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カルテ7 元婚約者、現る
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緒方君との電話は、拍子抜けするくらいお仕事の話に終始した。
変に期待して構えた自分が恥ずかしくなってしまった。
通常の電話で本当に良かった。
まかり間違ってスカイプでもしようものなら赤面もの。
やっぱり、緒方君はあくまで仕事。
わたしの事は、当然のことながら何とも思ってなんていないわけで。
後にして思えば、酔い潰れて吐くような女に特別な感情なんて抱けるワケがない。
本っ当に、恥ずかしい。
同時に、なんだか、心が痛くなる。
やっぱり、恋の神様はもうわたしにはなんのご利益もくれない。
あなたに残されたのは仕事だけ、仕事だけ頑張りなさい、と神様に言い渡された気持ちだ。
少し前のドキドキを返して。
電話を切ったあと、わたしはそのままベッドになだれ込んだ。
脱力。もう、今夜は寝る。
けれど、いざ寝ようと思って部屋の照明を消してはみると、妙に頭が冴えている。
わたしの頭を冴えさせているのは、少し前の赤面ものの勘違い、ではなく、緒方君から聞いた話の内容。
緒方君があの時間まで起きていたのは色々と調べてくれていたみたいだった。
いつ、わたしから連絡が入ってもいいように、って。
普段は忙しくて、直接の仕事に関わること以外のものに取り掛かる時はいつもこんな時間になるという。
本当に頭が下がる。
わたしは一度は閉じた目を開けた。
暗闇に慣れた目に竿縁天井が映っていた。
築年数が経っているこの古い日本家屋は全ての部屋が和室で、わたしの部屋も例に漏れず、リフォームもしていない古めかしい部屋を出来うる限りで洋風にしたのだけど、この天井だけはどうにもならない。
けれど、考え事をする時、思い切り深呼吸をすると落ち着く‘匂い’があった。
古い、木の家の匂いが、わたしの混沌とする脳内を落ち着かせる。
わたしはもう一度、目を閉じた。
緒方君の話は、今回の案件を少しばかり複雑に変えてしまうものだった。
それは、近藤さんのご主人の話。
『実は、クリニックの院長をしている先輩が、銀座にもう一つ開院したから忙しくて幾人かの患者さんを僕に回したんだ。
その中に近藤さんのご主人がいたんだよ』
それは衝撃の事実。
その御主人が今現在治療に通っているとしたら、奥さんである恵果さんが出した診断書が宙ぶらりんになる可能性がある。
けれど、事態はそれではすまなかった。
『ご主人、うつを患ってる。
しかも、かなり長く』
聞いた瞬間、その事実がどう転ぶだろう、と考えた。
もしも、恵果さんがその事を知らずに結婚していたとすれば、離婚に一歩前進となる。
けれど、知っていた上での結婚だとしたら、好転は望めない。
なぜなら夫婦には、お互い協力し合わなければいけない、という法的縛りがあるからだ。
夫の疾患を知り、了承して結婚したのならば、それを支え共に乗り越えよう、という覚悟があった、とみなされる。
そうなると、今回の離婚はそれを身勝手に投げ出す、ということにも捉えられかねない。
恵果さんの話の中に、ご主人のうつに関する情報はなかった。
うつは、理由ではないから、ということ?
暗闇の中、わたしは寝返りを打った。
ともかく、明日だ。
明日、恵果さんに会いに行こう、と思ったところで睡魔の足音がやっと聞こえてきた。
うとうとと意識が溶けていくわたしの耳に、少し前に聞いていた緒方君の声が残っていた。
また、声が聞きたい、とか。
今度は、会って仕事以外の話がしてみたいの、とか。
夢と現を行き来する意識下で浮かんでは消え、寄せては引く波のように、淡い期待を抱く自分と、現実を見なさい、という自分とが頭の中に交互に現れ、ケンカしていた。
どちらにしても。
緒方君に、会いたい。
そう思う自分に、嘘はなかった、と思う。
☆
翌朝、事務所に着いて間もなく家裁から、近藤さん夫婦の第一回目の調停が延期になった、という連絡入った。
相手方で状況が変わった為その調整する、という事だった。
相手方の状況が変わった? 嫌な予感がした。
まさか、向こうも弁護士を?
