舞姫【後編】

友秋

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新宿二丁目

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「ありがとう、ちゃんと毎日電話くれるのね。偉い偉い」
「ガキ褒めるみてーな言い方すんな」

 タクシーの中で、龍吾とみちるは軽妙なやり取りをする。

 何だかんだ言っても龍吾は毎日みちるに電話を入れていた。最初は保に言われ、嫌々、渋々だったのだが、気付けば、少し楽しみになっている自分がいた。

 今日は、香蘭劇場はメンテナンスが入っており休みと分かっていたが、電話をした。送迎の仕事は無いと思ってはいたのだが、みちるの「ありがとね」と言う優しい声を聞きたかったのだ。

「今日は無いよ」と言う言葉を予想していたが、意外な答えが返って来た。

『あのね、今日はお休みなんだけど、麗子さんに来てって呼ばれてるの。夕方なんだけど、いいかなぁ?』
『しょうがねーなぁ』
『じゃあ、いい』
『行きます! 行かせていただきます!』

 電話の向こうから聞こえる柔らかな笑い声は、いつも龍吾の心を包んでくれた。

「子供扱いされたくなかったら、頑張って星児さんや保さんに負けない男になって下さい」
「うっわ、ムカつく、その言い方。言わせてもらうけど、みちるさんも大概ガキだぜ」
「えぇっ」

 みちるが両手で自分の頬を挟み、有名な某絵画のような顔をしてみせ、龍吾はブッと吹き出した。



「ありがとねー、明日も劇場はお休みだから、龍吾君、電話大丈夫だからね。あ、でも私の声聞きたかったら電話してきて」
「しねーよっ」

 タクシーが劇場前で停まり、みちるは笑いながら降りて行った。

 駆けていくみちるの背中を走り出したタクシーの中から見ていた龍吾の脳裏に、何か不穏な予感が過った。

 この後は、保の使いで上野に向かう。タクシーは靖国通りに出ていた。

 不穏な予感の正体は何だろう、思案していた龍吾は顔を上げた。


 待てよ。麗子さんて確か、劇場支配人で保さんの姉さんで。保さん、この前何か俺に聞かなかったか?

『みちるは、姉貴と何か話したりしている様子はなかったか?』

 そういや、何であんな事聞いた?

