はーと診療室へようこそ【完結】

深智

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カルテ9 深大寺

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 電話の向こうから聞こえるその声は、マイナスイオン。

わたしの心をふわりと包んで優しく抱いていた。

「ごめん、もっと早く電話してあげたかったんだけど。
この時間の方が、ゆっくり話せると思ったんだ」
「ううん、ごめんなさい、こちらこそ、驚かせてしまって」

 そうだね、と柔らかに笑った緒方君の声が耳をくすぐり、胸に、キュッと締まるような微かな痛みが生じた。

 緒方君……。

 会いたい、っていう気持ちが心の底から湧いてくる。

会ってどうするの? 話しがしたい? 聞いて欲しい?

 ううん。わたしは、緒方君に縋ろうとしてる。

こんな気持ちになったのは初めてだった。

 どうしても、プライドが邪魔をして、付き合っている男の人に対して甘えることが出来なかった。

だから『独りでも生きていけるよね』みたいなことを言われるの。

 遼太はそんな事は言わなかったけど、最終的に選んだ子はやっぱり、守ってあげたくなるような可愛い女の子だった。

玲さんだって、突き放すような言い方はしなかったけれど、わたしに求めたものは結局わたしの理想とはかけ離れたものだった。

 わたしは、どうしたいのだろう。

 事務所のトイレで泣きながら緒方君の電話に掛けた時、当然のことながら仕事中で留守電だった。

冷静な判断なんてできなかったあの時、わたしはぐちゃぐちゃな状態で支離滅裂な事を留守録に残した気がする。

 電話を切ってから激しく後悔したのだけど、後の祭り。

 耳に当てる携帯から、緒方君の穏やかな声が滑り込む。

「留守電を聞いたら、泣きながら何か話す翠川さんの声が入っててビックリしたよ」

 本当に、ごめんなさい、としか言いようがない。

あの時なんて言ったか今、自分でも思い出せない。

 緒方君は『夜、電話するから』とメールで返信をくれたものの、夜更けになっても電話はなかった。

ああ、これは確実に嫌われてしまったんだ。
なんであんなことをしたんだろう。

 自己嫌悪に陥り、半ば自暴自棄気味に自室でベッドに倒れ込んだ時、携帯が鳴り、それが緒方君だった。

 緒方君の名前を見た時の胸の躍動は、どういう意味なのか、自分でも分からない。

 求めたのは、救い? それだけ?

 電話の向こうで緒方君が、フッと笑う気配があった。

「どうして、笑うの……」

 わたしは今いっぱいいっぱいで、それなりに真剣なのよ?

 緒方君の、ごめんごめん、と子供をあやすような柔らかで穏やかな声。

この声を聞けば、どんなに精神状態が不安定な患者さんでも、すぅっと心の波が凪いでいきそう。

実際に、わたしの気持ちが、嘘のように凪いできている。

「明日、少し時間取れる?」

 え? と思わず聞き返した。

「どうして?」

 いや、と緒方君、少しだけ口ごもる。

 あれ、スマートな語り口の緒方君にしてはちょっと珍しい? と思っていると。

「明日、うちは休診なんだ。翠川さんに少し時間取ってもらえたらデートでも、と思って」

 すぐに返事が出来なくて、黙ってしまった。

僅かな沈黙を経て、ほんの少し慌てた緒方君の声。

「あ、ごめん、ムリにとは言わないから。
話すなら直接会った方がいいかな、って思ったんだ。
だから気にしなくていい――」

 わたし、思わず、フフッと笑ってしまった。

緒方君は、こんなに立派なお医者様になっても、緒方君のままだったのね。

 電話の向こうの緒方君も、参ったな、って笑ってる。

心の滓が、全部、全部押し流されていく。

今、わたしが必要としてるのは、こんな人なのかもしれない。



 梅雨の晴れ間、澄んだ青空が拡がる。

心地よく爽やかな日差しを受けて緒方君の車は、国道20号を軽快に走る。

「どこに連れて行ってくれるの?」
「うーん、ごめん、ノープラン」

 前を向き、ハンドルを握る、苦笑いの緒方君にわたしは「えーっ」と声を上げた。

「実を言うと僕自身、デートのプランを立てる甲斐性とか、今までの忙しさにかまけてまったく養えなかった」

 思わず目を丸くして緒方君を見てしまう。

前を見つめる緒方君の綺麗な横顔が、ちょっと困って見えた。

その顔もいいな、なんて思っていると。

「そんなヤツが誘うな、てね」

 緒方君、自嘲気味に笑って、わたしは思わず吹き出した。

「じゃあ、一緒にプラン立てましょう」
「お願いします」

 ちょっぴりおどけたような口調に、わたしはまた笑ってしまった。

 わたしと緒方君の間に流れる空気は和やかで、まるで、高校時代からずっとこうして過ごしていたような錯覚を抱いてしまう。

 これも、緒方君の為せる技? 

