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第9話:血の契約の真実
しおりを挟む魔王城に戻ったリリエルは、奪取した聖剣を宝物庫ではなく、自分の部屋に置くことにした。
「本当に部屋に置いておくのか?」魔王が尋ねた。「宝物庫なら厳重に守られているぞ」
「私の手元に置いておきたいの」リリエルは聖剣を壁に掛けながら答えた。「この剣は私と特別な繋がりがあるから」
聖剣は通常、純白の光を放っているはずだが、リリエルの手に渡ってからは赤と紫の光を纏っていた。まるで彼女の新たな力に呼応するかのように。
「面白い」魔王は興味深そうに聖剣を観察した。「聖剣がお前の力に反応している。これは予想外だ」
「私自身も驚いています」リリエルは聖剣を見つめた。「本来、聖剣は闇の力を持つ者には反応しないはず」
「それは...」魔王が何か言いかけたとき、突然リリエルの体を激しい痛みが襲った。
「っ!」
彼女は膝をつき、左腕を抱えた。結婚式の時に全身に広がった刻印が、今、燃えるように熱くなっていたのだ。
「リリエル!」魔王が彼女を支えた。「どうした?」
「腕が...熱い」彼女は歯を食いしばって答えた。「刻印が...」
魔王は彼女の腕をつかみ、袖をまくり上げた。刻印は赤く光り、拡大しているように見えた。しかも、その模様が変化している。
「これは...」魔王の目が驚きで見開かれた。「契約の深化だ」
「契約の...深化?」リリエルは痛みに耐えながら尋ねた。
「ああ」魔王は彼女を抱き上げ、ベッドに寝かせた。「血の契約は時に変化する。特に契約者の力が大きく変わったときに」
「聖剣を手に入れたから...?」
「おそらくそうだ」魔王は彼女の額に手を当てた。「聖剣の力とお前の中の力が互いに影響し合っている」
部屋に老祭司が呼ばれた。彼はリリエルの腕を見て、驚きの表情を浮かべた。
「これは...」老祭司が言葉を詰まらせた。「魔王様との契約が一段階深まっています。前代未聞のことです」
「どういうことですか?」リリエルは痛みが和らぐと、上体を起こした。
老祭司は畏怖の眼差しでリリエルを見た。
「通常、血の契約は単純な力の共有に過ぎません」彼は説明した。「しかし、この刻印の形...これは魔王様の力がより直接的に流れ込んでいることを示しています」
「つまり?」魔王が鋭く尋ねた。
「魔王妃様の体が、契約を通じて変化しているのです」老祭司はリリエルの刻印を見つめた。「彼女の中の聖女の力と魔王様からの闇の力が...互いに排除せず、共存している」
リリエルは自分の腕を見つめた。確かに、刻印の形は以前より複雑になり、紫と赤の光が交互に脈打っていた。
「これが意味するところは?」彼女は静かに尋ねた。
「あなたの力がさらに増すということです」老祭司が答えた。「本来、聖女の力と魔の力は相反するもの。しかし、あなたの中ではそれらが調和している。それは...」
彼は一瞬言葉を詰まらせ、畏敬の念を込めて言った。
「『聖魔女』としての覚醒に近づいているということです」
その言葉に、魔王の顔に満足げな表情が浮かんだ。
「聖魔女...」彼は低い声で繰り返した。「光と闇の力を自在に操る存在。神にも魔にも属さぬ、唯一無二の存在」
リリエルは不思議な感覚に包まれていた。痛みは徐々に和らぎ、代わりに体の内側から新たな力が湧き上がるのを感じた。
「私の中で...何かが変わっている」彼女は静かに言った。
老祭司は深々と頭を下げた。
「魔王妃様、安静にされることをお勧めします」彼は言った。「体の変化が落ち着くまで」
老祭司が退出した後、魔王はリリエルの隣に座り、彼女の髪を撫でた。
「怖くはないか?」彼は珍しく優しい声で尋ねた。「お前の体は急速に変化している」
リリエルは首を振った。
「怖くはありません」彼女は静かに答えた。「むしろ...解放されたような感覚です」
彼女の頬に微かな笑みが浮かんだ。それは聖女時代の優しい微笑みとは異なる、何か冷たく、しかし力強いものだった。
「神に仕えていた時代、私は常に束縛されていました」彼女は続けた。「『聖女』という枠の中でしか存在を許されなかった。でも今は...」
彼女は自分の手を見つめ、紫の光を放った。
「自分の力で、自分の意志で行動できる。それが...心地いいんです」
