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擬似恋空間
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1
眠らぬ街の繁華街にあるファーストフード店は二十四時間のどの断片を取っても混雑している。一階席も二階席も多種多様な客層で溢れ返ってほぼ満席だ。男の声、女の声、高い声、低い声、音が音を覆い、被せ、空気に色を塗っていた。
この繁華街がある場所のせいか、ビビッドカラーのド派手スーツを着ている男性が浮かない。むしろ溶け込んで見えるから不思議だ。
あたしと向かい合って座るそのド派手スーツの男性はクールな笑みを浮かべ、聞いた。
「こういう仕事は初めてか?」
「……はい」
ある分野の求人情報誌の中に、これなら出来るかもしれない、と思える仕事を見つけて書かれていた番号に連絡を入れてみた。そんな軽い気持ちだった。
電話に出た男の人は、こちらが迷う暇もなく面接を決め、その日のうちにあたしをこのファーストフード店に呼び出した。
緊張するあたしの前に現れたのは、あきらかに普通のサラリーマンとは違う色合いのスーツを着たホストかと思わされる若い男の人だった。
謎めいた雰囲気を纏い、人を惹き込む魔力にも似た蠱惑の魅力を放つ彼は感情の読めない切れ長の目であたしを観察しているようだった。
気圧されそう。身構えてすっかり固くなってしまっていたあたしに彼は穏やかな笑みを見せた。そして、この仕事の経験を聞いてきたのだ。
初めてである事を伝えなければ、と思ったのにあたしの喉の奥は貼りついたように塞がって言葉が出ず、はい、と掠れる声で答えるだけで精いっぱいになってしまった。
「じゃあ、詳しいことはまだよくわかんねーか」
「はい」
そうか、と彼は顎に手を当て思案顔をした。
「この後予定とかはあるか?」
「あ、えっと……ないです」
パッと向き直った彼に聞かれ、あたしは慌てて答えた。答えてから、予定はないよね、と頭の中で確認した。
「じゃあ、ちょっと講習受けてもらえるかな。ちゃんとしたサービスしてもらう為に必要なんだ」
――こうしゅう?
先見の明のないあたしには、後に目眩く未知の世界が待っているなんて想像も出来なかった
言われるがままに連れてこられたのは、こてこての、カラフルなネオン看板をくっ付けたビルが軒を連ねる歓楽街だった。ネオンが灯り始める時間、あたしは緊張と不安に駆られる胸を抱えて彼の後に付いて行き、建ち並ぶビルの一つに入った。
エレベーターを三階で降りると、目の前はすぐにキラキラの看板が付いたお店の入口になっていた。
店に入ってすぐのカウンターに立っていた店番と思われる若い男の子が頭を下げた。
「キョウさん、お疲れです!」
その時初めて、面接をしてくれたこのお兄さんが〝キョウさん〟という人であることを知った。
キョウさんはその店番の彼と話しを始めた。
「ちょっと一番奥の部屋使うから」
「あ、講習スね」
店番クンはそう答えるとあたしにニッコリ笑って言った。
「しっかり教えてもらってね」
薄暗い店内には大音量の音楽が流れていた。薄そうな壁で仕切ったブースのような個室が並んでいて、あたしはその一番奥の部屋に通された。
狭い個室には、小さなベッドが一つ。隅に置かれたスチール棚には何かのボトルが整然と並び、綺麗に畳まれたタオルも収まっていた。
「先ずはシャワーからな」
キョトンとするあたしに、キョウさんはクックと笑ってみせた。
「お客と一緒にシャワーを浴びるとこからサービスが始まんだよ。やり方全部教えてやるからさ、来いよ」
そう言いながら優しく笑った彼は指の長いしなやかな手を差し出した。
その手、その声、その笑顔。ここは呪詛の部屋? この時胸に覚えた違和感は、何かに似ていた。
キョウさんは、お客さんの洋服の脱がせ方をあたしの服を脱がせながら教えてくれた。気持ちを解し、和む雰囲気を作ることを心がけ、一枚ずつ丁寧に脱がせていく。下着だけになったあたしに彼は言った。
「じゃ、教えたように俺のやってみて」
あたしは、キョウさんに教えられたとおり、彼の着ている上着を脱がせ、ネクタイを外し、ワイシャツのボタンを外していった。
手が、震えていた。男性経験が無い訳じゃない。けれど自分がこんな……エスコートするような事はした事はなかったから。
あたしは、この時に初めて、自分が飛び込もうとしている世界の片鱗を見た気がした。
あたしは、もしかしたらとんでもないことを始めようとしているのかもしれない。ゴクンと固唾を呑みこんだあたしの手が、止まった。
知らない世界を見ることへの不安が、そこへ踏み込むことへの恐怖が、あたしの思考を縛り付けていく。
あたしは、自分の手元をじっと見たまま、その先に進めなくなってしまった。
どうしよう。
あたし――、怖い。
「誰だって最初はそうだから気にする事はねーよ」
ふと踏みとどまるあたしの心にジワリと染み込む色っぽく甘い声に、躰の芯が熱くなっていく。
非現実の世界がここにあるんだ。そこを、わたしは覗こうとしているんだ。あたしはゆっくりと頷いた。
もう、引き返せない。
ワイシャツのボタンを全て外し、露になった彼のカラダは自分が見たこともないくらいに綺麗な男のカラダだった。
香るフレグランスが鼻腔から滑り込み、頭がおかしくなる寸前のあたしは、ただ「はい」と答えるだけで精一杯だった。
正直、自分でも分からなかった。きっと、何も見えていなかったんだと思う。
あたしが選んだ新しいお仕事は〝ファッションヘルス〟という名のもとに行われるサービス業。一言で言えば、性を商売とするお仕事だった。
漠然としか考えていなかったあたしの目に付いたのは、求人情報雑誌に書かれていた『ソフトなお仕事です』という触込み文句だった。
簡単というイメージを与えるキャッチフレーズは、いともたやすくあたしの心を掴んだ。安易な気持ちだったんだ。
どんなものであれ、気軽にできる仕事なんてある訳なかった。
基本、本番無しのヘルスで男性を〝抜かせて〟あげるにはヘルスなりのテクニックがある。だから、講習をする。講習とは文字通り、サービスを一から教わる事だった。
今までの性生活で使った事もない技を、彼は自分の身体で分かりやすく教えてくれたけれど、付き合ってもない男の人の〝ソレ〟を目にし、触る、という行為は、あたしにしてみれば、想像と思考のキャパシティーのリミッターをいとも簡単に超えさせる衝撃で、目がチカチカしたまま、その時教えてもらった事なんて、三分の一も頭に入ってこなかった。
「誰だって最初っからスゲーテクなんて使える訳じゃねーから気にすんな。大丈夫だ。不慣れなのが好きな客もいるんだよ。男の数だけフェチの数もあるんだ」
キョウさんの言葉と笑顔はあたしの胸に一瞬何かを過らせた。あたしは深呼吸をしてそれをやり過ごした。
「できそうか?」
「はい、何とか……」
優しく聞かれて掠れる声で答えたあたしの頭をキョウさんはくしゃっと撫でた。
「俺は店長してるてキョウ。よろしくな」
年の頃はどう見ても20代前半。こんなに若いのに店長さんなんだ、と、見上げた視線の先に人懐っこい笑顔があった。
妖しげな一面と時折見せる笑顔のギャップ。不思議な魅力は人の心をいとも簡単に掴んでしまう。あたしの胸を過ったのは、危険だよ、というシグナルだったのかもしれない。
「とりあえず、百聞はなんとか、だ。今日から働いてみるか?」
「あ、はい」
あたしは思わずそう答えていた。
なんとなく、ただ漫然と生きてきたあたしは、風俗という未知の世界もこんな形でなんとなく始めてしまった。
2
初めてのお客さんにあたしはどんなサービスをしたかなんて、殆ど覚えていない。最初は無我夢中だったから。ただ、時間内に抜かせてあげること。それだけに必死だったように思う。ひと月くらい経って、やっと、僅かながら余裕が出てきた。
ヘルスは、本番はしないのでお客さんのそれを膣に入れる事はしない。だから少しでも挿入感を味わってもらう為には色々な工夫がいる。太ももに挟んだり、おっぱいで挟んでみたり……。あたしはおっぱいが大きくはなかったから、体勢はちょっとキツイけど太ももに挟んで――いわゆる素股――というプレイをよく使った。
男の数だけフェチがある。キョウさんは上手いことを言う。あるお客さんに、しっかりと口で奥まで咥えて膣感を、とやってみたフェラチオが悦ばれて、同じサービスを別のお客さんにしてみたら全然反応が良くなかったこともあって気付いた。みんな〝ツボ〟が違うのだ。
そこからあたしは、お客さんを気持ち良くしてあげる為の探究をし始めた。お客さんに悦んで貰える瞬間が嬉しかったから。
あたしが、あたしのやり方で。あたしの躰で。そこにあたしは自分自身の悦楽を見出し始めていたのかもしれない。
半年前、長く付き合っていた彼にフラれて、あたしの心にはぽっかり穴が開いたままだった。秋風のような風が吹き抜けて、心がいつも震えてた。穴を埋めるものを見つけられず、あたしは掴みどころのない虚無感のようなものを抱えて、ふらふらゆらゆら、たゆたっていた。
短大を卒業してすることもなくお気楽なフリーターをしているだけだったのに、帰って来なさい、という実家の両親の言う事は聞けなかった。何かをしたい訳でもなかったのに。
これは、この仕事は、まるで霧に包まれたように行き先の見えない道を歩いていたあたしが見つけた一本道になのかもしれない。あたしの心の隙間を埋めてくれるのは、人の肌だったのかもしれない。
なんのとりえもなかったあたしが誰かに、刹那でも悦楽を与えられる。誰にでも必ず天職と言われるものがあるのなら、あたしにとっての天職はこの仕事だったのかもしれない。
けれど、昂揚感とは反比例して、あたしは本当は堕ちて行っているんだって、冷めた目をしたもう一人の自分の声、遠い意識で聞いていた。
お店で働く女の子はみんな明るく話しやすかった。その中で特にあたしと仲良くしてくれたのが、リボンちゃんという同い年の女のコだった。
人懐っこくて愛らしい、年よりも若く見えるコだった。外見だけ見ればあたしの方が大人びていたけど、この仕事はリボンちゃんの方が先輩で、よく相談に乗って貰った。お客さんの話も沢山し合った。
「ヒナちゃん、男の人って、みんな案外可愛いでしょ。アタシはいっつもそう思う」
タバコを指に挟むリボンちゃんはそんな事を言いながらよくケタケタ笑ってた。
〝ヒナ〟
お店であたしはそう名乗った。名付けてくれたのはキョウさんだった。
初日、キョウさんから「何月生まれ?」という突拍子もない質問を投げかけられた。あたしは正直に「三月」と答えた。すると、「そうか、三月はひな祭りがあるな。じゃあお前は今日からヒナな」とキョウさん。
まさか、源氏名の命名の為の質問だったとは。この店の女の子達の源氏名は、みんなキョウさんが付けていると他の女の子から教えてもらった。聞けば、リボンちゃんは、初めて会った時に大きなリボンの付いたバッグを持っていたから、とか。
あたしのように生まれ月から、は珍しいらしいけど、持ち物が目に付いたから、という時もあれば好きな動物から、という時もあるらしい。すべては彼のインスピレーションからという事か。
どこか、謎めいた雰囲気は、不思議な感覚を持ち合わせている彼の内面から来ているのだろうか。とりあえず、そんな事を経て、あたしはヒナになった。
キョウさん。
お店の女の子たちもみんなそう呼んでいたから自然、あたしもそう呼ぶようになったけど、名字はもちろん、その名が本当の名前なのかすら分からない。あたしの前にいるキョウさんからは、いつも何も見えては来なかったから。
だから、危険と分かったの。これ以上踏み込んだら危険と。
ただ、時の流れに身を任せたまま、なんとなく生きてきてしまったあたしの人生で、キョウさんという人が何かを変える。そんな気はした。それは、良い意味でも、悪い意味でも。
3
『男の人って、みんな可愛い』
リボンちゃんの言っていた言葉の意味、最近なんとなく分かってきた。
お客さんとして現れる男の人達は、みんな外ではどうなのか知らないけれど、この、ハコと言われる小さな空間では素直になる。
可愛い、すなわちそれは、素直になる、ということかな。きっと、この短い時間、この狭い空間でしか会う事の無いあたし達に、彼等は自らの〝素〟を、無防備な自分を、見せてくれるのだろう。