わたしは、いいよ、別にこのままずっと走っていてもいいよ、って心の中で言っていた。

緒方君の隣が心地いいこと、知ったからね、って。

 信号で止まった時、緒方君がわたしの方を見て聞いた。

「翠川さん、仕事は大丈夫だった?」

 わたしは肩を竦めて頷いた。

「わたしの仕事は、自分のするべき仕事をちゃんと熟していればある程度の自由はあるのよ。
だから、大丈夫」

 柔らかな瞳で微笑んだ緒方君は、そっか、と頷いて、また車を発進させた。

 わたしは再び流れだした車窓の風景を見ながら今朝の事を思い出していた。



 今朝は早くに事務所に行き、事務的な事を全て片付け、クライアントさんとの約束を確認し、急がないものは後日に回して少し急ぎものは夕方に、と方々への連絡も早々に済ませた。

大事な時間を過ごす為に。

 午前の仕事を片付けたわたしはとりあえず荷物をまとめてバッグを肩に掛けて立ち上がった。

『すみません、今日はちょっと出て来ます。
夕方には戻りますから』

 コーヒー片手にくつろぎモードだった蓉子先生が、お? という顔をした。

『菊乃、浮き浮きした顔してる』

 ニヤッと笑って。

『デートね?』

 ドキッとしたけれど、こういう時、顔に出さないポーカーフェイスには自信がある。

けれど今日は。

『ご想像にお任せします』

 だめだ、声がにやけてる。

蓉子先生が、クックと笑い、フロアモップでお掃除中のこのみさんも、フフフと笑ってる。

こういう送り出され方は、プレッシャーだわ。

『健闘を祈るわ。
そろそろ恋の一つも成就させなさい』
『余計なお世話です』



 助手席の窓から空を見上げて、蓉子先生とのやり取りまで思い出してしまった。

 どんな報告をさせられるのだろう。

 そんなことを考えてそっと苦笑いしていると。

「あ、深大寺……」

 国道脇の看板に〝深大寺そば〟の看板が見えた。

すぐに車窓から流れて見えなくなってしまったけれど、気付けば車は調布市に入っていた。

「深大寺、そういえばこの近くだね。
お昼も食べられるし、そこ行ってみようか」
「そうね」

 ノープラン、でも、車を走らせていれば、どこかに何かがあるものね。



 深大寺の境内は、観光スポットとして有名でテレビでもよく取り上げられ、平日である今日も参拝客で賑わっていた。

 駐車場に停めた車を降り、わたし達は小さな土産物屋が並ぶ参道を本堂を目指してゆっくりと歩き出した。

 八頭身近い長身の緒方君は、ちょっと目立つ。

 Tシャツにチノパン、薄手のデニムシャツを羽織る、ラフな格好なんだけど、改めて全身を見るとモデルさんのよう。

 時折すれ違う人が振り返る。

 わたしとは、頭一つくらい違うし、隣を歩く事に、今さらながらドキドキしてきた。

 落ち着け、菊乃。深呼吸。

「久しぶりに来たよ、ここ」

 人混みから頭一つ出ているような緒方君は、遠くまで見渡せそう。目を細めて少し先を見つめていた。

「本堂が見える?」

 わたしはそんな緒方君を見上げて聞いた。緒方君は、額のところに手をかざす仕草をしてみせた。

「見える見える」

 わたしはそれを見て、アハハと笑った。緒方君もハハハと笑う。

 人を避けながら歩く緒方君、さりげなくわたしの肩もそっと抱いてすれ違う人とぶつからないよういにしてくれた。

 優しさに胸がキュンと鳴る。

 肩に、手が触れる。腕が、背中に触れる。

 時折、胸元に身体が抱かれるように引き寄せられて。

 あまり、ドキドキさせないで。

 そんな事を心の中で呟いていた。

「面白そうな店が沢山あるけど、とりあえずお参りしてからにしようか」

 わたしの顔を少し覗き込むようにして言った緒方君に、わたしは切なくなるような微かな胸の痛みを覚えて、「そう、だね」と答えるだけで今はいっぱい。

 優しく、柔らかな物腰ににじみ出るのは育ちの良さ。

 玲さんもそうだった。でも、緒方君とは全然違う。

 同じお坊ちゃま育ちでも、色々な人がいるんだね。