 龍吾は、漠然とだが、何かが分かった気がした。

 これは、直感だ。

「運転手さん! ここでいい、降りるわ!」

 龍吾は金を払いタクシーを降りると劇場に向かって走り出した。




 外回りの仕事を終えた星児が事務所に戻ると、事務の若い男が集金に出かける準備をしていた。

「お前らのこれから行く集金って二丁目のか?」
「あ、そうっス」
「ああそれ、俺が行くわ」
「マジすか、星児さん、今戻って来たばかりなのに」

 恐縮する事務員に星児は「気にすんな」と帳面とバッグを受け取った。

「バタフライのスミ姉に話があんだよ。丁度良かった」



 二丁目には、星児が不動産トラブルから助けたニューハーフのショーパブがあった。

「きゃあぁあぁっ、セイジよぉ~!」
「今日は久しぶりにセイジが来たワァ!」

 開店前の店の扉を開けた星児を待っていたのは、少々野太い黄色い声だ。

 ショーのリハーサルをしていたらしく派手な化粧に目にも鮮やかなドレス姿の、パッと見は麗しい美女2人に彼はあっという間に脇を固められた。

 心してかからないと、さしもの星児も確実に彼女(?)達のペースに呑み込まれる。

 油断してると当初の目的を忘れ、「また来てね~」と彼女達に見送られ手ぶらで帰るハメになる。

「生憎だが、客じゃねぇ」

 星児は肩を竦め、苦笑いしながら集金のバッグを軽く掲げてみせた。

「やだん、いけずぅ」
「そうよ、せっかくいらしたんだから、そこ、座ってヨ」
「なんなら、セイジだけの為に今から踊るワヨ」
「そうだワ、踊る踊る~」
「コラっ」

 猫撫で声で甘える女達の後ろから、凛としたハスキーボイスが掛かる。

「アナタ達。ショーの安売りはダメよ」

 店の奥からこの店の実質のオーナー、スミ子が優雅に笑いながら出てきた。

 カウンターに入り、改めて星児に座るよう薦め、女達を「ホラ、練習練習」と立たせた。

「スミ姉、変わりないか」

 スミ子は、お陰様で、と微笑んだ。カウンター席に座る星児に、スミ子はグラスを渡し、栓を抜いたビールを注ぐ。

 お酌する仕草は自然で流麗で洗練されている。本当に、芯から女性なのだな、と星児は思う。

「スミ姉も」
「いただきます」

 グラスを取り出し微笑んだスミ子に、星児はビールを注ぎながら話し始める。

「この間話してた〝タケアキ〟ちゃん。その後は何か聞かないか?」
「アラ、お宅の踊り子ちゃんにちょっかい出してたんじゃなかったの?」
「いや、どうもあまり良くなかったらしくてさ。最近は見かけなくなった。けどちょっと不気味だなと思ってさ」

 実際、あれほどみちるに入れ込んでいた男が急に心変わりをし、みちるを捨てたのには何かあるんじゃないか、と星児は踏んでいた。

 御幸には、彼には直接関わら無い方が良いだろう、と釘を刺された。

 ならば、と星児はここに来た。あくまでもさり気なく、探りを入れに。

 互いに探り合うような、牽制し合う空気が星児とスミ子の間に流れた。スミ子はふうと息を吐いた。

「気まぐれに開店させてた店は今はもうやってないみたいだけど、実は、セイジが聞きに来た数日後にね、探りに来たわよ、香蘭の踊り子の事」

 耳を疑った。目を見開くセイジにスミ子は全てを察したようだった。

「直接、私のトコ来たんじゃ無いわよ。この街は狭いから。ここで働いている子はいろんな所で繋がってる。タケアキちゃんは、うちの子伝に色々聞き出したみたいよ。変な事話しちゃダメって言ってあるけど、あたし達は基本的にイケメンに弱いからね」

 最後の一言は苦笑いと共に。星児は勘弁してくれ、と頭を掻く。

 考えてみたら、それほどの男がこっちの事を何もが探っていないわけは無かった。どこまで知ったのか。

 みちるの身の安全が保障できるのなら放っておくが。

 御幸にそれとなく話しておくか、とビールを飲み干した星児にスミ子はビールを注ぎながらウインクする。

「セイジの頼みなら、〝タケアキ〟ちゃんの動き、マークしておくわよ」

 星児はに苦笑を返した。

「いや、これ以上借りを作ると後が怖い」
「まあ」

 ホホと上品に口元に手を当てスミ子が笑う。

「他に何か聞きたい事なければ、今晩はこのまま返さないわよ」

 それは敵わない、と星児は肩を竦めた。

「そろそろこの店、スミ姉に返しても大丈夫かと考えてたんだよ」
「アラ」

 声音が変わった。

 案外分かりやすい一面もあるんだな。星児はグラスに口を付けて上目遣いでスミ子を見る。スミ子は嬉しそうな笑みを浮かべていた。

「で、スミ姉にここを返す前に一つ聞きたい事があった」
「まぁ、ナニかしら」

 ビールを呑みながら星児は聞きたかった事を脳内で整理した。

 最近になってこの店の名前に、一つの勘が作動したのだ。

〝パピヨン〟

 この店を押さえた時、星児はスミ子に頼まれた。

『アタシの親友が、自分のお店の名前の一部を取って付けてくれた大事な店名なの。オネガイ、名前だけは残して。あとは星児の好きにしていいから』

 星児にしてみれば、トラブルに巻き込まれてしまったこの店を助ける為の買収で、いずれスミ子に返すつもりだった。

 だから、最初から自分が手加える気はなかったが、今になって店名が気になった。

 あの時は、オネエ仲間の店だろう、くらいに思い、何気なく聞き流したのだが、気にも留めなかった言葉の中に大事なワードがあった事を思い出した。

『親友のお店には、足元にも及ばないケドネ。凄いのヨ、銀座のクラブのママなんだから』

 銀座のクラブのママ?