今まで直接話す事が出来ていた近藤蓮さんが弁護士を立てる事になったら、昨夜緒方君から聞いた話をそれとなく、さり気なく聞いて探る、という方法が取れなくなり、ますます困った状況になる。
それだけはありませんよう、と心底願う。
体調が、とか、仕事が、という理由であって欲しい。
そう願ったのだけど、悪い予感はあっけなく的中する。
午後になって近藤蓮さんから弁護士を立てることにした、夕方担当してくれる弁護士がそちらに挨拶に行く、という旨の連絡が来た。
ああやっぱり、と頭を抱えるわたしに神様は、さらなる試練を与える。
〝その人〟は、そろそろ事務所を閉めようか、という夕刻になって「挨拶」と銘打ってやって来た。
ドアを開けて入って来た、高級スーツを身にまとう瀟洒な長身男性を見た瞬間、予感的中以上にマズイ状況に追い込まれた事を、わたしは知った。
「玲さん……」
心身ともに凍りつくわたしの姿を認めた彼は、クールな笑みを浮かべた。
「やあ、菊乃。
久しぶりだな」
その人は、頭が切れて、仕事が出来る。
けれどその仕事ぶりは非情で冷徹で、まるで機械のようだった。
手塚玲(てづかれい)。
37という若さで四谷に事務所を構える、やり手の敏腕弁護士。
そして。わたしの、元婚約者。
「どうして、玲さんがこんなところに?」
愚問だった。
言葉にして直ぐ後悔する。
近藤さんの担当弁護士となったから、ここに来たのだ。
そうだ、近藤さんの勤務先は曙橋。
玲さんの事務所が四谷三丁目交差点の傍。
目と鼻の先。
どこかで玲さんと繋がったのだろう。
「僕が今度担当することになったクライアント、菊乃のクライアントのご主人らしいね。そのことを聞いたから、久しぶりに菊乃に会える、と思ってここまで来てみたんだ」
スマートに、さらりとそんな言葉を口にする。
わたしは顔を強張らせたまま玲さんを見上げた。
「でも、玲さんは企業法務が専門でしょう。こんな、離婚調停の代理人なんて……」
震えそうな声を必死に抑えて平静を装い聞くわたしに、玲さんは意味深な、冷たい笑みを浮かべた。
ゾクリとしたわたしの背中を冷たい汗が伝う。
「近藤さんのお父上が僕の担当している企業の重役で、ずっと付き合いがあったのでね。その伝手で僕のところに依頼が来た」
ああ、なんて縁なの。
その場にうずくまってしまいそうな気持ちを何とか持ちこたえ、どうぞ、と玲さんを中に促そうとした時。
「まあ、偉い先生がこんな郊外にはるばる来てくださって! 狭いところで申し訳ありませんが、どうそ」
奥からこのみさんが出て来てくれた。
玲さんは偉ぶる素振りなど見せず、昔から変わらない、育ちの良さがにじみ出る上品な仕草でこのみさんに頭を下げ、言った。
「いえ、今日のところは挨拶に来ただけですのでこれで失礼します。久しぶりに菊乃の顔が見られたので、とりあえず満足です」
このみさんが、まあ、と笑った。
わたしは困った顔しかできない。
物腰柔らかく、人当たりも良い。
それが玲さんのスタイル。
でもわたしは知ってる。
麗しい貴公子のような仮面の下の素顔――、
じゃあ、と会釈をした玲さんがドアに手を掛けるとこのみさんはわたしの背中をポンッと叩いた。
「ほら、菊乃ちゃん、下までお見送りしなさい。都心からこんな郊外まで遠路はるばる来てくださったんだから」
背中を押され、わたしは玲さんと廊下に出た。
遠路はるばるって、このみさん……。
わたし、苦笑いしてしまう。
立川って都心から見たらそんな距離?
