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第2話:魔境の試練
しおりを挟む魔境の朝は、血に染まった空から始まる。
アーサーは岩陰から顔を出し、赤みを帯びた不気味な日の出を見つめていた。昨夜の戦いで得た「暗視」と「敏捷強化」のスキルのおかげで一夜を生き延びることができたが、喉の渇きと腹の空きは容赦なく彼を苦しめていた。
「水と食料を見つけなければ...」
手には黒い魔剣「モンスターイーター」を握りしめている。昨夜、この剣が現れなければ、彼は確実に魔物の餌食になっていただろう。今や彼の唯一の頼みの綱だ。
「お前は本当に私に力をくれるのか?」アーサーは剣に問いかけた。
『我が主よ、力は汝自身が勝ち取るもの。我はただその助けとなるのみ』
脳内に響く声に、アーサーは苦笑した。王宮で育った王子が、魔剣と会話し、魔物を狩る日が来るとは思ってもみなかった。
彼は慎重に周囲を探索しながら進んだ。魔境の景色は一様ではなかった。黒い岩山と歪んだ森、そして紫色の沼地が不規則に広がっている。どの方向に進むべきか判断に迷った。
「どうすればいい?」
『汝の選択次第。だが、我が剣は魔物の気配に反応する。力を求めるなら、魔物の多い方へ』
剣の柄が微かに震え、ある方角を示した。アーサーは迷いながらも、その方向へ歩み始めた。足元は不安定で、黒い砂が靴に入り込み、歩くたびに痛みを覚える。
数時間の行軍の末、彼は小さな谷間に辿り着いた。そこには驚くべきことに、比較的澄んだ水の流れる小川があった。水は薄紫色だったが、昨日飲んだものよりはずっと清らかに見える。
「ようやく...」
アーサーは急いで川辺に駆け寄り、両手ですくって水を飲んだ。喉の渇きを癒すと、次は食料を探さなければならない。川の周りには奇妙な形の植物が生えているが、どれが食べられるのか皆目見当がつかない。
「この実は...」
木になっている紫色の実を手に取ろうとした瞬間、剣が警告のように震えた。
『食べるな。毒だ』
「助かった」アーサーは実から手を引っ込めた。「では何を食べればいい?」
剣は答えない。それは彼自身が見つけるべきことなのだろう。アーサーは川沿いを歩き、何か食べられそうなものを探した。やがて、水際の岩に張り付いている貝のような生物を発見した。それは通常の貝より大きく、殻には青い斑点があった。
恐る恐る一つを剥がし取り、剣に尋ねる。
「これは?」
『致命的な毒はない。だが、熱を通せ』
アーサーは安堵のため息をついた。火を起こすための木片を集め、昨日の経験を活かして火を点けた。貝を焼くと、殻が開き、中から緑がかった肉が現れた。臭いは強烈だったが、飢えた身には選ぶ余裕はない。
「うっ...!」
最初の一口で顔をしかめたが、味覚が麻痺してくると、次第に食べられるようになった。数個の貝を平らげると、少しだけ体力が戻ってきたのを感じた。
「ようやく一息つけるな」
アーサーは食後の一時を利用して、自分の状況を整理しようとした。しかし、その平穏は長くは続かなかった。
「ググググ...」
低い唸り声が背後から聞こえてきた。アーサーは反射的に剣を構え、振り返った。
岩場の上に、昨日のものより大きな魔物が立っていた。それは熊のような体格だが、皮膚は暗紫色の甲殻に覆われており、頭部には二対の角が生えていた。「角殻獣(ツノガクジュウ)」と呼ばれる魔境の危険生物だ。
「くっ!」
アーサーは身構えたが、内心では恐怖に震えていた。昨日倒した魔物とは比較にならない大きさだ。通常なら逃げるべき相手だが、背後は川で退路は断たれている。
