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保とみちる
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君の傷を癒す為なら。
俺は何だってするよ。
そう、何だって。
駐車場に車を停めた保は直ぐには降りず、助手席に置いてあった書類ケースを手に取り、数枚の資料を出した。
〝渋谷区松濤〟
住所を確認し、名前を見た。
〝津田武司様〟
間違いない。保は上司の言葉を思い出した。
『まぁー、この津田様の奥方ってのがお嬢様だか女王様だか知らないが、とにかくワガママでワガママで。今まで何人の営業が泣かされたか。俺達の間では松濤のイメルダ夫人とか呼んでて完全に鬼門扱いなんだが、何しろこの不景気の中で高級車をバンバン買う特上客で、離すワケにはいかないんだよ。頼む兵藤! 営業成績トップのお前の手腕に賭ける! お前ならなによりまずルックスで気に入られる事請け合いだから!』
何言ってんだか。俺はホストじゃねぇよ。
保はため息を吐いたが、資料の名前部分を人差し指で弾き、不敵な笑みを浮かべた。
遂に辿り着いた。待ってろよ、郡司武司!
資料の隅から隅まで目を通し頭に叩き込み、保はそれを再びケースにしまうと車を降りた。
施錠した時、地下駐車場のエレベーターホール近くにある筈の、星児の車がない事に気付いた。
今日は休みなのに、出かけたのか。
軽く首を傾げながら保は歩き出した。
†††
玄関ノブのレバーをグッと下ろすと、鍵が掛かっておらずドアが開く。そして。
「み、みちる!?」
玄関でうずくまり、泣きそうな顔で見上げるみちるに、保は驚き声を上げた。
「保さん……!」
保が靴を脱ぎ玄関に上がるのと、みちるが立ち上がり彼に抱き付くのはほぼ同時だった。
「みちる?」
保は驚愕の表情を浮かべ、通勤バッグを持った手と空の手とを挙げたままみちるを見下ろす。
小柄なみちるは保の胸より心持ち下の部分に顔を埋めしがみつき、動かない。
こんな事は初めてだった。
「みちる……」
泣いてる?
保は空の方の手をそっとみちるの背中に添え、優しく撫でた。
抱き締めたい。
込み上げる想いをグッと堪え、髪に顔を寄せた時、フワリと覚えのある香りが保の鼻孔に広がった。
星児?
星児のボディフレグランスの香りだ。
こんな、移り香としてしっかりみちるに残る程、と考えた時、保の胸にズキンと鈍痛が走った。
星児! お前みちるに何をしたんだよ!
「みちる、顔上げて」
みちるは保の身体に顔を埋めたままフルフルと首を横に振っていた。保は小さく息を吐き、床にそっとバッグを置くと、みちるを優しく抱き締めた。
分かったよ、みちる。
保は目を閉じる。
みちるは今、こうして自分としっかり密着する事で気持ちを落ち着けようとしているのだろう。
こうして体温を感じる事で気持ちを整理しようとしているのだろう。
保はそう解釈した。
本当は、キスをしてやりたい。そんな想いが保の中に湧いていた。
しかし今は、それはみちるを傷付けるだけの行為に思えてならなかった。
保は目を固く閉じ、奥歯をグッと噛み締めた。
こうして、しがみつく事で君の気持ちが少しでも安らぐのなら、それでいいよ。
みちるがこの先また、何かにぶつかって傷付いた時、君の気持ちを癒す為なら、俺は何だって、する。
保はみちるの髪に顔を埋めた。
†
「保さん……」
「ん……?」
ゆっくりとみちるが顔を上げた。腕はまだ保の身体にしがみついたままだ。まるですがりつく子供のように。
保は不安に彩られたみちるの顔を優しく見下ろす。
「保さん、ありがとう……」
無理矢理に作り出した笑顔に保の胸が軋む。そっとみちるの顔を両手で挟んだ。
「無理に笑わなくていい」
「保さん」
「俺に何か出来る事は?」