この限られた時間、隔絶された空間で、あたしは擬似恋愛をする。男の人に、夢と幸せをあげる。それが、あたしの仕事なんだ。
充足感を覚えつつあるあたしに心の余裕が出来た頃、今度は身体の余裕がなくなった。ヘルスは激務、という事実を知ったから。
本番無しのヘルスは、流れ作業のよう。一日に何十人も相手にするお客さんに、自分も納得できるような充分なサービスをするには時間が足りない事もあった。
もっと、何かしてあげれたらいいのに、そんな物足りなさを感じる事がしょっちゅうあったけれど、あたしは毎日毎日、沢山の男の人と触れ合って擬似恋愛を繰り返す。
ここに来る男の人が、何を望んでいるのか。アンテナを精一杯伸ばしていると、自ずと伝わってくる。
甘えるのが好きなタイプになら、お姉さんになって、威張りたいタイプになら、今度は反対に甘え上手な女性になったり、と男の人のタイプに合わせて、巧みに自分を変えていく。
あたし、まるでカメレオンみたい、と思った。あたしはこんなに器用な人間だったかしらって、少し驚きもした。
ちょっぴり休憩、とタバコを吸っているあたしのとこに時々キョウさんが顔を出した。
「キツそうだな。大丈夫か」
何気なく掛けてくれる言葉に、あたしの胸がドキンと大きな音を立てるようになっていた。心が傾かないように、必死に蓋をし続けなければ、自分が苦しむ。この人に本気で惚れてしまって、苦しまない未来が待っているわけがない。
分かっていたのに。あたしはいつかだったかこの魔法に掛かってしまっていたんだ。
貴方の笑顔が向けられるだけで、貴方のその声を耳にしてしまうだけで、胸が苦しくて、涙が出そうになる。
ちょっぴりキツイです。でもキョウさんに褒めて貰いたいから頑張りまーす! そんな冗談を笑って言える器用さが欲しかった。
「平気ですよー。これ一本吸ったらまたがんばっちゃいます。お客さん呼んでね」
あたしが言えるのはこれが精いっぱい。何かを嗅ぎ取られてお話し出来なくなったら、会えなくなったら、なんて考えただけでゾッとする。
結局、〝素〟のあたしは、恋なんて出来ない不器用な女のままだったんだ。
あたしは、いつもみたいにリボンちゃんと話している時にふと思っていた事を口にした。
「みんな、キョウさんの事はどんな風に思っているんだろう?」
リボンちゃんはタバコを指に挟んだまま大きな瞳であたしを見詰める。その瞳が、あたしの心を覗いているみたいでドキンとした。
リボンちゃんはクスッと笑い、言った。
「キョウさんは、あたし達から見れば〝バーチャル〟よ。惚れたらダメ、絶対に」
その言葉はまるで釘を刺すみたいだった。
あたしの胸に鈍痛が走る。顔をしかめてしまいそうになって慌てて笑顔を貼り付けた。
「バーチャル、かあ」
後は、アハハとわざとらしいくらいに声を立てて笑って胸の痛みを掻き消していた。
4
指名してくれるお客さんが増えた頃だった。あたしのお客さんがお店の中でトラブルを起こした。あたしはその当事者になった。巻き込まれた、と言うべきか。
いつもあたしを指名してくれた彼は、多い時は一日置きくらいに来てくれた。優しい人に思えた。あたしに、こんな仕事いつまでも続けていたらいけないよ、そんなことを言ってくれるような人だった。心に、そっと踏み込んでくる。掴もうと、手を伸ばしてきている。そんな印象を受けた。
あたしは、優しさに飢えていたのかな。この人はもしかしたら風俗で働く女の子も偏見なく見てくれる人なのかもしれない、とすら思うようになっていた。
束の間の疑似恋愛。悦んでくれていると思っていた。でも、全てが偽りだった。その人の全てが嘘だった。
ヘルスはソープとは違う。〝本番は無し〟というお客さんにも守ってもらうルールがある。そのルールを破ろうという暴挙に彼は出たのだ。彼の優しさは全て、ルールを破る為の礎だったのだ。
豹変した彼は薄く笑ってあたしを押さえつけ、乱暴に躰をまさぐった。
「散々、優しくして話し聞いてやったろ。こんな仕事してるくせして、カマトトぶって惜しんでんじゃねーよ」
言葉は刃のようだった。切りつけられたような痛みがあたしの胸に走った。
こんな仕事しているあたし達だって中身は生身の女なのに! こんな仕事だって、ルールがある。負けられない! あたしは、怒りと恐怖に震えながら掠れる声を絞り出した。
「ダメです……っ!」
あたしが声を上げるのと、キョウさんが部屋に押し入って来たのは、コンマ1秒くらいの差だったように思う。
この仕事を始めた時にキョウさんに言われた事があった。
『ヘルスは、本番は絶対しない。ヤらせろと迫る客には毅然と断れよ』
あたしは、部屋の隅で小さく震えながらお客さんを乱暴につまみ出すキョウさんの背中を見ていた。
少しして、キョウさんは他のお客さんや女のコ達に謝罪を入れてあたしのいる部屋に入ってきた。
部屋の隅で固まっていたあたしの前に座ったキョウさんは、ちょっと困った顔をしてみせた。それは普段、決して見せる事の無いキョウさんの〝素〟の表情にも見えて、あたしは完全に心を持っていかれた。
震える胸と、込み上げてくる、溢れそうな激情を抱えて見上げるあたしにキョウさんは言った。
「ごめんな」
あたしはキョウさんの目を見た。なぜ謝るの?
「俺、あの客がどんな男か知ってたんだ。知っててヒナの客にしてたんだ」
あたしの心の声が聞こえたような応えだった。でも、内容はちょっと聞き捨てならない。
あのお客さんが〝いわく付き〟と知っていてあたしのお客さんにしていた? 眉根を寄せるあたしを前に、キョウさんは目を逸らすことなく続けた。
「あの男、この辺りのヘルスは出禁になってやがるんだ。同じ事繰り返して。うちに来た時はどうすっかな、と思ったんだけどな、事を起こすまではこっちからは何も出来ねぇ。だから、ヒナを指名した時からずっとマークしてた。ヒナが変に警戒しねーよう黙ってた。ホントに悪かった」
そうか、あたし利用されたんだ。
ズキンという音と共に胸に痛みが走った。あたしは、心の蓋に重石を載せる。
「アハハハ、そうだったんですか―。やだなぁ、もう。でもあたし、キョウさんのお役に立ちました?」
胸の中の渦巻く感情を必死に外に追いやって、ピエロになるんだ。そうしないと、引き裂かれそうな胸が痛くて黙っていたら涙が出る。
引きつったような笑い声を立てていたあたしは、気付くとキョウさんの腕の中にいた。
固い胸とたくましい腕の感触が、下着しか着けていないあたしの躰に直に伝わる。全身でキョウさんを感じていた。
「絶対に、何もさせない、守ってやる自信があった。そうじゃなけりゃこんな事はしねーよ」
痺れをもたらす声だった。意味が掴めなかった。キョウさんの心が読めなかった。あたしは何も考えられなくなっていた。自分の心にブレーキをかけていた筈なのに、駄目だった?
女の子は、風俗という世界に足を踏み入れてしまった瞬間、まるで別の人格を与えられたように〝女の子〟じゃなくなってしまう。〝性〟というフィルターを通して見られてしまう。
それが哀しい、イヤだ、なんて思いながら、あたし達自身も世間の目と同じように冷静に傍観していたりする。どうせ自分は風俗嬢なの、って。でも、やっぱりあたし達は一人の普通の女の子で。
キョウさんは、正反対の感情がせめぎ合うジレンマの中で揺れているあたし達にフィルターなしで寄り添ってくれる人だった。
だから、キョウさんは特別に見えた。他の男の人とは違うって思ってた。
『キョウさんはバーチャルよ』
リボンちゃんの言葉は、この仕事をする女の子達にとってキョウさんのような男性はバーチャルとして捉えるべき存在なんだっていう意味だった。
でもねリボンちゃん。キョウさんはバーチャルなんかじゃない。リアルだった。温もりも感触も、現実のものだった。
その唇は優しく、柔らかく、甘く。あたしはこんなキスを知らない。カラダの芯から痺れさせる媚薬を投じる、そんなキスが、この世にあったなんて、知らなかった。
あたしは、キョウさんからは離れるべきだったのかもしれない。このままここにいたら、あたしの魂は辛苦と切なさに燃え尽きて灰となってしまうかもしれない。けれど、あたしはここから離れたらきっと、あたしでいられなくなる。
だから、あたしはここにいる。そう、決めた。
5
「ヒナちゃん、元気にしてたー?」
風俗情報誌のグラビア撮影で、数か月前にソープに移ったリボンちゃんに会った。控室で一緒になったあたし達は、二人でタバコを吸いながら久しぶりのお喋りを始めた。
リボンちゃんは、ちょっと困ったお客さんに気に入られ、付きまとわれた挙句、待ち伏せまでされてあの街にいられなくなった。
この仕事を続けたいならいっそのことソープに行ったらどうだとキョウさんに提案され、リボンちゃんはソープに移ったという。
「あたしは元気だよー。リボンちゃんはもう慣れた?」
えくぼができる人懐っこい笑顔を浮かべてゆったりと頷いたリボンちゃんは、以前からおっとりとした感じだったけど、益々大らかで柔らかな印象が強くなったように見えた。
男の人を悦ばせてあげる、それを自らの天職と信じている子はあたしだけじゃない。リボンちゃんから感じられたものは、誇りにも似た余裕かもしれなかった。
あたしはと言えば、あれからも変わらずキョウさんのお店で働いてる。本当は、あたしもどこかで吹っ切って、ここから飛び立って、リボンちゃんみたいに次のステップに進まなければいけないのかもしれない。でも、どうやって、どこを区切りに飛び立てばいいのか分からない。
あたしはもしかしたら、大事なタイミングを逃してしまったのかもしれない。何かを捨てなければ、あたしには未来に繋がる世界は一生見えないのかもしれない。もしかしたら今のところから離れなければ、あたしの未来はないのかもしれない。
そんなことを考えて、あたしはハッとした。
あたしは、今しか見えてない。このまま行ってどこに行くの?
今のところ?
仕事?
いつしか難しい顔になってしまったあたしの心を透かして見たように、リボンちゃんがクスッと笑った。
「キョウさんは元気?」
リボンちゃんから不意に投げかけられた問いに、あたしはビクと震えてしまった。ドキリとした。
その人はいまや〝仕事と切り離せないイコールあたしの中の大部分を占める存在〟になってしまっていた。
「元気だよ。相変わらずカッコイイよ」
カッコイイ、という言葉は、容姿だけに掛かる言葉じゃない。キョウさんの所作、行動、その全てを含み捉えたキョウさん像に掛かる修飾語。彼には〝カッコイイ〟という言葉がピタリと嵌まる。
脳裏に浮かべてしまった偶像に、あたしの胸がきゅうっと締まって、その痛みをごまかす為にタバコをくわえて思いきり煙を吸い込んだ。メンソールの味が、少しばかり頭をスッキリさせてくれた。
リボンちゃんは、そっか、と答えてフフフと笑った。その笑みが、いつものリボンちゃんと違って見えた。あたしの目には妖艶に映って、ドキッとした。どこかに、何か含みがあるようにも見えた。
「リボンちゃん?」
なんだろう、この胸に迫ってくるような感情。大きな手が、あたしの中に入り込んで心を掴み、潰そうとしている。そんな息苦しさが、じわじわとわたしを呑み込む。
「ヒナちゃんのキョウさんは、リアルだった?」
あたしは、危うく指に挟んでいたタバコを落としそうになった。ドキリと、というより、ゾクリ、という表現がピタリだったかもしれない。バクバクとなる胸の鼓動を押し隠す。
そういえば、あの日のキョウさんのキスの意味は分からないし、聞いていない。色んな女のヒトと寝ていると言われているキョウさん。けれど、お店のコには決して手を出さないと言われている。
だからこそ、あたしはあのキスに特別な意味を見出していた。もちろん、勝手に。聞いて確かめたい自分と、怖くて聞けない自分。そのせめぎ合いがずっと続いている。
聞いたとして、意味は無かった、ただの流れ、そう言ってもらえばあたしはスッキリするのだろうか。ううん、スッキリなんてしない。立ち上がる事も出来なくなる、きっと。あたしはこれからも、あの痺れるような、媚薬のようなキスを胸の片隅に置いて蓋をしたまま生きていくのかもしれない。
でも、どうしてリボンちゃんそんな事を聞くの? 様々な憶測があたしの頭の中を一瞬で駆け抜ける。キョウさんと話し合って、ソープに移ったというリボンちゃんは、キョウさんとどんな話し合いがあったの?
