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第1章:「運命の目を持つ少年」 第2話
しおりを挟む神殿長の執務室に続く廊下は、リュークが普段立ち入ることのない神殿の中枢部にあった。壁には歴代神殿長の肖像画が厳かに並び、床には七神の紋章が刻まれた絨毯が敷かれている。
「こんなところに来るなんて…」
リュークは緊張で喉が渇くのを感じた。神殿の頂点に立つ神殿長アルバート・セントフィールドは、その厳格さで知られる人物だ。下級見習いが直接会うことなど、ほとんどない。
大きな木製の扉の前で立ち止まり、リュークは深呼吸をした。扉の上部には運命神エクロートの紋章—砂時計を持つ天使—が刻まれている。
「失礼します」
ノックをして、恐る恐る扉を開ける。
執務室に一歩踏み入れると、その広さに圧倒された。天井は高く、壁一面に本棚が並び、窓からは神殿全体を見下ろす景色が広がっている。部屋の中央には重厚な木製の机があり、その後ろには厳めしい表情の神殿長が座っていた。
「リューク・アスター。来たか」
アルバート神殿長の声は低く、威厳に満ちていた。六十代半ばだろうか、灰色の髪と髭は整えられ、深い皺の刻まれた顔には鋭い眼光が宿っていた。黒と金の神殿長の正装は、その権威を象徴するかのように輝いている。
「は、はい。お呼びでしょうか、神殿長様」
リュークは頭を下げながら答えた。その声が震えているのを自分でも感じる。
「近く寄れ」
机の前まで進むと、神殿長の横にもう一人の人物が立っていることに気がついた。神殿の儀式を司る上級神官オラシオだ。彼もまた厳しい表情でリュークを見つめていた。
「知っているだろうが、三日後は『運命分岐の儀式』だ」
神殿長が切り出した。
リュークは頷いた。運命分岐の儀式は、年に一度行われる神殿最大の祭事だ。運命神エクロートに捧げる儀式で、新たな一年の運命の流れを整えるとされている。
「儀式には『運命の砂時計』が必要不可欠だ。神殿の最も重要な神器の一つだ」
リュークは息を呑んだ。運命の砂時計は伝説の神器で、通常は神殿の最深部にある聖域に保管されている。見習い神官が目にすることさえ稀だった。
「運命の砂時計は儀式の三日前から特別な準備が必要とされる。その間、選ばれた神官が砂時計を預かり、浄化の祈りを捧げなければならない」
神殿長は机の上の書類に目を落とした。
「本来であれば上級神官か、少なくとも中級神官がその任に当たるものだ。だが…」
オラシオ神官が言葉を継いだ。
「今年は例年になく浄化の儀式を行える神官が不足している。病に伏せる者、地方へ派遣された者…様々な事情でな」
「しかし」神殿長が厳しい眼差しでリュークを見つめた。「儀式は延期できない。そこで、ガレス神官から一つの提案があった」
リュークは驚いた。ガレス先生が?
「おまえには『運命の目』があるそうだな」
神殿長の言葉に、リュークは体が硬直するのを感じた。彼の能力について知っている人間は少なく、神殿長も知っているとは思っていなかった。
「は、はい…でも、制御できていません。むしろ迷惑をかけることが…」
「ガレスによれば、その能力は未来の危険を察知できるという。運命の砂時計は時に予測不能な力を放つことがある。その危険を事前に察知できる者が側にいれば…」
オラシオ神官が口を挟んだ。「本当に信頼できるのか、この見習いを?運命の砂時計は神殿の命運を左右する神器だぞ」
神殿長は片手を上げて彼を黙らせた。
「ガレスを信頼している。彼が推薦するなら、それなりの理由があるはずだ」
リュークは驚きのあまり言葉が出なかった。老師が自分を…しかも運命の砂時計の管理役に推薦してくれたのだ。
「リューク・アスター。おまえに神殿の命運を左右する神器を三日間預ける。儀式の日まで、昼夜を問わず砂時計の側にいて浄化の祈りを捧げること。一瞬たりとも目を離してはならない」
神殿長の言葉は重く、リュークの肩に圧し掛かった。
「私に…そんな大役が務まるでしょうか」
「ガレスは『この役目はリュークにしかできない』と言っていた」神殿長は立ち上がり、窓の外を見つめた。「理由は明かさなかったがな」
リュークは混乱していた。なぜガレス先生は自分を推薦したのか。自分の制御不能な能力が、どう神器の保護に役立つというのか。
「もちろん」オラシオ神官が冷たい声で言った。「失敗すれば相応の罰がある。運命の砂時計に何かあれば、神殿から追放どころではすまないぞ」
リュークは背筋に冷たいものを感じた。
「どうだ、リューク・アスター。引き受ける覚悟はあるか?」
神殿長の問いに、リュークは一瞬躊躇した。この役目は自分には荷が重すぎる。だが、ガレス先生が信頼してくれたのだ。あの予知も、もしかしたらこのことと関係があるのでは?