保は優しく微笑んだ。みちるは静かに目を閉じる。
みちるの、桜貝のような唇がゆっくりと動いた。
「キス、してください」
保さんの、優しいキスが欲しいんです。
目を瞑ったままのみちるは、保が微かに息を呑む気配を感じた。
ほんの少しの間を置き、唇が重なった。
唇、なのね。
初めて触れ合った唇だった。
優しく柔らかく、それでいてしっかりと感触を残す唇。
激しく情熱的なキスは、心を根こそぎ持ってゆくものならば、優しいキスは――心の澱を流いながす。
触れ合うのは唇だけなのに、全てが優しく包まれる。
保は静かに唇を離すと、みちるの額にキスをした。
「みちる、風呂先どうぞ」
「え? でも……」
この星児の移り香を消して来なさい、とは言えないな、と保は心の中で苦笑いし優しく続ける。
「こんな時みちるに、ちゃーんと旨いモン用意してやれるのは、俺だけだろ?」
「あ、うん」
口に手を当てたみちるが小さく笑う。
その笑顔が愛しい。細い針が刺さるような痛覚を胸に覚えたが、保はひた隠しに笑顔を作った。
「メシ、楽しみにして風呂入って来い」
「うん」
可愛らしい素直な笑顔を見せ、みちるは頷いた。
†††
温かな湯気が気持ちを優しく解してゆく。
保さんはちゃんと、分かっているのね。
バスタブに浸かるみちるは膝を抱え、目を閉じた。
ゆっくりと目を開けると揺れる水面の中に白い肌が見えた。
私はこれからどう生きてゆくの。
みちるはそっと唇を手で触れてみた。
二人とも、私の大事な人。でも私は、あの二人には釣り合わない。
叶わないの。私はいつか、二人の元を巣立たなければいけないから。
改めて襲いかかる現実にみちるは慄く。
私は飛び立つ事が出来るの。
『一人で生きていく力を付けるんだ』
一番最初に星児が言った言葉を、みちるは噛み締めていた。
†††
ダイニングテーブルの上には食事が用意されていた。
保は腕まくりワイシャツにエプロン姿でトングを持っていたみちるが風呂から出てくるタイミングに合わせたようだった。
ガラスのプレートに、トマトの冷製パスタ。鮮やかな赤いトマトにバジルの葉が彩りを添える。
「わぁ、保さんのパスタ、久しぶり」
「時間ないときはコレが一番だな」
言いながら笑う保は食器棚からワイングラスを出しテーブルに置いた。
「みちるさんも、もう大人なので」
飲みましょう、と嬉しそうに言いながらキッチンに入って行った保は、ワインクーラーから出した白ワインのボトルをみちるに掲げて見せた。
みちるの顔が明るくなる。
「みちるを拾ったあの頃から、こうやって一緒に飲める日が来るのを楽しみにしていた」
ボトルの底を片手で持ち、巧みにみちるのグラスにワインを注ぐ保はまるでソムリエのようだった。
透明な液体が蛍光灯の光を反射してキラキラと光る。
「楽しみに?」
グラスを持ったままみちるは、ボトルを持つ保を見上げる。
「そう。俺だけじゃない。星児も、姉貴も」
丸みを帯びたワイングラスは揺れる透明の液体はその向こうを見せてくれる。
水晶みたい。占う未来を、見せて。私が大人になる事を待っていてくれた大事な人達との未来を。
「みちる。君はもう大人なんだ。ちゃんと意思を表現していいんだ。みちるの、みちるだけの人生。しっかり自分で前を見て、自分の意思で道を選んで行くんだ」
「保さん?」
重い言葉だ。上手くみちるに伝わるだろうか。
保はみちるを見つめる。
俺はせめて、間違いのない道をみちるに選ばせてやりたいんだよ、みちる。
考え込むような保の頬に、優しく柔らかな感触があった。
「保さん、私、今はまだよく分からないけれど、大丈夫だよ。ちゃんと、自分でしっかり地に足着けて生きて行くから」
〝自分で、生きてゆくから〟
みちるの言葉が、保の胸に深く深く射し込まれた。
そんな事させたくないのに。永遠にそばで守ってやりたいのに!