「どういう、意味?」
世の中には、知りたくないことがたくさんある。知らない方が幸せなこともある。思わず聞き返してしまったけれど、あたしは後悔した。
リボンちゃんは、少し顎を上げて煙を吐き出していた。上向き加減だった顔を戻して、視線があたしのところに戻ってきた時には、いつもの柔らかなリボンちゃんの表情に戻っていた。
「ヒナちゃん、キョウさんに本気になると、ソープとか、ストリップに売られちゃう、っていう噂、知ってる?」
胸を、ナイフで一突きされたような衝撃だった。
「し、知らない」
少し前より心臓の鼓動が増している。油断してると、タバコを持ってる手が、震える。
「そんな噂、知らない」
自分に言い聞かせ、確認するように、改めて言い直してみたけれど、急に、キョウさんという男の人に得体の知れない怖さみたいなものを感じ始めた。
あたしは彼の何を知ってる? 本当の名前は? ここの店長は本業? そういえば、あたしは、彼の何も知らない。
「リボンちゃんは、キョウさんに本気になったの?」
いつもの自分の精神状態だったら口にしない言葉だったかもしれない。あたしは明らかに動揺していた。
こういうお仕事をしている女の子は嗅覚が鋭い。リボンちゃんは何に気付いて、何かを見たのだろう。
リボンちゃんが半ば虚ろな表情で揺れ上る煙を見つめて言った。
「半分はそうで、半分はそうじゃない、かな」
意味深な返答にあたしは身構えた。リボンちゃんは何に対してフィフティフィフティの回答をしたの? ソープに移ったこと? それとも――。
あたしの脳内を、まとまりを欠いた憶測が巡り廻る。漠然としてしまった、霧のような、煙のような、形のないものになってしまった不毛な会話となりそうな気配が漂い始めた時だった。
「ヒナちゃーん、スタンバイスタンバイー!」
スタジオの方から声がした。
小さな写真スタジオは被写体を呼ぶのに楽屋までわざわざ足を運ばない。大声を張り上げればしっかりと聞こえる。
あたしは、
「はーい、今行きまーす!」
と答えてタバコを灰皿でもみ消した。
「じゃあね、ヒナちゃん。綺麗に撮ってもらってね」
リボンちゃんはいつもの優しい笑顔で手を振った。あたしはまだ話し足りなくて、待ってて、て言おうと思ったけど、出来なかった。リボンちゃんの笑顔がそれを拒んで見えたから。
「うん。リボンちゃん、また、会えるよね?」
リボンちゃんは、うん、と頷いていた。
あたしは、今日のお話しの続き聞かせて、という意味を込めて言ったのだけど、通じたかは分からない。
撮影が終わって楽屋に戻った時には、リボンちゃんの残り香すら感じることは出来なかった。
リボンちゃんの気持ちは、どこにあったのかな。
ソープに行ったのは、リボンちゃんの意志だったって思いたかった。
どんなに愚かと分かっていても、あのキスの意味が微かな希望となってあたしの胸の奥底で小さな蕾となっていた。永遠に花開かせる事などない蕾なのだ、と心の何処かで分かっていても――。
6
「ヒナちゃんは恋をしてるのかな?」
お客さんの中で、そんな事を言う人がたまにいた。そういう時、あたしの応えはいつも決まっていた。
「ヒナは、ここでしか生きてません。ここで恋をするんですよ」
小さなこの空間で生きているのはヒナ。ヒナはここでしか生きられないの。
この、小さな狭い空間で始まって刹那で終わる、偽物の恋。それは、破綻のない、苦しむことのない安全な、恋。あたしはどんどん臆病になっていく自分をどうすることもできなかった。
お客さんに、どんなに偉そうなことを言ってみたって、本当のわたしはやっぱり何も知らない恋の下手な女の子のままだった。
ここから飛び出して跳び立つ勇気は萎む一方で相変わらず先の見えないあたしの前に、もう一つの試練が立ちふさがった。偶然とは、神様のいたずらか。そう思わされる試練が。
昼前に降り出した雨は夕方になってひどくなった。こんな日は、雨宿りがてらにやってくるお客さんがいる。忙しくなるかな、と部屋の準備を始めていたあたしのところに店番をしている男の子がやって来た。
「ヒナちゃん、ちょっと新しいお客さんいいかな」
いいですよ、と答えると店番クンは安堵の表情を見せた。
「まったくのご新規のお客さんじゃなくて、半年ぶりくらいかな」
常連さんだったけどしばらく来ておらず、久しぶりに来店したお客さんということはあたしの知らない常連さんで、初対面の筈だったのに。あたしは、部屋に案内されて来たお客さんの顔を見て固まった。見知った男だったのだ。
久しぶりに会った彼は昔の面影を色濃く残しており、あたしはひと目で分かってしまった。間違いなく地元の小学校中学校で一緒だった同級生だった。
高校からは別となり、見かけることすらなかったのに、こんなところで再会するなんて。
向こうがあたしのことを覚えていなければいい、あたしの顔なんて分からなければいい、と心の中で願い、知らぬふりをするつもりだった。けれどあたしの顔を見た彼の表情がはっきりと変わった。
「どうして、お前こんなとこに……」
それは、あたしのセリフだ。こういう店に常連として現れるような男になっているなんて、思いもしなかった。
彼は小学校の時から周りの子よりも一回りは身体の大きかった彼はスポーツも勉強もよく出来た。ただ、性格は横柄で粗暴だった。弱いモノをターゲットにした虐めを繰り返す、いわゆる真正のいじめっ子だった。
中学生になってからは先頭に立って大人しい子に乱暴する姿をよく見かけた。けれど、父親がPTA会長で一見すると優等生だった彼は先生の受けが良く、文句を言える者はいなかった。あたしもそんな彼にいじめられた子供の一人だった。
全身総毛立ち、歯の根が合わなくなりそう。トラウマだ。気持ち悪くなりそうな不快な感覚に呑み込まれそうになる意識を寸でのところで持ちこたえていた。
「シャワー、浴びましょうか」
震えそうな声をなんとか堪えて平静を装い、あたしは言った。
今夜ここに現れた以上、彼はあくまでお客さんだ。ドクドクと激しく脈打つ鼓動を必死に抑え、ひきつる笑みを顔に貼り付けた。けれど彼は首を横に振り、服を脱ぐこともなくベッドに腰を下ろした。
あたしは、身構えた。何を、考えているの? 生きるか死ぬかを賭けて敵の出方を懸命に探ろうとする野生動物はこんな感覚になっているのかもしれない。あたしは瞬きもせずに彼を凝視していた。
「そんな怖い顔するなよ」
いつのまにか営業用の作り笑いすら忘れ、背中にいやな汗が流れるくらい緊張で全身が強張っていた。声を張らせて気丈に振る舞い、彼に問う。
「あたしは、どうすればいいの」
彼から返ってきた言葉は想定を大きく外れたものだった。
「話しを聞いてくれるだけでいい」
耳を疑った、というより、彼が発した言葉の意味が分からなかった。あたしは反射的に、え? と聞き返してしまった。
「話しだけでいいんだ」
要するに、ヘルスのサービスを受けずに話しだけしよう、と?
何を話すの? あたしがこんな仕事してること、誰もしらない。もちろん、親も。まさか、それをネタに脅そうっていうの? あたしは身じろぎもせずに突っ立ったまま警戒感むき出しの表情で彼を睨んでいた。ベッドに座る彼はそんなあたしを見上げて言った。
「誰かに話したりはしねーよ。そんなことしたら、俺がこういう店に来てることを言いふらすようなもんだろ」
そうか、そういえば。あたしの警戒が、少しだけ、ほんの少しだけ解れた。僅かな余裕を持ったあたしは彼を観察し始めた。
スーツ姿。恐らく、どこかの企業に勤めるサラリーマンなのだろう。
「じゃあ、時間一杯お付き合い、します」
覚悟を決めたあたしは、彼の濡れた上着を脱ぐように促し、それを受け取るとハンガーに掛けた。そして、隣には座らず、ベッドに座る彼の真向い、地べたに腰を下ろして足を流し、横座りに座った。話しを聞くなら隣じゃなくて、向き合わないと、って思ったから。
「お前、いつからこんな仕事?」
「半年くらい前、かな」
月並みな話題から始まった。一見して変わらないと思った、昔の面影を色濃く残す彼だったけれどよく見ると、疲れているのか、まだ23なのにやつれた感が拭えなかった。自信に満ち溢れ、傲岸不遜、といった印象に満ち満ちていた過去の彼はそこになかった。
時の流れは、人をどんな風に変えるのだろう。
薄暗く狭い空間は、非日常の世界へと誘うせいか、不思議と気持ちがリラックスする人がいる。彼もそのタイプのようだった。真っすぐに向き合い、静かに問いかけるだけで、驚くくらい素直に自らの現実を語り始めた。
彼の言葉は、堰を切った奔流のようだった。地元では通用した常識など虚構に過ぎなかった。守られ、庇われ、ぬくぬくと育んできた自我に対するプライド。根拠のない下地によって支えられた自信など、砂上の城のように脆く儚いものだった。
就職で東京に出て来た彼を待っていたのはプライドの崩壊という現実だった。
切れ目なく、よどみなく話す彼は心の丈を打ち明けるだけに必死に見えた。心の滓の浄化に懸命に思えた。
彼自身の性格からいって、誰かに心情を吐露することなど、弱り切った心をたとえ家族であってもさらけ出すことなど出来なかったのだろう。
最後に残されたプライドの欠片まで失うわけにはいかない。恐らく、それが男なのだと思う。
あたしは必死に考えた。どんなに、思い出したくはないほどに嫌いであった男であっても、今、この空間にいる間彼は?
〝疑似恋人〟
ここで商売として行う種類のサービスを一切受けずにこうして話しだけすることを望むようなお客さんはいる。そんなお客さんには、手を握ってあげたり、抱きしめてあげたり、キスをしてあげたり。どうするかは、状況に応じて。
話し終わって肩を落とし、ため息を吐いた彼をあたしはそっと胸に抱きしめた。こんなサービスもある。ここは、そういう場所なんだ。
今まで、お客さんのここでの限定的な素直な感情は、カラダを触れ合うことで導き出せたと思っていたのだけれど、性的欲求の捌け口だけじゃなく、日常から離れて心の滓を洗い流す事を求めてくる男の人だっている。
すべて、根幹は同じ。
――男の人って案外可愛いでしょ。
リボンちゃんの言葉を、あたしは今改めて噛みしめていた。ホント、その通りだったよ、リボンちゃん。
あたしはここで〝疑似恋人〟になるんだ。
時間一杯私の腕の中でじっと目を閉じていた彼は言った。
「人の肌って、やっぱりいいな。心臓の音も」
心臓の鼓動が聞こえる場所。きっと人は、お母さんの胎内が一番落ち着く場所なのかもしれないね。
彼は帰り際、まだ半乾きの上着を羽織り、言った。
「きっと、もうここには来ない。もう会わないだろう。このことは、誰にも話さないから安心しろよ」
人は、大人になる。それが、普通なの。その普通が出来ないから、苦しむのね。
7
最後のお客さんが帰ると、女の子達は、使った部屋をちゃんと片付けてお掃除して、それが終わって初めて仕事上がり、となる。
今夜の最後のお客さんは、あたしのお客さんだった。部屋からお客さんを送り出すと、キョウさんに「お疲れ様でーす」と挨拶をして帰る女の子たちの声が裏から聞こえた。女の子達が帰って行き、店内は音楽も消え、静かになった。今夜は、あたしが最後ね。
「表は締めるから、ヒナ、俺と裏から出るぞ」
あたしの胸にドキンという大きな脈動があった。これは、二人きりになってしまったという動揺。
店内の静寂が、闇に潜む生き物の胎動を伝え始めたかのように肌にまとわりついてきた。空気に、圧し掛かるような重さを感じる。
これは緊張? 底から湧き起るのは、言い知れない、何か。
あたしはキョウさんの言葉に、ハイ、と精一杯明るく答え、片付ける為に部屋に入った。
個室に常備されている小道具、ローションのボトルとか、コンドームが入った小箱とか、そういったものは、部屋を使う女の子達が仕事を始める前にそれぞれ使いやすい場所にセッティングして、お客さんを迎える。そして、最後のお客さんを送り出すと、ちゃんと定位置に戻す。部屋の使い主は毎日変わるから。
部屋の掃除が終わると、シャワールーム掃除。けれどこれはソープと違って各個室になくて共同だから、最後に残った子が掃除をすることになっている。
まずは部屋の片づけ、とあたしがローションやオイルのボトルを定位置に戻し始めた時だった。
「俺がシャワールーム掃除してやるから、ヒナは部屋の掃除だけな」
キョウさんが、さらりとそんな事を言った。
「え、そんな、そんなことキョウさんにさせる訳には」
キョウさんは、いいから、とひらりと手を振り、シャワールームに入って行った。
あたし自身は久しぶりに一番最後になったのだけど、今までは閉店後から店の鍵を締めるまで、店番の男の子がいた。だから、お店でこうしてキョウさんと二人きりになることはもちろん、閉店後の後片付けを手伝ってくれるなんてことはまずなかった。
これは初めてのシチュエーションだと考えた時、あたしは、あれ、と思った。
店番クン、いつからいなくなった?
