舞姫【前編】

深智

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ごめんなさい

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 夕暮れ間近の喫茶ローザは常連客で賑わう。みちると顔見知りになった客もおり、仕事を上がる時には必ずひと言挨拶して行くのだが。

「みちるちゃん、みちるちゃん」

 テーブルを片付けてきたみちるにマスターが小声で話し掛けた。

「今日はあのお客さん来てるから、誰にも声掛けなくていいから裏口からそっと帰りなさい」

 洗い物をしながらさり気なく言ったマスターに、みちるは「すみません、そうします」と小さく応えた。

 一人の客がみちるを執拗に追いかけるようになっていた。

 大学生か、社会人か、素性はよく分からなかったが、半年程前、夕方になるとたまに現れるようになった。

 寡黙そうに見える男だった。ここに通い始めた頃は、働くみちるの姿を眺めているだけだったのだが、半月前くらいから様子が変わってきた。

 一週間前のことだった。

 バイトを終え店を出たみちるはその男に後を付けられた。その時は、途中で付けられている事に気付いたみちるが慌てて店に戻り、早仕舞いしたマスターがマンションまで送り、事なきを得た。

 最近はマスターが細心の注意を払い、男が店にいる事を確認した時はみちるをそっと裏口から帰すようになっていた。

 今日もマスターの気遣いに感謝しつつ、みちるはそっと裏から外に出た。
 
 夕飯のお買い物していこうかな、と思ってたんだけど、ムリかな。

 裏口から外に出たみちるは夕暮れのオレンジ色に染まり始めた空を見上げた。

 今朝、麗子から連絡があった。

『今日、バイトが終わったら帰りにうちに寄ってね』

 麗子さん、今日はお休みなんだ。後で一緒にお買い物行けばいいね。

 店前を通る表通りを避け、昭和の香りが色濃く残る裏通りへみちるは歩き出した。


†††

「星児、みちるちゃんはもうすぐ二十歳になるから」
「ああ」

 麗子の部屋から仕事に出掛ける星児は、リビングに置かれた大きな姿見の前でネクタイを絞めていた。

「私の方からはそれとなく身につくように教えてはいくから、みちるちゃん自身に覚悟させるのは、星児、貴方の仕事よ」
「ああ、分かってるよ」

 星児は麗子から渡されたベストを着、ジャケットを着る。

 仕事に行く星児の姿に麗子は眩しげに目を細めて見上げた。

「じゃあ、行ってくる」

 星児の首に、麗子はしなやかに伸ばした腕を絡めた。唇を軽く重ねた後、「ええ」と頷く。

 星児は誰にも渡さないから。




 星児を見送る為に麗子は先に玄関から廊下に出た。廊下から階下を見ると、バイトから戻って来、エントランスへ向かうみちるの姿が見えた。

 麗子は目を閉じる。

 今、エントランスに入ってエレベーターホールでボタンを押して。

 乗る。あと、数分。

 間合いを計っていた麗子がゆっくりと目を開けた時、黒く光る革靴を履き、玄関から出てきた星児が現れた。

 今が丁度のタイミング。

「星児」

 麗子は星児の首に腕を絡めた。



 エレベーターの着階表示が最上階を表示し、チン、という音と共に扉が開いた。

 下りたみちるはホールに出、直ぐ目の前の角を曲がり廊下に出た。そして。

 西日が射し込むマンションの廊下に、重なりあう2人の影を見た。

 顔を上げたみちるの目に飛び込んで来たのは、しっかりと抱き合い濃厚な口づけを交わす星児と麗子の姿だった。

 廊下の先に現れたみちるの姿など、二人の目には映らない。

 まるでドラマのワンシーンのような濃厚なラブシーンを、みちるは目の当たりにしたのだった。




 麗子は星児と唇を重ねたまま、全神経を集中させ感覚を研ぎ澄ます。

 瞳を閉じていても、麗子はみちるが廊下の先で立ち尽くしている、その気配を察知していた。

 嵐の日、麗子はみちるの為に無理をして帰って来たのだ。

 星児が様々な女と関係を持っていることを麗子は承知している。

 しかし麗子は彼が自分以外の女と触れ合う姿など、見たことはない。星児自身も決して彼女にそんな場面を見せるような失態を犯した事などなかった。

 それがあの日。

 鍵が掛かっていなかった玄関のドアを開けた瞬間、星児の残り香がした。

入らなくても、靴など確認しなくとも彼がそこにいる事は分かった。

 あの時声を出してみればどうなっていただろう。麗子は思う。

 玄関の先にあるリビングへのドア。そのドアにはガラス窓。暗がりの玄関から明るいリビングの様子がはっきりと見えていた。

 重なり合う星児とみちるの姿が見えていた。

 気付かれないようそっとその場を立ち去った麗子の目に、唇を重ね合う姿が麗子の目に焼き付いた。

 星児は渡せない。

 目を開かなくとも、廊下の先にみちるの気配が消えた事が麗子には分かった。

 絡めて掬い上げた舌をゆっくりと解き、唇もスローモーションのように互いの瞳を見つめながら離していく。

 ごめんなさい、みちるちゃん。

「行ってらっしゃい、星児」

 手を軽く挙げた星児の背中を見送る麗子の胸に残る苦味、後味の悪さが渦巻いていた。

 部屋の中に戻ると家の電話が鳴り、留守番電話の応答メッセージが流れた。

 少しホッとしたようなみちるの気配があり、息を吐いてからゆっくりと話し始めた。

「麗子さん、今日はちょっと疲れてますので、また今度でいいですか。ごめんなさい」

 愛らしいみちるの声で語られる言葉。末尾の〝ごめんなさい〟のフレーズが、麗子の胸に刺さった。

 〝ごめんなさい〟は、私のセリフよ。

 胸の痛みと耳鳴りのような頭痛に麗子はこめかみを押さえた。

 これは、罪悪感。でもね、でもみちるちゃん。星児は、星児だけは誰にも渡せないの。

 私は、星児がいないと生きていけないから!



†††
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