擬似恋空間【短編集】

深智

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かんざし

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「梅扇さんねえさん……これは?」

 それは、うちがまだ〝仕込みさん〟呼ばれていた頃。

 舞妓になる為に、東京から京都の祇園に来て、初めて迎えたお正月。うちのおねえさんである梅扇さんねえさんが、一房の稲穂に素焼きの白い小さな鳩がついた簪(かんざし)を見せてくれた。

「姫花ちゃんは祇園の正月は初めておしたな。この稲穂の簪はな……せやな、花街版バレンタイン、と誰かが言うてはったな」

 お支度が終わった梅扇さんねえさんはそう言いながら日本髪に結った鬘に、その、稲穂の簪を挿して笑た。

 花街版、バレンタイン?

 首を傾げたうちに、梅扇さんねえさんが意味ありげに微笑んだ。

「この簪で御贔屓の旦那はんか、意中の旦那はんと〝恋の駆け引き〟をするんえ」

 あの時のねえさんの艶っぽい微笑に、うちは同じ女やのにドキンとしたのを、今でも覚えとる。

 花街には、その長い歴史と共に、受け継がれ守られてきた伝統と仕来り、言い伝え、というものが様々ある。そのうちの一つに、松の内と呼ばれるお年始、京に限らず花街の芸妓達が髪に挿す稲穂に白い鳩の簪にまつわるお話があった。

 稲穂と白い鳩には様々な願い、祈りが込められている。稲穂は五穀豊穣。鳩は幸福の象徴。芸舞妓達は松の内の簪で、今年一年の花街繁栄を祈願する。

 ただ、この簪の鳩にはもう一つ別の言い伝えがあることを、うちは、仕込みさんときに梅扇さんねえさんから教えてもろた。

 白い鳩には、目が入っていない。その目を意中の人に書き入れて貰うと想いが添い遂げられるとか。

 だから、花街版バレンタインなんやね。




 松の内、お目当ての旦那はんのお座敷を、芸舞妓達は浮き浮きしながら待っている。

 うちは昨年、梅扇さんねえさんの名前から一字頂いて〝姫扇〟という名前になった。

 晴れて舞妓として店出し(デビュー)した初めてのお正月。鳩の目は、御贔屓さんである呉服屋の御主人が書いてくれはった。

 年が明けて最初のお座敷やったし、まだよう知らんかったから、言われるままに。

 今年のうちは、誰に書いて貰うんやろ?

 想いを馳せ、フッと浮かんで消えた影に、胸に微かな痛みを感じた。

 迷信や、思ても、微かな希望の光を見てまううちは、愚かやろか。

「姫扇の鳩は、まだ真っ白やないか」

 京の花街はどこも角松や、しめ飾り、七福神の置物が飾られ、お正月ムードに彩られていた。

 おことうさんどす、で始まる新年。芸舞妓は挨拶周りに忙しい。

 芸のお師匠さんへの御挨拶に始まり、お世話になってるお茶屋を巡る。目まぐるしい年明けの最初のお座敷、梅扇さんねえさんと一緒に上がった。

 御贔屓さんである馴染みのお客さんの第一声が、その「真っ白やないか」だった。

 梅扇さんねえさんがお酌をしながら言笑う。

「今年は、意中の誰かはんに入れて貰うと違いますか」

 酌を受けるおとうさんが、ほぉ、と笑った。

「姫扇にも意中の誰かが?」

 お客さんであるおとうさんにまじまじと見つめられ、うちは恥ずかしゅうなって俯いてもうた。

「梅扇さんねえさんたら」
「こないおぼこい舞妓・姫扇を虜にした男はどこのどいつや。気になって夜も寝られん」
「おとうさん、からかわんといておくれやす」

 眉を下げて心底困った顔をしてみせたうちをみて、お座敷のお客はん達は「姫扇はまだまだウブやなあ」と明るい笑い声を上げた。

 明るいお正月の宴席の中で、うちは胸の中で呟いていた。

 意中の誰か。おるよ。たった一人。あのお方が――。




「姫扇ちゃん、待ちに待った御幸の若旦那はんから今年最初のお座敷入ったえ」

 年が明けて一週間も経っていたある日。屋形で電話を受けていたおかあさんが受話器を置き、メモを取りながらうちに笑い掛けた。

 うちの待ち人。

 おかあさんの言う、うちが待ちに待っている旦那はん、御幸家の若旦那はんは、東京に住んではるお方やった。だから、松の内は来られへんのや、と諦めかけとった。

 けど――、

 来てくれはる! しかも、うちに声をかけれくれはった!