玲さん、クックと笑っていた。
「賑やかで居心地の良さそうな事務所だ。菊乃には合っているのか」
ドキリとする。
その言葉に隠された意、汲み取らなければいけないだろうか。
エレベーターホールまで続く廊下。
わたしと先生の足音が、コンクリの壁に反響していた。
コツコツという硬い音が強張っていくわたしの心にリンクする。
「ええ、わたしは自分に合う場所を見つけたんだわ」
精一杯の答えだった。
玲さんはそれ以上何も言わなかった。
薄暗い廊下を黙して抜けたわたし達は、8階であるこの階にちょうど止まっていたエレベーターに乗り込んだ。
ドアがゆっくりとスライドして締まり、わたしが指定階数ボタンに手を伸ばした時。
「!?」
ボタンを押そうとしていた手が掴まれた。
「れいさ……っ」
そのまま手をグイッと引っ張られ、エレベーターの壁にドンと身体を押し付けられた。
息も出来ないくらいに驚くわたしは、目を見開いて玲さんの顔を見上げた。
玲さんの端正な顔が、目の前に迫っていた。
普段は上品で麗しい玲さんの仮面の下に隠れている本性は。
とても強引で俺様な男。
お付き合いしている間に惜しみなく愛情は注いでくれた。
でも、付いていけなくなったのだ。
どんなに仕事が出来ても、素晴らしい肩書を持っていても、優しさと包容力は遼太の足元にも及ばなかった。
遼太の影を追っていたわたしには、強引に全てを求めてくる玲さんを、心の底から受け入れる事はできなかった。
エレベーターには、降りる階の指定ボタンを押さないと動き出さない密室。
手を掴まれ、壁に押し付けられているわたしは、身動きが取れない。
この密室を解放するのは、他の階で誰かがボタンを押す時か、この階に今いる者が外からボタンを押すか。
現在この階には、芙蓉法律事務所しか入っておらず、その事務所には蓉子先生は外出中で、このみさんしかいない。
留守番をするこのみさんが事務所を出て来ることは、まずない。
だから、可能性のあるのは前者のみ。
バクバクと鳴る心臓の音が頭にガンガンと響いていた。
玲さんの、切れ長のクールな目がわたしを捉えて離さない。
その目を見ていてパッと脳裏に浮かんだのは緒方君の目だった。
緒方君の目は同じ切れ長でも全然違う。
緒方君の目は柔らかな、アーモンド型の、優しい目だった。
綺麗な、澄んだ黒い瞳だった。
玲さんの目は、見る者を吸い込みそうなの。
恐い。
背中が密着するエレベーターの無機質な鉄の感触が、わたしの熱を奪っていく。
瞬きも出来ないわたしを見て、玲さんはクックと笑った。
「僕がこの仕事を受けた本当の理由。教えてやろうか」
ドクン。
心臓が、一際大きな音を立てる。
玲さんの目が、冷たく光った気がした。
「菊乃を、潰す為だよ」
わたしは、固唾を呑んでいた。
潰す――。
固唾を呑み、声すら発する事の出来ないわたしに玲さんはフッと笑い、止めを刺した。
「僕の警告を無視して弁護士を続けている君を、ね」
全身、鳥肌が立つような感覚。
立っているのがやっとだった。
玲さんの左手の人差し指がスッとわたしの顎に掛けられた。
「僕をフッたこと、後悔させてやるよ」
その言葉と同時に、玲さんの顔が近づく。
そして――。
何度も、幾度も重ねたことのある唇だった。
でも、今回ほど乱暴で、強引なキスは初めてだった。
わたしは全力で玲さんを突き飛ばした。
掴まれていた手も必死に振り払う。
ドアを開くボタンを押して外に飛び出した。
口元を手で拭いながら中を見ると、モデルのような佇まいの玲さんは余裕の表情で、スラックスのポケットに手を突っ込み、もう片方の手を振っていた。
ドアが閉まる時、玲さんの口元が動くのが見えた。
『またな、菊乃』
そう言っていたようだった。
どうしよう。
わたしは、とんでもない人間を敵にしたの?
バクバクとなる心臓は、留まるところを知らない。
わたしは事務所に戻ったわたしは一目散にトイレに駆け込んだ。
「菊乃ちゃん!?」
驚いたこのみさんの声が聞こえたけれど、今はそれに応えることも出来なかった。
ドアを閉めて鍵を掛けた。
久しぶりのキス。
あんな、あんなのってない。
愛も優しさもない。
あんなキスって。
パウダールームと一体型のお手洗い。
わたしは傍に備えられていたティッシュを数枚取り鏡に向かって唇を拭いた。
涙がボロボロとこぼれてきた顔は、鼻水まで出て来てどんどんぐちゃぐちゃになっていく。
「ひどい顔」
でも、止まらない。
涙が、どうしても止まらないの。
何が哀しいの?
キス?
それとも、玲さんへの恐怖?
仕事を失うかもしれない?
わたしは、ジャケットのポケットに入れたままにしていた携帯を出した。
誰に連絡しようとしてるの、菊乃?
誰に?
