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喪失
しおりを挟む彼女は、彼の魂を連れて旅立つ。
*
会社を出た頃は静かな滑り出しを見せていた雨脚は、車が都心部を抜け郊外を走り始める頃には本降りとなっていた。
行く手に続く道が雨に煙る。
運転手の申し出を「あくまでも私用だ」と断った武は、自らハンドルを握りとある場所へ向かっていた。行き先など、誰にも知られる訳にいかなかった。
激しく打ち付ける雨の向こうに続く道を睨み武は思う。
自分はそこへ行って、どうしようというのだ。
〝自分が殺めた筈の彼女が生きていた〟
激しく動揺させる事実は、武を突発的とも言える、らしからぬ行動に走らせた。
心の底を、彼女に会いたい、というほんの僅かな感情が掠めてしまった事は否めなかった。
武のハンドルを握る手に、力が込められた。
確かめるだけだ。御幸の言葉の裏を!
ホスピス・幸陽園は、潮風が吹き抜ける高台にあった。車を駐車場に止めた武はドアを開け、傘を差して降り立った。
まだ昼前というのに空は断続的に雨を降らせる厚い雲に覆われ、辺りは薄暗い。防風林の木々の葉が雨音を響かせていた。
武の義父である津田恵三が多額の出資をした幸陽園の守衛警備管理の一切は武の警備会社が担っているが、この地区は支社に一任されており本社は直接携わってはいない。社長である武がここに来る事はまず無かった。
一度だけ、視察という形でこのホスピスに来訪した義父のお供で訪れた。二十年程前の事だ。
武にとって薬臭く辛気臭い印象しかなかったこんな場所は、興味の対象ではなく、ただただ義父のご機嫌取りに終始していた。
まさかここに彼女がいるなどと、想像だにしなかった。
義父にしてみれば、実の娘であった筈の彼女だ。しかし義父は彼女がここにいた事を認知している様子は一切無かった。
どうせ、義父は関心も無かったのだろう。
端からこの一族は病んでいるのだ。そもそも〝大事な後継者を手に掛けるような男〟を平気で婿として迎ているぐらいだ。狂っている一族と言える。
いや、一番狂っているのは――。
フン、と忌々しげに鼻で笑った武は歩き出す。
正面玄関に入る前、手入れの行き届いた中庭が見えた。雨の為、誰もいないそこは、静寂に包まれていた。
雨に打たれる庭にふと目をやった武が息を呑む。
姫花?
誰もいない筈の庭に、一瞬着物姿の美しい女性が佇むのを見た気がした。
武さん、さよなら。
柔らかな声とともに、優しく微笑みかけて、消えた。
武は目を擦り、頭を振った。
気のせいだ。
受付で自らの素性は話さず御幸の名を出し軽く事情を話した武は、姫花の眠る部屋を聞き、姫花の部屋へ駆け付けると、部屋からは看護師が慌ただし出入りしておりドアには面会謝絶の札が掛かっていた。
武は今出てきた看護師の一人にさりげなく聞いた。
「この部屋の方は?」
看護師は訝しげに武を見上げたが、小声で周囲を憚るように答えた。
「ほんの五分程前に、急に容態が急変しまして。たった今、息を引き取られたんです」
†††
「あ、セイジさん。これから出掛けるんスか」
「ああ」
星児がジャケットを肩に引っ掛け、事務所の奥の部屋から出てくると、応接スペースでテレビから流れるニュースを数人の男達が観ていた。中にいた丸刈りの男が、車のキーを手にしていた星児を見て声を掛けた。
「首都高は使わない方がいいスよ」
「首都高?」
男が指差したテレビの画面を、星児は睨んだ。
「三十分くらい前に、三号線で玉突き炎上スよ。スリップかなんかスかね」
テレビは、降りしきる雨の中、ビル街に囲まれた高架道路で黒煙を上げる凄惨な事故現場の上空からの映像を映し出していた。
「ひでぇな」
星児は顔を歪めた。
空を焼くような炎と黒煙は、忌まわしい記憶と不穏な予感を運ぶ。
「事故は上り線らしいスけど消火が大掛かりで上下線とも通行止めらしいス。恐らく周辺道路は大渋滞スよ。急ぎの用じゃなければもう少し時間置いてからにした方がいいスね」
テレビ画面に釘付けになる男の言葉に、星児は「そうだな」とだけ答えた。事故画面からスタジオに返された昼のニュースは、アナウンサーが状況を報じ始めた。
『怪我人が多数出ている模様です。詳しい情報は入り次第お伝えします』
女性アナウンサーの言葉は次の事件の切り替わった。少し考える素振りを見せていた星児が口を開いた。
「出掛けんのはヤメた。保にどやされっから部屋で溜まった伝票目ぇ通しとくわ。何かあったら呼べや」
星児が奥の自室に戻ろうと踵を返した時、誰かが「そういや今日は保さんまだスね」と言う。星児は振り向かずに手をヒラヒラさせながら答えた。
「さっき、今家出るって電話あった。そのうち来んだろ」