魔物は大きく吠え、縄張りを侵した人間に敵意を剥き出しにした。そして、突進してきた。
「はっ!」
アーサーは敏捷強化のスキルを活かし、間一髪で横に飛びのいた。その動きは昨日より更に洗練されていた。剣の力が体に馴染んでいるのを感じる。
「このまま逃げ回っても...」
彼は覚悟を決め、今度は攻撃に転じた。魔物が態勢を立て直すまでの隙を突き、その脇腹に斬りつける。
「シャアッ!」
剣が魔物の甲殻を貫く感触はなかった。表面を引っかいただけだ。魔物は痛みに怒り狂い、前足で彼を薙ぎ払った。
「ぐはっ!」
アーサーの体が宙を舞い、数メートル先の岩場に叩きつけられた。背中に激痛が走る。防具もなく、王族の衣服は今や僅かな防御力も持たない。
『主よ、弱点を見つけよ』
モンスターイーターの声が響く。アーサーは苦痛に歯を食いしばりながらも、魔物を観察した。全身が甲殻に覆われているが...その首の付け根、関節部分は比較的薄いように見える。
魔物が再び突進してきた。アーサーは最後の力を振り絞り、魔物の動きを見極めた。
「今だ!」
彼は魔物の顎の下に滑り込み、上向きに剣を突き刺した。黒い刃が魔物の柔らかな部分を貫き、紫色の血が噴き出す。
「グオオオ!」
魔物は苦悶の咆哮を上げ、暴れ回った。アーサーは剣を握り続け、さらに深く突き刺した。やがて魔物の動きが鈍り、地面に崩れ落ちた。
『獲得スキル:甲殻防御』
魔物の体から紫の光が立ち上り、アーサーの体に吸収されていく。彼は自分の皮膚が僅かに硬くなるのを感じた。傷が少し痛みを増したが、すぐに和らいでいく。回復も促進されるようだ。
「これが...モンスターイーターの力...」
アーサーは息を切らしながら、倒れた魔物の側に膝をついた。体の痛みはあるが、昨日よりも明らかに強くなっている自分を実感できた。
『主よ、汝の選択は正しかった。恐れず立ち向かうことで、力は増す』
「まだまだ...足りない...」アーサーは呟いた。「もっと強くならなければ...」
彼は魔物の死骸を見つめ、ふと思いついた。この肉は食べられるのか?彼は剣に尋ねた。
『食せる部位もある。内臓を避け、筋肉の部分を』
アーサーは魔剣を使って魔物の体から肉を切り取った。火を起こし、肉を焼く。匂いは独特だったが、思いのほか食べられる味だった。栄養豊富な肉を食べ、彼の体力は更に回復していった。
---
その後の数日間、アーサーは魔境での生存術を急速に身につけていった。水や食料の確保、安全な寝床の選び方、そしてなにより、魔物との戦い方を学んだ。
モンスターイーターを通じて得たスキルは、日に日に増えていった。
『獲得スキル:夜行視覚』—暗闇でも昼間のように見える能力。
『獲得スキル:毒耐性』—蛇型魔物から得た、毒への耐性。
『獲得スキル:跳躍強化』—バッタ型魔物から得た、高く跳ぶ能力。
そして何より重要なのは戦闘経験だった。アーサーは王国での剣術訓練を受けていたが、それは形式的なものに過ぎなかった。魔境での実戦は彼に本当の戦い方を教えた。
「もう迷わない...」
七日目の夜、アーサーは星空を見上げながら呟いた。魔境の夜空は王国とは違い、奇妙な色合いの星々が煌めいていた。彼は今や、王国での生活が夢のように遠く感じられた。
『主よ、汝の決意は?』
「生きる。強くなる。そして...」アーサーの瞳に冷たい光が宿った。「いつか必ず戻り、あの裏切り者たちに真の恐怖を教えてやる」
モンスターイーターが彼の意思に共鳴するように、微かに紫の光を放った。
---
