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再びの
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みちるはリビングで、保に払われた手を反対の手で抱えた。
保の、自分を見る目は突き刺すような、拒絶にも似た目だった。
必死に思いを巡らせる。
私は何をしたんだろう? 分かんないよ。ねぇ、保さん!
いつも、どんな時も、優しく包み込んでくれた保が、いなかった。あそこにいたのは、みちるの知らない保だった。
堪えていた涙が一気に込み上げ、みちるは崩れ落ちた。
保さん、保さん保さん!
胸に襲いかかる痛みに耐えられずみちるは床に突っ伏し、声を殺して泣き出した。
みちるは、自分がどれほど保に身を委ね、そんな自分を保がどれほど温かく、全て受け止めてくれていたかを痛感する。
突き放される日が来ることを、何故想像もしなかったのだろう。みちるは両手で顔を覆う。
前にもこんな事、あった? 保さんじゃなかった。あれは。
ドクンッと一際大きな脈動と共にみちるの脳裏にあの夜の記憶が甦った。
受け止めてくれると信じて寄り掛かろうとした心がかわされたあの瞬間だ。みちるの瞼の裏に浮かぶのは、あの夜自分を見ようとしなかった武明の姿だった。
私は、知らないうちに大切な人を傷付けている?
刺されたような痛みが全身を貫いた。
心の奥底から、叫べと笑う声がする。
バカなみちる、お前なんて、誰も大事にしてくれてない。独りなんだよ。独りでこの街に来て、放りされて彷徨って、それがみちる、アナタなんだよ。
そんな、そんな。いや、いやよ、もう独りになるのはいや!
突っ伏していたみちるは髪の毛を掴み叫ぶ。
「やだあぁあぁっ!」
「みちる――!」
寝室のドアが勢い良く開くのと同時だった。次の瞬間、うずくまるみちるの腕が背後から掴まれ引き寄せられ、抱き締められた。
固くなるみちるの身体を、強く優しい力が包み込む。頬に当たる胸も、抱き締める腕も全てを躰が知っている。
心が解き放たれたかのように、みちるは押し殺していた声を一気に爆発させた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私、きっと保さんに何かしたんだよね、でも、分からないの。ごめんなさい、私、何をしてしまったのか。分からないの。私、保さんの前からも消えなきゃいけないのかな。私、どうしたらーー」
「みちるは何も悪くない! 謝らなくていい! もう謝るな!」
保はみちるの頭を胸に押し付けるように抱き締めていた。
みちるは保に抱き締められても尚、腕の中で言葉にならない声を上げて泣き続けている。
俺は、星児の事を言えない。自分もこんなにみちるを泣かしてしまった。
保の心に後悔という一太刀が入る。
星児の言う通りだ、と保は思う。
みちるが、どんな出自であろうと関係ないじゃないか。自分は、みちる自身を愛して、みちるを絶対に守ると決めた筈じゃないか!
拠り所である人間に拒絶にも似た態度を取られたみちるの心の傷は、保にとっても、傷付けた後悔としてきっと一生付いて回る。保は絞り出すようにゆっくりと口を開く。
「みちるは悪くないんだ」
悪いのは、自分だ。あんな真実に、心を揺らがされてしまった自分だ。
保はそっとみちるの頬に手を添え、優しく上を向かせた。まだ涙が止まらないみちるの瞳が、真っ直ぐに保を捉える。
長い指が愛しおしそうにみちるの髪をすく。乾きかけた心に温かな温もりが静かに染み込み、潤いを与えていった。
悲しい過去、辛い記憶を閉じ込めた箱は、パンドラの箱のよう。蓋が開き、明かされる忌まわしい過去と残酷な真実は不幸と災いを運ぶのか。
パンドラの箱の底には希望が残されていたけれど。
俺は、もう惑わされたりしないから。築いてきた絆は、あんなクソ喰らえな真実になど侵されない。
「保さん」
いつもの、保さん。
視線の先の瞳は、何時もの柔らかな濃いブラウンだ。みちるの心が、融解する。
「保さん……」
いつもよりも優しいキスは、長く、甘く。
保の愛撫に悦ぶ躰を小さく震わせるみちるの心の奥底に、小さな疑念が生まれていた。
みんな、何か隠してる。
保さんも、星児さんも。武明も。
「……ん……ぁっ」
保の躯と肌を全身に感じながら、目を閉じたみちるはふと想う。
お父さん、お母さん。
頼りになり賢く男らしかった父。
美しく優しく聡明な女性だった母。
大人になったみちるは、両親を思い出す度、不可解に想う。
何故、二人とも親戚の一人もいなかったのか。
本当に、お父さんとお母さんには身寄りがなかったの? ねぇ、誰か教えて。
でも父母の事を知る者は誰も、と諦めかけたみちるの脳裏に、一人の男が過った。