 真っ先に頭に浮かんだママがいた。

 まさかな、と星児は思う。スミ子との付き合いは長いが、胡蝶のエミコママとの関係を匂わせた事はなかった――、胡蝶?

 星児の脳内で、二つの部品が繋ぎ合わさった。

〝店名の一部〟
〝バタフライは蝶〟

「この店の名前付けてくれた親友ってのは、銀座の胡蝶のエミコママか?」

 意味深に口角を上げた星児の顔を見たスミ子は笑みを消した。

「ご名答。よく分かったわネ」
「やっぱそうか。銀座で店で蝶が付く店で繋がった」

 カウンターの向こうにいたスミ子が客席側に回り、星児の隣に腰を下ろした。すかさず、空になったグラスにビールを注ぐ。

「セイジ、エミーを知ってるの」

 静かなアーモンド形の美しい目が星児を見詰めていた。星児はフッと笑う。

「胡蝶にはたまに行ってるんでね。つーか、エミーって呼んでるんだ」
「そうよ。あたし達、幼馴染だし。けど、エミーと言う愛称は、彼女が元は日系三世のアメリカ人だったからなの。戦中のゴタゴタで日本に来日してそのまま日本国籍取って、今は日本人だけどね。顔見たら分かると思うけど、ハーフよ」
「へぇ……」

 聞き入る星児が、火を点けず咥えたままだった煙草を見てライターを取り出していたスミ子は微笑を浮かべた。

「セイジ、今度はエミーに興味持ったの? 残念だけど、多分あのこは〝若いツバメ〟は見向きもしないワヨ」

 星児は失笑を漏らす。

「さすがに、身の程は知ってるつもりだ」
「まあ、殊勝だこと」

 二人で笑い合い、スミ子がハスキーな明るい声で切り替えた。

「で? エミーの何かを聞きたいの?」

 スミ子はカウンターの向こうに戻り、ウイスキーのボトルを持ってきた。星児はロックグラスを受け取る。

「何が聞きたいか、なんて言っても、エミーとはもう二十年も前に絶交したわ、いうより、されちゃったのネ。それからはもう会ってないのヨ。色々あったのよ。本当に、色々」

 カラン、とグラスの中で氷が鳴った。

「スミネエが思い出したくない過去だったら、ごめんな。けど、こっちもちょっと事情があって知りてぇ事があるんだ。エミコママの二人の娘について」

 どうしてその事を、という顔をしたスミ子に、星児はグラスに口を付けたまま言う。

「ちょっと事情があって、エミコママの事を少し調べさせて貰ったんだよ。やっぱ、娘達の事、スミネエ知ってんだな」

 観念したような表情でスミ子は肩を竦めた。

「知ってるも何も、あたしが彼女達を育てたんだもの。忙しいエミーに変わって。でも、エミーとの関係が三十年来の友情関係を最悪の形で終わらせてくれたのも、あの娘達だったんだから」

 想像以上に壮絶な過去があるらしい。星児は薫る煙草の煙に目を細めた。

 その娘の名前だけでも聞き出せたら、と思った時だった。

 星児のスーツジャケットの内ポケットで携帯電話が鳴った。スミ子に「ちょっとごめん」と断って取り出し、アンテナを伸ばし受信ボタンを押した。

「せ、セイジさん、良かった出た!」

 息を切らせ慌てた様子の龍吾だった。

「どうした」
「セイジさん、大変です! 直ぐっ、直ぐに劇場来て下さい! リハーサル室とかいう部屋です!」

 劇場? 今日明日はメンテナンスで休館だ。何が。

 電話の向こうから女性の金切り声が聞こえた。

 麗子の声?

 星児の全身が総毛立った。
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