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第10話:偽りの情報
しおりを挟む風の精霊シルフが魔王城の窓から舞い込んできたのは、朝の訓練が終わったばかりの頃だった。
「リリエル様」シルフが彼女の前に現れ、小さく一礼した。「王国の情報をお持ちしました」
リリエルは魔王城の訓練場で大剣を振るっていた手を止め、汗を拭った。一週間の猛訓練で、彼女の力はさらに高まっていた。背中の翼は以前より大きくなり、左目の下の刻印もより鮮明になっていた。
「話しなさい」彼女は精霊に命じた。彼女の声は冷たく、聖女時代の優しさは微塵もなかった。
「王国では聖剣奪取の混乱が続いています」シルフが報告を始めた。「偽聖女ルミエルは王宮に引きこもり、民衆の前に姿を現さなくなりました」
「王太子は?」
「焦りを隠せていません」シルフの声には僅かな同情があった。「毎日のように会議を開き、対策を練っていますが、まとまりません」
「対魔族討伐軍の編成は?」
「『偽聖女討伐軍』と名付けられた部隊が組織されています」シルフが答えた。「あなたの...処刑に失敗したことへの責任を、あなたに押し付けようとしているようです」
リリエルは冷たく笑った。あまりにも透けて見える卑劣な言い訳だった。
「面白い」彼女は言った。「私が聖女だった頃、彼らは私を崇拝していた。今は『偽聖女』と呼ぶのね」
訓練場の入り口から魔王が現れ、二人の会話に加わった。
「何か面白い情報があったか?」
「はい」リリエルは魔王に視線を向けた。彼女の青い瞳は冷たく輝いていた。「王国は『偽聖女討伐軍』を組織しているそうです」
魔王は低く笑った。
「哀れな反応だな」彼は言った。「恐怖を隠すための虚勢か」
リリエルはシルフに向き直った。
「王国の祝祭はいつ?」
「三日後です」シルフが答えた。「王都の守護神を祀る『聖光祭』です。例年なら聖女が聖剣を持って祝福を与える儀式があるのですが...」
「聖剣がないから、困っているわけね」リリエルの唇に冷酷な微笑みが浮かんだ。「完璧な機会だわ」
魔王は彼女の意図を察した。
「お前の計画を実行する時が来たようだな」
「ええ」リリエルは頷いた。「でも、その前に...」
彼女はシルフに向き直った。
「王国に偽の情報を流して」彼女は命じた。「魔王軍が北の国境から攻めてくるという情報を」
シルフは少し困惑した様子だったが、頷いた。
「分かりました」彼女は言った。「しかし...本当は攻撃しないのですか?」
「当然よ」リリエルは冷たく言った。「全ては心理戦。彼らの兵力を北に集中させれば、王都の防衛は手薄になる」
「賢い策だ」魔王は感心した様子で言った。「北の国境に少数の魔族を見せることで、情報の信憑性を高めることもできる」
「それをお願いします」リリエルは魔王に同意した。「ガルヴァンに指示を」
魔王は軽く頷き、側近を呼びに行った。
シルフは複雑な表情でリリエルを見つめていた。
「リリエル様...」精霊は遠慮がちに言った。「あなたは本当に変わられました」
「そうね」リリエルは淡々と答えた。「変わらざるを得なかったの」
シルフは小さく頷き、風の力で周囲を舞った。
「もう一つ報告があります」彼女は言った。「王太子アレンは、あなたのことを悪夢で見ているそうです。恐怖に怯えながら...」
その言葉に、リリエルの顔に冷酷な満足感が浮かんだ。
「そう...」彼女は低く笑った。「それは聞いて嬉しいわ」
シルフは震えるような表情を見せたが、リリエルは気にしなかった。
「行きなさい」彼女は精霊に命じた。「偽情報を広め、三日後に備えて」
シルフは一礼し、風と共に消えていった。
魔王が戻ってきた時、リリエルは冷たい微笑みを浮かべていた。
「北の国境に少数の魔族を派遣する手配をした」魔王が報告した。「彼らは姿を見せるだけで、実際の戦闘は避ける」
「完璧です」リリエルは満足げに言った。
「さて」魔王が彼女に近づいた。「お前の準備は整ったか?三日後の聖光祭に向けて」
「ええ」リリエルは聖剣を手に取った。「彼らの前に現れ、真実を突きつける」
魔王は彼女の肩に手を置いた。その目には明らかな所有欲があったが、同時に何か新しい感情も混ざっていた。それは...誇りに似ていた。
「お前の計画は完璧だ」彼は言った。「だが、俺はやはり共に行くべきだと思う」
リリエルは首を振った。
「それでは意味がありません」彼女は冷静に言った。「私一人で現れることで、より大きな心理的効果があります。『魔王に捕らわれた聖女』ではなく、『自らの意志で闇を選んだ聖女』として」
魔王は渋々と頷いた。彼女の論理に反論できなかったのだ。
