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深智

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カルテ8 玲と菊乃~過去編~

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「ダメだったかー」

 司法試験合格を目指すわたしが勉強する傍らパラリーガルとして働かせてもらっている恵比須の法律事務所。

重厚な内装の所長室には、秋の柔らかな日差しが射し込んでいた。

還暦をとっくに超えた髪の毛の薄い全体的にまるっこい印象の所長さんが、わたしの司法試験結果を聞いて、がっくりと肩を落としていた。

ガックリしたいのはわたしです、と言うわけにはいかない。

「期待していただいたのに、もうしわけありません」

 頭を下げてそう言うだけで今は精一杯だった。

ショックが感情を上滑りさせている。

これ以上何か言ったらきっと涙声になる。

わたしは口を引き結んだ。

 翠川は受かる! と所長さん始め事務所に在籍している先生達にも太鼓判押してもらっていただけに自分もその気になってしまっていた。

だから、最後の最後で下された不合格の審判には相当なダメージを与えられた。

本当は、直ぐにでも家に帰って大声で泣きたい気持ちで一杯だった。

オジサマ所長がわたしの言葉に「いやいや」と慌てて手を振っている姿が、頭を下げながら少し上目遣いをしたわたしの視界の端っこに見えた。

「謝ることはないよ。
君は本当に頑張っていたから。
大丈夫だ。ロースクールを出て最初の試験だろ。
一発合格する奴なんて、本来ならまずいないんだ。
ともかく来年の合格を目指そう」

 わたしの肩をポンと叩いて優しく笑いかけてくれた所長さんの励ましの言葉。

絶賛落ち込み中のわたしにはまだ、素直に受け入れる器は用意できなかった。

 上手い切り返しが出来ず暗い顔のまま黙るわたしを見て所長は困ったな、と眉を下げた。

「そんな真っ暗な顔をしてると、君の綺麗な顔が台無しだぞ」
「所長、それはセクハラです」

 一瞬の沈黙を経て所長がガハハと笑い出した。

「それが言えれば大丈夫だな」

 大丈夫ではないんですけどね。

 法科大学院に入った時からずっと、遊びも、そして恋も犠牲にして突っ走ってきたのにこの結果。

こんなに勉強してもダメなんて。

落とした肩がますます下がって重力に負けて地面に埋もれてしまいそう。

「来年に向けて、今までのやり方に固執せずに少し違った角度で勉強をしてみるといい。
また別の知識が頭に入ってくるだろう」

 張りがあってよく通る響きの良い男性の声が背後から聞こえた。

驚いて振り返ったわたしの目に飛び込んできたのは、所長室のドアの前に立つ、スラリと背の高い瀟洒な男の人。

年は、30くらいかな。

濃紺に微かなピンストライブが入ったハイセンスなスーツ。

長身に足の長いスタイルで、外国ブランドと思しきそのスーツを見事に着こなしていた。

顔は、スタイルに負けない端正なお顔のようだけど、真っ先にわたしの脳裏に浮かんだ言葉は。

――誰?

見たことのない人だった。

この事務所の者ではない。

出入りしている者の中にもこんな目立つ男はいない。

 よく見ると、スーツの襟に、弁護士バッジ。

 弁護士先生……どこの? と思った時だった。

「ああ、手塚君! 入って入って」

 手塚君?

 彼は軽く会釈をして中に入って来て言った。

「すみません、ノックをしようとしたら、お話しが聞こえてしまって。
ちょっと差し出た真似を」

 所長先生は、いやいやと笑ってわたしの背中をポンッと叩いた。

「いいアドバイスを貰えた、よかったな、翠川君」

 わたしは、はあ、としか答えられず。

今この状況でいいアドバイスかどうか、なんて判断はとてもできない。

わたしはとりあえず、一刻も早くここから出て行きたかった。

「じゃあ、わたしはこれで……」

 会釈と共に退散しようとしたら、所長先生がわたしを止めた。

「ああ、翠川君、紹介するよ。
ほら、先月言っていただろう。K大在学中に司法試験に合格して弁護士になって、この若さで様々な裁判で勝ち続けているすごい男がいるって。
それがこの手塚玲君だよ。
今月からここで働いてくれる事になった」

 所長先生は、今入って来た長身の彼をそう言ってわたしに紹介したけれど、今、半分くらいしか機能していないんじゃないかな、と思われるわたしの脳の反応は鈍かった。

イマイチピンと来ていないわたしにその所長さんのいう所の〝すごい〟という若い弁護士先生はクスッと笑った。

そして、ゆっくりと口を開く。

「宮原先生、僕この子気に入りました。
この子、僕の専属にしてもらえませんか」

 宮原先生、というのは所長さんのこと。

というのはどうでもよくて、それよりも。

 え?

