この夏をキミと【完結】

深智

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 季節は梅雨を迎えていた。早朝の空は重い灰色に染まり、庭の紫陽花たちが雨を待つように咲き誇っていた。

「降る……かな」

 空を見上げた篤は、学校名の入ったエナメルのスポーツバックとイニシャルが刺繍された黒いバットケースを肩に掛けるとマウンテンバイクにまたがった。こぎだそうと足をペダルに掛けたとき、広い屋敷にある母屋の玄関から母の奈緒が出てきて声をかけた。

「篤! 忘れ物よ!」

 母はグリーンのハンカチで丁寧に包まれたお弁当を掲げていた。

「ああ、わりぃ」
「まったく。金がないから弁当よろしく、なんて言っていたのは誰よ。それにあなた、野球なんてほどほどにして進路を真剣に考えてくれないと……」
「電車に遅れるからもう行くよ!」

 篤は奈緒の説教を振り切りペダルを踏みだすと、あっという間に屋敷の外に飛び出して行った。

 道路に出ると、朝早くから庭の松の手入れをする祖父の大介が見えた。

「じいさん、行ってくるよ!」
「おう」

 脚立にまたがった大介は剪定鋏を持った手を挙げ、答えた。



 茶畑を縫うように走る県道を篤は駅へ向かい自転車をこぐ。都心部への通勤圏として発展してきたこの街は茶所としても有名で、茶畑とニュータウンが同居する風景が至るところに見られた。篤の家はお茶農家である旧家の分家だった。

 風を切って自転車を走らせながら篤は母の言葉を思い出していた。

 野球はほどほどに? 冗談じゃない!

 篤には医大に通う兄と、都内の名門私立高校に通う年子の弟がいた。成績、進路の心配ばかりの母は、三人兄弟の二男坊である篤の事は以前から落ちこぼれ扱いだった。子供の頃から篤が情熱を掛けるものにまったく理解など示さなかった。

 俺から野球をとったら何が残るっていうんだよ! グッとペダルを漕ぐ足に一層の力を込めて加速した篤の自転車は風に乗り、駅へと向かって走って行った。



 朝練が終わる頃にポツポツと降りだした雨は始業前には本降りになった。

「あーあ、放課後までにはやまないな、これは……」

 篤と一緒に朝練に参加していた市原貴史が玄関前で、断続的に雨粒を落とす空を見上げため息まじりに呟いた。篤が半ば呆れ気味に言葉を投げる。

「お前、仮にもエースだろ、いい加減雨の中の練習に慣れろや」

 貴史はハハハッと笑った。

「僕は小さい頃からナイーブだからさ、誰かさんと違って」

 大きな二重瞼の目を細めてにっこり笑う長身の貴史を軽く見上げた篤は、その笑顔で何人の女が、と心の中で吐き捨てた。

「悪かったな、俺は図ぶてーよ。つーか、お前はそんなんだから一本の長打から連打浴びてビッグイニング作っちまうんだろーが。初回に打者一巡とかありえねーし」

 先週の練習試合を引き合いに出した篤に貴史は笑った。

「篤のサインミスもあったような気がするのは気のせいかな」
「ああ、気のせいだなそれは。逆球ばっか放ったヤツにサインミスとか言われる筋合いはねえ」

 篤と貴史は小学校の時からのバッテリーを組んでいる幼馴染だった。気の置けない相棒同士は互いに、言葉に遠慮はない。靴を履き替えながら二人は軽口をたたき合った。

「ずいぶん楽しそうですけど」

 靴箱にしまう為に革靴を取ろうと屈んだ篤の目に、細く引き締まった紺色のハイソックスの足が映った。

 その声は篤にとって余りにも聞き慣れた、高く澄んだ声だった。篤には、顔を見なくとも声の調子で機嫌までわかってしまう。

「あー……俺、今日は何か約束忘れてたかな」

 顔を上げると、仁王立ちした木原夏菜子がそこにいた。

 スラリとした長身に色素の薄いショートカットの髪がよくマッチする小麦色の肌。聡明な印象を与える整った顔立ちの中、意思の強そうな光を湛える瞳が篤をにらんでいた。手には日直日誌のファイルを持っていた。