そんな自問とは裏腹に、わたしの指が押す相手はもう、決まっていた。
今まで独りでもやれるって気を張ってきたのに。
こんな、情けない女がするような事、したくないのに。
でも、今は立っているのもやっとなの。
傷つけられた誇りと、崩れ落ちた自信。
自分を失いそうで怖かった。
助けてください。
緒方君――。
変に期待して構えた自分が恥ずかしくなってしまった。
通常の電話で本当に良かった。
まかり間違ってスカイプでもしようものなら赤面もの。
やっぱり、緒方君はあくまで仕事。
わたしの事は、当然のことながら何とも思ってなんていないわけで。
後にして思えば、酔い潰れて吐くような女に特別な感情なんて抱けるワケがない。
本っ当に、恥ずかしい。
同時に、なんだか、心が痛くなる。
やっぱり、恋の神様はもうわたしにはなんのご利益もくれない。
あなたに残されたのは仕事だけ、仕事だけ頑張りなさい、と神様に言い渡された気持ちだ。
少し前のドキドキを返して。
電話を切ったあと、わたしはそのままベッドになだれ込んだ。
脱力。もう、今夜は寝る。
けれど、いざ寝ようと思って部屋の照明を消してはみると、妙に頭が冴えている。
わたしの頭を冴えさせているのは、少し前の赤面ものの勘違い、ではなく、緒方君から聞いた話の内容。
緒方君があの時間まで起きていたのは色々と調べてくれていたみたいだった。
いつ、わたしから連絡が入ってもいいように、って。
普段は忙しくて、直接の仕事に関わること以外のものに取り掛かる時はいつもこんな時間になるという。
本当に頭が下がる。
わたしは一度は閉じた目を開けた。
暗闇に慣れた目に竿縁天井が映っていた。
築年数が経っているこの古い日本家屋は全ての部屋が和室で、わたしの部屋も例に漏れず、リフォームもしていない古めかしい部屋を出来うる限りで洋風にしたのだけど、この天井だけはどうにもならない。
けれど、考え事をする時、思い切り深呼吸をすると落ち着く‘匂い’があった。
古い、木の家の匂いが、わたしの混沌とする脳内を落ち着かせる。
わたしはもう一度、目を閉じた。
緒方君の話は、今回の案件を少しばかり複雑に変えてしまうものだった。
それは、近藤さんのご主人の話。
『実は、クリニックの院長をしている先輩が、銀座にもう一つ開院したから忙しくて幾人かの患者さんを僕に回したんだ。
その中に近藤さんのご主人がいたんだよ』
それは衝撃の事実。
その御主人が今現在治療に通っているとしたら、奥さんである恵果さんが出した診断書が宙ぶらりんになる可能性がある。
けれど、事態はそれではすまなかった。
『ご主人、うつを患ってる。
しかも、かなり長く』
聞いた瞬間、その事実がどう転ぶだろう、と考えた。
もしも、恵果さんがその事を知らずに結婚していたとすれば、離婚に一歩前進となる。
けれど、知っていた上での結婚だとしたら、好転は望めない。
なぜなら夫婦には、お互い協力し合わなければいけない、という法的縛りがあるからだ。
夫の疾患を知り、了承して結婚したのならば、それを支え共に乗り越えよう、という覚悟があった、とみなされる。
そうなると、今回の離婚はそれを身勝手に投げ出す、ということにも捉えられかねない。
恵果さんの話の中に、ご主人のうつに関する情報はなかった。
うつは、理由ではないから、ということ?
暗闇の中、わたしは寝返りを打った。
ともかく、明日だ。
明日、恵果さんに会いに行こう、と思ったところで睡魔の足音がやっと聞こえてきた。
うとうとと意識が溶けていくわたしの耳に、少し前に聞いていた緒方君の声が残っていた。
また、声が聞きたい、とか。
今度は、会って仕事以外の話がしてみたいの、とか。
夢と現を行き来する意識下で浮かんでは消え、寄せては引く波のように、淡い期待を抱く自分と、現実を見なさい、という自分とが頭の中に交互に現れ、ケンカしていた。
どちらにしても。
緒方君に、会いたい。
そう思う自分に、嘘はなかった、と思う。
☆
翌朝、事務所に着いて間もなく家裁から、近藤さん夫婦の第一回目の調停が延期になった、という連絡入った。
相手方で状況が変わった為その調整する、という事だった。
相手方の状況が変わった? 嫌な予感がした。
まさか、向こうも弁護士を?
