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花火
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結局、麗子が休まない、とは言ったものの、香蘭劇場は舞台進行には欠かせない重要な男性スタッフが全治一週間程の怪我を負い、壊れた部分の修復などもあり、半月の休業を余儀無くされた。
しかし、あの事件の内容に関しては、佐々木の方で気を利かせて情報の流出は食い止めてくれたらしく、お客が減る、という心配は無さそうだった。
常連客は皆、劇場の再開を待っていてくれた。
「保さん、お帰りなさい!」
リビングのドアを開け入って来た保に、みちるの明るい声がキッチンから聞こえた。
一年前には当たり前だった筈の光景に保の胸が熱くなる。しかしそれは隠して、ネクタイを緩めながら保は「ただいま」とカウンターの向こうにいるみちるに微笑んだ。
ダイニングのテーブルに、ランチマットを敷き始めたみちるは保に聞く。
「今夜は、星児さん帰って来るって言ってたよ?」
Tシャツにスポーツウェアに着替えて自室から出てきた保が「ああ」と答えた。
ずっと麗子の元にいた星児。今夜は、麗子は踊り子達の地方公演に付き添う為留守という。
『ちゃんと、みちると向き合え』
保に言われ、久しぶりに家に戻る。
「夕飯の支度してたんだ?」
テーブルセッティングを続けるみちるに、保はキッチンに入っていきながら聞いた。
「うん」
食器棚からグラスを出すみちるをカウンター越しに見ながら、保は冷蔵庫からビールを取り出した。
「なんか手伝うことは?」
「んーとね、オーブンの中にローストビーフが」
「ああ、焼けてる」
保がオーブンの扉を開けるといい香りが拡がり目を細めた。
「それ、切ってください。私、ローストビーフ切るのは苦手」
みちるの言葉に、保はクスッと笑う。
「そういや、前にステーキ並に分厚いのが出てきた事があった」
「……そんなの覚えてなくていいです」
みちるが頬を膨らませて睨んでいた。保は、ごめんごめん、と顔の前で手を合わせてみせる。
「よし、任せなさい」
「料理長、お願いします」
笑いながら腕を捲る仕草をする保に、みちるが明るい笑顔で言った時、玄関のドアが開く音が聞こえた。
みちるの心臓が、勢い良く、跳ね上がる。
「え、これ私に?」
リビングのドアを開けた星児は、真っ先に何も言わずに大きな紙袋をみちるに渡した。
「開けてみろ」
キョトンとするみちるはそれを受け取ると恐る恐る中の包みを取り出した。
薄い長方形。紙袋には、呉服屋と思われる筆字のロゴ。
丁寧に包みを開けたみちるは、わぁ……と声を上げた。
「浴衣ー!」
みちるの弾けるような笑顔に星児は、まんざらでもない、というしたり顔をしてみせた。
「俺の知り合いに老舗の呉服屋の女将がいてさ」
ネクタイを緩めながらダイニングの椅子に座った星児は、ポケットからタバコを取り出し1本くわえた。
「随分前に頼んであったのを忘れていた」
色々あったから、という一言は呑み込んだ星児は、ライターで煙草に火を点け吐き出した煙に目を細めた。
保がタオルで手を拭いながらキッチンから出てきた。
「そういや、星児二ヶ月前くらいにそんな事言ってたな」
星児がタバコをくわえたままみちるに聞く。
「どうだ? みちるさん」
みちるは、うん……うれしい……と言ったきり、床に拡げた浴衣を眺めたまま固まっていた。
嬉し過ぎます。言葉になりません。
鮮やかなグリーン地に、艶やかな色彩の撫子の染めが入ったものだった。アクセントを添えるような辛子色の帯がセットになっていた。
「本当はさ、みちるにそれ着せて、花火でも観に行こうかと思ったんだ。でも、もう夏も終わっちまうな」
言いながら目を細め、星児はくゆる煙を見る。
夏が、終わる――。
沈黙に重くなりそうな空気を保が破った。
「みちる、着てみろよ。ちゃんと着付けの説明書が付いてるぜ」
保は紙袋の中に入っていた《浴衣の着付け》と書かれた冊子になっているものを出した。
うん、と明るい笑顔を見せたみちるは、少し考えて、恥ずかしそうに言う。
