舞姫【中編】

友秋

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心の行方

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 肌に触れたい。躰が求める。

 そんな感情と違う。

 心がただ純粋に貴方を、求めるの。

 私の心が。




「みちる、君は何者なのかな?」

 クスリと笑った武明の優しい手が、みちるの頬に触れた。微かな電流が流れたような感覚に、みちるの躰は軽い痺れを覚えた。

「前にもお話ししましたよ。私は私ですよ。ただの……」

 普通の。

 そう答えようとして躊躇う自分を、みちるは自覚してしまったーー。






 美術館を巡り婦人と別れた後、炎天下上野から自宅まで歩いて帰宅したみちるは汗を流す為にすぐシャワーを浴びた。

 ショーツにキャミソール、という出で立ちで夜まで過ごしてしまう。リビングの大きな鏡に映った自分の姿にふと見てしまい、苦笑いを溢した。

 星児さんと保さんには見せられない姿です。

 彼等の帰りは今夜も遅い。

 お休み、嫌い。

 ステージ立っていないと生きられない。そう感じるようになっていた。

 ソファーに座り膝を抱え、その膝に顔を埋めたみちるはそのままうたた寝をしてしまっていた。

 目を覚ますと、外はすっかり夕闇に包まれいた。

 ブラインドカーテンを下ろそうとみちるが立ち上がった時、ポケットベルが鳴った。

 武明さん!

 みちるは慌てて電話を掛けた。

「みちる、さっきはごめん」

 声が、電話口からみちるの耳に滑り込み、心臓を跳ねさせた。

 近くまで来たから出てきて欲しい、そう言われたみちるは大慌てで下着を替え、服を身につけ、ナチュラルメイクを施し外に飛び出した。

 友人の家に身を寄せているから、と話しており、家の場所は教えていないが、最寄り駅は日暮里駅、とだけ伝えていた。

 武明も、プライベートを深く詮索するといった土足で踏み込む行為は一切しなかった。ずっとみちるの話を素直に聞くのみにとどまっていたのだ。

 対する彼自身も、滅多に自らの話はしなかったのだが。

 ただ、二人とも互いの気持ちだけで充分だったから。今までは。



 日暮里駅傍に車を停め待っていた武明は、走って来たみちるを乗せた。

 車中で唇を重ね、武明は言う。

「このまま、連れ去ってもいい?」

 ドキンと心臓が跳ねる。

「はい、連れ去って、ください――」

 みちるの脳裏に星児と保が浮かぶ。

 胸に走る鈍痛は、何を意味するのか分からない。

 でも、今私の心は。私の心が求めてるのは。

「私を、連れ去って、武明さん――!」

 


 
 遠くから絶えず聞こえる波の音が身体の芯に優しく届いていた。

「みちる……」

 好きな男の愛撫はみちるの躰を快感へ誘う。

「みちる、愛してる」

 抱きすくめられて首筋に唇を寄せられ、みちるはフルッと躰をふるわせた。

 鎌倉の山の上にある別荘は、優しい波の音に包まれていた。

 津田家が数多く所有する別荘のひとつであるここは、比較的都心に近く、武明がレポートや論文を仕上げる為に自由に使えると言っていた。

 波音を聞くみちるは武明が囁く声を聞いていた。

 君は、何者なんだろうね。

 みちるの意識が現実に引き戻される。

 私は、ストリッパーで。

 近付いても近付いても、あなたの傍に行けない気がしてならない。

 伸ばした手がそっと握られた。武明に抱かれたままみちるはその目に涙を湛えた。

「私は、武明さんにはふさわしくないかも、しれない」
「どうしてそんなこと言うの。僕は君の、ありのままの君を好きになったんだって前に話した筈だよ。君が今どんな仕事をしてるか、なんて関係ない」

 強く抱き締めて、キスをする。

「君の仕事は、綺麗だよ」
「え?」

 見つめ合う武明が柔らかに微笑んだ。

「ひたむきに〝ちゃんとした形〟で喜ばせてる。少なくともみちるの心に澱みは無い」

 武明の瞳が微かにに揺れた。

「どんなに磨いても燻んだ色が取れない仕事もあるんだよ」
「武明さん?」

 みちるは不安げに武明の顔を覗き込んだが直ぐに抱き締められて表情は確認出来なかった。

「僕はみちるは出会えてよかった」

 顔を上げるといつもの武明の優美な笑みがあった。両手でみちるの頬を優しく挟み、ゆっくりと唇を重ねた。

 舌を絡めて吸って、舐めて。長いキスを経て、ゆっくりと唇を離す。

「武明さん、なにか不安な事があるの?」
「どうして?」

 柳眉が少しだけ上がる。切れ長の美しい目がわずかに見開かれた。驚きの表情にみちるは首を竦めた。

「キスが、いつもと少しだけ違うかな、って思った」
「キスが」

 言葉を繰り返す呟きを溢した武明にみちるは頷いた。

「ある人が」

 フッと脳裏に浮かんだ大切な人の残像をみちるは〝今は〟と消した。

「キスは、気持ちを交わす事の出来るスキンシップなんだよって教えてくれたから」

 大切な人との気持ちを行き来させるスキンシップ。

 みちるは、今はあなたを見ているから、と武明を真っすぐに見つめた。

 僅かな沈黙を置いて、武明はフワッと微笑んだ。

「妬けるな」
「え?」

 小首を傾げたみちるを抱き締め、武明は続ける。

「みちるに、そんな素敵な事を教えたのは誰かな、なんて考えてしまったけど。いいや。今、みちるはその言葉を僕の為に思い出してくれたんだから」

 こんなに直に、肌と肌を密着させて、一瞬の自分の動揺は気付かれなかっただろうか。みちるは武明の肌を感じながらギュッと目を閉じた。

 ごめんね。

 だれに? みちるは武明の身体に腕を回して抱き締めた。

 私は、あなたを好きになった。

「君となら、僕はやり直せるかな」

 小さな小さな呟きだった。みちるの耳に届くか届かないかくらいの。

「みちる。僕のものになって」

 甘く柔らかな声に抱かれ、みちるは頷く。もう一度、洗い立てのシーツの中に身を埋めた。
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