイリス様の魔力が、刻まれた印を通って、あなたへ流れているのを感じます。流れは細いですがにごりはありません、とても美しい流れです。あなたの呼吸と、印の呼吸が、もう重なりはじめています」
カイルはたずねる。
「それは……アイリス様の負担ですか」
「今のところはむしろ支えになっていると思います。この印は“しばる”のではなく“ささえる”形で働いています。しばらくは刺激を少なく呼びかけは静かに。触れる時も少し距離を置いて。拍がぴたり合うまでは、波を立てないでください」
団長は光の板を見てもうひとこと。
「それから――アイリス様の魔力量が、出生の記録より数倍に増えています。通常であれば少しずつ増加していって、十四歳ごろに最大値になります。ただ、魔力の暴走があったにしては荒れてはいません」
ローエン公爵がうなずく。
「記録はここで封じろ、扱いは“魔力暴走の事故”のまま。印と魔力量については、女王陛下の許しが出るまで沈黙すること、出入りは裏通路からでたのむ」
「拝命しました」
封じの札が光を吸い板は巻物に巻物は黒布と筒へ。最後まで音は出ない。
「ここにいます、アイリス様」
カイルの小さな声に合わせて、青薔薇がひと拍深く揺れ、また静まった。
◇◇◇
午後になると治療班が来た。班長は寝台の脇で短く言う。
「カイル様、動けるようになりたいとのことですが、まずはまだ動かないのが一番です。……でも、どうしてもなら少しだけ。壁づたいにいきましょう。倒れそうになったらすぐ座ること、いいですね」
「はい。……アイリス様が眠っているあいだに、少しでも動けるようになりたいんです」
班長はうなずき、ベッド脇の壁を手で示した。
「まずは左手で壁を触りつづける。カイル様の右側はもう見えません、なにか障害物があれば基本的に右からぶつかります」
カイルは息をそろえまず座る。
右の世界は空白だ。そこから風が来る気がして体がそちらへ引かれそうになる。
左手で壁をさがし冷たい感触をつかむ。そこに重さを預けると足の置き場がはっきりした。
――昔は、こんなこと考えなくてもできた。剣も、礼も、目で先を読めた。
今は半歩出すだけで胸の中に遅れが生まれる。
「では、まずは一歩」
かかとを床に置き、つま先で向きを合わせる。
二歩。壁の段差に指が触れて、位置がわかる。
三歩。右肩が小机にかすり、思わず止まってしまう。
「今のが右のぶつかりです」
「右から近づく物は、音で先に知ると安全です。まだ慣れないとは思いますが、成長すれば気配や空気でもわかるようにはなるはずです」
若い治療士が落ち着いた声で言う。
――宴席で右から差し出される杯。
――舞踏の右回り。
――列で右から来る合図。
ぜんぶ遅れるかもしれない、ぜんぶわからないかもしれない。
このままではたとえ選ばれたとしても、アイリス様の、将来この国を統べる方の傍にふさわしくない。
そんな考えがのどの奥で硬くなる。
もう一度。
四歩。壁の角を左手でたどって向きを変える。
五歩。椅子にひざが触れる。安心して座る。
指先がふるえた。悔しい。たった五歩で、息が荒い。
「今日はここまでにしましょう」
「ただ行けるなら往復一回だけ。無理ならやめる。……戻りますよ」
帰りも壁づたい。
右にある寝台の角が見えず、肩がまた当たる。小さな音がして、胸がちくりとする。
(何も見えない右がやっぱりまだこわい。この“こわい”のままでは間が合わない。アイリス様の隣で半拍遅れのままだ)
左の手のひら、足の裏の床、胸の高さの目の置き場
その三つを意識すると体が落ち着いた。間が戻る。
(戻せ。数で。手順で。――昔のように戻せる)
寝台に戻って座る。
治療士が言う。「右を“見る”ときは、首だけでなく肩ごとゆっくり回してください。視界が少し広がります」
カイルは試す、肩から右へ。
闇のふちがほんの少し浅くなる。
(できる。ゆっくりならできる。ゆっくりでも届けばいい。傍に立てる形をここから作ればいい)
「……もう一往復、はやめておきます、今日はここまでにします」
自分で口にして呼吸をそろえる。
(明日は同じ順番で半歩だけ伸ばす。右が見えないなら見える側で守る。それでも隣に立つ)
眠るアイリスの呼吸は穏やかだ。
「明日も、ずっとここにいます」
言葉は短いのに胸の奥で長く響いた。
悔しさは消えないしもちろん焦りもある。けれど手順と癖が一つ増えた。
それならもう一歩分だけ、傍に近づける。
廊下の光がやわらかく揺れ、部屋の守りの膜が、息に合わせて小さくふくらむ。
扉の外で家令ジョゼフがささやく。
「もうすぐ魔術師団がいらっしゃいます」
――遠くで鈴がひとつ。魔術師団が来た合図だ。
深いフードの術師が三人、音もなく入る。
団長はまず守りの結界に手を当てランプの火が一拍だけ細くなりすぐ戻った。
「今日は外からの調べるだけです、本人にも印にも触れません」
杖の先が空をなぞる。
小さな魔法陣が開き細い光の糸がふわりと浮かぶ。