右京さん! ああそうだ、右京さんに聞こう。
「あ……ぁっ」
悦楽の波がみちるを呑み込んでゆく。保の腕が服も下着もはだけ露わになった躰をしっかりと抱きすくめ、唇を重ねた。
保さん。
みちるの伸ばした手を保が取り指を、絡め取った。
†
ダイニングテーブルに出された、みちるのお気に入りのミントンのプレートには、レタスやパプリカなど彩りよく盛られ、中心にクリーム色のソースがかかる形の良いポーチドエッグが載っていた。
椅子に座った保にみちるはコーヒーを入れたマグカップを渡した。受け取りながら保が優しく言う。
「ホントに上手く出来たんだな。旨そうだよ」
「うん」
みちるの嬉しそうな笑顔を見た保がクスリと笑った。
「殻無し固ゆで卵にならなかったんだ?」
「失敗作は覚えてなくていいですっ」
頬を膨らませたみちるに、保はアハハと明るく笑った。
豊かな食は気持ちを繋いでくれる。
そうだった、と保は思う。
自分達はこうやって色んな事を乗り越えて、言葉なんかで表現できない、大事な絆を紡いできた。
一口食べて保が顔を上げると、みちるが真剣な眼差しで見詰めていた。保は笑顔で言う。
「美味い」
みちるの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「良かったぁ」
「ソースも自分で作ったのか?」
「うん」
少し恥ずかしそうに伏し目がちになったみちるはポツリポツリと話す。
「いつも、私に何かあった時は保さんが美味しいもの作ってくれたでしょ? だから今日は、私も保さん元気になってもらいたくて。私はあんまり上手じゃないけど」
「みちる」
ダイニングテーブルを挟んでなければ、直ぐにでも抱き締めていただろう。
愛してるよ。
この言葉はそっと心の中で呟いた。
「ありがとう。俺はみちるの料理、全部好きだよ」
嬉しそうな笑みを返したみちるに、保はクスッと笑う。
「全部覚えてる。失敗作品もね」
「だから、それはいいんですっ」
ずっと、君を傍に。
そう思うのは、いけない事なのだろうか。
なあ、星児。
保の、自分を見る目は突き刺すような、拒絶にも似た目だった。
必死に思いを巡らせる。
私は何をしたんだろう? 分かんないよ。ねぇ、保さん!
いつも、どんな時も、優しく包み込んでくれた保が、いなかった。あそこにいたのは、みちるの知らない保だった。
堪えていた涙が一気に込み上げ、みちるは崩れ落ちた。
保さん、保さん保さん!
胸に襲いかかる痛みに耐えられずみちるは床に突っ伏し、声を殺して泣き出した。
みちるは、自分がどれほど保に身を委ね、そんな自分を保がどれほど温かく、全て受け止めてくれていたかを痛感する。
突き放される日が来ることを、何故想像もしなかったのだろう。みちるは両手で顔を覆う。
前にもこんな事、あった? 保さんじゃなかった。あれは。
ドクンッと一際大きな脈動と共にみちるの脳裏にあの夜の記憶が甦った。
受け止めてくれると信じて寄り掛かろうとした心がかわされたあの瞬間だ。みちるの瞼の裏に浮かぶのは、あの夜自分を見ようとしなかった武明の姿だった。
私は、知らないうちに大切な人を傷付けている?
刺されたような痛みが全身を貫いた。
心の奥底から、叫べと笑う声がする。
バカなみちる、お前なんて、誰も大事にしてくれてない。独りなんだよ。独りでこの街に来て、放りされて彷徨って、それがみちる、アナタなんだよ。
そんな、そんな。いや、いやよ、もう独りになるのはいや!
突っ伏していたみちるは髪の毛を掴み叫ぶ。
「やだあぁあぁっ!」
「みちる――!」
寝室のドアが勢い良く開くのと同時だった。次の瞬間、うずくまるみちるの腕が背後から掴まれ引き寄せられ、抱き締められた。
固くなるみちるの身体を、強く優しい力が包み込む。頬に当たる胸も、抱き締める腕も全てを躰が知っている。
心が解き放たれたかのように、みちるは押し殺していた声を一気に爆発させた。
「ごめんなさい、ごめんなさい、私、きっと保さんに何かしたんだよね、でも、分からないの。ごめんなさい、私、何をしてしまったのか。分からないの。私、保さんの前からも消えなきゃいけないのかな。私、どうしたらーー」
「みちるは何も悪くない! 謝らなくていい! もう謝るな!」
保はみちるの頭を胸に押し付けるように抱き締めていた。
みちるは保に抱き締められても尚、腕の中で言葉にならない声を上げて泣き続けている。
俺は、星児の事を言えない。自分もこんなにみちるを泣かしてしまった。
保の心に後悔という一太刀が入る。
星児の言う通りだ、と保は思う。
みちるが、どんな出自であろうと関係ないじゃないか。自分は、みちる自身を愛して、みちるを絶対に守ると決めた筈じゃないか!