 所長さんも、え? という顔をしていた。

 所長室が微妙な空気に包まれる中、麗しき貴公子のような若い弁護士先生だけがにこやかにその場に立っていた。

 この人、物腰柔らかくて育ちは良さそうだけど、もしかしたらものすごく俺様な男かもしれない。

 それが、彼に抱いた最初の印象だった。




「菊乃」

 デスクで資料の分析をしていたわたしは手塚先生に呼ばれて顔を上げた。

先生は会ったその日からわたしを〝菊乃〟と呼び出した。

傍からは、特別な関係のように見えるのだろう。

事務所で同じように働く女の子達の視線が心なしか、痛い。

 今日もランチの時にものすごい質問攻めにあった。

「手塚先生と昔から知り合いなの?」
「手塚先生とどんな関係?」
「知り合ったばかりだなんて嘘!
なんでもなくて名前で呼んだりなんてしないでしょう?」

 わたしは丁寧に「なにもございません!」と答えるしかない。

ごまかしたらどんな噂になるかわかったものではないの。

だから。 

お願い先生、大きな声で呼ばないで! と心の中でいつも叫んじゃう。

でも返事はしないといけない。

「はい」と返事をすると、先生はわたしの傍に来てにっこり。

「これからクライアントのところに行く。
君も付いて来るんだ」

 拒否権のなんてないのね。

いつもこうやって有無を言わせないの。

やっぱりわたしの目に狂いはなかった。

彼は、俺様だった。

 心中でため息吐くわたしをよそに、先生はもう支度を済ませて出て行くところ。

相変わらずなんだから、とわたしは慌てて荷物をまとめて先生に付いて行った。



 この事務所に来た初日、挨拶代りのいきなりの申し出。

意外にも所長さんはすんなりと受け入れちゃって。

わたしは翌日からこの手塚玲先生のほぼ専属のアシスタントとなってしまった。

こんな先生に付いていたらすごく大変で自分の勉強なんて出来ないのかも、と案じていたらその通り、わたしは毎日先生に振り回された。

 先生はわたしをクライアントとの面談から裁判所に至るまで、とにかく色々な場面場所に連れ回して、様々な案件を見せた。

けれどその、沢山のお手伝いを通して先生はわたしに幅広く多様な事を学ばせてくれた。

先生は、最初に会った時に自身で言ったアドバイスをちゃんと実践させてくれていた事にわたしが気付くのは、ずっと後だったけれど。

大学を卒業して直ぐに法科大学院に入り、司法試験を受験して弁護士を目指す。

そんなわたしには、付き合っていた筈の遼太とのデートも我慢して、気付けば自然消滅的に別れていた。

そこに、試験の不合格。

隙間だらけになっていたわたしの心に先生はグイグイと強引に入って来ていた。



 クライアントさんのところには、たいてい先生が運転する車で参上する。

 狭い車内。

密室となったこの空間で最初の頃は、何を話したら? って緊張したけれど、いつのまにか、仕事の話からごくさりげなく自然に互いのプライベートの話をするようになっていた。