 前を向く緒方君の横顔を見上げて、わたしは緒方君のこともっと知りたいって思った。

 その感情が何故、どこから湧いてくるのかは、まだ認めたくない部分もあって、素直にはなれなかったけれど。

 本堂で参拝する大勢の人に混じって、わたし達もお賽銭をし、手を合わせ、祈った。

 ちらりと緒方君を見ると、わたしより少し長く手を合わせていた。

 長い睫毛に胸をどきんとさせられて、わたしは慌てて目を閉じた。




「何をお願いしたの?」

 遊歩道のようになった道を歩きながらわたしは緒方君に聞いた。緒方君は、クスリと笑う。

「さあ、なんだろうね」

 はぐらかした?

 うーん、もっと知りたくなるじゃない。

 軽く睨んでみせたわたしに緒方君、クスクスと笑って言った。

「そう言えば、ここは何をお願いするか、知ってる?」

 上手く逸らされた、と思いきや。

「……縁結び」

 なんだか、ど真ん中に攻め込まれた感じがするのは、気のせい? ちょっと構えてしまう。

 そういえば、緒方君は、彼女はいるの?

 フッと浮かんだ、浮かんでしまった疑問に、胸に痛みが走った。

 なんで、こんな初歩的な疑問、今まで思いつかなかったの?

 そのことを話題にする為にそんな質問?

 不安と落ち着かなさが、じわじわと心を覆い始める。

 そんなわたしの気持ちなんて、知ってか知らずか、ゆっくりと歩く緒方君は言った。

「そうだね、恋愛に所縁のある場所と言われているよね。恋愛小説でもここを取り上げているものがいくつか」

 わたしは、ああ、と思い出す。忘れられない小説があった。

「松本清張の〝波の塔〟は衝撃的だったな」
「ああ、それなら僕も読んだ」

 悲恋の序章がここから始まる。恋人達の逢瀬の場所。信じがたい結末に、涙した。

 あの物語が今、読んだ時のように脳裏に再生されて黙り込んでしまったわたしを緒方君は何も言わずにそっとしておいてくれた。

 静かに並んで歩きながら、共有できる感覚が緒方君にはあるって、思った。

 わたしにはこの人が必要、っていう想いが何処からともなくフワッと心の中に舞い降りた。

「緒方君、あの物語の恋の終わりは、納得できた?」

 わたしは半歩くらい前を歩き、緒方君の顔を見ないで聞いた。

 緒方君は、そうだなぁ、と少し考える風にゆっくり話す。

「あれは、ヒロインが大人過ぎたのかな。凛としていて賢くて、自分の業に、恋人を巻き込みたくは無かった。ある意味、自立した女性だったんだろうね」

 ああ、そんな解釈もあるんだ。

 悲恋の物語は、結ばれることなく幕を閉じる。

 そこにどうしても納得が出来なかったけれど、今の緒方君の言葉で少しだけ、胸につかえていたものが取れたかもしれない。

 あのヒロインは、自立した女性だった。

 わたしだったら? わたしだったらどうかしら――、と考えて、ハッとする。

「緒方君!」

 足を止めてわたしは振り返った。

 大変な事を思い出してしまった。

 わたしったら、なんて小説を引き合いに出してしまったのだろう。緒方君は、緒方君は――、

 緒方君は一瞬目を丸くしたけれど、直ぐにわたしの目を見てフワリと微笑んだ。

「ありがとう、気にしてくれて。でも僕は大丈夫だよ。もう過去のことだからね」

 過去の事。

「緒方君……」
「行こうか。この先に深沙堂というお堂もあるみたいだから。お参りしよう」

 そう言って緒方君はそっとわたしの肩に手を添えて先を促すと、少し前を歩き出した。

 スリムで長身の、そこにいるだけで画になる後姿。

 わたしはそこに、ほんの僅かばかり憂いを見た気がした。

 緒方君は高校3年の冬、当時付き合っていた彼女と心中未遂騒動を起こした。

 過去の事、と今言い切った緒方君。

 そうだ、あの時の彼女は、今どうしているのだろう。

 確かあの時、緒方君同様、助かった筈。

 けれど、今の緒方君に誰かがいる気配は感じない。

 だって、もしも誰かがいれば、せっかくのお休みにわたしなんかと会わないでしょう?

 それともそんな推測は、わたしのただの思い込み?