いつの間にか、開店準備も店番も、閉店業務も、キョウさんがすべて一人でこなすようになっていた。ここ以外でやっていたヘルスの店、すべて畳んだって言っていた。
業務縮小?
そんなことがパッとあたしの脳裏に浮かんだ。
最近、新しい女の子が入ってこなくなった。誰かが休んだりやめたりしてもそこにヘルプを頼むこともなくなった。あきらかに、営業形態が細くなっていた。
思い当たる節はある。
時代による変遷の余波は、夜の街に押し寄せる。繁華街に於いてあまり品が良いとは言えない文字が描かれたネオンの看板を消そうという動きもあり、店舗を構えるハコ営業の風当りはますます強くなっていた。
世間一般でいう、道理道徳に背く、秩序倫理を乱すもの。そんな、品性、品行を守る為、という名のもとに、風俗は闇へと消える。ううん、消えたのではない。日の当たらない、日陰へと身を隠すのだ。そして、地下へと。
キョウさんは、そこに何かを見入出したのだろうか。
片付け、掃除の後リネンのバッグに使ったシーツやタオルを入れ、新しいものを揃え終えるとシャワールームから出て来たキョウさんが「おつかれさん」と缶コーヒーを渡してくれた。
「少し、話してもいいか」
ドキンとしたあたしの胸に、交錯する複雑な想いが流れ込む。頷きはしたものの、胸にはあの日のキスが蘇る。締め付けられた心が、きいぃ、と軋んだ。
答えを求めてさ迷って、結局、全てを知ることを恐れて諦めた。このまま、日々の時流が止まったままである事を願い、傍にいられる関係が続くこと望んで、今日まで過ごして来てしまった。離れなければ前に進めない、と知りながら。
「ヒナはここを辞めた後のこと、ちゃんと考えているか?」
キョウさんの言葉が呑み込めなかった。愚かにもあたしは首を傾げることしか出来なかったけれど、キョウさんの目は真剣だった。まっすぐに射るように、強く光る目があたしを見つめていた。
「ヒナは先が、将来が見えているか、って聞きたかったんだ」
あたしの、将来? 先に見えるもの? 拍動が、加速する。鳴動のような鼓動が、頭にガンガンと響き始めた。頭のどこかではわかってた。ここにいる女の子達の出入りの回転が早いのはなぜか、少し考えれば分かること。
あたしの足には、足枷が付いている。その足枷は、何だろう。正体の分からない足枷に囚われてあたしは前に進めないのだろうか。でも、それがなければ前に進めるの? じゃあ、この足枷と思っているものは? 答えの見つからない愚問は堂々巡り。
キョウさんの瞳が妖しく光って見えて、心が大きな手で掴まれた気がした。
あたしは、この疑似恋空間から出ていきたくなかったんだ。傷つくことなく安全で、外界の危険に晒されることなく籠の中で守られている鳥でいられる空間から。
疑似恋愛ならば、心は殻から出ることはない。心の芯を傷つけられることもない。だから、前に進めなかった。進みたくなかった。嘘の恋を上塗りする為に、わたしはここで生きている。
「あたしは、ここでしか、生きられないの」
親にも言えない仕事にどっぷりと浸かっていながら、快楽と悦楽の世界で、あたしは生きている事を実感できて、それを恍惚と錯覚する感覚に溺れていたかった。
気付けばあたしは、あの日と同じ腕の中にいた。目を大きく見開いたあたしの視線の先でキョウさんは、フッと笑った。その笑みが醸し出す妖艶なオーラに、あたしは固唾を呑んだ。そのまま、キョウさんに、全てが呑み込まれていった。
狭いベッドに抱かれたまま倒れ込む。キョウさんの、カラダを全身で感じた。
キスの意味? この行動の意味? そんなの、関係ない!
あたし達は、激しいキスをした。唇を押し当て、舌を絡め、互いに吸う。求めて止まない込み上げる、迸る感情は、もう止められない。
別れが近いこと、離れる日は必ず来ること、心の何処かで敏感に感じ取っていた。この恋が叶う日は決してこないことなんて、ちゃんと分かっていた。
彼の指が、唇が、あたしの躰を愛撫する。触れられるところが、熱を帯びる。今はキョウさんのすべての行為が不思議な高揚を煽る遊戯となる。
口づけを交わしたまま、わたしはキョウさんにしがみついた。
絡まる舌にあたしの舌がゆっくりと掬われ軽く吸われ、そしてそっと唇が離れた。
キョウさんの目は、黒曜石のように綺麗な黒。妖しく光るその瞳に、完全に心が捉えられていた。
理由なんて、いらない。暴走する感情なんて、誰にも止められないんだわ。
高鳴る胸に比例して増す息苦しさ。この先は、どうするの。あたしは、ここから、どうなるの。
「んん、あ……」
侵入した指に悶えるあたしは「ヒナ……」と囁く耳から滑り込む甘い声に震えてキョウさんにしがみついた。
「は……あっ」
吐息と共に嬌声が漏れた時、す、と指が抜かれそれと入れ替わるモノが。
「んん……あっ、ああっ!」
一気に貫いた熱いモノが奥を突いた。躰がビクンと痙攣する。ナカで蠢く感覚に全身がゾクゾクした次の瞬間。
――あ……!
真珠が当たった。その感触があった時、キョウさんは〝プロ〟なんだ。そうはっきりと思った。
頭の奥がスッと醒めるのを感じた時、彼はあたしの中でビジュアルになった。興奮の時は、あまりにも短かった。疑似恋空間にはやっぱりリアルな恋なんてなかったのかもしれない。
8
店を出た時にはもう、東の空が白み始めていた。夜通し呑んだことを窺わせるサラリーマンや、仕事上がりのホステス、だらしなくしゃがみこんでタバコを吸うホストと思われる男性の姿が、この街には違和感ない風景として溶け込んでいる。明け方のこの街はまるでゾンビの住む街のようだ。
この時間は車もほとんど通らない。裏のホコ天タイムだ。車道に出たあたしは真ん中に立ち、大きく伸びをした。
なんだか、スッキリしている。このゾンビの街が、爽やかに見えるくらい。
前が見えなくて怖くて、ここにいれば安心、っていう場所に留まっていたあたしを引き止めていたもの。重くて、動けば鎖のようにジャラジャラと鳴る。その音にビクッとなって、また止まる。音が鳴れば、周囲に気付かれ、自分を傷つけるありとあらゆるものを呼び寄せるから。だから、ジッとしていればいい。動かなければ、傷つかない。
そんなことの繰り返しだったんだ。
けれどその、動かずにいる場所が虚空の場所だったなら。いつ崩れるか分からない、その時に後悔しても、もう遅い。
飛び出さなければ、外へ、跳び立たなければ。崩れる虚空の世界と一緒に、自らも、奈落へと落ちて行く。
目が、覚めた。あたしは自ら外せる足枷を、あたし自身が外さなかっただけだった。だから。
「あたし、足枷が取れたわ」
自然とそう呟いていた。あたしの傍でキョウさんが、タバコに火を点けながらフッと笑った。
「前に進めそうか」
あたしはキョウさんを見た。キョウさんは、明るさを増してきた朝の陽光を受けて眩しそうに目を細めていた。
あたしはキョウさんを真っ直ぐに見つめて「うん」と一言答えた。キョウさんはタバコを口にくわえて、ニッと笑った。
あたしが停滞したままどうにもならなくなっていることをキョウさんは知っていたのだろう。だから今、〝足枷〟と言ったあたしの言葉を自然と受け入れ「前に進めそうか」と聞いたんだ。
キョウさんは、ここでしか生きられない、と言ったあたしに現実を、リアルを見せた。それは、残酷な教えであり、優しさであったのだと思う。
キョウさんは店の入っているビルを見上げていた。
「これで、心置きなくこの店が畳めるな」
あたしは、目を見開いてキョウさんを見た。
「このお店、閉めるんですか?」
そんな。いくら前に進む気持ちになれたと言ってもあたしはまだ、具体的なビジョンが見えたわけではない。今ここで、外に放り投げられても、路頭に迷う。
縋るような気持ちは顔に出た。キョウさんは、肩を竦めて笑った。
「直ぐじゃねーよ。でも、もうずっと前から決めていたことだ。ここ数年で、ハコ営業に対する風当たりが厳しくなったろ。ヘルスも、時代はデリバリーが主流だ。いずれにしろ」
そこで言葉を切ったキョウさんは、タバコを捨てて足でもみ消した。
「数年のうちにハコはこの街から消えるだろ」
時は流れる。様々な変遷を経て時代も変わる。風俗だってサービス業態も形態も、時代時代で多種多様な変様を遂げて現代へと繋がっている。それは、進化なのか、退化なのか。
時代の変化によって押し寄せる波に翻弄されるのはいつの時代も水のもの。ヘルスも例外ではなく。
「俺は、自分の商売を自分の目の届かないところにまで広げるつもりはない。だからデリバリーをしてまで続けるつもりはない。この商売は、この店を最期に一切辞める」
だから、他の店は全て閉めてここだけを残し、しかも残したここも縮小していたんだ。いつでもここも閉められるように。
「でも、この仕事を辞めたらキョウさんは?」
キョウさんはあたしの問いに、クククと笑った。
「俺は、ずっと歩き続けてる。ずっと前を見てる」
キョウさんは、同じ場所になど留まっているような人ではないのだ。
顔を伏せたあたしの目に、汚いアスファルトの地面が映った。風に乗ってどこかから飛んで来たピンクチラシがミュールに絡みつく。あたしは、それを暫く見ていたけれど、再び吹き抜けた朝の風に舞い上がり、跳んで行った。
「あたし、帰ろうかな」
地面を蹴るあたしの視界の端に、こちらを向くキョウさんが見えた。少し意外そうな表情にも見えた。でも直ぐに、フッと笑った。
「いいんじゃないか」
引き止めはしないのね。そんな、自分でも分からない少し拗ねたような感情が胸の奥にぽつりと落とされた。それを、バカね何を考えているの、前に進むと決めたじゃないの、と直ぐに打ち消す。
まだ、禅問答のような答えの見つからない問いがあたしの中でぐるぐると巡っている。キョウさんへの感情よりも、この仕事から離れる迷いだ、きっと。あたしは、他に何の仕事が出来るというのだろう。
「また戻ってくるのは、ヒナの自由だ」
あたしがハッと顔を上げると、キョウさんはポケットに手を突っ込み、空を見つめていた。
「この仕事が好きなら、続ければいい。別に、ヘルスにこだわる必要はないだろ。違う形だっていい。何か、掴んだんじゃないのか?」
見失いかけていた。
そうだった。自らの恋と迷いに囚われて、掴みかけていた小さな希望の種を見失うところだった。
でも、ぼんやりと照らし出されたあたしの道を、もう一人の自分が一つの言葉を吐いて遮る。
〝所詮は、風俗でしょう?〟
再び黙り込んでしまったあたしの胸に、キョウさんが言った。
「夜だけ咲く花っていうのがあるんだってな。俺はこんなだから、花なんて知らねーけど、月の光の下で咲く花ってのがあるって、昔ホストをしていた時に客から聞いた事がある。別に、日の光だけが全てじゃねーんだ。個性だよ。他人を、どんな形であれ、悦ばせてやれるのがこの仕事だ。この商売はどの時代からも必要とされてきたから、形を変えながらも絶える事なく脈々と続いてきてるんだ。俺は勝手にそう解釈してる」
顔を上げたあたしにキョウさんはフワリと笑った。
「胸を張って生きりゃいい。この商売の形は様々だ。一度立ち止まって何が出来るか考えて、また歩き出したっていいだろ」
そうだ、商売の形は様々。時代とともに変遷することが余儀なくされるのなら、こちらも変わればいい。
柔軟に、しなやかに、したたかに。恋を、売るのだ。それが束の間の、偽りの恋であっても、あたしは確かに、そこに手応えを感じたのだから。
あたしの心に生まれた余裕を汲み取ったかのようにキョウさんはニッと意味深に笑った。
「女には、女の数だけ生き方と人生がある、だろ?」
それは、初めて会った時にセイジさんが言った言葉の単語を置き換えたもの。あの時の言葉は確かにその通りだった。
あたしの人生は、あたしにしか出来ないあたしの生き方。誰にも文句は言わせない。あたしは前に進む。だけど、もう一度だけ。
夢と虚構の疑似恋の空間をください。
あたしが伸ばした手を、キョウさんがグッと掴んだ。そして、抱き寄せて。
熱い身体と唇の感触、スパイシーな芳香は、この身体の五感がしっかりと感じるビジュアルではないリアル。宵と明けの狭間。刹那の時間の束の間の、路上キスは、幻のよう。
これが、あたしの恋。これが、あたしの恋の仕方。
*
眠らぬ街の繁華街にあるファーストフード店は二十四時間のどの断片を取っても混雑している。一階席も二階席も多種多様な客層で溢れ返ってほぼ満席だ。男の声、女の声、高い声、低い声、音が音を覆い、被せ、空気に色を塗っていた。
この繁華街がある場所のせいか、ビビッドカラーのド派手スーツを着ている男性が浮かない。むしろ溶け込んで見えるから不思議だ。
あたしと向かい合って座るそのド派手スーツの男性はクールな笑みを浮かべ、聞いた。
「こういう仕事は初めてか?」
「……はい」
ある分野の求人情報誌の中に、これなら出来るかもしれない、と思える仕事を見つけて書かれていた番号に連絡を入れてみた。そんな軽い気持ちだった。
電話に出た男の人は、こちらが迷う暇もなく面接を決め、その日のうちにあたしをこのファーストフード店に呼び出した。
緊張するあたしの前に現れたのは、あきらかに普通のサラリーマンとは違う色合いのスーツを着たホストかと思わされる若い男の人だった。
謎めいた雰囲気を纏い、人を惹き込む魔力にも似た蠱惑の魅力を放つ彼は感情の読めない切れ長の目であたしを観察しているようだった。
気圧されそう。身構えてすっかり固くなってしまっていたあたしに彼は穏やかな笑みを見せた。そして、この仕事の経験を聞いてきたのだ。
初めてである事を伝えなければ、と思ったのにあたしの喉の奥は貼りついたように塞がって言葉が出ず、はい、と掠れる声で答えるだけで精いっぱいになってしまった。
「じゃあ、詳しいことはまだよくわかんねーか」
「はい」
そうか、と彼は顎に手を当て思案顔をした。
「この後予定とかはあるか?」
「あ、えっと……ないです」
パッと向き直った彼に聞かれ、あたしは慌てて答えた。答えてから、予定はないよね、と頭の中で確認した。
「じゃあ、ちょっと講習受けてもらえるかな。ちゃんとしたサービスしてもらう為に必要なんだ」
――こうしゅう?