糸は青薔薇の真上には降りない。ひと呼吸ぶん距離を置いて静かにめぐる。
若い術師が糸を両手で受け、薄い光の板に数字を落とす。
副官が低く読む。
「拍は静かで乱れもごく少ない。――初期値も良好。幼いながら刻まれたにしてはかなり落ち着いています」
静けさを確かめ、団長はカイルのそばへ半歩だけ進む。声は小さくやさしい。
「アイリス様の魔力が、刻まれた印を通って、あなたへ流れているのを感じます。流れは細いですがにごりはありません、とても美しい流れです。あなたの呼吸と、印の呼吸が、もう重なりはじめています」
カイルはたずねる。
「それは……アイリス様の負担ですか」
「今のところはむしろ支えになっていると思います。この印は“しばる”のではなく“ささえる”形で働いています。しばらくは刺激を少なく呼びかけは静かに。触れる時も少し距離を置いて。拍がぴたり合うまでは、波を立てないでください」
団長は光の板を見てもうひとこと。
「それから――アイリス様の魔力量が、出生の記録より数倍に増えています。通常であれば少しずつ増加していって、十四歳ごろに最大値になります。ただ、魔力の暴走があったにしては荒れてはいません」
ローエン公爵がうなずく。
「記録はここで封じろ、扱いは“魔力暴走の事故”のまま。印と魔力量については、女王陛下の許しが出るまで沈黙すること、出入りは裏通路からでたのむ」
「拝命しました」
封じの札が光を吸い板は巻物に巻物は黒布と筒へ。最後まで音は出ない。
「ここにいます、アイリス様」
カイルの小さな声に合わせて、青薔薇がひと拍深く揺れ、また静まった。
◇◇◇
午後になると治療班が来た。班長は寝台の脇で短く言う。
「カイル様、動けるようになりたいとのことですが、まずはまだ動かないのが一番です。……でも、どうしてもなら少しだけ。壁づたいにいきましょう。倒れそうになったらすぐ座ること、いいですね」
「はい。……アイリス様が眠っているあいだに、少しでも動けるようになりたいんです」
班長はうなずき、ベッド脇の壁を手で示した。
「まずは左手で壁を触りつづける。カイル様の右側はもう見えません、なにか障害物があれば基本的に右からぶつかります」
カイルは息をそろえまず座る。
右の世界は空白だ。そこから風が来る気がして体がそちらへ引かれそうになる。
左手で壁をさがし冷たい感触をつかむ。そこに重さを預けると足の置き場がはっきりした。
――昔は、こんなこと考えなくてもできた。剣も、礼も、目で先を読めた。
今は半歩出すだけで胸の中に遅れが生まれる。
「では、まずは一歩」
かかとを床に置き、つま先で向きを合わせる。
二歩。壁の段差に指が触れて、位置がわかる。
三歩。右肩が小机にかすり、思わず止まってしまう。
「今のが右のぶつかりです」
「右から近づく物は、音で先に知ると安全です。まだ慣れないとは思いますが、成長すれば気配や空気でもわかるようにはなるはずです」
若い治療士が落ち着いた声で言う。
――宴席で右から差し出される杯。
――舞踏の右回り。
――列で右から来る合図。
ぜんぶ遅れるかもしれない、ぜんぶわからないかもしれない。
このままではたとえ選ばれたとしても、アイリス様の、将来この国を統べる方の傍にふさわしくない。
そんな考えがのどの奥で硬くなる。
もう一度。
四歩。壁の角を左手でたどって向きを変える。
五歩。椅子にひざが触れる。安心して座る。
指先がふるえた。悔しい。たった五歩で、息が荒い。
「今日はここまでにしましょう」
「ただ行けるなら往復一回だけ。無理ならやめる。……戻りますよ」
帰りも壁づたい。
右にある寝台の角が見えず、肩がまた当たる。小さな音がして、胸がちくりとする。
(何も見えない右がやっぱりまだこわい。この“こわい”のままでは間が合わない。アイリス様の隣で半拍遅れのままだ)
左の手のひら、足の裏の床、胸の高さの目の置き場
その三つを意識すると体が落ち着いた。間が戻る。
(戻せ。数で。手順で。――昔のように戻せる)
寝台に戻って座る。
治療士が言う。「右を“見る”ときは、首だけでなく肩ごとゆっくり回してください。視界が少し広がります」
カイルは試す、肩から右へ。
闇のふちがほんの少し浅くなる。
(できる。ゆっくりならできる。ゆっくりでも届けばいい。傍に立てる形をここから作ればいい)
「……もう一往復、はやめておきます、今日はここまでにします」
自分で口にして呼吸をそろえる。
(明日は同じ順番で半歩だけ伸ばす。右が見えないなら見える側で守る。それでも隣に立つ)
眠るアイリスの呼吸は穏やかだ。
「明日も、ずっとここにいます」
言葉は短いのに胸の奥で長く響いた。
悔しさは消えないしもちろん焦りもある。けれど手順と癖が一つ増えた。
それならもう一歩分だけ、傍に近づける。
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