グッと奥歯を噛み目を閉じた保は、頬に触れるみちるの柔らかな手を握り締めた。
「保さん、そんな苦しそうな顔しないで。私、意外と強い女かもしれないよ!」
みちるの、健気な明るい声に、保は握り締めた手をグッと引いた。立たせたみちるを抱き締める。
「保、さん?」
「ごめん、少しこうしていたいんだ」
みちるの香りと柔らかな躰の感触。決してこの先には進めない。
でも、いいんだ。これで、このままで。
「はい」
みちるは保の腕の中で、全身に感じる鼓動、体温に優しく包み込まれて目を閉じた。
神様。少しでも長く、こんな時間を続けさせてください。
俺は何だってするよ。
そう、何だって。
駐車場に車を停めた保は直ぐには降りず、助手席に置いてあった書類ケースを手に取り、数枚の資料を出した。
〝渋谷区松濤〟
住所を確認し、名前を見た。
〝津田武司様〟
間違いない。保は上司の言葉を思い出した。
『まぁー、この津田様の奥方ってのがお嬢様だか女王様だか知らないが、とにかくワガママでワガママで。今まで何人の営業が泣かされたか。俺達の間では松濤のイメルダ夫人とか呼んでて完全に鬼門扱いなんだが、何しろこの不景気の中で高級車をバンバン買う特上客で、離すワケにはいかないんだよ。頼む兵藤! 営業成績トップのお前の手腕に賭ける! お前ならなによりまずルックスで気に入られる事請け合いだから!』
何言ってんだか。俺はホストじゃねぇよ。
保はため息を吐いたが、資料の名前部分を人差し指で弾き、不敵な笑みを浮かべた。
遂に辿り着いた。待ってろよ、郡司武司!
資料の隅から隅まで目を通し頭に叩き込み、保はそれを再びケースにしまうと車を降りた。
施錠した時、地下駐車場のエレベーターホール近くにある筈の、星児の車がない事に気付いた。
今日は休みなのに、出かけたのか。
軽く首を傾げながら保は歩き出した。
†††
玄関ノブのレバーをグッと下ろすと、鍵が掛かっておらずドアが開く。そして。
「み、みちる!?」
玄関でうずくまり、泣きそうな顔で見上げるみちるに、保は驚き声を上げた。
「保さん……!」
保が靴を脱ぎ玄関に上がるのと、みちるが立ち上がり彼に抱き付くのはほぼ同時だった。
「みちる?」
保は驚愕の表情を浮かべ、通勤バッグを持った手と空の手とを挙げたままみちるを見下ろす。
小柄なみちるは保の胸より心持ち下の部分に顔を埋めしがみつき、動かない。
こんな事は初めてだった。
「みちる……」
泣いてる?
保は空の方の手をそっとみちるの背中に添え、優しく撫でた。
抱き締めたい。
込み上げる想いをグッと堪え、髪に顔を寄せた時、フワリと覚えのある香りが保の鼻孔に広がった。
星児?
星児のボディフレグランスの香りだ。
こんな、移り香としてしっかりみちるに残る程、と考えた時、保の胸にズキンと鈍痛が走った。
星児! お前みちるに何をしたんだよ!
「みちる、顔上げて」
みちるは保の身体に顔を埋めたままフルフルと首を横に振っていた。保は小さく息を吐き、床にそっとバッグを置くと、みちるを優しく抱き締めた。
分かったよ、みちる。
保は目を閉じる。
みちるは今、こうして自分としっかり密着する事で気持ちを落ち着けようとしているのだろう。
こうして体温を感じる事で気持ちを整理しようとしているのだろう。
保はそう解釈した。
本当は、キスをしてやりたい。そんな想いが保の中に湧いていた。
しかし今は、それはみちるを傷付けるだけの行為に思えてならなかった。
保は目を固く閉じ、奥歯をグッと噛み締めた。
こうして、しがみつく事で君の気持ちが少しでも安らぐのなら、それでいいよ。
みちるがこの先また、何かにぶつかって傷付いた時、君の気持ちを癒す為なら、俺は何だって、する。
保はみちるの髪に顔を埋めた。
†
「保さん……」
「ん……?」
ゆっくりとみちるが顔を上げた。腕はまだ保の身体にしがみついたままだ。まるですがりつく子供のように。
保は不安に彩られたみちるの顔を優しく見下ろす。
「保さん、ありがとう……」
無理矢理に作り出した笑顔に保の胸が軋む。そっとみちるの顔を両手で挟んだ。
「無理に笑わなくていい」
「保さん」
「俺に何か出来る事は?」
保は優しく微笑んだ。みちるは静かに目を閉じる。
みちるの、桜貝のような唇がゆっくりと動いた。
「キス、してください」
保さんの、優しいキスが欲しいんです。
