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山の息吹を2
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わたしは、ケンさんのこと、何も知らない。その事実がますますわたしの胸を締めつける。
「事情って、どんな?」
「たいしたことじゃないから、心配しないで」
わたし、あきらかに不安な感情が顔に出ていたみたいで、肩を竦めてみせたおケイちゃんは急に言葉を濁してごまかした。
おケイちゃんの様子に、わたしはますます不安になった。なんでも物事はっきりと言うおケイちゃんらしくなかったから。
何かを探ろうと、じっと見つめたけれど。
「それよりも、ケンさんにはお金のかかるライフワークがあるの」
また巧みに話題を逸らされた。とは言え、わたしも、お新しいおもちゃを与えられた子供みたいにすぐに乗っかっちゃうんだけどね。
「らいふわーく?」
ケンさんという人の人ととなりを知るには、一筋縄ではいかないみたい。なんだか、パズルのピースを一つずつ、集めていくみたいって思った。
*
夕ご飯後、夜のくつろぎのひと時、パパはいつもリビングでの安楽椅子に座って過ごす。今夜も甘えるリッキーの頭を撫でながらパパは映画を観ていた。
わたしはパパの傍にあるソファに座ってそっと話し掛けた。
「ねぇパパ」
「どうした、ひまり」
お気に入りのパイプの煙をくゆらせて、パパはわたしの方を見た。バーバリのシャツにカーデガンを羽織るのは、パパの、お家でゆっくりする時のスタイル。
とても似合ってますよ、と心の中で呟きながらわたしはおずおずと話しを切り出した。
「あのね、今年の夏のヴァカンスは、長野がいいなぁ」
不自然にならないように、持っていきたい話題があった。パパは「長野?」と目をぱちくりする。
「どうした、急に」
えっと。頭の中を、昼間おケイちゃんから聞いたお話しがぐるぐると巡っていた。
ケンさんは、登山がライフワークになっているくらい山が好きな人でした。高校時代に国体の登山部門に出場したくらいの凄い人だという。
「来週は学校休んで所属している山岳会のメンバーと北アルプス、って言ってたから、しばらくは学校には来ないけど――」
ケンさん、来週は学校で見かけることも出来ないんだって考えると少し寂しくなったけれど、わたしはすぐに思い立った。
ケンさんが年間を通してよく登るという山は、日本の屋根、日本アルプスだそう。わたしもその傍に行って――登ることは無理だけど――高くそびえる峰々を、雄大な尾根を、見てみたい。
ケンさんが、どんなお山を登るのか、近くで見てみたい。山の息吹を少しでも感じてみたい。だから、今年の夏休みはしばらく行ってなかった長野で過ごしたいと思った。
そこで、パパにそれとなくお願いしてみよう、って思ったんだけど。
「どうして長野なんだ?」
どき。えっと、なんて言おう。
お友達が、近くのお山に登ってるから? なんて言ったらそれこそ意味不明!
わたしは懸命にこじつける理由を探して、閃いた。
「な、なんかね! 和夫兄さまのやってるペンションの近くに美味しいベーカリーができたんですって! そこのデニッシュがとても美味しいから、って、お、おケイちゃんから聞いて! そういえば、しばらく言ってない白馬もいいな、って思ったから!」
和夫兄さま、というのはパパ方の従兄。白馬村でペンションをやってます。美味しいベーカリーの噂は、ホント。でも、おケイちゃん、というのは嘘。女学園の時のお友達の誰かが言ってた。
女学園の誰か、ではパパは動いてくれない。だから、おケイちゃんの名前を借りました。後で口裏合わせてもらわなきゃ。
パパに嘘をついてしまったことに、わたしの胸がドキドキドキドキ。でも、後には引けない。わたしは、訴える目でパパをジッと見つめた。
パパはしばらくわたしの顔を覗き込むように見ていたけど、
「よし、わかった」
リッキーの頭を撫でていた手をわたしの頭に移した。
「ひまりの頼みとあれば、仕方ない。今年の夏はスイスの方にでも、と思っていたんだが。いいだろう、日本のアルプスを見るのも。和夫のペンションもしばらく行ってないしな」
わたしは、思わずパパに抱きついた。
「パパ! ありがとう!」
「ひ、ひまり、こらっ、パイプが……」
パパが慌てていたけど、わたしの耳にはパパの言葉は入ってこなかった。ただ、ケンさんの登ったお山を少しでも近くで見られる、それだけで頭がいっぱいだった。
お休み前、自室で、パパの書斎から持ってきた日本アルプスの写真集を開いた。
〝雄大な日本アルプス――〟
そんなタイトルの大きくて分厚い写真集。拡げて、思わず感嘆の吐息を漏らした。四季折々でその姿を変える日本アルプス。
一言で日本アルプスと言っても北と南に分かれており、それぞれ数多くの山が連なる連山、連峰。季節で姿を変える、勇壮な山の峰。
濃い緑の山肌が拡がる季節もあれば、雪に覆われた尾根も映る。緑と雪のコントラストが自然の美を見せてくれている写真もあった。自然が、美を見せながらも、人が踏み入れる事を拒むような吹雪く景色も見られた。
ケンさんは、どの峰に登ったの? 移り変わる季節を見たの? どんな風に、どんな景色をその目に映すの?
ほんの少ししか、言葉を交わしたことがないのに、知りたくてたまらないのはどうしてだろう。
こんなお山の写真を見るだけで、どうしてこんなにドキドキするんだろう。
胸が苦しいのは、どうして?