 海が好き、時々釣りに行く、わたしは映画が好き――等々。

相手と取り込む巧みな話術は、弁が立たなければ仕事にならない弁護士ならではなのだけど。

先生は、一緒にいる者を飽きさせない、退屈させないたくさんの引き出しを持っていた。

 クライアントさんとの話しを終えて事務所に帰る車の中から見た街は、いつの間にかクリスマス一色になっていた。

 わたしが窓の外の、街を彩るクリスマスイルミネーションを眺めていると。

「菊乃」

 先生の声が、いつもの仕事の声と違ってドキッとした。

「はい」

 車窓から、運転席に視線を移して、またドキンとしてしまった。

窓から射し込む街のキラキラとした灯りに、ハンドルを握り、前を向く先生の整った顔が映えていた。

思わず視線を逸らしてしまったわたしに先生は静かに聞いた。

「クリスマスの予定は?」

 え? とまた先生の顔を見てしまう。

ちょうど信号で車が停まり、先生がわたしを見た。

 切れ長のクールな目に捉えられる。

ドキドキし始める鼓動が車内に響き渡りそうで焦る。

 そんなに見つめないで。

 心の中ではそう呟きながら、震えそうな声を抑えて答えた。

「予定なんて、ないです。
今のわたしはそれどころじゃないもの」

 先生はフッと笑った。

「そんなんじゃ、ダメだろ」

 先生の、指の長いしなやかな手がわたしの方に伸びてきた。

「僕と過ごすか」

 頬にその指が触れる。ピリッとするような微弱電流。

わたしは固唾の呑み込んだ。

「それは、どういう意味?」

 こういうタイプの誘いは、初めてだ。

本心をはっきり言わないの。

これが、大人の男?

先生はわたしに何を言おうとしてるの?

わたしはどう受け止めたらいいの?

「僕のものになれ、菊乃」

 抗う隙なんてなかった。

そんなことよりも、強奪された唇は、久しぶりの感触に溺れてしまっていた。

「ん……」

長い信号。

都内の幹線道路は年末に向けてどこも渋滞気味。

停滞気味の流れに乗って、うかつにも、気持ちいい、と思ってしまった時、ハッと我に返った。

わたしは先生の胸に手を突いて、離れる。

「わたしは、そんなに軽く見える?」

 口元を手で拭いながら、涙声になりながらわたしは言った。

「先生みたいな人が、わたしなんか本気で相手にしないことくらい、分かってる。
言ったでしょう。
今わたしは自分のことで精いっぱいなの。
こんな、先生に遊ばれている暇はないの!」

 一気にまくし立てて、わたしは助手席のノブに手を掛けた。

 降りよう。

ここからなら地下鉄で帰れる。

バッグを手にドアを開けようとした時だった。

 グッと腕を掴まれて、先生の方へ身体を引き寄せられた。

「僕が遊び人って噂、聞いたことあるか?」

 静かな、低い声にビクッとなったわたしは顔を上げた。

先生の顔が視界いっぱいに入って来る。

 端正でクールな顔の中の、切れ長の目が真剣な光を帯びてわたしを見ていた。

先生が遊んでいる人、という噂?

そう言えば、聞かない。

答えられないでいるわたしに先生、フッと笑った。

「ないだろ?」

 車がのろのろ動き出し、また停まる。

その間も先生はわたしを離さない。

密室に於ける、密着は、どこか異常な精神状態を生み出しそう。

ドキドキという鼓動に呼吸を整えることが困難。

 わたしは、どうしたら。

 先生の「ないだろ?」の問いにわたしは、頷く。

先生は片手でわたしを捕まえたままハンドルを握ってクックと笑った。

「僕は、いつだって一人だけに真剣なんだよ」

 その言葉、わたしに向けられた言葉と受け取っていいの?

これは、先生の、先生流の告白?

 先生に捉えられたまま動けないわたしは、再び車が停車した時、また唇を奪われた。

 唇を重ねたまま腕を掴んでいた手が、わたしのブラウスの中に忍び込む。

久しぶりに、快楽へと誘うその手は――、

 あ、ダメ。

 わたしは先生の手を掴んで止めた。

そして、顔に手を添えてそっと顔を離した。

「わたしはそんな簡単に堕ちないわよ」

 一瞬目を丸くした先生は、直ぐにハハハと笑い出し、わたしの頬に手を添えた。

「じゃあ、ゆっくり堕とすよ」

 頬に触れる、少しばかり冷たくて、火照った体温に心地よい手を感じながらわたしは心の中で呟いていた。

 先生は、わたしに遼太を忘れさせてくれる?