魔王は彼女の言葉に満足げに微笑んだ。
「それが闇の解放だ」彼は言った。「光の中では、常に誰かのために生きることを強いられる。だが闇は違う。闇の中では、自分のために生きることができる」
リリエルはその言葉に深く頷いた。彼女の心に、かつての聖女としての罪悪感はもはやなかった。あるのは冷たい決意と、復讐への渇望だけだった。
「私が使役していた精霊たちに連絡を取りたいの」彼女は突然言った。「彼らは聖女の命令に従う存在。私が彼らを呼べば、応えるはず」
「精霊?」魔王が興味を示した。「聖なる精霊たちが、闇落ちした聖女に応えるとは思えないが」
「でも私は聖女の力をまだ持っています」リリエルは自信を持って言った。「しかも、今はより強力に」
彼女はベッドから立ち上がり、聖剣の前に立った。
「試してみましょう」
彼女は聖剣に手を触れ、目を閉じた。聖女時代に彼女が唱えていた精霊召喚の言霊を静かに紡ぐ。
しかし、彼女の言葉は以前とは少し違っていた。光の精霊を呼ぶ言葉の中に、闇の力を宿した言葉が混ざっていたのだ。
部屋に風が起こり、光の粒子が舞い始めた。その光の中に、黒い影のような何かが混ざっている。
「来なさい、風の精霊シルフ」リリエルが命じた。
光と影が渦巻き、一人の小さな精霊が姿を現した。翼のある少女の姿をしたシルフだが、彼女の姿も変わっていた。かつての純白の衣装ではなく、白と黒のまだら模様の衣を身にまとっていたのだ。
「リリエル様...」シルフは困惑したように言った。「あなたが...呼んだのですか?」
「ええ」リリエルは冷たく微笑んだ。「私の変化に気づいたかしら?」
シルフは恐る恐るリリエルに近づき、彼女の周囲を飛び回った。
「あなたは...変わりました」シルフが言った。「光と闇、両方の力を持っています」
「そう」リリエルは頷いた。「私は今、聖女ではなく、魔王妃となった。でも、あなたたち精霊への命令権は失っていないようね」
シルフは困惑したような表情を浮かべたが、やがて小さく頭を下げた。
「はい...」精霊は言った。「あなたの力は以前より強くなっています。私たちは依然としてあなたに従います」
魔王は驚いた様子でその光景を見つめていた。聖なる精霊が闇落ちした聖女に従うという光景は、彼にとっても前代未聞だった。
「他の精霊たちも呼べる?」魔王が尋ねた。
「ええ」リリエルは自信を持って答えた。「火のサラマンダー、水のウンディーネ、土のノームも私の呼びかけに応えるでしょう」
「これは予想外の利点だな」魔王は感心した様子だった。「精霊たちの力も利用できるとは」
リリエルはシルフに向き直った。
「王国の状況はどうなっている?」彼女は尋ねた。「私が聖剣を奪った後の」
シルフは少し躊躇ったが、答えた。
「王国は大混乱です」精霊は言った。「聖剣の喪失と、リリエル様が生きていることが明らかになり、民衆の間に不安が広がっています」
「ルミエルは?」
「偽聖女ルミエルは必死に聖剣の代わりとなる武器を探していますが、成果はありません」シルフが報告した。「また、彼女は民衆の前に出ることを避けるようになりました。信頼を失いつつあるようです」
リリエルの唇に冷たい笑みが浮かんだ。
「王太子アレンは?」
「彼は焦りを見せています」シルフの声には少しの同情があった。「リリエル様が魔王と共に戻ってくると恐れているようです」
「その通りよ」リリエルは低く笑った。「私は必ず戻る。復讐のために」
シルフは不安そうな表情を浮かべたが、黙って頷いた。
「戻りなさい」リリエルは精霊に命じた。「そして王国の様子を見守っていて。何か変化があれば報告に来なさい」
シルフは一礼し、光と影の渦の中に消えていった。
魔王はリリエルの肩に手を置いた。
「お前の力は予想以上だ」彼は称賛の声で言った。「聖なる精霊さえも従わせる」
リリエルは静かに頷いた。彼女自身も、自分の力の可能性に驚いていた。
「これが血の契約の本当の効果なのね」彼女は自分の腕の刻印を見つめた。「あなたの闇の力と私の聖女の力が...一つになりつつある」
「互いに否定せず、共存している」魔王は彼女の言葉を修正した。「融合ではなく、共存だ」
「共存...」リリエルはその言葉を噛みしめた。「それが『聖魔女』の本質なのかもしれません」