こんな事は、初めてです。
パパに、小さな嘘をついた。こんなことも初めてだった。
パパ、ごめんね。もうこんな嘘、つかないからね。そっと、心の中でパパにそう誓ったのだけど――。
「事情って、どんな?」
「たいしたことじゃないから、心配しないで」
わたし、あきらかに不安な感情が顔に出ていたみたいで、肩を竦めてみせたおケイちゃんは急に言葉を濁してごまかした。
おケイちゃんの様子に、わたしはますます不安になった。なんでも物事はっきりと言うおケイちゃんらしくなかったから。
何かを探ろうと、じっと見つめたけれど。
「それよりも、ケンさんにはお金のかかるライフワークがあるの」
また巧みに話題を逸らされた。とは言え、わたしも、お新しいおもちゃを与えられた子供みたいにすぐに乗っかっちゃうんだけどね。
「らいふわーく?」
ケンさんという人の人ととなりを知るには、一筋縄ではいかないみたい。なんだか、パズルのピースを一つずつ、集めていくみたいって思った。
*
夕ご飯後、夜のくつろぎのひと時、パパはいつもリビングでの安楽椅子に座って過ごす。今夜も甘えるリッキーの頭を撫でながらパパは映画を観ていた。
わたしはパパの傍にあるソファに座ってそっと話し掛けた。
「ねぇパパ」
「どうした、ひまり」
お気に入りのパイプの煙をくゆらせて、パパはわたしの方を見た。バーバリのシャツにカーデガンを羽織るのは、パパの、お家でゆっくりする時のスタイル。
とても似合ってますよ、と心の中で呟きながらわたしはおずおずと話しを切り出した。
「あのね、今年の夏のヴァカンスは、長野がいいなぁ」
不自然にならないように、持っていきたい話題があった。パパは「長野?」と目をぱちくりする。
「どうした、急に」
えっと。頭の中を、昼間おケイちゃんから聞いたお話しがぐるぐると巡っていた。
ケンさんは、登山がライフワークになっているくらい山が好きな人でした。高校時代に国体の登山部門に出場したくらいの凄い人だという。
「来週は学校休んで所属している山岳会のメンバーと北アルプス、って言ってたから、しばらくは学校には来ないけど――」
ケンさん、来週は学校で見かけることも出来ないんだって考えると少し寂しくなったけれど、わたしはすぐに思い立った。
ケンさんが年間を通してよく登るという山は、日本の屋根、日本アルプスだそう。わたしもその傍に行って――登ることは無理だけど――高くそびえる峰々を、雄大な尾根を、見てみたい。
ケンさんが、どんなお山を登るのか、近くで見てみたい。山の息吹を少しでも感じてみたい。だから、今年の夏休みはしばらく行ってなかった長野で過ごしたいと思った。
そこで、パパにそれとなくお願いしてみよう、って思ったんだけど。
「どうして長野なんだ?」
どき。えっと、なんて言おう。
お友達が、近くのお山に登ってるから? なんて言ったらそれこそ意味不明!
わたしは懸命にこじつける理由を探して、閃いた。
「な、なんかね! 和夫兄さまのやってるペンションの近くに美味しいベーカリーができたんですって! そこのデニッシュがとても美味しいから、って、お、おケイちゃんから聞いて! そういえば、しばらく言ってない白馬もいいな、って思ったから!」
和夫兄さま、というのはパパ方の従兄。白馬村でペンションをやってます。美味しいベーカリーの噂は、ホント。でも、おケイちゃん、というのは嘘。女学園の時のお友達の誰かが言ってた。
女学園の誰か、ではパパは動いてくれない。だから、おケイちゃんの名前を借りました。後で口裏合わせてもらわなきゃ。
パパに嘘をついてしまったことに、わたしの胸がドキドキドキドキ。でも、後には引けない。わたしは、訴える目でパパをジッと見つめた。
パパはしばらくわたしの顔を覗き込むように見ていたけど、
「よし、わかった」
リッキーの頭を撫でていた手をわたしの頭に移した。
「ひまりの頼みとあれば、仕方ない。今年の夏はスイスの方にでも、と思っていたんだが。いいだろう、日本のアルプスを見るのも。和夫のペンションもしばらく行ってないしな」
わたしは、思わずパパに抱きついた。
「パパ! ありがとう!」
「ひ、ひまり、こらっ、パイプが……」
パパが慌てていたけど、わたしの耳にはパパの言葉は入ってこなかった。ただ、ケンさんの登ったお山を少しでも近くで見られる、それだけで頭がいっぱいだった。
お休み前、自室で、パパの書斎から持ってきた日本アルプスの写真集を開いた。
〝雄大な日本アルプス――〟
そんなタイトルの大きくて分厚い写真集。拡げて、思わず感嘆の吐息を漏らした。四季折々でその姿を変える日本アルプス。
一言で日本アルプスと言っても北と南に分かれており、それぞれ数多くの山が連なる連山、連峰。季節で姿を変える、勇壮な山の峰。
濃い緑の山肌が拡がる季節もあれば、雪に覆われた尾根も映る。緑と雪のコントラストが自然の美を見せてくれている写真もあった。自然が、美を見せながらも、人が踏み入れる事を拒むような吹雪く景色も見られた。
ケンさんは、どの峰に登ったの? 移り変わる季節を見たの? どんな風に、どんな景色をその目に映すの?
ほんの少ししか、言葉を交わしたことがないのに、知りたくてたまらないのはどうしてだろう。
こんなお山の写真を見るだけで、どうしてこんなにドキドキするんだろう。
胸が苦しいのは、どうして?
こんな事は、初めてです。
パパに、小さな嘘をついた。こんなことも初めてだった。
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