「だが、これを持っていけ」彼は黒い宝石を彼女に差し出した。「危険を感じたら、これを砕け。俺が即座に駆けつける」
リリエルはその宝石を受け取り、首に下げた。宝石は彼女のチョーカーの赤い宝石と共鳴するように輝いた。
「心配しないで」彼女は珍しく柔らかい声で言った。魔王にだけ見せる表情だった。「必ず戻ります」
魔王は彼女を引き寄せ、強く抱きしめた。
「お前がいなければ、俺は狂う」彼は低い声で言った。「そのことを忘れるな」
リリエルはその言葉に身震いした。彼の狂気めいた愛情は時に彼女を戸惑わせたが、同時に安心感も与えた。彼だけは彼女を決して裏切らない——その確信があった。
「最終的な計画を確認しましょう」彼女は魔王の腕から離れ、作戦室へと向かった。
作戦室では、ガルヴァンが地図を広げて待っていた。
「偽情報は既に流しました」彼が報告した。「北の国境に向かう王国軍の動きが確認されています」
「素晴らしい」リリエルは地図の王都を指差した。「彼らが北に兵を集中させている間に、私は王都の聖光祭に現れる」
「単独で?」ガルヴァンが心配そうに尋ねた。
「ええ」リリエルは冷静に答えた。「ただし、魔族の偵察兵は周辺に配置してください。万が一の時の撤退路を確保するために」
「もちろんです」ガルヴァンは頭を下げた。
「私は聖光祭の最中、聖剣を持って姿を現す」リリエルは計画を続けた。「そして、偽聖女ルミエルに挑戦状を叩きつける」
「彼女が応じなければ、民衆は彼女を疑うだろう」魔王が言った。「応じれば、彼女の無力さが露呈する」
「どちらにしても、彼女の信頼は崩れる」リリエルの唇に冷たい微笑みが浮かんだ。「そして王太子アレンの焦りはさらに深まる」
ガルヴァンは感心した様子で頷いた。
「魔王妃様、あなたの策略は見事です」彼は敬意を込めて言った。「かつての聖女がここまで冷徹な計算を...」
彼は言葉を詰まらせたが、リリエルは不快感を示さなかった。
「私は変わったの」彼女は静かに言った。「裏切られ、捨てられ、殺されかけた経験が、私を変えた」
彼女の声には冷たさと共に、どこか解放感があった。
「今の私は、自分のために生きている。復讐のために」
魔王はその言葉に満足げな表情を浮かべた。彼の黄金の瞳には、彼女への執着と誇りが混ざっていた。
「それでは三日後に向けて準備を整えよう」彼は言った。「お前の復讐劇の幕開けだ」
---
三日後、王都セントグラールは聖光祭の賑わいに包まれていた。
街は花や光で飾られ、民衆は祝祭を楽しんでいた。しかし、例年と違うのは、聖剣による祝福の儀式がないことだった。代わりに、偽聖女ルミエルは短い祈りを捧げるだけの簡素な儀式を行うと発表されていた。
大広場には多くの民衆が集まり、王太子アレンと偽聖女ルミエルの到着を待っていた。北の国境への兵力集中により、王都の警備は通常より薄くなっていた。
「来ました」広場の片隅で見張っていた魔族の偵察兵が通信結晶に囁いた。「王太子と偽聖女です」
魔王城では、リリエルがその報告を聞き、立ち上がった。彼女は漆黒のドレスを身にまとい、背中の翼は堂々と広げられていた。聖剣は鞘に収められ、腰に下げられている。
「行きましょう」彼女は魔王に言った。
魔王は彼女の頬に触れ、真剣な表情で言った。
「気をつけろ」彼の声には心配が混ざっていた。「必ず戻ってこい」
「約束します」リリエルは静かに答えた。
彼女は魔力を集中させ、瞬間移動の術を発動した。契約の深化により、彼女は魔王の力の一部を使うことができるようになっていた。
王都の大広場、偽聖女ルミエルが祈りを捧げ始めたその瞬間。
突然、空が暗くなり、紫の光が広場の中央に集中した。人々が驚愕の声を上げる中、光の中からリリエルが姿を現した。
背中の黒い翼を広げ、左目の下の刻印を堂々と見せた彼女は、もはや王国の聖女ではなかった。しかし、彼女が放つ威厳と力は、聖女時代を遥かに超えていた。
「久しぶりね、皆さん」リリエルの声が広場に響き渡った。「私を覚えているかしら?」
広場は一瞬、静まり返った後、混乱に陥った。
「リリエル聖女!?」
「彼女は生きていたのか?」
「あの翼...魔族になったのか?」
民衆の間で囁きが広がる。
偽聖女ルミエルは顔面蒼白になり、後ずさりした。王太子アレンは剣を抜き、警戒の姿勢を取ったが、その手は震えていた。
「リリエル...」彼は震える声で言った。「お前は死んだはずだ」
「残念ながら、あなたの望み通りにはならなかったわ」リリエルは冷たく微笑んだ。「私は死ななかった。むしろ...生まれ変わったのよ」
彼女は腰から聖剣を抜き、高く掲げた。聖剣は彼女の手の中で赤と紫の光を放った。
