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初彼の宿命2(fin)
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望月教授の証言、今となっては遺言のような情報は、今でも俺の脳裏に刻み込まれている。あの夜、月明かりの中で教授は断言した。朝日のエネルギー源は、そのほとんどが愛情であり、そして、彼女には人の心を操る力がある、と。前者の情報については、すでに確認している。本人が言うには、確かに愛情の享受に関して、ある特別な感覚があって、それは栄養を投与する医療用のチューブを想像すれば分かりやすい、らしい。その感覚を頼りチューブの先をたどれば、いつでも俺の位置が特定できるとか何とか、……朝日にとっては、GPS代わりになっているみたいだ。高架下に逃げても見つかったのは、そういう訳だ。
問題なのは、後者の情報だった。告白しよう。まだ朝日には言っていない。聞きたくなかったのだ。今でも俺の位置が正確に分かっているということは、この期に及んでまだ俺が朝日に愛情のようなものを抱いていることを暗示し、それがネックになっている。
殺人鬼に愛情を注ぐのは、それが無意識的であっても自分が許せない。だが、それ以上に、今感じている思いが嘘であるというのも許せなかった。操られた末の気持ちだとは死んでも認めたくなかった。それは倫理を超えた感情であり、痛みきった心の、最後の砦だった。
こんな支離滅裂な思考回路をしているようでは、すでに操られているのかもしれない。いずれにしても、また大切なことを後回しにして、日常を必死に演じていた。俺は臆病者だ……
―夕食の後、俺は居間でテレビを流し見ていた。破損したサッシには新聞紙を貼り付けただけで、大家に見つかってどやされる前に何とかしたいと算段を練りながら見るニュースは内容がまるで頭に入ってこない。
《パチンッ……パチン……》
新聞紙を取り出したついでにと、一枚広げて爪を切り出したてへぺろ女は、どこの民謡か分からない歌を口ずさみながら飄々としていた。
なぜそんなに呑気なのか。大家と仲が良いから、自分は叱られないってか? それで俺だけが唾ふっかけられて大きな声を出されるなら、世知辛いにも程がある……
途方に暮れていたところに、あるニュースが飛び込んだ。
(……あれ、この人どっかで)
目に入ったのは、男の顔写真だった。テレビ画面に映っていたのは字幕と顔写真、それから、県内某所の高層タワーマンションだった。真っ昼間に屋上から飛び降り自殺という、普段なら気にも止めないようなニュースだった。実名報道されていたが、その名前に覚えは無く、〇〇銀行の支店長という肩書きから言って、中堅大学の一学生である俺とは縁もゆかりもない。しかし、見過ごせないデジャブに襲われて、ギリギリ思い出せないもどかしさに頭を悩ませていると、爪を切る女が反応した。
「責任を取らされそうになったんだね」
「責任?」
「この人は会社の資金回収に失敗したんだ」
何の話をしているのだろう。分からない。
「知り合いなのか?」
「ううん、向こうは私のこと知らない」
「……?」
朝日が一方的に知っていた、ということか? 著名な方なのだろうか。
同居人は最後の爪を切って、やすりで形を整えながら、口を滑らせた。
「さすがに十億飛ばしたら、ただじゃ済まないよ」
―聞き覚えのある数字だった。そう言えば、俺達も十億円、当てたんだっけか、宝くじで。……宝くじ?