 それだけで、うちの胸はもう、天にも昇るくらいに高鳴り始めていた。

「姫扇ちゃんは、分かりやすおすなぁ。この花街で生きていくにはもう少し大人にならなあきまへんえ」

 屋形のおかあさんが、ちょっと真剣な目をうちに向けた。いつにないおかあさんの厳しい表情に、うちはちょっと構えてしまった。

 姿勢を正したうちに、おかあさんが言った。

「姫扇ちゃん、ええどすか。あのお方は、京の五花街全てに御贔屓のお茶屋を持ってはるようなお方どす。男はんをよう知らん姫扇ちゃんが太刀打ち出来るようなお方やあらしまへんえ。本気になったらあきまへんえ。憧れだけで留め置きなはれ」

 優しいおかあさんのいつになく厳格な口調。言葉がうちの胸に、突き刺さった。

 そう、うちなんて……相手にして貰えてへんの。そんな事、分かっていたのに、胸がチクンと痛んだ。



 その方との出会いは、うちが舞妓の一歩手前の見習いさんになって初めて上がらしてもろたお座敷やった。

 緊張で固うなってたうちが舞いで扇子を落としてしもた時、座敷で同席してはった他の旦那はん達は「ええんやええんや、そうやって覚えていきや」と優しい言葉をかけてくれはったんに、その方は違うた。

「舞妓に、まだ成り立てだから、等という言い訳は通用しない。座敷に上がらせてもらう事が出来た時点で、芸を売りにするプロとなったのだ。その舞妓が上手く舞えぬというのは、〝座敷に上がってもよろし〟というお墨付きを出してくれたお師匠さんの顔に泥を塗るも同然。今夜はもう君は舞わなくて良い。おねえさん達の舞いを見て勉強しなさい」

 びっくりしたうちは返す言葉も見つからへんかった。

 呆然としとするうちの傍らでお茶屋のおかあさんが何度も何度も頭を下げていた。

「ほら! アンタも!」

 小突かれてうちは慌てて畳に手を突き頭を下げた。

 うちは、とんでもない事してしもたん?

 頭を下げながら、胸はドキドキと鳴り、手は震えとった。

 うちは……うちは……、と懸命にお詫びの言葉を考えていた。

 その時。

「おかあさんが謝る事じゃありません。顔を上げてください。その妓が育ってくれれば良いのです。僕はまた、彼女を指名しますから。ほら、君も顔をお上げ」

 次も、指名?

