舞姫【後編】

深智

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包囲網

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 その男に、確実に近付いてゆくものは正義という天罰か。



 曙橋にある小さな呑み処のドアを開けると初老のママが元気に声をかけてきた。

「あらぁ、佐々木さん! 久しぶり~、今何処にいるの」
「あ、今はですねー」

 保は、まるで旧知の仲のような佐々木とママの会話を続ける中、カウンターの中で黙々と料理を作るマスターと目が合い、軽く会釈をし合った。

 会話が盛り上がる佐々木とママを尻目に保は店内をさりげなく観察する。二十席程度の小さな店だった。

 客は、手前のテーブルに三人、カウンターの真ん中辺りに二人。照明は少し落とし気味で明るい感じではないが落ち着いた家庭的な雰囲気だった。

 佐々木は誰にも聞かれる訳にはいかない話をするにはいい場所、と言っていたが、ここが? と保はにわかに危ぶんだ。

 一頻り再会のご挨拶が終わった佐々木はママに店の奥を指差し言う。

「今日はちょっとコイツと呑みたいから奥の席いい?」

 ママはニコニコと笑いながら手で、どうぞどうぞ、と奥に促す仕草をしてみせた。

 突き出しに、まるでお茶碗のような小鉢に入った少しばかり豪快な菜の花の和え物が大盛りで出てきた。サービスいいなと感心しながらおしぼりで手を拭く保に佐々木が言う。

「ここはさ、警察官御用達みたいな店なんだよ」
「警察官御用達?」

 保が佐々木を見ると彼はこれまた豪快におしぼりで顔を拭っていた。

 オヤジがいた……。

 保の心の声など気付く訳もない佐々木は拭いたおしぼりをクシャッと丸めてテーブルに置いた。

「警視庁の第五機動隊と特科車両隊っつーのがすぐそこにあるんだ。俺もその特車にいた時ずっとここに呑み来てた。それに四課のオヤッさん達もよく来る」

 保は手だけを拭ったおしぼりを脇に畳んで置いた。

「そんな知り合いばかりが出入りしそうな場所がどうして安心なんだ?」
「だから安心なんだよ。外部に漏れたらヤバい話だ。ここは、絶対に変なヤツは出入りしない。だからだ。あ、ママ、生二つ」

「はーい」と少々しわがれた声でママが返事をした。間もなくしてジョッキが二つ運ばれてくると佐々木はママに「適当によろしく」と料理を注文。頼み方まで豪快だった。

 出てくる料理はどれも、まるで媚びた感のないものばかり。奇抜の域に足を踏み入れる程工夫した料理を目にする昨今では却って斬新さすら感じさせる。

「ここに来るお客さんは飲兵衛ばかりで店を出た頃には、何食べたかすら忘れてるから~」

 タバコを吸いながらカウンターでママがカラカラ笑っていた。佐々木も「そりゃそうだ~」と、ガハハと笑っていた。

 なるほど。要するに、ここには他人の話に聞き耳を立てるような輩はいない、って訳か。

 はは、と料理を箸でつつきながら保は飽きれ半分に乾いた笑いを漏らした

 ママが他の客の相手を始めた頃、佐々木は脱いで傍に置いてあったスーツのジャケットのポケットから一枚の写真を出して保に渡した。

「今日呼んだのは、先ずこれだ」

 受け取った保は写真を見て息を呑み小さく呟いた。

「亀岡さん!」

 写っていたのは警官の制服姿に固い表情の亀岡だった。恐らく正式に撮られたものだ。

「佐々木、これは?」

 保が写真から顔を上げると佐々木は煙草をくわえてライターで火を点けていた。ふぅっ、と煙を吐き出すと低い声で話し始めた。

「やっぱり、お前が言っていた警官だな。この警官が今、うちの内部監察の渦中にいる」
「内部監察?」

 思いもかけないその言葉を保は繰り返した。

 内部監察。しかも舞台は国家権力だ。何故そこに彼が。どんな形で絡むのか。

「何で亀岡さんが……」
「俺だって、何気なくお前から聞いた一人の警官がこんな、公安部ハムが追ってるデカイヤマに繋がってビックリだ。お前さ、この亀岡って警官がどんなもんに首を突っ込んでいたか知ってるのか」

 煙草をくわえようとしていた保の手が止まった。

〝どんなもの〟とは?