《―!》
背筋に電流が走った。機密文書のように黒塗りにされた記憶が朝日の言葉で明るみに出る。
「この人っ、宝くじ売り場で―」
合いの手を入れるように朝日は言葉を挟んだ。
「そうそう、宝くじ買う前にお腹壊してたあの人だよ」
そうだ、急に腹抱えてスーパーに駆け込んで、それから……
―思考が一旦停止した。おかしい、と思ったからだ。まるで、彼だけあの日の記憶から抜け落ちていたような、そんな感覚があった。俺はなぜだか、今までずっと、完成していないジグソーパズルに満足していた。
ようやく完成図を取り戻したパズルは、一枚の、あまりに都合が良すぎる絵を俺に見せた。俺達が買ったくじは、元々彼が購入しようとした物であり、それも、番号指定という手の込みようだった。そこでタイミング良く腹を壊して体調不良に陥り、すかさず朝日が買い取った。ただそれだけで十億円を手にした。何から何まで、意図的に仕組まれた茶番だとしか思えない。
「朝日」
「何?」
「あの人が宝くじ買う時、何かやったか」
「うん、お腹が緩くなるように仕向けた。あと、周囲の意識から彼の印象を限界まで薄めておいた。念のためにね」
(……そんなことが出来るのか)
徐々に悪魔の片鱗を見せ始めた彼女は、爪切りを一通り完了して、丸めた新聞紙をゴミ箱に投げた。上手くゴミの上で跳ねて、それは枠内にきちんと収まった。
「ナイスコントロール!」
自画自賛する朝日の表情には陰りがなかった。
俺はかつて立てた仮説と、思い出した記憶、今し方聞き及んだ情報を照応させ、そして、ある都市伝説をなぞることになる。
「あの人は宝くじの当選番号を知っていた……」
俺は虚空を見ながら、唐突に話し始めた。
「あの宝くじの運営元は〇〇銀行だ。そこの支店長だった彼は、なぜかは分からないけど、高額当選くじの回収を任されていた」
「あの人の正体に勘付いたお前は、彼が宝くじを購入する時を狙って、それを横取りした」
「十億円損失の責任を問われて、追い詰められた末に彼は、……自殺を選んだ」
片膝を抱えて、切りたての足の爪を眺める悪魔は、簡単な口調で世間話を始めた。
「彼ね、曰く付きの人だったの。〇〇銀行の頭取にとっては、遠縁の親戚一家の問題児。この辺では有名なごろつきだったんだけど、警察のお世話になったり、金遣いが荒くて一文無しになって、見かねた頭取が会社にポストを用意したんだ。前科持ちの支店長だって、社内は大騒ぎだったらしいよ。近所の婦人会じゃ、語りぐさなんだから」
「更生させるためとは言え、そこまでしてあげるなんて頭取は慈悲深い人だ、なんておば様方はおっしゃったけど、銀行の頭取が善人なわけない。資金回収の汚れ役を押し付けて利用したんだ。身内だし、恩義もあるから、口止めしやすかったんだろうね。失敗すれば切り捨てたら良いだけの捨て駒としか思われてなかったのが本当のところじゃないかな」
「彼も分かってたと思う、だから、叔父に認めて貰おうと必死だった。ミスは許されなかった。そんな矢先に大失態をしでかした」
「下手に危ない橋を渡ろうとして、橋から落っこちた、だから死んだ」
緊張感のない声色と、他人事のような冷たい口調に我慢ならず、俺は言いたいことを言った。
「落っこちたんじゃなくて、突き落としたんだろ……」
彼女はシニカルな笑みを浮かべた。
「そう。三千円で、彼を殺した。実行犯は私で、出資者が優理。私達は共犯だ」
俺はこんな事を望んでいなかった。なのに、気付いたら殺人の片棒を担がされていた。
「お前さ、罪悪感とかねぇの……?」
悪魔は首をもたげた。
「どうして?」
「お前が平気そうにしてるからだろ。人を死なせたと分かったら、普通の人間は青ざめて落ち着かなくなったり、取り乱すもんなんだよ、それなのにお前ときたら足伸ばしてくつろいで……、どんな神経してんだ!」
「もう二人殺してるってのに、冗談じゃねぇ!」
気付けば大声を出していた。今まで朝日のことが怖くてずっと本気で叱れずにいたが、抑えきれず、溜まったフラストレーションが爆発していた。もうこんな張りぼての日常は嫌だった。
