舞姫【中編】

友秋

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発覚1

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 それは、信じていたものが崩壊する瞬間。

 
 9月に入っても厳しい残暑が続いていたが、月末になって朝晩に吹く風が気温を下げるようになっていた。

 早朝出勤した保は、事務所の自室で経済新聞を拡げた。ぺラリと捲った経済面のページの隅に掲載されていた記事を見てほくそ笑む。


《T&Gカンパニー。イチカ安全保障を買収。経営統合へ》

 ほんの小さな記事だ。

 それでいい。注目などされなくていいんだ。あの男さえ、歯噛みさせられればそれで!
 
 星児と保が興した、T&Gカンパニーは世間一般で言う、田崎の会社と同じ〝得体の知れない会社〟だ。巷では〝吸収合併を繰り返すハイエナ会社〟と酷評されている事は、星児も保も百も承知。

 言いたいヤツには言わせておけばいい。

 しかし、今回の買収は些か状況が違った。

 イチカ安全保障株式会社は、時価総額も年商も、中堅以下だが保が目を付けた背景には彼の策略があった。

 この会社は、現在若社長が切り盛りする中小警備会社だが、創業者一族は時の総理大臣を輩出した政界随一の名家の分家。要人警護へ繋がる政界へのパイプは幾らでも持っている。

 そこに最初に目を付けたのは、TUD総合警備の津田武だった。彼は後々自分の足元を脅かすであろうこの会社の乗っ取りを企てていたのだ。

 
 津田武が、吸収合併、業務提携、という名目でこの若い会社を取り込み、そこから甘い汁だけ吸い上げて骨抜きにしようとしている事など、一目瞭然だった。

 新聞を拡げたまま、保はフッと笑った。

 そうは問屋が卸すかよ。

 イチカ安全保障と水面下で徐々に交渉を進めた保が掲げた理念と、TUDにだけは呑み込まれたくはなかった社長との、利害が一致した。

 公開買い付けに入る直前、保が睨んでいた通り海外での大規模倒産劇があった。

 煽りを受けた株価全面安に、当初の予算より大幅に下回る額で40%の株の買い占めに成功。最後の一押しは星児に託したところ、取締役会は星児の独壇場となった。

 どんな場面に於いても決して物怖じしない度胸と、ナンバーワンホストの座を長年守り通す事が出来た持ち前の、人を心を掌握する見事な話術。圧巻の買収劇となった。

 保は新聞を眺め想う。

 そうだ、自分達は、こうして伸し上がってきたのだから。

 新聞を閉じた保はデスクの上のコーヒーカップを手に取った。

 でも今回の買収はホワイトナイトだ。未来のある企業を、あんな男の好きにはさせない。

 郡司武、俺達は徹底的にお前の邪魔をしてやるよ!

 泣き寝入りなどするものか!



 保がカップを置き、パソコンに向かおうとした時だった。ドアがノックされ、外から声がかかる。

「兵藤さん、警察が……」

 警察?