 保は記憶と思考の糸を辿る。亀岡さんが追っていたのは、みちるの両親の事故だ。

「知ってる」

 低く掠れた声で答えた保は煙草をくわえてライターで火を点けた。

 やっとあの事故が表に出てきたのか?

 保は次に出すべき手札に迷う。亀岡という存在が身を置く渦中とやらは何なのか。いかようにも取れた。

 犠牲なのか疑惑なのか。もしも後者だとしたら、亀岡が文字通り命を掛けて貫いた正義が社会悪によって塗り潰される。知らず知らずのうちに保の眉間が険しくなっていた。

「知ってる」とだけ答え煙をゆっくり吐き出し、それ以上は何も言わない保に探るような視線を送った佐々木は、ゆっくり口を開いた。

「お前がさ、どんな形でこの亀岡って警官に関わっていたのかは敢えて聞かねーから安心しろ。けどな、彼が足を踏み入れちまった領域ってのが警察内部のグレーゾーンだったんだ」

 保は佐々木の言葉を聞きながら思う。

 亀岡さんはパンドラの箱を開けてしまったのか。パンドラの箱とは、警察内部の禁忌。保はくわえていた煙草をクッと噛んだ。

 隠蔽、隠匿に関わる全ては暴かれる事なく闇に葬り去られ、それに翻弄された人間が犠牲となり人生を狂わされる。亀岡のように命を落としたものもいれば、ーー。

 保の胸にギュッと締め付けるような痛みがあった。

 みちるの人生はどうしてくれるんだよ。

 煙を吐き出した保は気を沈め、冷静に佐々木に聞いた。

「亀岡さんが亡くなった事でもう明るみにはならない筈だったものがどうして今掘り出される事になったんだ?」

 佐々木は亀岡の写真をジャケットのポケットにしまいながら思案顔をした。少しの間を置いてから、それがな、と言葉を選びながら話し出した。

 しっかりと耳を済まし、神経を集中させなければ聞き取れぬくらいの声だった。

 佐々木の話によると、亀岡の死に疑問を持った一人の記者による、公安部に寄せられた垂れ込みが発端という。

 闇に葬られた事故が明るみになった時、落とした小さな点はやがて拡がり、警視庁内部の汚職、隠蔽、隠匿、不正な人事に至る。

 あんな大きな署でそれなりの役職を得ていた亀岡さんがあんな小さな署に飛ばされ地域の警官をしていた意味が分かった気がした。

 吸わぬまま長く指に挟んでいた煙草の灰を灰皿に落とした保は目を閉じた。

「許せねーな」

 吐き捨てるように小さく呟いた。

 あの男を取り巻く全てが。全ては自らの金と権力、私利私欲の為だ。影で犠牲となるのは常に現場で汗水垂らして働く者だ。

 とにかくだ、と言った佐々木はジョッキに残っていたビールを一気に呑み干し、保に向き直った。

「お前が気にかけてた警官は、自殺ではないな。もう荼毘に伏されてしまって再捜査は難しいかもしれないが」

 いや、と保は言った。

「亀岡さんの犠牲が無にならなかっただけできっと少しは救われる」

 言いながら懸命に自分をも納得させる。

 そうだ、あのまま終わってしまったら本当に。

「まずはその事故の隠蔽にかなりの警官が関わってるみてーだから絶対に表沙汰にならないよう公安部が水面下で裏を取ってる。あんま認めたくはねーけど、暴力団も絡んでるしな」