先見の明のないあたしには、後に目眩く未知の世界が待っているなんて想像も出来なかった
言われるがままに連れてこられたのは、こてこての、カラフルなネオン看板をくっ付けたビルが軒を連ねる歓楽街だった。ネオンが灯り始める時間、あたしは緊張と不安に駆られる胸を抱えて彼の後に付いて行き、建ち並ぶビルの一つに入った。
エレベーターを三階で降りると、目の前はすぐにキラキラの看板が付いたお店の入口になっていた。
店に入ってすぐのカウンターに立っていた店番と思われる若い男の子が頭を下げた。
「キョウさん、お疲れです!」
その時初めて、面接をしてくれたこのお兄さんが〝キョウさん〟という人であることを知った。
キョウさんはその店番の彼と話しを始めた。
「ちょっと一番奥の部屋使うから」
「あ、講習スね」
店番クンはそう答えるとあたしにニッコリ笑って言った。
「しっかり教えてもらってね」
薄暗い店内には大音量の音楽が流れていた。薄そうな壁で仕切ったブースのような個室が並んでいて、あたしはその一番奥の部屋に通された。
狭い個室には、小さなベッドが一つ。隅に置かれたスチール棚には何かのボトルが整然と並び、綺麗に畳まれたタオルも収まっていた。
「先ずはシャワーからな」
キョトンとするあたしに、キョウさんはクックと笑ってみせた。
「お客と一緒にシャワーを浴びるとこからサービスが始まんだよ。やり方全部教えてやるからさ、来いよ」
そう言いながら優しく笑った彼は指の長いしなやかな手を差し出した。
その手、その声、その笑顔。ここは呪詛の部屋? この時胸に覚えた違和感は、何かに似ていた。
キョウさんは、お客さんの洋服の脱がせ方をあたしの服を脱がせながら教えてくれた。気持ちを解し、和む雰囲気を作ることを心がけ、一枚ずつ丁寧に脱がせていく。下着だけになったあたしに彼は言った。
「じゃ、教えたように俺のやってみて」
あたしは、キョウさんに教えられたとおり、彼の着ている上着を脱がせ、ネクタイを外し、ワイシャツのボタンを外していった。
手が、震えていた。男性経験が無い訳じゃない。けれど自分がこんな……エスコートするような事はした事はなかったから。
あたしは、この時に初めて、自分が飛び込もうとしている世界の片鱗を見た気がした。
あたしは、もしかしたらとんでもないことを始めようとしているのかもしれない。ゴクンと固唾を呑みこんだあたしの手が、止まった。
知らない世界を見ることへの不安が、そこへ踏み込むことへの恐怖が、あたしの思考を縛り付けていく。
あたしは、自分の手元をじっと見たまま、その先に進めなくなってしまった。
どうしよう。
あたし――、怖い。
「誰だって最初はそうだから気にする事はねーよ」
ふと踏みとどまるあたしの心にジワリと染み込む色っぽく甘い声に、躰の芯が熱くなっていく。
非現実の世界がここにあるんだ。そこを、わたしは覗こうとしているんだ。あたしはゆっくりと頷いた。
もう、引き返せない。
ワイシャツのボタンを全て外し、露になった彼のカラダは自分が見たこともないくらいに綺麗な男のカラダだった。
香るフレグランスが鼻腔から滑り込み、頭がおかしくなる寸前のあたしは、ただ「はい」と答えるだけで精一杯だった。
正直、自分でも分からなかった。きっと、何も見えていなかったんだと思う。
あたしが選んだ新しいお仕事は〝ファッションヘルス〟という名のもとに行われるサービス業。一言で言えば、性を商売とするお仕事だった。
漠然としか考えていなかったあたしの目に付いたのは、求人情報雑誌に書かれていた『ソフトなお仕事です』という触込み文句だった。
簡単というイメージを与えるキャッチフレーズは、いともたやすくあたしの心を掴んだ。安易な気持ちだったんだ。
どんなものであれ、気軽にできる仕事なんてある訳なかった。
基本、本番無しのヘルスで男性を〝抜かせて〟あげるにはヘルスなりのテクニックがある。だから、講習をする。講習とは文字通り、サービスを一から教わる事だった。
今までの性生活で使った事もない技を、彼は自分の身体で分かりやすく教えてくれたけれど、付き合ってもない男の人の〝ソレ〟を目にし、触る、という行為は、あたしにしてみれば、想像と思考のキャパシティーのリミッターをいとも簡単に超えさせる衝撃で、目がチカチカしたまま、その時教えてもらった事なんて、三分の一も頭に入ってこなかった。
「誰だって最初っからスゲーテクなんて使える訳じゃねーから気にすんな。大丈夫だ。不慣れなのが好きな客もいるんだよ。男の数だけフェチの数もあるんだ」
キョウさんの言葉と笑顔はあたしの胸に一瞬何かを過らせた。あたしは深呼吸をしてそれをやり過ごした。
「できそうか?」
「はい、何とか……」
優しく聞かれて掠れる声で答えたあたしの頭をキョウさんはくしゃっと撫でた。
「俺は店長してるてキョウ。よろしくな」
年の頃はどう見ても20代前半。こんなに若いのに店長さんなんだ、と、見上げた視線の先に人懐っこい笑顔があった。
妖しげな一面と時折見せる笑顔のギャップ。不思議な魅力は人の心をいとも簡単に掴んでしまう。あたしの胸を過ったのは、危険だよ、というシグナルだったのかもしれない。
「とりあえず、百聞はなんとか、だ。今日から働いてみるか?」
「あ、はい」
あたしは思わずそう答えていた。
なんとなく、ただ漫然と生きてきたあたしは、風俗という未知の世界もこんな形でなんとなく始めてしまった。
2
初めてのお客さんにあたしはどんなサービスをしたかなんて、殆ど覚えていない。最初は無我夢中だったから。ただ、時間内に抜かせてあげること。それだけに必死だったように思う。ひと月くらい経って、やっと、僅かながら余裕が出てきた。
ヘルスは、本番はしないのでお客さんのそれを膣に入れる事はしない。だから少しでも挿入感を味わってもらう為には色々な工夫がいる。太ももに挟んだり、おっぱいで挟んでみたり……。あたしはおっぱいが大きくはなかったから、体勢はちょっとキツイけど太ももに挟んで――いわゆる素股――というプレイをよく使った。
男の数だけフェチがある。キョウさんは上手いことを言う。あるお客さんに、しっかりと口で奥まで咥えて膣感を、とやってみたフェラチオが悦ばれて、同じサービスを別のお客さんにしてみたら全然反応が良くなかったこともあって気付いた。みんな〝ツボ〟が違うのだ。
そこからあたしは、お客さんを気持ち良くしてあげる為の探究をし始めた。お客さんに悦んで貰える瞬間が嬉しかったから。
あたしが、あたしのやり方で。あたしの躰で。そこにあたしは自分自身の悦楽を見出し始めていたのかもしれない。
半年前、長く付き合っていた彼にフラれて、あたしの心にはぽっかり穴が開いたままだった。秋風のような風が吹き抜けて、心がいつも震えてた。穴を埋めるものを見つけられず、あたしは掴みどころのない虚無感のようなものを抱えて、ふらふらゆらゆら、たゆたっていた。
短大を卒業してすることもなくお気楽なフリーターをしているだけだったのに、帰って来なさい、という実家の両親の言う事は聞けなかった。何かをしたい訳でもなかったのに。
これは、この仕事は、まるで霧に包まれたように行き先の見えない道を歩いていたあたしが見つけた一本道になのかもしれない。あたしの心の隙間を埋めてくれるのは、人の肌だったのかもしれない。
なんのとりえもなかったあたしが誰かに、刹那でも悦楽を与えられる。誰にでも必ず天職と言われるものがあるのなら、あたしにとっての天職はこの仕事だったのかもしれない。
けれど、昂揚感とは反比例して、あたしは本当は堕ちて行っているんだって、冷めた目をしたもう一人の自分の声、遠い意識で聞いていた。
お店で働く女の子はみんな明るく話しやすかった。その中で特にあたしと仲良くしてくれたのが、リボンちゃんという同い年の女のコだった。
人懐っこくて愛らしい、年よりも若く見えるコだった。外見だけ見ればあたしの方が大人びていたけど、この仕事はリボンちゃんの方が先輩で、よく相談に乗って貰った。お客さんの話も沢山し合った。
「ヒナちゃん、男の人って、みんな案外可愛いでしょ。アタシはいっつもそう思う」
タバコを指に挟むリボンちゃんはそんな事を言いながらよくケタケタ笑ってた。
〝ヒナ〟
お店であたしはそう名乗った。名付けてくれたのはキョウさんだった。
初日、キョウさんから「何月生まれ?」という突拍子もない質問を投げかけられた。あたしは正直に「三月」と答えた。すると、「そうか、三月はひな祭りがあるな。じゃあお前は今日からヒナな」とキョウさん。
まさか、源氏名の命名の為の質問だったとは。この店の女の子達の源氏名は、みんなキョウさんが付けていると他の女の子から教えてもらった。聞けば、リボンちゃんは、初めて会った時に大きなリボンの付いたバッグを持っていたから、とか。
あたしのように生まれ月から、は珍しいらしいけど、持ち物が目に付いたから、という時もあれば好きな動物から、という時もあるらしい。すべては彼のインスピレーションからという事か。
どこか、謎めいた雰囲気は、不思議な感覚を持ち合わせている彼の内面から来ているのだろうか。とりあえず、そんな事を経て、あたしはヒナになった。
キョウさん。
お店の女の子たちもみんなそう呼んでいたから自然、あたしもそう呼ぶようになったけど、名字はもちろん、その名が本当の名前なのかすら分からない。あたしの前にいるキョウさんからは、いつも何も見えては来なかったから。
だから、危険と分かったの。これ以上踏み込んだら危険と。
ただ、時の流れに身を任せたまま、なんとなく生きてきてしまったあたしの人生で、キョウさんという人が何かを変える。そんな気はした。それは、良い意味でも、悪い意味でも。
3
『男の人って、みんな可愛い』
リボンちゃんの言っていた言葉の意味、最近なんとなく分かってきた。
お客さんとして現れる男の人達は、みんな外ではどうなのか知らないけれど、この、ハコと言われる小さな空間では素直になる。
可愛い、すなわちそれは、素直になる、ということかな。きっと、この短い時間、この狭い空間でしか会う事の無いあたし達に、彼等は自らの〝素〟を、無防備な自分を、見せてくれるのだろう。
この限られた時間、隔絶された空間で、あたしは擬似恋愛をする。男の人に、夢と幸せをあげる。それが、あたしの仕事なんだ。
充足感を覚えつつあるあたしに心の余裕が出来た頃、今度は身体の余裕がなくなった。ヘルスは激務、という事実を知ったから。
本番無しのヘルスは、流れ作業のよう。一日に何十人も相手にするお客さんに、自分も納得できるような充分なサービスをするには時間が足りない事もあった。
もっと、何かしてあげれたらいいのに、そんな物足りなさを感じる事がしょっちゅうあったけれど、あたしは毎日毎日、沢山の男の人と触れ合って擬似恋愛を繰り返す。
ここに来る男の人が、何を望んでいるのか。アンテナを精一杯伸ばしていると、自ずと伝わってくる。
甘えるのが好きなタイプになら、お姉さんになって、威張りたいタイプになら、今度は反対に甘え上手な女性になったり、と男の人のタイプに合わせて、巧みに自分を変えていく。
あたし、まるでカメレオンみたい、と思った。あたしはこんなに器用な人間だったかしらって、少し驚きもした。