本当は1人で着れるけど。
「手伝ってください……」
二人の男は、一瞬目を丸くし固まり、顔を見合わせた。
「きゃぁっ」
「どさくさ紛れにどこ触ってやがんだっ、エロ星児っ!」
腰紐を持っていた保が怒鳴り、みちるが羽織った浴衣の下前を持たされていた星児はハハハッと笑った。
星児の手はしっかりとみちるの胸にあった。保が、ガンッと思い切り頭を殴る。
「い゛……っ! グーはねーだろっ!」
「うるせぇっ!」
みちるがアハハと笑った時、二人は同時に両脇から彼女を抱き締めた。
まだ、腰紐も締めていなかった浴衣がはだける。
星児のスパイシー系のフレグランスと、保のグリーン系のフレグランスが溶け合い、みちるの鼻をくすぐった。
みちるは静かに目を閉じる。それぞれが、互いに全てを知る身体。
みちるが、他の男のものとなった事が分かった日、星児と保は、彼女を抱く事をやめる決意をした。
でも、キスだけなら。
「ありがと、星児さん、保さん」
小さく囁いたみちるは、しなやかなその白い手を伸ばした。
右手は星児の頬に、左手は保の頬にそれぞれ添え、彼等に優しく、柔らかな口づけをした。
三人が抱き締め合った時、リビングの大きな窓の外、遥か向こうで花火が上がるのが見えた。
「あ、花火!」
「そういや、今日どっかの河川敷でマイナーだけどちゃんとした打ち上げ花火が上がる花火大会あるって聞いてた」
顔を上げた保が呟いた。
「見るか、ベランダ出て」
「うん」
みちるは手早くはだけた浴衣を直し、辛子色の帯を文庫結びにした。
「なんだ、着れるんじゃねーか」
口角を上げて笑う星児に肩を竦めてフフと笑った。
ベランダの窓ガラスを開けた保がみちるに手を差し伸べた。
「おいで」
優しい微笑みに、みちるの心が吸い寄せられる。
東京の街の明かりの遥か向こうで、夏の終わりを惜しむように次々と上がる花火。三人はベランダの手摺に身体を預け、並んで目を凝らした。
「双眼鏡、欲しいな」
「花火を双眼鏡で鑑賞なんて聞いた事ねーよ」
ハハハと笑い合う星児と保に、みちるも笑った。
「来年は、ちゃんと観に行こう」
「うん」
「ああ、そうだな……」
来年の夏が、ちゃんと来れば、観に行こう――。
始まりも 終わりを告げるも 夏花火。
終わりを告げるも、ーー。
しかし、あの事件の内容に関しては、佐々木の方で気を利かせて情報の流出は食い止めてくれたらしく、お客が減る、という心配は無さそうだった。
常連客は皆、劇場の再開を待っていてくれた。
「保さん、お帰りなさい!」
リビングのドアを開け入って来た保に、みちるの明るい声がキッチンから聞こえた。
一年前には当たり前だった筈の光景に保の胸が熱くなる。しかしそれは隠して、ネクタイを緩めながら保は「ただいま」とカウンターの向こうにいるみちるに微笑んだ。
ダイニングのテーブルに、ランチマットを敷き始めたみちるは保に聞く。
「今夜は、星児さん帰って来るって言ってたよ?」
Tシャツにスポーツウェアに着替えて自室から出てきた保が「ああ」と答えた。
ずっと麗子の元にいた星児。今夜は、麗子は踊り子達の地方公演に付き添う為留守という。
『ちゃんと、みちると向き合え』
保に言われ、久しぶりに家に戻る。
「夕飯の支度してたんだ?」
テーブルセッティングを続けるみちるに、保はキッチンに入っていきながら聞いた。
「うん」
食器棚からグラスを出すみちるをカウンター越しに見ながら、保は冷蔵庫からビールを取り出した。
「なんか手伝うことは?」
「んーとね、オーブンの中にローストビーフが」
「ああ、焼けてる」
保がオーブンの扉を開けるといい香りが拡がり目を細めた。
「それ、切ってください。私、ローストビーフ切るのは苦手」
みちるの言葉に、保はクスッと笑う。
「そういや、前にステーキ並に分厚いのが出てきた事があった」
「……そんなの覚えてなくていいです」
みちるが頬を膨らませて睨んでいた。保は、ごめんごめん、と顔の前で手を合わせてみせる。
「よし、任せなさい」
「料理長、お願いします」
笑いながら腕を捲る仕草をする保に、みちるが明るい笑顔で言った時、玄関のドアが開く音が聞こえた。
みちるの心臓が、勢い良く、跳ね上がる。