 最後の一吸いをした煙草を揉み消しながら保は小さく笑った。

「お宅の組織には、ちゃんと自らを浄化しようとする機関があるんだな」

 たりめーだろ! と佐々木は胸を張った。

「警察官の誇りも何も忘れたようなヤツばっかがのさばっていたら、本当に治安崩壊だ」

 低く絞り出すような声に保は小さく頷いた。

 〝正義〟はちゃんと存在しているんだな。

 保は、次に切る手札を決めた。脳裏にはしっかりと一人の男の姿が浮かぶ。

 郡司、いや、津田武。確実にお前を追い込んでやるよ。

 保が切る手札とは、亀岡が最後に託した大事な独自捜査の資料を佐々木に渡す事だ。

 星児と保が持つ切札はまだある。通産省の不正内部資料はまだ出さない。このカードは、星児に待っている大事な場面で切るであろうカードだから。

 保は温くなってしまったビールを飲み干し、おもむろに口を開いた。

「佐々木。俺が持つ〝ウラ〟をお前に渡すよ」
「裏が取れるものって意味か」
「そういう事だ。役に立つかは分かんねーけど」

 これで佐々木の未来も開ければ、互いの大きな利益となる。

†††

「保さん、こんなとこで寝てたらダメです! あ、星児さんお帰りなさい、保さんが」

 帰宅した星児が玄関のドアを開けると、保が廊下に仰向けに倒れており、その脇ではみちるが困惑しおろおろしていた。

「どうした」
「あのね、保さん帰って来て靴脱いだ途端バタンで」

 星児は保を覗き込み苦笑いした。

 飲み過ぎかよ。

 しょうがねぇなぁ、と星児は保の腕を取る。

「どうしたんだよ、お前らしくねー飲み方してよ。今日は佐々木と呑んだんじゃねーの?」

 保は苦し気な表情を見せ答えた。

「そうだよ。佐々木とだけの予定が、四課の連中に巻き込まれた」

 ああー、と言った星児は笑う。

 体育会系の浴びるように飲む、保が最も苦手とする一団は、佐々木との話が終わった頃、店に雪崩れ込んで来たのだ。皆、佐々木の知り合いだった。

「アイツら……化物だよ。……死ぬかと思った……」

 クククと笑う星児に支えられてゆっくり起き上がった保を、みちるも心配そうに反対から支える。

「大丈夫? 星児さん笑ってないで」
「笑わずにいられるか……いでっ」

 星児の頭を保が叩いた。

「ころ~す」
「ぁんだ、コイツ!」

 寝室に入り、「寝ろ!」と星児が保をベッドに放ろうとしたが、保は腕を星児の首に絡めた。次の瞬間保の身体を一生懸命支えていたみちるもろとも三人一緒にベッドに倒れ込んだ。

「きゃあぁっ」
「この……っ、酔っ払いがぁ!」

 星児が直ぐにガバッと起き上がると、保はみちるを抱き締めていた。

「た……っ、保さん……くるし……んっ」

 押し付けられた保の胸から顔を上げたみちるの抗議は唇を塞がれる事で呑み込まれた。

 酔っちゃう……!

 唇を伝い流れ込むアルコールをたっぷり含んだ空気に、みちるの頭がぼんやりしてきた時。

「酔いに任せてらしくねー事しようったって、そうはいかねぇよ!」

 星児が割って入り、みちるの躰を持っていく。風呂上がりでローブだけだったみちるの胸元がはだける。星児はすかさず胸にキスをした。

「んん――……っはぁあ……」

 全身を突き抜けるような芯を震わせる感触に、みちるは塞がれていた唇を外し吐息を漏らした。

 お酒とタバコとフレグランスと僅かな汗と石鹸の香りが混ざり合う。

「ぁあ……! ぁっん」

 震える白い躰をギュッとひと抱きした保は力尽きたようにベッドに倒れる。

「みちる……」

 保は目を閉じ、小さく呼んだ。みちるは、星児の腕に抱かれたまま保に耳を傾けた。保は眠りに堕ちる寸前、一言小さく呟いた。

「みちる……必ず仇取ってやるから……」

 みちるの耳には〝仇〟だけが届いていた。え? とみちるが身を乗り出した時には保は完全に堕ち、寝息を立てていた。

 どういう意味かな。

 首を傾げたみちるが星児を見上げると、優しいキスが待っていた。

 みちるの〝仇〟は、星児と保の〝天敵〟。しかしその男は、みちるの実の父親だ。星児も保も、それを切り離す事に決めたのだ。

 あの男はみちるの父親などではない。みちるには似ても似つかぬ悪魔なのだ。

 夢と現の間をさ迷う保は思う。あの男を捕らえる包囲網。警察がヤツを完璧にロックオンするその前に。

 俺達が追い詰める。俺達の手で――!
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