 膨らむ不安が心を覆い尽くす前にわたしを踏みとどまる事が出来るだろうか。

 わたしは、あの小説のヒロインのように凛としていられるだろうか。

 わたしは、どんな女性でいたいのだろう。

 梅雨の晴れ間の爽やかな風に揺らめいて見える緒方君の背中を見つめて、そんなことを考えていた。



 お参りとお散歩を終えた頃、ちょうどお昼にいい時間になっていた。

 深大寺と言えばお蕎麦でしょう! と意見が一致したわたし達は、涼やかな水音を奏でる水車小屋が傍にある、料亭風数寄屋造りのお蕎麦屋さんに入った。

 奥には個室のようになった席があり、そこに通してもらった。

 深大寺の名物ともいえる手打ちのお蕎麦、それに季節の天ぷらがセットになったものを頼むと、着物姿の店員さんは「お蕎麦を茹で、天ぷらを揚げるのに少々お時間いただきますので」と断りを入れて下がって行った。

 わたし達の周りは、急に静かになった。

 開け放たれた窓から、新緑の香りを含む風が吹き込み、気持ちを落ち着かせてくれる。

 窓の外に拡がる見事な庭園を眺めていると、緒方君が静かに言った。

「少し、落ち着いた?」

 え、と顔を上げると、緒方君は窓の外を眺めていた。

 鼻筋の通った綺麗な横顔に、胸が波打つ。

 そうだった。今日こうして緒方君とデートできているのは、昨日色んなことがあったから。

 緒方君に会って、わたしの乱れていた心が不思議と落ち着きを取り戻していたから、なんとなくそのまま流れて来てしまったけれど、緒方君はずっと気に留めていてくれたんだ。

 何があったの、とは聞かないのね。

 でも緒方君からは、話したいのなら、話してごらん、という優しいオーラが感じられて、そのオーラがわたしを包む。

 話してしまおうか、でも、わたしはこのまま緒方君に甘えていいの?

 自問自答、してしまう。

「うん、もう、きっと大丈夫」

 そうよ、玲さんがあんなことを言おうと、わたしは、わたしのクライアントを守ることに集中するだけ。

「ちゃんと頑張れ――」

 玲さんは、関係ない、そう考えようとした時、蘇って来た記憶に言葉が出て来なくなった。

 わたしは込み上げてくる諸々の感情を押し込めようと、うつ向いて唇と結んだ。

「僕ね」

 不意に、緒方君が話し始めた。

 わたしが顔を上げると、いつの間にか視線を窓からこちらに移していた緒方君と目が合った。

 柔らかな笑みが、胸を打つ。わたしは緒方君の続く言葉を待った。

「今まで知っていた翠川さんは、翠川さんという女性のほんの一部分だったんだな、って思ったんだ」

 わたしは思わず、え? と聞き返した。

 緒方君の言葉はなんだか抽象的で、消化し切れなかった。

 緒方君は静かに続ける。

「僕の知っていた翠川さんは、すごく強くて弱いところなんて決して人に見せない、頑張り屋の女性。
しっかりと地に足付けて生きてますってオーラを出してた。
僕自身、翠川さんとはそれほど話したりもしなかったから、それが翠川さんの全てと思っていたんだ。
実際、遼太からもそう聞いてた。
頭が良くてかしこくてそれでいて性格もいい、あんな子はそうそうない、って。
まあ、褒めちぎってた」
「やだな、もう……」

 笑いながら話す緒方君にわたしは思わず苦笑いしてしまう。

 どう切り返していいか分からない。

 それは、いつの頃の話だろう、と複雑な気持ちになってくる。

 ここであえて遼太の名前を出した意図は何だろう、なんて考えてしまう。

 困った顔のまま黙ってしまったわたしに緒方君は「でも」と言葉を継いだ。

「翠川さんは実はとてもチャーミングで、ちょっとだけ強がりな女性だった」

 ドキン、とした。

〝可愛い女性〟とは微妙に違うニュアンスが感じられる〝チャーミングな女性〟。

 そんな事を言われたのは勿論初めてだったし、何より〝強がり〟という言葉に一杯に張っていた糸のような気持ちが、フッと弛んだ。

 どうして、そんなことまで言い当てるの。

 わたしは、独りでも頑張れるって思っていたのに。

「君は普段は誰かの為に一生懸命奔走してるんだ。だから、たまには立ち止って泣きたい時はたくさん泣いていいんだよ。思い切り泣けば、きっとまた走り出せるから、頑張れるから」

 そんなに、優しくしないで。

 緒方君の優しさは、どんな意味があるの?