目を瞑ったままのみちるは、保が微かに息を呑む気配を感じた。
ほんの少しの間を置き、唇が重なった。
唇、なのね。
初めて触れ合った唇だった。
優しく柔らかく、それでいてしっかりと感触を残す唇。
激しく情熱的なキスは、心を根こそぎ持ってゆくものならば、優しいキスは――心の澱を流いながす。
触れ合うのは唇だけなのに、全てが優しく包まれる。
保は静かに唇を離すと、みちるの額にキスをした。
「みちる、風呂先どうぞ」
「え? でも……」
この星児の移り香を消して来なさい、とは言えないな、と保は心の中で苦笑いし優しく続ける。
「こんな時みちるに、ちゃーんと旨いモン用意してやれるのは、俺だけだろ?」
「あ、うん」
口に手を当てたみちるが小さく笑う。
その笑顔が愛しい。細い針が刺さるような痛覚を胸に覚えたが、保はひた隠しに笑顔を作った。
「メシ、楽しみにして風呂入って来い」
「うん」
可愛らしい素直な笑顔を見せ、みちるは頷いた。
†††
温かな湯気が気持ちを優しく解してゆく。
保さんはちゃんと、分かっているのね。
バスタブに浸かるみちるは膝を抱え、目を閉じた。
ゆっくりと目を開けると揺れる水面の中に白い肌が見えた。
私はこれからどう生きてゆくの。
みちるはそっと唇を手で触れてみた。
二人とも、私の大事な人。でも私は、あの二人には釣り合わない。
叶わないの。私はいつか、二人の元を巣立たなければいけないから。
改めて襲いかかる現実にみちるは慄く。
私は飛び立つ事が出来るの。
『一人で生きていく力を付けるんだ』
一番最初に星児が言った言葉を、みちるは噛み締めていた。
†††
ダイニングテーブルの上には食事が用意されていた。
保は腕まくりワイシャツにエプロン姿でトングを持っていたみちるが風呂から出てくるタイミングに合わせたようだった。
ガラスのプレートに、トマトの冷製パスタ。鮮やかな赤いトマトにバジルの葉が彩りを添える。
「わぁ、保さんのパスタ、久しぶり」
「時間ないときはコレが一番だな」
言いながら笑う保は食器棚からワイングラスを出しテーブルに置いた。
「みちるさんも、もう大人なので」
飲みましょう、と嬉しそうに言いながらキッチンに入って行った保は、ワインクーラーから出した白ワインのボトルをみちるに掲げて見せた。
みちるの顔が明るくなる。
「みちるを拾ったあの頃から、こうやって一緒に飲める日が来るのを楽しみにしていた」
ボトルの底を片手で持ち、巧みにみちるのグラスにワインを注ぐ保はまるでソムリエのようだった。
透明な液体が蛍光灯の光を反射してキラキラと光る。
「楽しみに?」
グラスを持ったままみちるは、ボトルを持つ保を見上げる。
「そう。俺だけじゃない。星児も、姉貴も」
丸みを帯びたワイングラスは揺れる透明の液体はその向こうを見せてくれる。
水晶みたい。占う未来を、見せて。私が大人になる事を待っていてくれた大事な人達との未来を。
「みちる。君はもう大人なんだ。ちゃんと意思を表現していいんだ。みちるの、みちるだけの人生。しっかり自分で前を見て、自分の意思で道を選んで行くんだ」
「保さん?」
重い言葉だ。上手くみちるに伝わるだろうか。
保はみちるを見つめる。
俺はせめて、間違いのない道をみちるに選ばせてやりたいんだよ、みちる。
考え込むような保の頬に、優しく柔らかな感触があった。
「保さん、私、今はまだよく分からないけれど、大丈夫だよ。ちゃんと、自分でしっかり地に足着けて生きて行くから」
〝自分で、生きてゆくから〟
みちるの言葉が、保の胸に深く深く射し込まれた。
そんな事させたくないのに。永遠にそばで守ってやりたいのに!
グッと奥歯を噛み目を閉じた保は、頬に触れるみちるの柔らかな手を握り締めた。
「保さん、そんな苦しそうな顔しないで。私、意外と強い女かもしれないよ!」
みちるの、健気な明るい声に、保は握り締めた手をグッと引いた。立たせたみちるを抱き締める。
「保、さん?」
「ごめん、少しこうしていたいんだ」
みちるの香りと柔らかな躰の感触。決してこの先には進めない。
でも、いいんだ。これで、このままで。
「はい」
みちるは保の腕の中で、全身に感じる鼓動、体温に優しく包み込まれて目を閉じた。
神様。少しでも長く、こんな時間を続けさせてください。
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