ちょっぴり休憩、とタバコを吸っているあたしのとこに時々キョウさんが顔を出した。
「キツそうだな。大丈夫か」
何気なく掛けてくれる言葉に、あたしの胸がドキンと大きな音を立てるようになっていた。心が傾かないように、必死に蓋をし続けなければ、自分が苦しむ。この人に本気で惚れてしまって、苦しまない未来が待っているわけがない。
分かっていたのに。あたしはいつかだったかこの魔法に掛かってしまっていたんだ。
貴方の笑顔が向けられるだけで、貴方のその声を耳にしてしまうだけで、胸が苦しくて、涙が出そうになる。
ちょっぴりキツイです。でもキョウさんに褒めて貰いたいから頑張りまーす! そんな冗談を笑って言える器用さが欲しかった。
「平気ですよー。これ一本吸ったらまたがんばっちゃいます。お客さん呼んでね」
あたしが言えるのはこれが精いっぱい。何かを嗅ぎ取られてお話し出来なくなったら、会えなくなったら、なんて考えただけでゾッとする。
結局、〝素〟のあたしは、恋なんて出来ない不器用な女のままだったんだ。
あたしは、いつもみたいにリボンちゃんと話している時にふと思っていた事を口にした。
「みんな、キョウさんの事はどんな風に思っているんだろう?」
リボンちゃんはタバコを指に挟んだまま大きな瞳であたしを見詰める。その瞳が、あたしの心を覗いているみたいでドキンとした。
リボンちゃんはクスッと笑い、言った。
「キョウさんは、あたし達から見れば〝バーチャル〟よ。惚れたらダメ、絶対に」
その言葉はまるで釘を刺すみたいだった。
あたしの胸に鈍痛が走る。顔をしかめてしまいそうになって慌てて笑顔を貼り付けた。
「バーチャル、かあ」
後は、アハハとわざとらしいくらいに声を立てて笑って胸の痛みを掻き消していた。
4
指名してくれるお客さんが増えた頃だった。あたしのお客さんがお店の中でトラブルを起こした。あたしはその当事者になった。巻き込まれた、と言うべきか。
いつもあたしを指名してくれた彼は、多い時は一日置きくらいに来てくれた。優しい人に思えた。あたしに、こんな仕事いつまでも続けていたらいけないよ、そんなことを言ってくれるような人だった。心に、そっと踏み込んでくる。掴もうと、手を伸ばしてきている。そんな印象を受けた。
あたしは、優しさに飢えていたのかな。この人はもしかしたら風俗で働く女の子も偏見なく見てくれる人なのかもしれない、とすら思うようになっていた。
束の間の疑似恋愛。悦んでくれていると思っていた。でも、全てが偽りだった。その人の全てが嘘だった。
ヘルスはソープとは違う。〝本番は無し〟というお客さんにも守ってもらうルールがある。そのルールを破ろうという暴挙に彼は出たのだ。彼の優しさは全て、ルールを破る為の礎だったのだ。
豹変した彼は薄く笑ってあたしを押さえつけ、乱暴に躰をまさぐった。
「散々、優しくして話し聞いてやったろ。こんな仕事してるくせして、カマトトぶって惜しんでんじゃねーよ」
言葉は刃のようだった。切りつけられたような痛みがあたしの胸に走った。
こんな仕事しているあたし達だって中身は生身の女なのに! こんな仕事だって、ルールがある。負けられない! あたしは、怒りと恐怖に震えながら掠れる声を絞り出した。
「ダメです……っ!」
あたしが声を上げるのと、キョウさんが部屋に押し入って来たのは、コンマ1秒くらいの差だったように思う。
この仕事を始めた時にキョウさんに言われた事があった。
『ヘルスは、本番は絶対しない。ヤらせろと迫る客には毅然と断れよ』
あたしは、部屋の隅で小さく震えながらお客さんを乱暴につまみ出すキョウさんの背中を見ていた。
少しして、キョウさんは他のお客さんや女のコ達に謝罪を入れてあたしのいる部屋に入ってきた。
部屋の隅で固まっていたあたしの前に座ったキョウさんは、ちょっと困った顔をしてみせた。それは普段、決して見せる事の無いキョウさんの〝素〟の表情にも見えて、あたしは完全に心を持っていかれた。
震える胸と、込み上げてくる、溢れそうな激情を抱えて見上げるあたしにキョウさんは言った。
「ごめんな」
あたしはキョウさんの目を見た。なぜ謝るの?
「俺、あの客がどんな男か知ってたんだ。知っててヒナの客にしてたんだ」
あたしの心の声が聞こえたような応えだった。でも、内容はちょっと聞き捨てならない。
あのお客さんが〝いわく付き〟と知っていてあたしのお客さんにしていた? 眉根を寄せるあたしを前に、キョウさんは目を逸らすことなく続けた。
「あの男、この辺りのヘルスは出禁になってやがるんだ。同じ事繰り返して。うちに来た時はどうすっかな、と思ったんだけどな、事を起こすまではこっちからは何も出来ねぇ。だから、ヒナを指名した時からずっとマークしてた。ヒナが変に警戒しねーよう黙ってた。ホントに悪かった」
そうか、あたし利用されたんだ。
ズキンという音と共に胸に痛みが走った。あたしは、心の蓋に重石を載せる。
「アハハハ、そうだったんですか―。やだなぁ、もう。でもあたし、キョウさんのお役に立ちました?」
胸の中の渦巻く感情を必死に外に追いやって、ピエロになるんだ。そうしないと、引き裂かれそうな胸が痛くて黙っていたら涙が出る。
引きつったような笑い声を立てていたあたしは、気付くとキョウさんの腕の中にいた。
固い胸とたくましい腕の感触が、下着しか着けていないあたしの躰に直に伝わる。全身でキョウさんを感じていた。
「絶対に、何もさせない、守ってやる自信があった。そうじゃなけりゃこんな事はしねーよ」
痺れをもたらす声だった。意味が掴めなかった。キョウさんの心が読めなかった。あたしは何も考えられなくなっていた。自分の心にブレーキをかけていた筈なのに、駄目だった?
女の子は、風俗という世界に足を踏み入れてしまった瞬間、まるで別の人格を与えられたように〝女の子〟じゃなくなってしまう。〝性〟というフィルターを通して見られてしまう。
それが哀しい、イヤだ、なんて思いながら、あたし達自身も世間の目と同じように冷静に傍観していたりする。どうせ自分は風俗嬢なの、って。でも、やっぱりあたし達は一人の普通の女の子で。
キョウさんは、正反対の感情がせめぎ合うジレンマの中で揺れているあたし達にフィルターなしで寄り添ってくれる人だった。
だから、キョウさんは特別に見えた。他の男の人とは違うって思ってた。
『キョウさんはバーチャルよ』
リボンちゃんの言葉は、この仕事をする女の子達にとってキョウさんのような男性はバーチャルとして捉えるべき存在なんだっていう意味だった。
でもねリボンちゃん。キョウさんはバーチャルなんかじゃない。リアルだった。温もりも感触も、現実のものだった。
その唇は優しく、柔らかく、甘く。あたしはこんなキスを知らない。カラダの芯から痺れさせる媚薬を投じる、そんなキスが、この世にあったなんて、知らなかった。
あたしは、キョウさんからは離れるべきだったのかもしれない。このままここにいたら、あたしの魂は辛苦と切なさに燃え尽きて灰となってしまうかもしれない。けれど、あたしはここから離れたらきっと、あたしでいられなくなる。
だから、あたしはここにいる。そう、決めた。
5
「ヒナちゃん、元気にしてたー?」
風俗情報誌のグラビア撮影で、数か月前にソープに移ったリボンちゃんに会った。控室で一緒になったあたし達は、二人でタバコを吸いながら久しぶりのお喋りを始めた。
リボンちゃんは、ちょっと困ったお客さんに気に入られ、付きまとわれた挙句、待ち伏せまでされてあの街にいられなくなった。
この仕事を続けたいならいっそのことソープに行ったらどうだとキョウさんに提案され、リボンちゃんはソープに移ったという。
「あたしは元気だよー。リボンちゃんはもう慣れた?」
えくぼができる人懐っこい笑顔を浮かべてゆったりと頷いたリボンちゃんは、以前からおっとりとした感じだったけど、益々大らかで柔らかな印象が強くなったように見えた。
男の人を悦ばせてあげる、それを自らの天職と信じている子はあたしだけじゃない。リボンちゃんから感じられたものは、誇りにも似た余裕かもしれなかった。
あたしはと言えば、あれからも変わらずキョウさんのお店で働いてる。本当は、あたしもどこかで吹っ切って、ここから飛び立って、リボンちゃんみたいに次のステップに進まなければいけないのかもしれない。でも、どうやって、どこを区切りに飛び立てばいいのか分からない。
あたしはもしかしたら、大事なタイミングを逃してしまったのかもしれない。何かを捨てなければ、あたしには未来に繋がる世界は一生見えないのかもしれない。もしかしたら今のところから離れなければ、あたしの未来はないのかもしれない。
そんなことを考えて、あたしはハッとした。
あたしは、今しか見えてない。このまま行ってどこに行くの?
今のところ?
仕事?
いつしか難しい顔になってしまったあたしの心を透かして見たように、リボンちゃんがクスッと笑った。
「キョウさんは元気?」
リボンちゃんから不意に投げかけられた問いに、あたしはビクと震えてしまった。ドキリとした。
その人はいまや〝仕事と切り離せないイコールあたしの中の大部分を占める存在〟になってしまっていた。
「元気だよ。相変わらずカッコイイよ」
カッコイイ、という言葉は、容姿だけに掛かる言葉じゃない。キョウさんの所作、行動、その全てを含み捉えたキョウさん像に掛かる修飾語。彼には〝カッコイイ〟という言葉がピタリと嵌まる。
脳裏に浮かべてしまった偶像に、あたしの胸がきゅうっと締まって、その痛みをごまかす為にタバコをくわえて思いきり煙を吸い込んだ。メンソールの味が、少しばかり頭をスッキリさせてくれた。
リボンちゃんは、そっか、と答えてフフフと笑った。その笑みが、いつものリボンちゃんと違って見えた。あたしの目には妖艶に映って、ドキッとした。どこかに、何か含みがあるようにも見えた。
「リボンちゃん?」
なんだろう、この胸に迫ってくるような感情。大きな手が、あたしの中に入り込んで心を掴み、潰そうとしている。そんな息苦しさが、じわじわとわたしを呑み込む。
「ヒナちゃんのキョウさんは、リアルだった?」
あたしは、危うく指に挟んでいたタバコを落としそうになった。ドキリと、というより、ゾクリ、という表現がピタリだったかもしれない。バクバクとなる胸の鼓動を押し隠す。
そういえば、あの日のキョウさんのキスの意味は分からないし、聞いていない。色んな女のヒトと寝ていると言われているキョウさん。けれど、お店のコには決して手を出さないと言われている。
だからこそ、あたしはあのキスに特別な意味を見出していた。もちろん、勝手に。聞いて確かめたい自分と、怖くて聞けない自分。そのせめぎ合いがずっと続いている。
聞いたとして、意味は無かった、ただの流れ、そう言ってもらえばあたしはスッキリするのだろうか。ううん、スッキリなんてしない。立ち上がる事も出来なくなる、きっと。あたしはこれからも、あの痺れるような、媚薬のようなキスを胸の片隅に置いて蓋をしたまま生きていくのかもしれない。
でも、どうしてリボンちゃんそんな事を聞くの? 様々な憶測があたしの頭の中を一瞬で駆け抜ける。キョウさんと話し合って、ソープに移ったというリボンちゃんは、キョウさんとどんな話し合いがあったの?