彼女の背中の翼が、少し大きくなったように感じられた。魔王がそれに気づき、彼女の背に触れた。
「翼も成長している」彼は言った。「やがてお前は完全な姿になるだろう」
「完全な姿...」リリエルはその言葉を反芻した。「聖女でも魔族でもない、新たな存在として」
魔王は彼女の頬に手を当て、真剣な表情で言った。
「お前は特別な存在だ」彼の声には珍しく敬意が混ざっていた。「俺の妻であり、聖魔女となる者。神にも魔にも縛られない、唯一無二の存在」
リリエルはその言葉に、奇妙な解放感を覚えた。彼女はもはや「聖女」という枠に縛られていない。「魔王妃」という新たな立場も、彼女を定義するものではなかった。彼女は彼女自身として、自由に力を選び、使うことができる存在になりつつあった。
「明日からはさらに厳しい訓練を始める」魔王が言った。「お前の新たな力を完全に引き出すためにな」
「ええ」リリエルは冷たく微笑んだ。「そして、王国への第二の一撃を計画しましょう」
「何を考えている?」
「聖剣を奪ったことで、王国は既に動揺している」リリエルは策略めいた表情で言った。「次は...偽聖女ルミエルの正体を暴きましょう」
「どうやって?」
「シルフの話では、彼女は民衆の前に出るのを避けているそうね」リリエルは言った。「それは彼女に聖女の力がないことを、彼女自身が恐れている証拠」
彼女は聖剣を見つめた。
「王国の祝祭の日に、私が聖剣を持って現れる」彼女は静かに計画を語った。「かつての聖女が、今は魔王妃となって戻ってきた姿を見せるの」
「民衆は混乱するだろうな」魔王は彼女の計画に満足げに頷いた。
「そして、ルミエルに挑戦状を叩きつける」リリエルの目に冷たい光が宿った。「彼女が本当の聖女なら、私との力比べに応じるはず」
「だが彼女には本当の力がない」魔王が言った。「逃げるだろう」
「その通り」リリエルは冷酷に微笑んだ。「彼女が逃げれば、偽物であることが証明される。彼女が挑戦を受ければ、私の前で無力さを晒すことになる」
「どちらにせよ、彼女は民衆の信頼を失う」魔王は彼女の策略に感心した。「お前の闇の知略は素晴らしい」
リリエルはその言葉に、少し頬を赤らめた。かつての彼女なら、このような策略を考えることはなかっただろう。しかし今の彼女は違った。彼女の心には復讐心という闇が巣食い、その闇が彼女に新たな思考をもたらしていた。
「契約の深化により、お前の体は一時的に弱っているはずだ」魔王が彼女の額に触れた。「今夜は休め。明日から新たな訓練を始める」
リリエルは静かに頷いた。彼女の体は確かに疲労を感じていたが、同時に新たな力が目覚めていることも感じていた。契約の深化が、彼女をさらに強大な存在へと変えつつあるのだ。
「あなたのおかげで、私は変われた」彼女は小さな声で言った。「もう弱い聖女ではない」
魔王は彼女の髪に優しく触れた。その指には所有欲が宿っていたが、同時に何か新しい感情も混ざっていた。敬意だろうか、それとも...。
「お前は俺のものだ」彼は囁いた。「だが同時に、誰にも縛られない存在となりつつある」
その矛盾した言葉に、リリエルは少し混乱した表情を見せたが、すぐに落ち着いた微笑みを浮かべた。
「私はあなたの妻」彼女は静かに言った。「そして、自分の意志で闇を選んだ者」
二人の間に奇妙な緊張感が流れた。かつての支配者と被支配者という単純な関係ではなく、互いを認め合う同等の存在としての緊張感だった。
魔王は彼女の唇を軽くキスし、部屋を後にした。
一人残されたリリエルは、聖剣と自分の腕の刻印を交互に見つめた。彼女の体と心は確実に変化していた。もはや光に縛られた聖女ではなく、かといって単なる闇の存在でもない。
彼女は両方の力を持ち、両方の世界に属しながらも、どちらにも完全には属さない特別な存在となりつつあった。
「聖魔女...」
彼女はその言葉を静かに口にした。それは彼女の新たなアイデンティティとなりつつある名前だった。
窓から見える月は、今夜は半分が明るく、半分が影に覆われていた。ちょうど彼女の心のように。
リリエルは翌日からの訓練と次なる復讐計画に思いを馳せながら、静かに目を閉じた。彼女の唇には冷たい微笑みが浮かんでいた。
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