今まで直接話す事が出来ていた近藤蓮さんが弁護士を立てる事になったら、昨夜緒方君から聞いた話をそれとなく、さり気なく聞いて探る、という方法が取れなくなり、ますます困った状況になる。
それだけはありませんよう、と心底願う。
体調が、とか、仕事が、という理由であって欲しい。
そう願ったのだけど、悪い予感はあっけなく的中する。
午後になって近藤蓮さんから弁護士を立てることにした、夕方担当してくれる弁護士がそちらに挨拶に行く、という旨の連絡が来た。
ああやっぱり、と頭を抱えるわたしに神様は、さらなる試練を与える。
〝その人〟は、そろそろ事務所を閉めようか、という夕刻になって「挨拶」と銘打ってやって来た。
ドアを開けて入って来た、高級スーツを身にまとう瀟洒な長身男性を見た瞬間、予感的中以上にマズイ状況に追い込まれた事を、わたしは知った。
「玲さん……」
心身ともに凍りつくわたしの姿を認めた彼は、クールな笑みを浮かべた。
「やあ、菊乃。
久しぶりだな」
その人は、頭が切れて、仕事が出来る。
けれどその仕事ぶりは非情で冷徹で、まるで機械のようだった。
手塚玲(てづかれい)。
37という若さで四谷に事務所を構える、やり手の敏腕弁護士。
そして。わたしの、元婚約者。
「どうして、玲さんがこんなところに?」
愚問だった。
言葉にして直ぐ後悔する。
近藤さんの担当弁護士となったから、ここに来たのだ。
そうだ、近藤さんの勤務先は曙橋。
玲さんの事務所が四谷三丁目交差点の傍。
目と鼻の先。
どこかで玲さんと繋がったのだろう。
「僕が今度担当することになったクライアント、菊乃のクライアントのご主人らしいね。そのことを聞いたから、久しぶりに菊乃に会える、と思ってここまで来てみたんだ」
スマートに、さらりとそんな言葉を口にする。
わたしは顔を強張らせたまま玲さんを見上げた。
「でも、玲さんは企業法務が専門でしょう。こんな、離婚調停の代理人なんて……」
震えそうな声を必死に抑えて平静を装い聞くわたしに、玲さんは意味深な、冷たい笑みを浮かべた。
ゾクリとしたわたしの背中を冷たい汗が伝う。
「近藤さんのお父上が僕の担当している企業の重役で、ずっと付き合いがあったのでね。その伝手で僕のところに依頼が来た」
ああ、なんて縁なの。
その場にうずくまってしまいそうな気持ちを何とか持ちこたえ、どうぞ、と玲さんを中に促そうとした時。
「まあ、偉い先生がこんな郊外にはるばる来てくださって! 狭いところで申し訳ありませんが、どうそ」
奥からこのみさんが出て来てくれた。
玲さんは偉ぶる素振りなど見せず、昔から変わらない、育ちの良さがにじみ出る上品な仕草でこのみさんに頭を下げ、言った。
「いえ、今日のところは挨拶に来ただけですのでこれで失礼します。久しぶりに菊乃の顔が見られたので、とりあえず満足です」
このみさんが、まあ、と笑った。
わたしは困った顔しかできない。
物腰柔らかく、人当たりも良い。
それが玲さんのスタイル。
でもわたしは知ってる。
麗しい貴公子のような仮面の下の素顔――、
じゃあ、と会釈をした玲さんがドアに手を掛けるとこのみさんはわたしの背中をポンッと叩いた。
「ほら、菊乃ちゃん、下までお見送りしなさい。都心からこんな郊外まで遠路はるばる来てくださったんだから」
背中を押され、わたしは玲さんと廊下に出た。
遠路はるばるって、このみさん……。
わたし、苦笑いしてしまう。
立川って都心から見たらそんな距離?