「引き受けます、神殿長様」
リュークは腹を決めて答えた。
「よろしい」神殿長は満足げに頷いた。「儀式は三日後だ。今日から運命の砂時計を預かり、儀式の朝に神殿中央祭壇へ持参すること」
オラシオ神官が部屋の隅にある金庫に向かい、複雑な鍵を解除した。扉が開くと、神官は丁寧に中から何かを取り出した。
両手で捧げ持たれたそれは、一見すると普通の砂時計のようだった。しかし近づくにつれ、リュークはその違いを感じ取った。砂時計の中で流れるのは砂ではなく、青白い光を放つ粒子のようなものだった。ガラスの枠は美しい彫刻で飾られ、天地をつなぐ支柱は七つの宝石で装飾されていた。
「これが…運命の砂時計」
リュークは畏敬の念を抱きながら囁いた。
「手を出せ」オラシオ神官が命じた。
リュークは震える手を差し出した。その上に、砂時計が恭しく置かれる。
その瞬間だった。
砂時計に触れた途端、リュークの視界が歪み始めた。「運命の目」が反応している。だが、いつもと違う。痛みはなく、むしろ心地よい温かさが体に広がった。
目の前に様々な光景が流れる。
—燃え盛る炎の中、砂時計が輝く姿。
—何者かが砂時計に手を伸ばそうとしている。
—そして、迷宮のような場所で、砂時計が割れる瞬間。
「大丈夫か、見習い?」
オラシオ神官の声で我に返った。リュークは砂時計を両手でしっかりと受け取り、胸に抱きしめた。
「は、はい。大丈夫です」
神殿長は興味深そうな表情でリュークを観察していた。
「砂時計を預かる間の宿泊場所だが、通常の見習い寮では安全が確保できない。聖域近くの特別室を用意した」
リュークは頷いた。神殿の聖域近くとは、最も厳重に守られた場所だ。
「ただし」神殿長は続けた。「特別室とはいえ、最終的な責任はおまえにある。神器を守る最後の砦はおまえ自身だ。理解したか?」
「はい、神殿長様」
「オラシオ、彼を特別室まで案内せよ。必要な物資も運ばせておけ」
「かしこまりました」オラシオ神官はぎこちなく頭を下げた。彼の表情には明らかな不満が浮かんでいたが、神殿長の命令に逆らうことはできない。
「リューク・アスター」神殿長は最後にリュークを見つめた。「ガレスはおまえに期待している。私も同じだ。神殿の未来がおまえの手に託されたことを忘れるな」
「責任を持って務めます」
リュークは砂時計を大切に抱え、深々と頭を下げた。
***
特別室は神殿の東翼、聖域に通じる回廊の先にあった。オラシオ神官に案内され、リュークは重々しい扉の前に立った。
「ここが三日間のおまえの居場所だ」オラシオは鍵を取り出し、扉を開けた。「外側からも施錠できるが、儀式の準備のためには自由に出入りできるようにしておく。ただし…」
彼はリュークを鋭く見つめた。「砂時計はどこへ行くにも必ず携帯すること。一瞬たりとも目を離してはならない。寝る時も、食事の時も、だ」
「理解しています」
部屋に入ると、質素ながらも見習い寮よりはるかに立派な設えに驚いた。一人用のベッド、机、本棚、そして小さな祭壇が備えられている。窓からは中庭が見え、光が差し込んでいた。
「祈りの言葉は知っているな?」
「はい。『運命の流れよ、正しき道を進め』の詠唱を、一時間ごとに行います」
「正確には五十五分ごとだ。五分の休息を挟んで、再び祈りを始める。これを三日間、昼夜問わず続けるのだ」
リュークは顔を引き締めた。寝る時間もほとんどないということだ。
「食事は運ばれてくる。部屋から出る必要があれば、必ず砂時計を携帯し、十五分以上は離れるな」オラシオは厳しく言い渡した。「いいな?」
「はい、オラシオ神官様」
「今日から儀式当日まで、おまえは神殿で最も重要な任務に就いているということだ。それにふさわしい振る舞いを期待する」
オラシオ神官はそれだけ言うと、部屋を出て行った。扉が閉まる音とともに、リュークはようやく緊張の糸が解けるのを感じた。
「なんでこんなことに…」
彼は震える足でベッドに腰掛け、手の中の砂時計を見つめた。青白い光を放つ粒子が、重力に逆らうかのように上下両方向に流れている。不思議な光景だった。
「ガレス先生は何を考えているんだろう」
リュークは砂時計を祭壇に恭しく置き、その前に跪いた。祈りの言葉を唱える準備をしながら、彼は先ほど見た光景について考えていた。
炎、何者かの手、割れる砂時計…これは警告なのか?それとも避けられない未来なのか?