 そっと顔を上げた目に、眼鏡をかけはった綺麗なおにいさんが映り込んだ。

 座敷に上がった時は緊張のあまり周りを見られへんかったうちは、初めてその方のお顔を見た。

 こんなに上品な気品溢れる男はんを見たんは、初めてやった――。

「おかあさん、この妓は〝半だら〟だね。お見世出しの日取りは?」
「へぇ。日取りはまだ……」
「では、決まり次第、屋形のおかあさんから僕に連絡を貰うとしよう」

 その方はうちに微笑んでくれはった。

「しっかりお稽古重ねなさい。楽しみにしているよ」

 あの方に誉めて欲しくて必死にがんばって、今のうちがあるんや。

 そのお方は、御幸右京はんいう京の街でも有名な旧家のご子息はんやった。お若うとも大きな会社の重役さんどす、とおかあさんが言うてはった。

 夜のお座敷が始まる前の束の間の時間、屋形でおねえさん達とおかあさんを囲んでお茶を頂いていた。隣にいてはったおねえさんが言わはった。

「そういえば……上七軒のうちの知り合いの芸妓はんが、あの若旦那はんに鳩に目書いてもろた、と言うてはりましたなぁ」

 胸がズキンと痛んだ。

 上七軒? あの方が松の内に回らはるお茶屋さんは祇園だけやないんやね。しかも、祇園甲部は最初やないんやね。

 おかあさんが湯呑み茶碗を口に添えお茶を啜りながら、そうやなぁ、と話し始めた。

「あのお方は忙しい方どすけど、松の内は御贔屓のお茶屋は全て回りはるんどす。上七軒から始まって、先斗町、宮川町、祇園東。祇園甲部は一番最後なんえ」

 祇園甲部は一番最後。

 なんだか、うちが一番後回し、言われたみたいな気ぃになってもうた。胸が、痛うて、苦しい。

 うちは、もしかして、辛い恋に一歩足を踏み入れてしまったのかもしれへんね。おかあさん……。




 稲穂と白い鳩の簪。松の内と言われる元旦から十五日までの間に意中の人にその鳩の目を入れて貰うと結ばれる、という言い伝えがある。

 男衆(おとこし)さんに着付けてもろて、支度が終わったうちは、鏡の前で簪を挿した。

「姫扇ちゃん、色んな旦那はんから鳩に〝目〟書いたろか、言われてはったやろ。ずっと断らはって。この日を待ってはったんやなぁ」

 同じお座敷に上がる為、屋形に迎えに来てくれはった梅扇さんねえさんが楽しそうに言わはった。うちはちょっと恥ずかしゅうなってうつ向いてしもうた。

 梅扇さんねえさんは優しく言ってくれはった。

「ええか、姫扇ちゃん。自分から言うたらあかんえ。言わせるんえ。そんな駆け引きが楽しみになるんどす」

 駆け引きが楽しみ。梅扇さんねえさん、うちにはそんな余裕はあらしまへんて。

「さ、時間え。今夜もおきばりやっしゃ!」

 今日もおかあさんが、うちらを元気に送り出してくれた。



「おめでとうさんどす。今年もあいかわりませず」

 そんな挨拶から始まる新年最初のお座敷。右京はんは、麗しい笑顔で、
「おめでとう。お入り」

 上品にしなやかに手招きしてくれはった。

 眼鏡を掛け、スーツ姿に背筋がピンと伸びてはる右京はんの自然な、何気ない、そんな仕草にも心臓は跳ね上がる。気品と粋がこない見事に同居してはる男はん、うちはまだ見たことおへん。

 右京はんは芸舞妓の憧れの的。うちの鳩に目書いてもらうなんて。改めて考えてみると、とんでもなく身の程知らずや。

 梅扇さんねえさん、駆け引きなんて、うちにはとんでもない事どす。

 右京はんにお屠蘇を注ぎながら、色んなこと考えて、一人で恥ずかしゅうなってしもうた。



 新年の舞いは〝十二月〟。

 うちはこの井上流の舞いが好きや。扇を持ち、地方のおねえさんの囃子に合わせて舞う。

 舞いが終わると、閉じた扇を前に置き、手をついて頭を下げる。旦那はん達が拍手をしてくれはる。この瞬間がうちは幸せ。

 今夜のお座敷で、一番年配の旦那はんが一番大きな拍手をくれはった。そして、大きなお声で。

「やはり姫扇の舞いを見ぃひんと、新年を迎えた気がせえへん。この舞いをここまで立派に舞える妓は、芸妓でもなかなかおへん」

 旦那はん、誉めてくれはるのは嬉しおす。でも。

 ちょっと遠慮がちにうつ向いたうちに梅扇さんねえさんが優しく声をかけてくれはった。

「姫扇ちゃん。うちもそう思いますえ。姫扇ちゃんは人一倍お稽古に精を出してはる事、みんなちゃんと知ってるんどす。うちに遠慮する事あらしまへん。でも旦那はんもいけずやわ。そんなあからさまに姫扇ちゃんばかり……。ねえさんであるうちの立場があらしまへん。どないしてくれはりますの」