「どういう、意味?」
世の中には、知りたくないことがたくさんある。知らない方が幸せなこともある。思わず聞き返してしまったけれど、あたしは後悔した。
リボンちゃんは、少し顎を上げて煙を吐き出していた。上向き加減だった顔を戻して、視線があたしのところに戻ってきた時には、いつもの柔らかなリボンちゃんの表情に戻っていた。
「ヒナちゃん、キョウさんに本気になると、ソープとか、ストリップに売られちゃう、っていう噂、知ってる?」
胸を、ナイフで一突きされたような衝撃だった。
「し、知らない」
少し前より心臓の鼓動が増している。油断してると、タバコを持ってる手が、震える。
「そんな噂、知らない」
自分に言い聞かせ、確認するように、改めて言い直してみたけれど、急に、キョウさんという男の人に得体の知れない怖さみたいなものを感じ始めた。
あたしは彼の何を知ってる? 本当の名前は? ここの店長は本業? そういえば、あたしは、彼の何も知らない。
「リボンちゃんは、キョウさんに本気になったの?」
いつもの自分の精神状態だったら口にしない言葉だったかもしれない。あたしは明らかに動揺していた。
こういうお仕事をしている女の子は嗅覚が鋭い。リボンちゃんは何に気付いて、何かを見たのだろう。
リボンちゃんが半ば虚ろな表情で揺れ上る煙を見つめて言った。
「半分はそうで、半分はそうじゃない、かな」
意味深な返答にあたしは身構えた。リボンちゃんは何に対してフィフティフィフティの回答をしたの? ソープに移ったこと? それとも――。
あたしの脳内を、まとまりを欠いた憶測が巡り廻る。漠然としてしまった、霧のような、煙のような、形のないものになってしまった不毛な会話となりそうな気配が漂い始めた時だった。
「ヒナちゃーん、スタンバイスタンバイー!」
スタジオの方から声がした。
小さな写真スタジオは被写体を呼ぶのに楽屋までわざわざ足を運ばない。大声を張り上げればしっかりと聞こえる。
あたしは、
「はーい、今行きまーす!」
と答えてタバコを灰皿でもみ消した。
「じゃあね、ヒナちゃん。綺麗に撮ってもらってね」
リボンちゃんはいつもの優しい笑顔で手を振った。あたしはまだ話し足りなくて、待ってて、て言おうと思ったけど、出来なかった。リボンちゃんの笑顔がそれを拒んで見えたから。
「うん。リボンちゃん、また、会えるよね?」
リボンちゃんは、うん、と頷いていた。
あたしは、今日のお話しの続き聞かせて、という意味を込めて言ったのだけど、通じたかは分からない。
撮影が終わって楽屋に戻った時には、リボンちゃんの残り香すら感じることは出来なかった。
リボンちゃんの気持ちは、どこにあったのかな。
ソープに行ったのは、リボンちゃんの意志だったって思いたかった。
どんなに愚かと分かっていても、あのキスの意味が微かな希望となってあたしの胸の奥底で小さな蕾となっていた。永遠に花開かせる事などない蕾なのだ、と心の何処かで分かっていても――。
6
「ヒナちゃんは恋をしてるのかな?」
お客さんの中で、そんな事を言う人がたまにいた。そういう時、あたしの応えはいつも決まっていた。
「ヒナは、ここでしか生きてません。ここで恋をするんですよ」
小さなこの空間で生きているのはヒナ。ヒナはここでしか生きられないの。
この、小さな狭い空間で始まって刹那で終わる、偽物の恋。それは、破綻のない、苦しむことのない安全な、恋。あたしはどんどん臆病になっていく自分をどうすることもできなかった。
お客さんに、どんなに偉そうなことを言ってみたって、本当のわたしはやっぱり何も知らない恋の下手な女の子のままだった。
ここから飛び出して跳び立つ勇気は萎む一方で相変わらず先の見えないあたしの前に、もう一つの試練が立ちふさがった。偶然とは、神様のいたずらか。そう思わされる試練が。
昼前に降り出した雨は夕方になってひどくなった。こんな日は、雨宿りがてらにやってくるお客さんがいる。忙しくなるかな、と部屋の準備を始めていたあたしのところに店番をしている男の子がやって来た。
「ヒナちゃん、ちょっと新しいお客さんいいかな」
いいですよ、と答えると店番クンは安堵の表情を見せた。
「まったくのご新規のお客さんじゃなくて、半年ぶりくらいかな」
常連さんだったけどしばらく来ておらず、久しぶりに来店したお客さんということはあたしの知らない常連さんで、初対面の筈だったのに。あたしは、部屋に案内されて来たお客さんの顔を見て固まった。見知った男だったのだ。
久しぶりに会った彼は昔の面影を色濃く残しており、あたしはひと目で分かってしまった。間違いなく地元の小学校中学校で一緒だった同級生だった。
高校からは別となり、見かけることすらなかったのに、こんなところで再会するなんて。
向こうがあたしのことを覚えていなければいい、あたしの顔なんて分からなければいい、と心の中で願い、知らぬふりをするつもりだった。けれどあたしの顔を見た彼の表情がはっきりと変わった。
「どうして、お前こんなとこに……」
それは、あたしのセリフだ。こういう店に常連として現れるような男になっているなんて、思いもしなかった。
彼は小学校の時から周りの子よりも一回りは身体の大きかった彼はスポーツも勉強もよく出来た。ただ、性格は横柄で粗暴だった。弱いモノをターゲットにした虐めを繰り返す、いわゆる真正のいじめっ子だった。
中学生になってからは先頭に立って大人しい子に乱暴する姿をよく見かけた。けれど、父親がPTA会長で一見すると優等生だった彼は先生の受けが良く、文句を言える者はいなかった。あたしもそんな彼にいじめられた子供の一人だった。
全身総毛立ち、歯の根が合わなくなりそう。トラウマだ。気持ち悪くなりそうな不快な感覚に呑み込まれそうになる意識を寸でのところで持ちこたえていた。
「シャワー、浴びましょうか」
震えそうな声をなんとか堪えて平静を装い、あたしは言った。
今夜ここに現れた以上、彼はあくまでお客さんだ。ドクドクと激しく脈打つ鼓動を必死に抑え、ひきつる笑みを顔に貼り付けた。けれど彼は首を横に振り、服を脱ぐこともなくベッドに腰を下ろした。
あたしは、身構えた。何を、考えているの? 生きるか死ぬかを賭けて敵の出方を懸命に探ろうとする野生動物はこんな感覚になっているのかもしれない。あたしは瞬きもせずに彼を凝視していた。
「そんな怖い顔するなよ」
いつのまにか営業用の作り笑いすら忘れ、背中にいやな汗が流れるくらい緊張で全身が強張っていた。声を張らせて気丈に振る舞い、彼に問う。
「あたしは、どうすればいいの」
彼から返ってきた言葉は想定を大きく外れたものだった。
「話しを聞いてくれるだけでいい」
耳を疑った、というより、彼が発した言葉の意味が分からなかった。あたしは反射的に、え? と聞き返してしまった。
「話しだけでいいんだ」
要するに、ヘルスのサービスを受けずに話しだけしよう、と?
何を話すの? あたしがこんな仕事してること、誰もしらない。もちろん、親も。まさか、それをネタに脅そうっていうの? あたしは身じろぎもせずに突っ立ったまま警戒感むき出しの表情で彼を睨んでいた。ベッドに座る彼はそんなあたしを見上げて言った。
「誰かに話したりはしねーよ。そんなことしたら、俺がこういう店に来てることを言いふらすようなもんだろ」
そうか、そういえば。あたしの警戒が、少しだけ、ほんの少しだけ解れた。僅かな余裕を持ったあたしは彼を観察し始めた。
スーツ姿。恐らく、どこかの企業に勤めるサラリーマンなのだろう。
「じゃあ、時間一杯お付き合い、します」
覚悟を決めたあたしは、彼の濡れた上着を脱ぐように促し、それを受け取るとハンガーに掛けた。そして、隣には座らず、ベッドに座る彼の真向い、地べたに腰を下ろして足を流し、横座りに座った。話しを聞くなら隣じゃなくて、向き合わないと、って思ったから。
「お前、いつからこんな仕事?」
「半年くらい前、かな」
月並みな話題から始まった。一見して変わらないと思った、昔の面影を色濃く残す彼だったけれどよく見ると、疲れているのか、まだ23なのにやつれた感が拭えなかった。自信に満ち溢れ、傲岸不遜、といった印象に満ち満ちていた過去の彼はそこになかった。
時の流れは、人をどんな風に変えるのだろう。
薄暗く狭い空間は、非日常の世界へと誘うせいか、不思議と気持ちがリラックスする人がいる。彼もそのタイプのようだった。真っすぐに向き合い、静かに問いかけるだけで、驚くくらい素直に自らの現実を語り始めた。
彼の言葉は、堰を切った奔流のようだった。地元では通用した常識など虚構に過ぎなかった。守られ、庇われ、ぬくぬくと育んできた自我に対するプライド。根拠のない下地によって支えられた自信など、砂上の城のように脆く儚いものだった。
就職で東京に出て来た彼を待っていたのはプライドの崩壊という現実だった。
切れ目なく、よどみなく話す彼は心の丈を打ち明けるだけに必死に見えた。心の滓の浄化に懸命に思えた。
彼自身の性格からいって、誰かに心情を吐露することなど、弱り切った心をたとえ家族であってもさらけ出すことなど出来なかったのだろう。
最後に残されたプライドの欠片まで失うわけにはいかない。恐らく、それが男なのだと思う。
あたしは必死に考えた。どんなに、思い出したくはないほどに嫌いであった男であっても、今、この空間にいる間彼は?
〝疑似恋人〟
ここで商売として行う種類のサービスを一切受けずにこうして話しだけすることを望むようなお客さんはいる。そんなお客さんには、手を握ってあげたり、抱きしめてあげたり、キスをしてあげたり。どうするかは、状況に応じて。
話し終わって肩を落とし、ため息を吐いた彼をあたしはそっと胸に抱きしめた。こんなサービスもある。ここは、そういう場所なんだ。
今まで、お客さんのここでの限定的な素直な感情は、カラダを触れ合うことで導き出せたと思っていたのだけれど、性的欲求の捌け口だけじゃなく、日常から離れて心の滓を洗い流す事を求めてくる男の人だっている。
すべて、根幹は同じ。
――男の人って案外可愛いでしょ。
リボンちゃんの言葉を、あたしは今改めて噛みしめていた。ホント、その通りだったよ、リボンちゃん。
あたしはここで〝疑似恋人〟になるんだ。
時間一杯私の腕の中でじっと目を閉じていた彼は言った。
「人の肌って、やっぱりいいな。心臓の音も」
心臓の鼓動が聞こえる場所。きっと人は、お母さんの胎内が一番落ち着く場所なのかもしれないね。
彼は帰り際、まだ半乾きの上着を羽織り、言った。
「きっと、もうここには来ない。もう会わないだろう。このことは、誰にも話さないから安心しろよ」
人は、大人になる。それが、普通なの。その普通が出来ないから、苦しむのね。
7
最後のお客さんが帰ると、女の子達は、使った部屋をちゃんと片付けてお掃除して、それが終わって初めて仕事上がり、となる。
今夜の最後のお客さんは、あたしのお客さんだった。部屋からお客さんを送り出すと、キョウさんに「お疲れ様でーす」と挨拶をして帰る女の子たちの声が裏から聞こえた。女の子達が帰って行き、店内は音楽も消え、静かになった。今夜は、あたしが最後ね。
「表は締めるから、ヒナ、俺と裏から出るぞ」
あたしの胸にドキンという大きな脈動があった。これは、二人きりになってしまったという動揺。
店内の静寂が、闇に潜む生き物の胎動を伝え始めたかのように肌にまとわりついてきた。空気に、圧し掛かるような重さを感じる。
これは緊張? 底から湧き起るのは、言い知れない、何か。
あたしはキョウさんの言葉に、ハイ、と精一杯明るく答え、片付ける為に部屋に入った。
個室に常備されている小道具、ローションのボトルとか、コンドームが入った小箱とか、そういったものは、部屋を使う女の子達が仕事を始める前にそれぞれ使いやすい場所にセッティングして、お客さんを迎える。そして、最後のお客さんを送り出すと、ちゃんと定位置に戻す。部屋の使い主は毎日変わるから。
部屋の掃除が終わると、シャワールーム掃除。けれどこれはソープと違って各個室になくて共同だから、最後に残った子が掃除をすることになっている。
まずは部屋の片づけ、とあたしがローションやオイルのボトルを定位置に戻し始めた時だった。
「俺がシャワールーム掃除してやるから、ヒナは部屋の掃除だけな」
キョウさんが、さらりとそんな事を言った。
「え、そんな、そんなことキョウさんにさせる訳には」
キョウさんは、いいから、とひらりと手を振り、シャワールームに入って行った。
あたし自身は久しぶりに一番最後になったのだけど、今までは閉店後から店の鍵を締めるまで、店番の男の子がいた。だから、お店でこうしてキョウさんと二人きりになることはもちろん、閉店後の後片付けを手伝ってくれるなんてことはまずなかった。
これは初めてのシチュエーションだと考えた時、あたしは、あれ、と思った。
店番クン、いつからいなくなった?