八日目の朝、アーサーは新たな領域へと足を踏み入れた。ここまでの日々で、彼は魔境の最も外側の領域、「外周帯」と呼ばれる地域での生存にある程度慣れてきた。しかし、その先にはより危険な「中間帯」が広がっている。
「そこには、より強力な魔物がいるんだろう?」アーサーは剣に問いかけた。
『然り。だが、より強き敵を倒せば、より大きな力を得られる』
この言葉に、アーサーは覚悟を決めた。中間帯への道は、紫色の霧に覆われた谷間を通る必要があった。霧の中では視界が極端に制限され、危険が潜んでいることは明らかだ。
「行くぞ...」
アーサーは深く息を吸い込み、霧の中へと足を踏み入れた。すぐに周囲の景色が霧に飲み込まれ、数メートル先も見えなくなった。
「暗視」スキルを駆使しても、この霧を完全に見通すことはできない。彼は全神経を集中させ、わずかな物音にも反応できるよう警戒した。
「...」
突然、足元の地面が震えた。何かが近づいている。アーサーは剣を構え、身構えた。
霧の中から、巨大な影が現れた。それは蜘蛛のような形状をしているが、大きさは馬ほどもある。「霧糸蜘蛛(ムシログモ)」—中間帯の番人と呼ばれる魔物だ。
「来たか...!」
アーサーは剣を構えたが、すでに遅かった。蜘蛛は口から白い糸を吐き出し、彼の体を拘束した。
「くっ!動けない...!」
糸は驚くほど強靭で、彼がこれまで得た力をもってしても、簡単には切れない。蜘蛛は獲物を捕らえた満足げな様子で、ゆっくりとアーサーに近づいてきた。
死の恐怖が彼を包み込んだ。しかし、同時に怒りも湧き上がった。
「ここで終わるわけにはいかない...!」
アーサーは全身の力を振り絞り、モンスターイーターに意識を集中させた。剣が微かに震え、紫の光を放ち始めた。
「はあああああっ!」
彼の叫びとともに、剣から強烈な紫の閃光が放たれた。光は糸を焼き切り、アーサーは自由を取り戻した。
『隠されし力の一部が解放された。されど、まだ序の口に過ぎぬ』
アーサーには考える時間がなかった。蜘蛛が素早く体勢を立て直し、今度は前脚で攻撃してきた。その先端は鋭い刃物のようになっている。
「はっ!」
彼は跳躍強化のスキルを使って高く飛び上がり、蜘蛛の攻撃をかわした。空中で体勢を整え、今度は自分から襲いかかる。
剣が蜘蛛の複眼の一つを貫いた。魔物は苦痛にのたうち回り、霧の中を暴れ回った。
「まだだ!」
アーサーは蜘蛛の背に飛び乗り、その頭部に向かって剣を突き立てた。剣が蜘蛛の脳を貫き、魔物は最後の悲鳴を上げて倒れた。
『獲得スキル:糸操作』
蜘蛛の体から立ち上る紫の光が、彼の体内に流れ込んでいく。新たな力が血管を流れるような感覚に、アーサーは戦慄した。
「糸を操る...?」
彼は手のひらを見つめ、試しに指先に意識を集中させた。すると驚くべきことに、指先から細い糸が伸びていった。まだ操作は難しいが、確かに新たな能力を獲得している。
「これは...使えるな」
アーサーは得意げに笑った。七日前までは魔境で生きることさえ危ぶまれた彼が、今や魔物の力を身につけ、中間帯への侵入を果たそうとしている。
しかし、彼の笑みはすぐに凍りついた。霧の向こうから、複数の唸り声が聞こえてきたのだ。蜘蛛の死に反応して、他の魔物たちが集まってきている。
「これは...まずい...」
アーサーは周囲を見回した。このまま多数の魔物と戦えば、たとえモンスターイーターの力を持ってしても危険だ。しかし、退路は見当たらない。霧の中では方向感覚も失われがちだ。
そのとき、彼は奇妙な光に気づいた。霧の向こうから、微かな青い光が見えている。それはまるで何かを指し示しているかのようだった。
『主よ、そちらへ』