 精神科医として? それとも――、

 込み上げて来そうな涙を、全身に力を入れて堪えながらわたしは掠れた声を絞り出した。

「ありがとう……ありがとう……」

 一人で突っ走って行く、そんな覚悟は出来ていた。

 仕事を犠牲にする結婚なんて、いらないって思ったの。

 玲さんに別れを告げた時、わたしは一人で出来る、って男になんて頼らない、って決めたの。

 祖母と母を見て育ったわたしには、女一人で生きていく事になんの躊躇いも無かったから。

 働きたかったから。このままずっとこの仕事を、誰かの為に、これから出会って行くであろう色んな人の為の仕事を、続けたかったから。

 でも、突っ張ったままの人間は、いつかポキッと折れて――。

 わたしの頭にフワッと柔らかな手の感触があった。

 顔を上げると、向いに座る緒方君はわたしの方へ手を伸ばして、頭を撫でてくれていた。

「仕事で、何かあった?」

 澄んだ、綺麗な瞳がわたしを見つめる。

 言葉も声も、春の木漏れ日のよう。わたしは小さく頷いた。

「わたしの前に、壁が、冷たい現実が、立ちはだかって、身動きが取れなくなりそうで、怖くなったの」

 昔の恋人が、という話しは出来なかった。今、緒方君にはこれしか言えない。

 でも緒方君は静かに、黙って聞いてくれていた。わたしの頭に手を添えたまま。

「後退するかもしれない、っていう、前に進めないかもしれないっていう恐怖は、わたしの自信を揺らがせるの。逃げるわけにはいけないのに」

 緒方君が、わたしの頭をクシャッと撫でて、フワッと笑った。そして。

「翠川さんが、理想と現実の狭間で迷子になってしまった時は、僕が必ず助けてあげるから。だから、前に進もう。翠川さんなら、大丈夫」

 緒方君の「大丈夫」は、不思議な力を持っている。

 あなたに言われると、どんな事も乗り越えられそうに思えるの。

 涙が滲みそうになりながら、わたしは微笑む。

「うん、じゃあ、約束して」
「約束?」

 小首を傾げた緒方君に、わたしは言った。

「わたしが困った時は必ず助けるって」

 自分の口から飛び出した言葉なのに、言ってしまってから、ええ!? となった。

 わたしったら、何でこんな積極的に?

 言ってしまった手前、引っ込みがつかない。

 うつ向くことも出来ず、自身の言葉をひっこめる訳にもいかずわたしは、目を丸くする緒方君としばし見つめ合ってしまった。

 ほんの少しの間を置いて、緒方君はわたしの頭をまたクシャッと撫でてアハハと笑った。

「約束する。そうだね、絶対に破らない約束。その代り」

 その代り? 黒曜石のように美しく澄んだ瞳からスッと笑いが消えて、わたしを見据えた。

 ドキンと鳴る胸を抑え、わたしは固唾を呑んだ。

「ちゃんと、僕を頼れる?」

 心臓が、跳ねていた。

 緒方君の目に見つめられて動けなくなるわたしは、小さく頷いた。すると、緒方君の手がスッと額の髪の毛をよけて。

 あ。

 わたしは思わず目を閉じていた。

 緒方君が、額にキスをしてくれた。

 しなやかな手がそっと離れて、顔の前にあった緒方君の気配が遠くなったのを感じ、わたしは目を開けた。

 向かいに座る緒方君は、何事も無かったようにそこにいる。直後に。

「お待たせしましたー」

 店員さんの元気な声がして、料理が運ばれて来た。

 正方形のせいろに盛られた美味しそうなお蕎麦と、見栄え良く盛りつけられた季節の野菜天ぷらとかき揚げ。

「ごゆっくりどうぞ」と店員さんが置いていった伝票を、緒方君はさり気なく自分の方へ寄せ、

「食べようか」

 と、ニコッと笑って言った。わたしも、うん、と頷いて笑った。

 美味しいお蕎麦と天ぷらをいただく間、色んな話しをした。

 高校を出てからの互いの知らない時間を埋める為に、過ごした時間の出来事を共有する為に過去の話もたくさんした。

 けれどまだ、わたし達には踏み込んではいけない領域のようなものがあって。

 暗黙の了解のように決して互いに触れぬ場所。

 わたしは、遼太のこと。緒方君は、あの〝彼女〟のこと。

 いつか、紛れもなく過去のこと、と言える日がくるのかな。屈託なく話せる日がくるのかな。

 フワフワとした想いを抱えながらも、緒方君と過ごす時間は楽しくて、あっという間に過ぎていった。







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