「見なさい!」彼女は民衆に向けて叫んだ。「これが真の聖剣。そして、それを使える私こそが真の聖女よ」
民衆の間に動揺が広がった。聖剣は偽物を受け付けないことを、彼らは知っていた。リリエルが聖剣を持ち、しかもそれが光を失わないことは、彼女の言葉に真実があることを示していた。
「嘘だ!」ルミエルが叫んだ。「彼女は魔族に取り込まれたのです!聖剣は汚されています!」
リリエルは冷笑した。
「本当にそう?」彼女はルミエルに向き直った。「では証明してみせなさい。この聖剣を手に取って」
彼女は聖剣をルミエルの方に向けた。
「もしあなたが真の聖女なら、聖剣はあなたに応えるはず」
広場に緊張が走った。ルミエルは恐怖に震え、動けなくなっていた。
「さあ、ルミエル」リリエルの声には挑発があった。「民衆の前で、あなたが真の聖女であることを証明するチャンスよ」
アレンはルミエルの腕を掴んだ。
「行くな」彼は小声で言った。「罠だ」
しかし、民衆の目はルミエルに注がれていた。彼女が聖剣に触れないことは、彼女の正統性への疑念を深めるだけだった。
「チキンね」リリエルは高らかに笑った。「偽物だから触れないのでしょう?」
その言葉に、民衆の間で不満の声が漏れ始めた。
「聖女様、証明してください!」
「本当の聖女なら、恐れることはないはず!」
ルミエルは追い詰められ、前に出た。彼女は震える手を聖剣に伸ばした。
リリエルは冷たい笑みを浮かべながら、聖剣を差し出した。
ルミエルの指が聖剣に触れた瞬間、彼女は悲鳴を上げて手を引っ込めた。聖剣から強烈な光が放たれ、彼女の手を焼いたのだ。
「見なさい!」リリエルは民衆に向かって叫んだ。「彼女は偽物です!聖剣は彼女を拒絶した!」
民衆の間に動揺が広がった。
「偽聖女だったのか?」
「我々は騙されていたのか?」
アレンは剣を構え、リリエルに向かって叫んだ。
「騎士団!彼女を捕らえろ!」
しかし、広場の警備は薄く、騎士たちは混乱した民衆に阻まれて動けなかった。
リリエルは聖剣を鞘に戻し、冷たく微笑んだ。
「皆さん、真実を知りなさい」彼女は高らかに宣言した。「私はかつて聖女でした。しかし、王太子と偽聖女に裏切られ、処刑されかけた。神も私を見捨てました」
彼女の声には冷たい怒りがあった。
「今の私は魔王の妻となり、闇を受け入れました。それでも、聖剣は私を認めています。なぜなら、私こそが真の聖女だからです」
民衆の間で囁きが広がり、中には彼女に共感を示す者も現れ始めた。
「リリエル聖女は処刑されかけたのか?」
「我々は真実を知らされていなかったのでは?」
アレンは激しい怒りと恐怖の表情で叫んだ。
「彼女の言葉に惑わされるな!彼女は魔族だ!」
「そう、私は今は魔王の妻」リリエルは高らかに言った。「でも、あなたがたが真の『偽物』に騙されているという事実は変わらないわ」
彼女はルミエルを指差した。
「彼女の正体を調べてみなさい。彼女はどこから来たのか?なぜ突然現れたのか?」
その言葉に民衆の疑念が深まる中、リリエルは薄く笑みを浮かべた。
「王国の皆さん、私が再び現れる時は、真実をさらに明らかにする時です。それまで...」
彼女は黒い翼を大きく広げ、紫の光に包まれた。
「さようなら」
光が消えると、彼女の姿はなくなっていた。
広場には激しい論争と混乱が残された。民衆の間で、偽聖女ルミエルへの疑念が急速に広がっていた。
王太子アレンは青ざめた顔で城に引き返し、ルミエルを引きずるように連れて行った。
---
魔王城に戻ったリリエルを、魔王が待ち構えていた。
「成功したわ」リリエルは満足げに報告した。「偽聖女の正体が暴かれ、民衆は混乱しています」
魔王は彼女を抱きしめ、唇を強く奪った。
「素晴らしい」彼は彼女の頬に触れた。「お前の冷徹な策略が見事に功を奏した」
リリエルは彼の腕の中で、初めて心から満足げな表情を浮かべた。
「これは始まりに過ぎないわ」彼女は言った。「次は王太子アレンを直接追い詰める番よ」
彼女の青い瞳に冷たい復讐心が宿っていた。かつての聖女の面影はもはやなく、そこにあるのは冷酷な魔王妃の姿だけだった。
「あの男の絶望する顔が、一番見たいの」リリエルは冷たく微笑んだ。
魔王はその表情に見とれるように彼女を見つめた。
「お前は俺の最高の妻だ」彼は言った。「お前を選んで、俺は間違っていなかった」
リリエルは彼に寄り添い、小さく頷いた。彼女の心には、復讐の快感と共に、魔王への信頼が深く根付いていた。
かつての聖女は完全に消え去り、そこにあるのは「聖魔女」としての新たな存在——復讐の炎を胸に抱く魔王妃リリエルの姿だけだった。
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