拠り所である人間に拒絶にも似た態度を取られたみちるの心の傷は、保にとっても、傷付けた後悔としてきっと一生付いて回る。保は絞り出すようにゆっくりと口を開く。
「みちるは悪くないんだ」
悪いのは、自分だ。あんな真実に、心を揺らがされてしまった自分だ。
保はそっとみちるの頬に手を添え、優しく上を向かせた。まだ涙が止まらないみちるの瞳が、真っ直ぐに保を捉える。
長い指が愛しおしそうにみちるの髪をすく。乾きかけた心に温かな温もりが静かに染み込み、潤いを与えていった。
悲しい過去、辛い記憶を閉じ込めた箱は、パンドラの箱のよう。蓋が開き、明かされる忌まわしい過去と残酷な真実は不幸と災いを運ぶのか。
パンドラの箱の底には希望が残されていたけれど。
俺は、もう惑わされたりしないから。築いてきた絆は、あんなクソ喰らえな真実になど侵されない。
「保さん」
いつもの、保さん。
視線の先の瞳は、何時もの柔らかな濃いブラウンだ。みちるの心が、融解する。
「保さん……」
いつもよりも優しいキスは、長く、甘く。
保の愛撫に悦ぶ躰を小さく震わせるみちるの心の奥底に、小さな疑念が生まれていた。
みんな、何か隠してる。
保さんも、星児さんも。武明も。
「……ん……ぁっ」
保の躯と肌を全身に感じながら、目を閉じたみちるはふと想う。
お父さん、お母さん。
頼りになり賢く男らしかった父。
美しく優しく聡明な女性だった母。
大人になったみちるは、両親を思い出す度、不可解に想う。
何故、二人とも親戚の一人もいなかったのか。
本当に、お父さんとお母さんには身寄りがなかったの? ねぇ、誰か教えて。
でも父母の事を知る者は誰も、と諦めかけたみちるの脳裏に、一人の男が過った。
右京さん! ああそうだ、右京さんに聞こう。
「あ……ぁっ」
悦楽の波がみちるを呑み込んでゆく。保の腕が服も下着もはだけ露わになった躰をしっかりと抱きすくめ、唇を重ねた。
保さん。
みちるの伸ばした手を保が取り指を、絡め取った。
†
ダイニングテーブルに出された、みちるのお気に入りのミントンのプレートには、レタスやパプリカなど彩りよく盛られ、中心にクリーム色のソースがかかる形の良いポーチドエッグが載っていた。
椅子に座った保にみちるはコーヒーを入れたマグカップを渡した。受け取りながら保が優しく言う。
「ホントに上手く出来たんだな。旨そうだよ」
「うん」
みちるの嬉しそうな笑顔を見た保がクスリと笑った。
「殻無し固ゆで卵にならなかったんだ?」
「失敗作は覚えてなくていいですっ」
頬を膨らませたみちるに、保はアハハと明るく笑った。
豊かな食は気持ちを繋いでくれる。
そうだった、と保は思う。
自分達はこうやって色んな事を乗り越えて、言葉なんかで表現できない、大事な絆を紡いできた。
一口食べて保が顔を上げると、みちるが真剣な眼差しで見詰めていた。保は笑顔で言う。
「美味い」
みちるの顔が、ぱぁっと明るくなった。
「良かったぁ」
「ソースも自分で作ったのか?」
「うん」
少し恥ずかしそうに伏し目がちになったみちるはポツリポツリと話す。
「いつも、私に何かあった時は保さんが美味しいもの作ってくれたでしょ? だから今日は、私も保さん元気になってもらいたくて。私はあんまり上手じゃないけど」
「みちる」
ダイニングテーブルを挟んでなければ、直ぐにでも抱き締めていただろう。
愛してるよ。
この言葉はそっと心の中で呟いた。
「ありがとう。俺はみちるの料理、全部好きだよ」
嬉しそうな笑みを返したみちるに、保はクスッと笑う。
「全部覚えてる。失敗作品もね」
「だから、それはいいんですっ」
ずっと、君を傍に。
そう思うのは、いけない事なのだろうか。
なあ、星児。
応援ありがとうございます!
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