黄泉小径 -ヨモツコミチ-

小曽根 委論(おぞね いろん)

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肆 昭和十九年

お祝い返し

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 数日後。

「ちい。少し頼まれてくれんか」

 居間でボロボロの夏目漱石を読んでいると、不意に祖父から声をかけられた。

「どうしたの、珍しい」

 私は本をいったん伏せ、祖父を見上げた。彼は机に、のし紙で包まれた手ぬぐいを無造作に置いた。

「いや、なに。桜井少尉の奥さんから昨日、ご丁寧な引っ越しの挨拶をいただいたものでな。そのお返しを持って行ってもらいたいんじゃよ」

「サクライショウイ?」

 聞き慣れない名前に首をかしげると、祖父は渋い顔をした。

「なんだ、名前知らなかったのか。ホレ。この間、ちいが尾行したあの兵隊さんだよ」

「ええ!?」

 私はまず、何故祖父がその事を知っているのかに驚いた。あの人が桜井さんなんだ、という点はどうでも良かった。

「なんじゃ、その顔は。お前らのやってる事など、村じゅうみんなが知っとるわ。あんまり馬鹿な真似はするもんじゃないぞ」

「ええー」

 私はうんざりしながら、机に置かれた手ぬぐいを見た。

『引越祝 沢沼草太郎』

 のし紙には、祖父の名前が書いてある。

「……これを持って行って、ついでに謝れってこと?」

「さあな。それはお前次第じゃ」

 絶対、謝れって思っている。

 そう直感してしまった私は、祖父の依頼を重たく感じた。

 しかしながら、断る理由もない。

「……はい。いってきます」

「少尉殿によろしくな」

 祖父は、なにくわぬ笑顔だった。

 渋々家を出て、引っ越し祝いを届けに行く。祖父から教わったその行先は、

「……コレ、なんでなの?」

 あのきつね屋敷だった。

 理解が追い付かないまま、中へ入る。

「ごめんください」

 すぐに返事は返ってこなかった。

 が、少しして、あの時の軍服さんが着流し姿で現れた。

「なんだ。いつぞやの女学生か」

 げ。顔、覚えられてる。

「あ。あの、その節は、申し訳ありませんでした!」

 しらを切れない以上、謝るしかない。私は素直に頭を下げた。

「気に病まなくても良い。それは何だ?」

「はい!引越の挨拶をいただいたと聞きまして、祖父からお返しを持っていくように言われまして!」

 私は、祖父から預かった手拭いを差し出した。

「そんなに勢いよく突き出さなくても良いだろう」

「え、す、すいません!」

 私本人としてはそんなつもりじゃなかったのだが、軍服さんからはそう見えたようだ。おそらく緊張で体に力が入ってしまったのだろう。困惑顔の軍服さんへ、私はまた謝った。

 引越祝を受け取った軍服さんは、のし紙が貼っていない部分を軽く撫でると、小さく頷いた。

「うむ、よい品だ。有り難く頂戴する」

「はい!」

 他に気の利いた返しもあったのだろうが、私は一言そう答える事しか出来なかった。

 変な間が空く。私の目は泳ぎ、軍服さんの顔には怪訝の色が浮かぶ。

「……えっと……」

「何だ。聞きたい事があるなら聞きなさい」

「え。あ、はい。ありがとうございます」

 意外にも助け船が出た。私は気持ちを落ち着かせようとしながら言った。

「どうして、いつもそんなに姿勢が良いんですか?」

 ……ちがうでしょ……。

 その質問は失敗だろうと自責する私を尻目に、軍服さんは声を立てて笑った。

「なんだそれは?」

 はい。我ながらそう思います。

「別に意識してそうしているわけではない。ただ、我々はお国を守るために働いている故、常に毅然としていなければならない。だから、おそらくその気構えが姿勢に出ているのだろう」

 しかしながら、この人はこんな下らない質問にも真摯に答えてくれた。表情も前より少し柔らかく、違った印象を受ける。

「でも、今日はお休みですよね」

「今、この瞬間も、我が同胞は命をかけて戦っている。それを思うと、仮に休みでもだらけるわけにはいかん」

 それは、兵隊さんなら皆が持つ感覚なのだろう。勝手な決めつけだが、私はこの人を見ていてそんなふうに思った。
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