「え、これ私に?」
リビングのドアを開けた星児は、真っ先に何も言わずに大きな紙袋をみちるに渡した。
「開けてみろ」
キョトンとするみちるはそれを受け取ると恐る恐る中の包みを取り出した。
薄い長方形。紙袋には、呉服屋と思われる筆字のロゴ。
丁寧に包みを開けたみちるは、わぁ……と声を上げた。
「浴衣ー!」
みちるの弾けるような笑顔に星児は、まんざらでもない、というしたり顔をしてみせた。
「俺の知り合いに老舗の呉服屋の女将がいてさ」
ネクタイを緩めながらダイニングの椅子に座った星児は、ポケットからタバコを取り出し1本くわえた。
「随分前に頼んであったのを忘れていた」
色々あったから、という一言は呑み込んだ星児は、ライターで煙草に火を点け吐き出した煙に目を細めた。
保がタオルで手を拭いながらキッチンから出てきた。
「そういや、星児二ヶ月前くらいにそんな事言ってたな」
星児がタバコをくわえたままみちるに聞く。
「どうだ? みちるさん」
みちるは、うん……うれしい……と言ったきり、床に拡げた浴衣を眺めたまま固まっていた。
嬉し過ぎます。言葉になりません。
鮮やかなグリーン地に、艶やかな色彩の撫子の染めが入ったものだった。アクセントを添えるような辛子色の帯がセットになっていた。
「本当はさ、みちるにそれ着せて、花火でも観に行こうかと思ったんだ。でも、もう夏も終わっちまうな」
言いながら目を細め、星児はくゆる煙を見る。
夏が、終わる――。
沈黙に重くなりそうな空気を保が破った。
「みちる、着てみろよ。ちゃんと着付けの説明書が付いてるぜ」
保は紙袋の中に入っていた《浴衣の着付け》と書かれた冊子になっているものを出した。
うん、と明るい笑顔を見せたみちるは、少し考えて、恥ずかしそうに言う。
本当は1人で着れるけど。
「手伝ってください……」
二人の男は、一瞬目を丸くし固まり、顔を見合わせた。
「きゃぁっ」
「どさくさ紛れにどこ触ってやがんだっ、エロ星児っ!」
腰紐を持っていた保が怒鳴り、みちるが羽織った浴衣の下前を持たされていた星児はハハハッと笑った。
星児の手はしっかりとみちるの胸にあった。保が、ガンッと思い切り頭を殴る。
「い゛……っ! グーはねーだろっ!」
「うるせぇっ!」
みちるがアハハと笑った時、二人は同時に両脇から彼女を抱き締めた。
まだ、腰紐も締めていなかった浴衣がはだける。
星児のスパイシー系のフレグランスと、保のグリーン系のフレグランスが溶け合い、みちるの鼻をくすぐった。
みちるは静かに目を閉じる。それぞれが、互いに全てを知る身体。
みちるが、他の男のものとなった事が分かった日、星児と保は、彼女を抱く事をやめる決意をした。
でも、キスだけなら。
「ありがと、星児さん、保さん」
小さく囁いたみちるは、しなやかなその白い手を伸ばした。
右手は星児の頬に、左手は保の頬にそれぞれ添え、彼等に優しく、柔らかな口づけをした。
三人が抱き締め合った時、リビングの大きな窓の外、遥か向こうで花火が上がるのが見えた。
「あ、花火!」
「そういや、今日どっかの河川敷でマイナーだけどちゃんとした打ち上げ花火が上がる花火大会あるって聞いてた」
顔を上げた保が呟いた。
「見るか、ベランダ出て」
「うん」
みちるは手早くはだけた浴衣を直し、辛子色の帯を文庫結びにした。
「なんだ、着れるんじゃねーか」
口角を上げて笑う星児に肩を竦めてフフと笑った。
ベランダの窓ガラスを開けた保がみちるに手を差し伸べた。
「おいで」
優しい微笑みに、みちるの心が吸い寄せられる。
東京の街の明かりの遥か向こうで、夏の終わりを惜しむように次々と上がる花火。三人はベランダの手摺に身体を預け、並んで目を凝らした。
「双眼鏡、欲しいな」
「花火を双眼鏡で鑑賞なんて聞いた事ねーよ」
ハハハと笑い合う星児と保に、みちるも笑った。
「来年は、ちゃんと観に行こう」
「うん」
「ああ、そうだな……」
来年の夏が、ちゃんと来れば、観に行こう――。
始まりも 終わりを告げるも 夏花火。
終わりを告げるも、ーー。
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