「今行く。応接室に通しておいてくれ」

 言いながら、保は立ち上がった。





「なんだ、お前かよ。ビビらせんなよ」

 保が応接室に入ると、革張りのソファーでくつろぐように深々座り、コーヒーカップを手に啜り飲む佐々木の姿。

「……小指立ってるぞ」

 ヤクザがままごとのカップで茶ー飲んでるみてーだよ。

 必死に笑いをこらえて口元を押さえ、保は佐々木の向かい合い座る。

「何だ、はねーよな。一応、仕事と銘打って来ねーとヤベぇだろうが。ほらよ、サインが欲しい書類だ。物損やら障害やら」

 佐々木は言いながら、テーブルの上に数枚の紙を出した。器物破損や障害の立件に関する書類だった。

 テーブルの上に差してあるボールペンを手に取り、保は1枚ずつ軽く斜め読みする。

「被害者側からは初めてだ」
「何だ、反対はあるのかよ」

 シシシと笑う佐々木に、保は顔を上げずに答えた。

「当事者はねーよ。うちの血気盛んな若いのがたまに暴れてやらかしてくれるんだよ」

 ほぉ……と佐々木が身を乗り出し言う。

「俺のとこには来てねーよ」

 全ての書類にサインを終えた保がそれを揃えながら答えた。

「うちは暴力団じゃねーもん。世話になるのは生安か、せいぜい一課だ」

 生安、と言ったところで保の脳裏に一人の人物が浮かんだ。

「佐々木」

 渡された書類をファイルにしまう佐々木は、保に改めて呼ばれ顔を上げた。

「なんだ?」
「あのさ、今年の三月くらいに亡くなった警官、分かるかな」
「三月くらい?」

 佐々木は首を傾げ難しい顔をした。

「谷中の方の署にいたんだけどさ。職務中に亡くなった訳じゃないから分からないか」
「ああ、悪ぃな。その警官がどうかしたのか?」

 その問いに、保は詰まる。

 彼との関係は、話し出したら長くなる。

「いや、ちょっと世話になった人でさ、急に亡くなったから話題になってたかな、と思ってさ」

 そうか、と手を口に当てた佐々木が何かを思い出したらしく、保を見た。

「それとは関係ねーと思うんだけどよ。この間言ってた話よ」

 保は、あ! と身を乗り出す。

「これは捜査上の重要機密だからな」

 佐々木は、絶対に他言はするな、と保に念を押した。保はゴクリと固唾を呑んで、頷く。

「結構デカイ話になりそうだぜ」
「え……?」

 佐々木の話は、意外な言葉で始まった。

「公安と監察が水面下で動いてたんだよ」

 保が眉尻を上げ、怪訝な顔をした。

「意味が、分かんねーんだけど?」

 煙草を取り出した佐々木は、いいか? とジェスチャーで聞き、保は黙って灰皿を差し出した。

「俺達の捜査情報を公安が寄越せと言って来たんだよ」

 佐々木はライターで煙草に火を点け、続ける。

「田崎のバックにいる会社ってぇのがヤバいんだ。うちの有力天下り先だったんだよ。不明瞭なのは金の流れおろか、人の流れもみてーだ」

 有力天下り先。まさか、と保は思う。

「田崎が太いパイプを持つ会社ってぇのは、TUD総合警備だ」

 佐々木の言葉を聞いた瞬間、落雷が自分に直撃したのではないか、と思う程の衝撃を保は受けた。

 言葉を失う。

 周りの風景が、色を失ったように真っ白になったような錯覚を覚えていた。

 目を見開いたまま黙っている保に気を止める事なく、煙草をくわえたまま佐々木は続ける。

「公安に、十二、三年前の何かの事件に関するたれ込みがあったらしい。それが信用出来るものだったんだな。だから動き出したみてーだぜ」

 保は、自分の脈拍が急激に上がったのを感じた。

 十二、三年前の事件? まさか。

「何かな、その事件の前後に怪しい人事にもイロイロ、みてーだ。でもこれに関してはこれ以上は知らねぇ。公安とか監察の仕事は流れてこねーからさ」

 そうか、と保もポケットから出した煙草をくわえた。ライターで火を点けながら今聞いた情報を整理する。

 田崎とTUD総警に繋がりがあった。つまり、郡司武と田崎が繋がっている。それは、何時からだ?

 煙草を持つ手が震えそうだった。その時、ノックも無しに応接室のドアが開いた。

「何か面白そうな話、してんじゃねーか」

 口角を上げ、ニヤリと笑う星児が入って来た。

 よぉ剣崎、と佐々木はくわえ煙草のまま快活に手を挙げてみせた。星児も軽く手を挙げ応え、一人がけのソファーに腰を下ろす。直ぐに、若い男が星児のコーヒーを持って来てテーブルに置き退室した。

「今少しだけソコで立ち聞きしちまったけど」

 カップを手にした星児が、クッと笑う。

「廊下にダダ漏れだ。誰もいなかったからいいけどよ」

 佐々木は苦笑いし頭を掻いていたが、保は先ほどから、まるで魂が抜けたように煙草を指に挟み固まったままだった。

 星児はそれを見て小さく肩を竦めたが、佐々木の方を向くと険しい表情で話しかける。

「俺はもう一つ知りてぇ事がある」
「ああ……この間の騒動の首謀者か?」

 そうだ、と星児は答えカップをテーブルに置いた。

「翔仁会のトップは誰だ?」

 低く不気味な程低い声だった。冷え冷えとした空気が張り詰めた空間に流れる。佐々木の鋭い目が星児を捉えた。

「分かってんだろ、お前」

 それだけ言い、星児は視線を外して煙草の煙を吐き出した。

 対流する空気のゾクッとするような冷たさに、保は我に反り二人を見た。

 煙草を灰皿に押し付けて消した佐々木は静かに話し始めた。

「翔仁会ってのは、ベールに包まれたみてーな組織でな、その実態は俺達ですらよく掴めてねーんだ。ナンバーツー、ナンバースリーはスポークスマンなんだか、顔は売れてる。他の幹部も、系列組長も同様にほぼ俺達がマークしてるんだが、トップだけは名前も姿も、誰も知らねぇ」

 そこまで話して、佐々木は自分を見つめている星児の強い瞳に頭を掻いた。

「……というのは表向きだ。重要機密なんだよ、これは。翔仁会は、トップを表に出せない理由があるんだよ」

 トップを表に出せない理由。それは、ある会社のトップだから。

 田崎エンタープライズ。そのトップが、翔仁会のトップなのだ。つまり、田崎エンタープライズは世を忍ぶ仮の姿。実態は、指定会系暴力団・翔仁会なのだ。

 佐々木の話を、保は半分くらいが灰になった煙草を指に挟んだまま黙って聞いていた。
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