 この時は、心の中に強引に割り込んで来てくれるような、〝彼〟に想いを残すこの心を砕き散らしてくれる男を、求めていたのかもしれない。


 初めてのキスを交わしても、まだ定まらなかったわたしの気持ちは一週間後、事務所の書庫で完全に捉えられた。

 大きな裁判を抱える事になって奔走していた先生から、出来るだけ多くの過去の判例を探してと頼まれて、わたしは書庫に籠った。

 書架が並ぶ倉庫で一緒に探していて、これが最後、と手を伸ばした場所が微妙に届かない場所だった。

一生懸命手を伸ばしていた時、先生がちょうど書庫にやって来た。

「なんだ、届かないならムリするな」

 そう言って、高い場所にあった資料をあっさり取ってくれた次の瞬間、わたしが伸ばしていた手をクッと掴んで、そのまま身体の向きを変えさせた。

そして、書棚にわたしの身体を押し付けた。

 あっと言う間だった。

また、強引に唇が奪われた。

長いキス。

先生のキスは少し強くて、引き込まれる。

そんなキス。

 遼太と最後に会ってから、もう1年。

遼太のこと、忘れられてはいなかった、けれど。

 唇をそっと離した玲さんの手が、わたしの頬に触れた。

強い意志を秘めた切れ長の目に、吸い込まれそうで、わたしは動けなくなった。

「菊乃、観念した?」

 ドクン、と鳴る心臓の鼓動が、耳に届く。

 育ちが良くてお坊ちゃまのくせに強引で俺様の先生に、じゃあ遼太のことを忘れさせてよ、って心の中で訴えていた。

「本当に、わたしでいいんですか?」

 この言葉には、色んな意味が、言葉に出来ない想いが込められていた。

 忘れられない男がいる、そんなわたしでもいいの? って。

言えなかったけれど。

薄暗い書庫。

先生は、強くわたしを抱きしめた。

「先生……」
「玲でいい」
「玲さん……」

鼻先を掠めたスパイシーな香り、空調の音、紙の匂い、埃の匂い、全てを五感が記憶する。

わたしの心は次の一歩を踏み出そうとしていた。

自分が目指す仕事をバリバリと熟す男の姿に特別な感情が湧かないワケはない。

その男がしっかりと自分を求めてくれる。

これできっと、遼太を忘れられるって思った。

 ううん、忘れさせて。

先生の腕がフッと弛み――もう一度、今度は優しくて甘いキスを。



 正直、一番最初に玲さんと顔を合わせた時のことをわたしはほとんど覚えていない。

当然よ。不合格のショックで世界のなにもかもグレーに見えていた。

あの時の事なんて覚えていたくないもの。

ただでさえ当時のわたしは、周囲のことなんて見えていなかったのだから。

ただひたすら事務所内で与えられた仕事、主に書類の作成や文献、資料の収集、分析、を熟してその合間に勉強。

心に一分の余裕もなかったの。

けれど、玲さんは鮮明に覚えていたようで。

初めて事務所に見たぼろぼろのわたしに対して抱いた感想と感情をベッドで抱きしめて話してくれた。

「綺麗なのに、化粧はしてない。
小綺麗にはしてるけど、お洒落はしてない。
あの時僕はひと目で菊乃に興味を持ったんだよ。
僕はあの時、菊乃に惚れたんだね」

 玲さんの感覚は、よく分からない。

でもよく考えてみれば、なんとなくは分かる。

わたしは玲さんに言った。

「自信家の玲さんは、非の打ちどころのないルックスを見ても、華々しい経歴を聞いても何の反応も示さなかった女に対して征服欲求、というものが湧いたのよ、きっと」

 すると玲さんはフワッとキスをして笑った。

「そんな男は振り向かせた途端ポイッとしたりするだろ。
でも僕は違うだろ?」
「あ、ホント」

 ベッドの中で顔を見合わせて笑って、またキスをして。

「ん……」

 愛撫を。

「わたしを、ずっと捕まえていて」

 玲さんの肌を感じて、愛撫に溺れて。

わたしはその身体にしがみついてそう呟いていた。




 二年後、わたしは司法試験に、三度目の正直で合格して。

独立して事務所を構えた玲さんに付いていった。

 その時は、まさか自分が数年後、玲さんの築いた牙城に激震を走らせるような事をやらかすなんて、思いもしなかった――。








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