保からの電話は二十分程前にあった。
『お前が言った事、分かったよ』
星児は保のひと言で、全てを察した。
結局、みちるはみちるなのだ。その身体に、誰の血が流れていようと。フッと笑った星児は保に言った。
『みちるにキスマーク付けて貰ったか』
『お前、一回死ね』
ブツッと電話が切れ、星児はクククと暫く笑っていた。
デスクの椅子にドカッと座った星児は煙草をくわえ、机上に積まれた書類に手を伸ばした。束を目の前に置くだけで疲労感が漂う。
デスクワークは性に合わねーんだよなー。
保の厭味はもう聞き飽きたし、仕方ねぇ、やるか。
煙草にライターで火を点けた星児は煙に目を細めながら書類を一枚ずつ捲り始めた。
†††
幸陽園を出た武の車は首都高に入って直ぐに渋滞に巻き込まれた。
雨の中、前方に延々と連なるテールランプを眺めながら、武はイラつきを抑える為に煙草をくわえ火を点けた。
結局、武は姫花とは対面しなかった。事切れた旨を看護師から聞き、そのまま立ち去った。
開いたドアから僅かに見えた、彼女の手を見ただけで、気持ちが萎えたのだ。
何度も何度も握り締め、指を絡めたその美しく白い手は見る影も無く痩せ細り、くすんでいた。
眩しい程に美しかった彼女をそんな姿にしたのは自分だ。今の彼女を直視する勇気など、無かった。
人知れず、ホスピスを後にしようとした武は、デイルームで点け放しのテレビから流れるニュースを観た。
事故が起きた時刻と姫花が息を引き取った時刻はほぼ同じだった。
姫花は、連れて行かれたのか。もしくはその反対か。
武は奥歯をギリと噛んだ。
これではっきりした。最期の最期まで、彼女は自分のものにはならなかった、という事が。
「は、はは、ハハハハハ!」
武は一人きりの車内で声を出して笑い出した。自らを嘲る笑い声は虚しく散る。
俺は何を期待してあんな所へ行ったんだ。
一向に弱まる事なくフロントガラスに打ち付ける雨までが、愚かな自分を嘲笑うかのようだった。
武の心が感情を失い乾いてゆく。氷のように冷たい嘲笑を浮かべた時、携帯が鳴った。田崎の不快な声が武の心を濁らせる。
「随分と派手なやり方をしてくれたもんだな。お陰でこっちまで渋滞に巻き込まれちまってるぜ」
ヒヒヒと楽しそうに笑う田崎の声が、顔と肩で挟んだ携帯電話から聞こえる。
「のんびりカーラジオでも聞いてりゃいいさ。ある程度の情報はそっから得てんだろ。そのうちヤツの名前でもアンタの耳に入るだろうよ」
事故の第一報はホスピスのデイルームで点いていたテレビから得ていた。武はノロノロ運転の車内で、煙を吐き出した。
「果報は何とか、みてーなのは俺の性分じゃないんだよ。確実に仕留めたんだろうな」
武の言葉に、田崎が不気味に低く答えた。
「俺は絶対しくじらねー、って言ったろーがよ」
俺を誰だと思ってやがる、田崎は案にそう言っていた。一度火の点いた田崎の制御は、何人たりとも出来ないのだ。
例え今、手となり足となって動いてはいても、全く信用はならない男。もう二度と振り返らない。決して後戻りも、出来ない。勿論、やり直しの道など、無い。
「俺はしっかり根回ししてじっくり時間かけんだよ。だから絶対失敗はしねぇ」
「そうだったな」
互いの肚を探り合うような低く静かな声で話される会話の末、田崎は最後に言った。
「次のターゲットは楽しませてもらうぜぇ……」
田崎の声が一変して卑猥な声色となり、ヒヒヒという不快な笑いが武の耳に貼り付いた。
コイツはもう止められはしない。
武は光を失った瞳で揺れ上るタバコの煙を見ていた。
「好きにすればいい。世に知れず始末してくれりゃ、文句はないさ」
ターゲットの彼女はどちらの娘なのか。誰の血を引いているのか。
そんな事は、もはや知った事ではない。
過去は消せば良い。全て。そう全てだ。
人間としての感情も全て捨て、己の欲望の為に邁進する。
†††
「星児!」
「なんだ、保。まだ来ねーのかよ。家出てからどんだけ時間経ってんだよ」
遅めの昼食を取っていた星児が、箸を持ったまま保からの電話を取った。事務所は今、殆どが出払い静かだ。
星児は結局出掛けず、保から出されていた宿題の片付けに精を出していたのだ。
「五十日に加えて首都高の事故で何処もかしこも渋滞なんだよ! 今から抜け道で行くからよ! それより星児、テレビ点けろ!」
「テレビ?」
保の、切羽詰まったような口調に、箸をくわえたまま星児はテレビのリモコンを手にし電源を入れた。
「事故に巻き込まれた被害者の身元が分かったみたいなんだけどよ」
保の言葉が終わらぬうちに、テレビを観ていた星児の口から箸が落ちた。
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