玲さん、クックと笑っていた。
「賑やかで居心地の良さそうな事務所だ。菊乃には合っているのか」
ドキリとする。
その言葉に隠された意、汲み取らなければいけないだろうか。
エレベーターホールまで続く廊下。
わたしと先生の足音が、コンクリの壁に反響していた。
コツコツという硬い音が強張っていくわたしの心にリンクする。
「ええ、わたしは自分に合う場所を見つけたんだわ」
精一杯の答えだった。
玲さんはそれ以上何も言わなかった。
薄暗い廊下を黙して抜けたわたし達は、8階であるこの階にちょうど止まっていたエレベーターに乗り込んだ。
ドアがゆっくりとスライドして締まり、わたしが指定階数ボタンに手を伸ばした時。
「!?」
ボタンを押そうとしていた手が掴まれた。
「れいさ……っ」
そのまま手をグイッと引っ張られ、エレベーターの壁にドンと身体を押し付けられた。
息も出来ないくらいに驚くわたしは、目を見開いて玲さんの顔を見上げた。
玲さんの端正な顔が、目の前に迫っていた。
普段は上品で麗しい玲さんの仮面の下に隠れている本性は。
とても強引で俺様な男。
お付き合いしている間に惜しみなく愛情は注いでくれた。
でも、付いていけなくなったのだ。
どんなに仕事が出来ても、素晴らしい肩書を持っていても、優しさと包容力は遼太の足元にも及ばなかった。
遼太の影を追っていたわたしには、強引に全てを求めてくる玲さんを、心の底から受け入れる事はできなかった。
エレベーターには、降りる階の指定ボタンを押さないと動き出さない密室。
手を掴まれ、壁に押し付けられているわたしは、身動きが取れない。
この密室を解放するのは、他の階で誰かがボタンを押す時か、この階に今いる者が外からボタンを押すか。
現在この階には、芙蓉法律事務所しか入っておらず、その事務所には蓉子先生は外出中で、このみさんしかいない。
留守番をするこのみさんが事務所を出て来ることは、まずない。
だから、可能性のあるのは前者のみ。
バクバクと鳴る心臓の音が頭にガンガンと響いていた。
玲さんの、切れ長のクールな目がわたしを捉えて離さない。
その目を見ていてパッと脳裏に浮かんだのは緒方君の目だった。
緒方君の目は同じ切れ長でも全然違う。
緒方君の目は柔らかな、アーモンド型の、優しい目だった。
綺麗な、澄んだ黒い瞳だった。
玲さんの目は、見る者を吸い込みそうなの。
恐い。
背中が密着するエレベーターの無機質な鉄の感触が、わたしの熱を奪っていく。
瞬きも出来ないわたしを見て、玲さんはクックと笑った。
「僕がこの仕事を受けた本当の理由。教えてやろうか」
ドクン。
心臓が、一際大きな音を立てる。
玲さんの目が、冷たく光った気がした。
「菊乃を、潰す為だよ」
わたしは、固唾を呑んでいた。
潰す――。
固唾を呑み、声すら発する事の出来ないわたしに玲さんはフッと笑い、止めを刺した。
「僕の警告を無視して弁護士を続けている君を、ね」
全身、鳥肌が立つような感覚。
立っているのがやっとだった。
玲さんの左手の人差し指がスッとわたしの顎に掛けられた。
「僕をフッたこと、後悔させてやるよ」
その言葉と同時に、玲さんの顔が近づく。
そして――。
何度も、幾度も重ねたことのある唇だった。
でも、今回ほど乱暴で、強引なキスは初めてだった。
わたしは全力で玲さんを突き飛ばした。
掴まれていた手も必死に振り払う。
ドアを開くボタンを押して外に飛び出した。
口元を手で拭いながら中を見ると、モデルのような佇まいの玲さんは余裕の表情で、スラックスのポケットに手を突っ込み、もう片方の手を振っていた。
ドアが閉まる時、玲さんの口元が動くのが見えた。
『またな、菊乃』
そう言っていたようだった。
どうしよう。
わたしは、とんでもない人間を敵にしたの?
バクバクとなる心臓は、留まるところを知らない。
わたしは事務所に戻ったわたしは一目散にトイレに駆け込んだ。
「菊乃ちゃん!?」
驚いたこのみさんの声が聞こえたけれど、今はそれに応えることも出来なかった。
ドアを閉めて鍵を掛けた。
久しぶりのキス。
あんな、あんなのってない。
愛も優しさもない。
あんなキスって。
パウダールームと一体型のお手洗い。
わたしは傍に備えられていたティッシュを数枚取り鏡に向かって唇を拭いた。
涙がボロボロとこぼれてきた顔は、鼻水まで出て来てどんどんぐちゃぐちゃになっていく。
「ひどい顔」
でも、止まらない。
涙が、どうしても止まらないの。
何が哀しいの?
キス?
それとも、玲さんへの恐怖?
仕事を失うかもしれない?
わたしは、ジャケットのポケットに入れたままにしていた携帯を出した。
誰に連絡しようとしてるの、菊乃?
誰に?
そんな自問とは裏腹に、わたしの指が押す相手はもう、決まっていた。
今まで独りでもやれるって気を張ってきたのに。
こんな、情けない女がするような事、したくないのに。
でも、今は立っているのもやっとなの。
傷つけられた誇りと、崩れ落ちた自信。
自分を失いそうで怖かった。
助けてください。
緒方君――。
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