「篤。昨日の放課後、明日は日直だからねって私言ったの、覚えてる?」
「忘れてた」

 それだけ言うと篤は夏菜子から日誌ファイルを受け取った。

「野球バカ」
「ああ、俺には最高の褒め言葉だな、それは」

 夏菜子は頬を膨らませてみせた。

「約束は忘れないで欲しい」

 ハハハ笑った篤はファイルでポンと夏菜子の頭を叩いた。

「かな、ソフトやめたんだって?」

 靴箱の扉を閉めながら貴史が夏菜子の方へ顔を向けて聞いた。

「そうなの。この間の大会で古傷やっちゃて」

 ピンク色のサポーターをした右手首を挙げてみせ、肩をすくめる。夏菜子はソフトボール部の不動のショートだったがケガの為レギュラーを外されたらしかった。

 三人はゆっくりと廊下を歩きだしていた。

「なにも辞めることはなかったんじゃないのかな」

 夏菜子の隣を歩く貴史が遠慮がちに、探るように優しく尋ねた。

「今からじゃもう間に合わないもの。それに……私が抜ければ後輩たちにたくさんのチャンスまわるでしょ」

 澄んだ声が少しくぐもった響きになった。

「そんなもんかな……」

 貴史は歩きながら彼女の顔を覗き込んだ。

「誰かに何か言われたのか」

 並んで歩く貴史と夏菜子の前を黙って歩いていた篤が振り向くことなく聞いた。夏菜子はハッとしたように顔をあげ、篤の広い背中を見た。

 始業前の校舎内の喧騒の中、三人の間にだけは静かな空気が流れている。

「何も……」

 夏菜子はフッと柔らかな笑顔を見せた。

「何も言われたりしてないわ。みんなより一足先に引退したんだって思うことにしたのよ。……ありがとう、篤」

 最後の一言は、ほんの少しの照れ臭さが混じり小声になった。貴史はそんな夏菜子を見て優しく微笑む。

 小学校の時からずっと一緒に、二度と戻らぬ貴重な時を過ごしてきた三人が、今岐路を迎えようとしていた。


 階段まで来たとき貴史が、職員室に寄るから、と言い、別れた。夏菜子は数段先を登る篤の後からついて行く。踊り場から篤を見上げた夏菜子は一旦歩を止め、窓の外に視線を移した。

 雨に濡れる中庭の木々の緑が色濃く見える。曇り空に薄明かりが差し、梅雨明け間近である事を教える風景がそこにあった。

 立ち止り窓の外を眺める夏菜子に気付いた篤は手すりに寄りかかって腕を組み、踊り場にある窓の外に目をやった。

 暫し同じ風景を見ていたが、夏菜子が不意に口を開いた。

「篤」
「ん?」
「初戦はいつだっけ?」
「来週の水曜」
「そっか」

 夏菜子が何か納得したかのように歩きだしたのを見て、篤もふたたび階段を登り始めた。

 がんばって、なんて言葉はかけない。口にだして言葉にしていまったら、なにか薄っぺらなものになってしまう。夏菜子は黙って篤の背中を見つめていた。

 自分が早々にリタイヤしてしまった最後の夏。たくさんの想いを呑み込む。

「篤。最後の夏、始まるね」
「…………ああ」

 少しの間があった。

 最後の夏。この言葉の響きが重かった。

 夏菜子は歩きだした篤の広くたくましい背中を眩しそうに見上げた。ずっとずっと追いかけ続けてきたこの背中を、こうして静かに見つめていられるのもあと少し。

 どんよりと重いグレーの空の隙間から、青く明るい色が微かに顔を出し始めていた。

「あ、あつしー。中間考査の結果はどうだった?」
「聞くなっ!」

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