モンスターイーターの導きもあり、アーサーは迷わずその光へと走り出した。背後から魔物たちの足音が迫る。一瞬でも立ち止まれば、追いつかれるだろう。
青い光は次第に明るくなり、やがてその正体が見えてきた。それは洞窟の入口だった。洞窟内部から発せられる青い光が、彼を招き入れているかのように感じられた。
「これは...罠か...?それとも...」
思案する時間はなかった。アーサーは直感に従い、洞窟内に飛び込んだ。
一瞬、世界が変わったような感覚に包まれた。洞窟内は魔境の他の場所とは全く異なる空間だった。壁には青く光る水晶が埋め込まれ、床には奇妙な文様が刻まれている。そして何より驚くべきことに、空気が清浄で、王国にいた頃のように呼吸がしやすかった。
「ここは...」
『古の魔物の聖域』
モンスターイーターが答えた。
『知性を持つ魔物たちが、かつてこの場所で集い、叡智を分かち合った。今は廃れているが、彼らの力は今なお残る』
アーサーは呆然と洞窟内部を見渡した。これまで魔物は単なる野獣だと思っていたが、ここにあるのは明らかに高度な文明の痕跡だった。
「知性を持つ魔物...?」
彼の疑問は次の瞬間、思いもよらない形で答えられた。洞窟の奥から、重い足音が近づいてきたのだ。
アーサーは再び剣を構えた。しかし、姿を現したのは彼の想像を超える存在だった。
それは巨大なオーガだった。身長は三メートルを超え、青灰色の肌に一つ目を持つ。だが、その目には明らかな知性が宿っていた。オーガは豪奢な装飾を身につけ、片手には巨大な金の杖を持っている。
「人間よ、我が聖域に足を踏み入れし勇気は認めよう」
オーガが人間の言葉で語りかけてきた。アーサーは驚愕のあまり、言葉を失った。
「だが、お主が持つその剣...」オーガはモンスターイーターを指差した。「あれは我らの天敵なれ。何故それを持っている?」
アーサーは一瞬躊躇したが、すぐに気を取り直した。彼はまだ王家の血を引く者だ。未知の存在の前でも毅然とすべきだろう。
「私はアーサー・レド・ルミエル。この剣は魔境で偶然手に入れたものだ」
オーガは彼をじっと見つめ、やがて深いため息をついた。
「なるほど。剣がお主を選んだか...ならば、これも運命か」
オーガは一歩前に進み出た。その姿はアーサーを圧倒するほど巨大だ。
「人間よ、我が名はガルザス。この魔境の古き主の末裔なり。お主に問う」
オーガ・ガルザスの目がアーサーを貫くように輝いた。
「我らの力を求めるか?それとも、ただ生き延びることだけを望むか?」
アーサーは直感した。この問いへの答えが、彼の運命を大きく左右するだろうと。魔境でのこれまでの経験を経て、彼の中の何かが変わりつつあった。単なる復讐心だけでなく、この不思議な世界への好奇心も芽生えていた。
「力を...求めます」彼は毅然と答えた。「私は強くなりたい。そして、真実を知りたい」
ガルザスは満足げに頷いた。
「良かろう。ならば我らの試練を受けよ。生き残れば、お主にふさわしい道が開かれよう」
オーガは杖を床に突き、青い光が洞窟全体に広がった。アーサーの周りの空間が歪み始める。
「試練...?どういう...」
彼の言葉は途切れた。体が宙に浮き、意識が遠のいていく。最後に見たのは、ガルザスの静かな微笑みだった。
「我らが望む王となれるか...それとも、単なる力の奴隷で終わるか。全ては、お主次第...」
光の渦に包まれ、アーサーの意識は闇の中へと沈んでいった。魔境での真の試練は、今始まったばかりだった。
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