 座敷が、どっと沸いた。旦那さん達、みんなが笑顔になる。

 梅扇さんねえさんはさすがどす。さらりと座敷の雰囲気を作ってくれはった。

 うちも、梅扇さんねえさんみたいな芸妓さんになれますやろか。

 お酌をしながら旦那はん達をおもてなししはる梅扇さんねえさんを眩しげに見て、ドキドキと鳴る胸を抑えて右京はんに視線を移した。

 盃を手にしはる右京はんは、上品に微笑みかけてくれはった。

 胸が、高鳴る。どないしよう。こないになって。

 火照る顔を隠そうと顔を俯けてしまう。うちは右京はんに誉めてもらいとうて一生懸命お稽古しとるん、と心の中で呟きながら。

 右京はんは、他の旦那はん達とは違うてあまり言葉や態度で誉めたりはせえへん。でも、自分の舞いが良かった時は、分かる。

 極上の、まるで媚薬のような笑顔を見せてくれはるんや。

 媚薬。そう、心を捉えて離さない、痺れるような、麻痺してまうような幸せの感覚をくれはる。今夜の右京はんも、そうやったね。

 ああ、うちは、上手く舞えたんどすね。

 そっと胸の中で噛み締めた。

 鳩の目、やっぱりうちは言えへんし、右京はんに言って貰うなんて身の程知らずどす。

 ええどす。うちの恋は叶わぬ恋やから。ええんどす。


 新春のお座敷は盛り上がり、旦那はん達は楽しんでくれはった。そろそろお開き――という頃だった。ほろ酔い加減の旦那はんが言わはった。

「なんや姫扇。簪の鳩、まだ真っ白やな。誰か意中の旦那でもおるんかいな」

 ドキンッとした。思わず右京はんを見てまう――。

「姫扇はまだまだウブやなぁ。分かりやすうて」

 明るく笑う旦那はんの元気な声に狼狽えた。

 イヤやわ。どないしよう! もう右京はんの顔見られへん!

 俯いたうちの耳に、右京はんのクスクスという優しい笑い声が届いた。

「姫扇、顔を上げてごらん」

 え……。

 恐る恐る右京はんの方を向きながら顔を上げると、心の底まで浸透してその色に染まってしまうような、笑みがあった。

 もう、他の色になんて塗り替えられる事なんて、考えられへんと思てしまうような、極上の笑みが。

 右京はんの笑顔が視界に焼き付く。

 うちは、うちは、右京はん以外の男はんはきっともう見られへん。

 うちの恋はいつも、その人に恋する度に、これが最期や、と思う。

 右京はん。うちの恋は、右京はんで最期どっしゃろか。

「姫扇、簪を」

 右京はんは、うっとりするくらいしなやかな仕草で手を差し出した。

「右京はん?」
「これは奥ゆかしくて花街らしい、素敵な風習だね」

 甘やかで柔らかな声が、うちを痺れさせた。



「姫扇ちゃん、幸せいっぱいどすな」

 梅扇さんねえさんの優しい声が、白い吐息と一緒に雪の残る夜の花街に解け込んだ。

 しめ縄飾りや門松に飾られた祇園の夜道をゆっくり歩き、梅扇さんねえさんと一緒に屋形へ帰っていた。

 梅扇さんねえさんは、自前の芸妓さんやから屋形に戻らはる必要はないんやけど、うちをいつもこうして送ってくれはる。

「松の内のうちに意中の旦那はんに簪の鳩に目を書いて貰えたら結ばれる。素敵な言い伝えどすなぁ」

 梅扇さんねえさんが、しみじみと言わはった。

「へぇ……」

 そうどすね。

「姫扇ちゃんの想いが叶うとええどすな」

 梅扇さんねえさんが、優しく小さく、独り言のように呟いた。

 うちらの恋は、切なくて苦しくて、叶わないと分かっていてもその人が恋しくて愛しくて。

 梅扇さんねえさんも、そんな恋をたくさんしてきはったんどすか?

 うちも、そうなるんやろか。

 右京はん。甘やかな色っぽさを漂わせ、まるで歌舞伎役者さんのように麗しい。

 ときめく心は、まだホンマの苦しみを知らんかったんや。



 着替えも夜の身支度も済んで布団に入る前に、外した簪を見た。

 白い鳩の、右京はんに書いてもろた可愛いくりっとした目がうちを見ていた。

 その目を見るだけでドキドキと胸が高鳴る。

 あの、指の長いしなやかな手の中にいた簪が今、うちの手の中にある。嬉しゅうて、でも苦しゅうて。


 右京はん。生きる世界も身分も違う、分不相応の叶わぬ恋かもしれへんけれど。

『松の内、意中の男はんに白い鳩の目を書いて貰えたらその人と結ばれる、言われとるんえ』

 稲穂に白い鳩の簪。それは、うちに淡い夢と微かな希望を運んでくれる。

 幼いうちは、幸せを運んでくれる白い鳩に淡い恋の夢を乗せた。

 いつか、右京はんにうちの想いが届きますよう。いつか、この想いが叶いますよう。結ばれますよう――。

 それが、例え遠い遠い未来だとしても。




【完】

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