「運命の流れよ、正しき道を進め。七神の導きのもと、我らの歩みを照らしたまえ…」
祈りの言葉を口にしながらも、リュークの心は不安で満ちていた。なぜ自分のような下級見習いが、神殿で最も重要な神器を預かることになったのか。
窓から差し込む夕日の光が、砂時計に反射して部屋に虹色の光を散らばらせた。美しい光景だが、リュークにはそれが不吉な予感に思えてならなかった。
この三日間で、何かが起こる。彼の「運命の目」がそう告げていた。
***
夜も更けた頃、特別室の扉が静かにノックされた。
「リューク、私だ」
ガレスの声だった。リュークは砂時計を丁寧に持ち上げ、扉に向かった。
「先生」
扉を開けると、老神官の優しい顔があった。彼は部屋に入るとすぐに扉を閉め、リュークを見つめた。
「無事に任務を引き受けたようだな」
「はい…でも、なぜ僕なんですか?僕のような下級見習いに、こんな重要な役目を」
ガレスは小さく微笑んだ。
「リューク、君の『運命の目』は厄介ものかもしれないが、それは神々からの贈り物だ。神殿の中で、運命の力に直接触れることのできる者は君だけだ」
「でも、制御もできない能力が、どう役に立つんですか?」
「砂時計に触れた時、何か見えただろう?」
リュークは驚いた。「どうして…?」
「表情で分かる。砂時計は君の能力と共鳴した。それが君を選んだ証拠だ」
老神官はリュークの手を取り、砂時計を一緒に見つめた。
「リューク、神殿にとって大きな転機が近づいている。私にはそれがはっきりとは見えない。だが、君なら見えるかもしれない」
「先生…炎の中の砂時計と、割れる砂時計を見ました」
ガレスの表情が引き締まった。
「やはり…」
「何かあるんですか?」
老神官は深いため息をついた。
「確信はないが、神殿内で不穏な動きがある。誰かが儀式を妨害しようとしているかもしれない」
リュークは息を呑んだ。
「君を選んだのは、誰も予想しなかった人物に神器を預けるためだ。神殿の上層部は年長者を信頼するが、時に若き目が真実を見抜くこともある」
「でも、僕に何ができるというんですか?」
「ただ、神器を守り、見えたものを心に留めておけばいい。君の役目は、運命の流れを見守ることだ」ガレスは優しく言った。「そして…誰も信用するな」
「誰も…?」
「神殿内で砂時計を狙う者がいる。君の見た未来がそれを示している」
リュークは不安に駆られた。神殿内の誰かが、神器を狙っているというのか。
「明日から二日間、様々な神官が儀式の準備のために君のもとを訪れるだろう。全ての言動に注意を払うのだ」
ガレスは立ち上がり、扉に向かった。
「先生、待ってください。誰を疑えばいいんですか?」
老神官は振り返り、悲しげな微笑みを浮かべた。
「それが分かっていれば、こんな危険な役目を君に押し付けずに済んだのだがな」
そう言い残し、ガレスは部屋を出て行った。
残されたリュークは、手の中の砂時計を見つめた。青白い光がさらに強く脈動しているように見える。
「運命の流れよ、正しき道を進め…」
再び祈りの言葉を唱えながら、リュークは決意を新たにした。誰が神器を狙っているのか分からない。だが、自分に託された使命は果たさねばならない。
窓の外、満月の光が神殿全体を銀色に染めていた。三日間の見張りが始まったのだ。
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