いつの間にか、開店準備も店番も、閉店業務も、キョウさんがすべて一人でこなすようになっていた。ここ以外でやっていたヘルスの店、すべて畳んだって言っていた。
業務縮小?
そんなことがパッとあたしの脳裏に浮かんだ。
最近、新しい女の子が入ってこなくなった。誰かが休んだりやめたりしてもそこにヘルプを頼むこともなくなった。あきらかに、営業形態が細くなっていた。
思い当たる節はある。
時代による変遷の余波は、夜の街に押し寄せる。繁華街に於いてあまり品が良いとは言えない文字が描かれたネオンの看板を消そうという動きもあり、店舗を構えるハコ営業の風当りはますます強くなっていた。
世間一般でいう、道理道徳に背く、秩序倫理を乱すもの。そんな、品性、品行を守る為、という名のもとに、風俗は闇へと消える。ううん、消えたのではない。日の当たらない、日陰へと身を隠すのだ。そして、地下へと。
キョウさんは、そこに何かを見入出したのだろうか。
片付け、掃除の後リネンのバッグに使ったシーツやタオルを入れ、新しいものを揃え終えるとシャワールームから出て来たキョウさんが「おつかれさん」と缶コーヒーを渡してくれた。
「少し、話してもいいか」
ドキンとしたあたしの胸に、交錯する複雑な想いが流れ込む。頷きはしたものの、胸にはあの日のキスが蘇る。締め付けられた心が、きいぃ、と軋んだ。
答えを求めてさ迷って、結局、全てを知ることを恐れて諦めた。このまま、日々の時流が止まったままである事を願い、傍にいられる関係が続くこと望んで、今日まで過ごして来てしまった。離れなければ前に進めない、と知りながら。
「ヒナはここを辞めた後のこと、ちゃんと考えているか?」
キョウさんの言葉が呑み込めなかった。愚かにもあたしは首を傾げることしか出来なかったけれど、キョウさんの目は真剣だった。まっすぐに射るように、強く光る目があたしを見つめていた。
「ヒナは先が、将来が見えているか、って聞きたかったんだ」
あたしの、将来? 先に見えるもの? 拍動が、加速する。鳴動のような鼓動が、頭にガンガンと響き始めた。頭のどこかではわかってた。ここにいる女の子達の出入りの回転が早いのはなぜか、少し考えれば分かること。
あたしの足には、足枷が付いている。その足枷は、何だろう。正体の分からない足枷に囚われてあたしは前に進めないのだろうか。でも、それがなければ前に進めるの? じゃあ、この足枷と思っているものは? 答えの見つからない愚問は堂々巡り。
キョウさんの瞳が妖しく光って見えて、心が大きな手で掴まれた気がした。
あたしは、この疑似恋空間から出ていきたくなかったんだ。傷つくことなく安全で、外界の危険に晒されることなく籠の中で守られている鳥でいられる空間から。
疑似恋愛ならば、心は殻から出ることはない。心の芯を傷つけられることもない。だから、前に進めなかった。進みたくなかった。嘘の恋を上塗りする為に、わたしはここで生きている。
「あたしは、ここでしか、生きられないの」
親にも言えない仕事にどっぷりと浸かっていながら、快楽と悦楽の世界で、あたしは生きている事を実感できて、それを恍惚と錯覚する感覚に溺れていたかった。
気付けばあたしは、あの日と同じ腕の中にいた。目を大きく見開いたあたしの視線の先でキョウさんは、フッと笑った。その笑みが醸し出す妖艶なオーラに、あたしは固唾を呑んだ。そのまま、キョウさんに、全てが呑み込まれていった。
狭いベッドに抱かれたまま倒れ込む。キョウさんの、カラダを全身で感じた。
キスの意味? この行動の意味? そんなの、関係ない!
あたし達は、激しいキスをした。唇を押し当て、舌を絡め、互いに吸う。求めて止まない込み上げる、迸る感情は、もう止められない。
別れが近いこと、離れる日は必ず来ること、心の何処かで敏感に感じ取っていた。この恋が叶う日は決してこないことなんて、ちゃんと分かっていた。
彼の指が、唇が、あたしの躰を愛撫する。触れられるところが、熱を帯びる。今はキョウさんのすべての行為が不思議な高揚を煽る遊戯となる。
口づけを交わしたまま、わたしはキョウさんにしがみついた。
絡まる舌にあたしの舌がゆっくりと掬われ軽く吸われ、そしてそっと唇が離れた。
キョウさんの目は、黒曜石のように綺麗な黒。妖しく光るその瞳に、完全に心が捉えられていた。
理由なんて、いらない。暴走する感情なんて、誰にも止められないんだわ。
高鳴る胸に比例して増す息苦しさ。この先は、どうするの。あたしは、ここから、どうなるの。
「んん、あ……」
侵入した指に悶えるあたしは「ヒナ……」と囁く耳から滑り込む甘い声に震えてキョウさんにしがみついた。
「は……あっ」
吐息と共に嬌声が漏れた時、す、と指が抜かれそれと入れ替わるモノが。
「んん……あっ、ああっ!」
一気に貫いた熱いモノが奥を突いた。躰がビクンと痙攣する。ナカで蠢く感覚に全身がゾクゾクした次の瞬間。
――あ……!
真珠が当たった。その感触があった時、キョウさんは〝プロ〟なんだ。そうはっきりと思った。
頭の奥がスッと醒めるのを感じた時、彼はあたしの中でビジュアルになった。興奮の時は、あまりにも短かった。疑似恋空間にはやっぱりリアルな恋なんてなかったのかもしれない。
8
店を出た時にはもう、東の空が白み始めていた。夜通し呑んだことを窺わせるサラリーマンや、仕事上がりのホステス、だらしなくしゃがみこんでタバコを吸うホストと思われる男性の姿が、この街には違和感ない風景として溶け込んでいる。明け方のこの街はまるでゾンビの住む街のようだ。
この時間は車もほとんど通らない。裏のホコ天タイムだ。車道に出たあたしは真ん中に立ち、大きく伸びをした。
なんだか、スッキリしている。このゾンビの街が、爽やかに見えるくらい。
前が見えなくて怖くて、ここにいれば安心、っていう場所に留まっていたあたしを引き止めていたもの。重くて、動けば鎖のようにジャラジャラと鳴る。その音にビクッとなって、また止まる。音が鳴れば、周囲に気付かれ、自分を傷つけるありとあらゆるものを呼び寄せるから。だから、ジッとしていればいい。動かなければ、傷つかない。
そんなことの繰り返しだったんだ。
けれどその、動かずにいる場所が虚空の場所だったなら。いつ崩れるか分からない、その時に後悔しても、もう遅い。
飛び出さなければ、外へ、跳び立たなければ。崩れる虚空の世界と一緒に、自らも、奈落へと落ちて行く。
目が、覚めた。あたしは自ら外せる足枷を、あたし自身が外さなかっただけだった。だから。
「あたし、足枷が取れたわ」
自然とそう呟いていた。あたしの傍でキョウさんが、タバコに火を点けながらフッと笑った。
「前に進めそうか」
あたしはキョウさんを見た。キョウさんは、明るさを増してきた朝の陽光を受けて眩しそうに目を細めていた。
あたしはキョウさんを真っ直ぐに見つめて「うん」と一言答えた。キョウさんはタバコを口にくわえて、ニッと笑った。
あたしが停滞したままどうにもならなくなっていることをキョウさんは知っていたのだろう。だから今、〝足枷〟と言ったあたしの言葉を自然と受け入れ「前に進めそうか」と聞いたんだ。
キョウさんは、ここでしか生きられない、と言ったあたしに現実を、リアルを見せた。それは、残酷な教えであり、優しさであったのだと思う。
キョウさんは店の入っているビルを見上げていた。
「これで、心置きなくこの店が畳めるな」
あたしは、目を見開いてキョウさんを見た。
「このお店、閉めるんですか?」
そんな。いくら前に進む気持ちになれたと言ってもあたしはまだ、具体的なビジョンが見えたわけではない。今ここで、外に放り投げられても、路頭に迷う。
縋るような気持ちは顔に出た。キョウさんは、肩を竦めて笑った。
「直ぐじゃねーよ。でも、もうずっと前から決めていたことだ。ここ数年で、ハコ営業に対する風当たりが厳しくなったろ。ヘルスも、時代はデリバリーが主流だ。いずれにしろ」
そこで言葉を切ったキョウさんは、タバコを捨てて足でもみ消した。
「数年のうちにハコはこの街から消えるだろ」
時は流れる。様々な変遷を経て時代も変わる。風俗だってサービス業態も形態も、時代時代で多種多様な変様を遂げて現代へと繋がっている。それは、進化なのか、退化なのか。
時代の変化によって押し寄せる波に翻弄されるのはいつの時代も水のもの。ヘルスも例外ではなく。
「俺は、自分の商売を自分の目の届かないところにまで広げるつもりはない。だからデリバリーをしてまで続けるつもりはない。この商売は、この店を最期に一切辞める」
だから、他の店は全て閉めてここだけを残し、しかも残したここも縮小していたんだ。いつでもここも閉められるように。
「でも、この仕事を辞めたらキョウさんは?」
キョウさんはあたしの問いに、クククと笑った。
「俺は、ずっと歩き続けてる。ずっと前を見てる」
キョウさんは、同じ場所になど留まっているような人ではないのだ。
顔を伏せたあたしの目に、汚いアスファルトの地面が映った。風に乗ってどこかから飛んで来たピンクチラシがミュールに絡みつく。あたしは、それを暫く見ていたけれど、再び吹き抜けた朝の風に舞い上がり、跳んで行った。
「あたし、帰ろうかな」
地面を蹴るあたしの視界の端に、こちらを向くキョウさんが見えた。少し意外そうな表情にも見えた。でも直ぐに、フッと笑った。
「いいんじゃないか」
引き止めはしないのね。そんな、自分でも分からない少し拗ねたような感情が胸の奥にぽつりと落とされた。それを、バカね何を考えているの、前に進むと決めたじゃないの、と直ぐに打ち消す。
まだ、禅問答のような答えの見つからない問いがあたしの中でぐるぐると巡っている。キョウさんへの感情よりも、この仕事から離れる迷いだ、きっと。あたしは、他に何の仕事が出来るというのだろう。
「また戻ってくるのは、ヒナの自由だ」
あたしがハッと顔を上げると、キョウさんはポケットに手を突っ込み、空を見つめていた。
「この仕事が好きなら、続ければいい。別に、ヘルスにこだわる必要はないだろ。違う形だっていい。何か、掴んだんじゃないのか?」
見失いかけていた。
そうだった。自らの恋と迷いに囚われて、掴みかけていた小さな希望の種を見失うところだった。
でも、ぼんやりと照らし出されたあたしの道を、もう一人の自分が一つの言葉を吐いて遮る。
〝所詮は、風俗でしょう?〟
再び黙り込んでしまったあたしの胸に、キョウさんが言った。
「夜だけ咲く花っていうのがあるんだってな。俺はこんなだから、花なんて知らねーけど、月の光の下で咲く花ってのがあるって、昔ホストをしていた時に客から聞いた事がある。別に、日の光だけが全てじゃねーんだ。個性だよ。他人を、どんな形であれ、悦ばせてやれるのがこの仕事だ。この商売はどの時代からも必要とされてきたから、形を変えながらも絶える事なく脈々と続いてきてるんだ。俺は勝手にそう解釈してる」
顔を上げたあたしにキョウさんはフワリと笑った。
「胸を張って生きりゃいい。この商売の形は様々だ。一度立ち止まって何が出来るか考えて、また歩き出したっていいだろ」
そうだ、商売の形は様々。時代とともに変遷することが余儀なくされるのなら、こちらも変わればいい。
柔軟に、しなやかに、したたかに。恋を、売るのだ。それが束の間の、偽りの恋であっても、あたしは確かに、そこに手応えを感じたのだから。
あたしの心に生まれた余裕を汲み取ったかのようにキョウさんはニッと意味深に笑った。
「女には、女の数だけ生き方と人生がある、だろ?」
それは、初めて会った時にセイジさんが言った言葉の単語を置き換えたもの。あの時の言葉は確かにその通りだった。
あたしの人生は、あたしにしか出来ないあたしの生き方。誰にも文句は言わせない。あたしは前に進む。だけど、もう一度だけ。
夢と虚構の疑似恋の空間をください。
あたしが伸ばした手を、キョウさんがグッと掴んだ。そして、抱き寄せて。
熱い身体と唇の感触、スパイシーな芳香は、この身体の五感がしっかりと感じるビジュアルではないリアル。宵と明けの狭間。刹那の時間の束の間の、路上キスは、幻のよう。
これが、あたしの恋。これが、あたしの恋の仕方。
*
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