朝日は怒鳴られて、少ししょげた風に言った。
「私にだって、罪悪感くらいある」
「だったら―」
言いかけて口をつぐんだ。彼女の瞳が橙色に染まるのが見えたからだ。
「近頃の私は、心が動揺しそうになると、どこからか冷たい気分が流れ込んできて、すぐに落ち着くようになった。おかげで、何人殺そうと、その罪悪感に押しつぶされずに済んでいる」
「……でも」
すっと瞳から琥珀の輝きが消えた。見慣れた黒い瞳は弱って見えた。
「優理にそんなこと言われたら、つらいよ……」
曲げた膝に額を押し当てた朝日は、ふさぎ込んだまま動かなくなった。
「……朝日?」
少しして、肩が微かに上下し始めた。朝日は声を押し殺して泣いていた。三人の人間を死に追いやった凶悪な悪魔が、極めて孤独で、矮小な、か弱い女の子に見えた。
今泣いているのが、朝日だ。根拠なんてないけど、俺には分かる。
初めて見せた笑顔を思い出す。優しい微笑みだ。あの朝日が人を殺せるはずがない。
多分、朝日の中に、もう一人いる。悪魔だ。そいつが殺人を代行したんだ。
誰も悪くないんだ。朝日も俺も、被害者だ。
いや、そんなこと言いたいわけじゃない。そういう話じゃない。
朝日が目の前で泣いている。もう泣かせないって決めたのに、俺は何をしているんだ。
どうしてこんなに不甲斐ないんだ。どうして俺は泣いているんだ……
―無意識の内に、俺は朝日のそばにいて、彼女の泣き顔を見ないようにして抱き寄せていた。こうせねばならないと直感していた。
「うぅ、あ、あぁ……」
胸元で小さくうめく朝日の頭に手をやって、毛流れに沿ってなで下ろす。
抱きしめた時に体から伝わる温もりを、少しだけ愛しいと思うこの気持ちは果たして本物だろうか。操られていやしないだろうか。不安になって、さらに強く抱きしめる。
「ゆ……う……りぃ……」
「ん、どうした」
「ゆるして、……ゆるして……」
声はかすれていた。悲しみが溢れ、心の崩壊から逃れるように、俺の胸ぐらにしがみついていた。支えなければすぐに壊れてしまいそうな、そんな危うさを感じた。
「……あぁ、許すよ、大丈夫、俺だけは、お前を許す……」
世界はきっと朝日を許さないだろう。けれど、一つの許しも無い世界では、誰だって、生きてはゆけないはずだから―
泣き止み、目を擦る朝日と一つ約束をした。
「いいか、朝日。もう二度と人を殺したり、死なせるような事は禁止だ。たとえどんな理由があっても、絶対するんじゃないぞ」
朝日は鼻をすすりながらうなずく。
「……うん」
「よし、約束だ」
指切りをした。
朝日は誓いを結んだ小指を見つめ、頬を染めた。
「彼氏と初めて約束をした……」
「初めてって、お前、今まで付き合った男とは、何も約束しなかったのか?」
朝日は鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔をして、それから、悪魔とは対極を為す乙女の表情を作って、愛想良く言った。
「初彼」
彼女は俺を指差している。
「……はい?」
小中高と女子校通いだったうぶな女は、恋愛がひどく不得手で、ともすれば、嫉妬のあまり悪魔に豹変する。俺だって大した恋愛経験は無い。どこに地雷があるのか知れない危険なカップルだと、各自認識を新たにする必要があった。
「そ、そうだったのか……」
久しぶりに恥じらって、俺は目をそらした。奇妙な間が開いた。
「辛気臭くなっちゃったから、……次は楽しい話をしよう」
朝日は自分の鞄からクリアファイルを取り出し、同時にパソコンを持ってきて、すでに開かれていた画面を俺に見せた。八桁の数字が少し飛び飛びに並ぶ画面。
「これは……?」
「えっと、それよりも、まずはこっちを見て」
彼女は引っ張ってきた平台の上に二枚、新聞の切り抜きと厚紙を並べ、褒められるのを待つ子供みたくにったり笑っている。
新聞の切り抜きにはタイトルとして解答速報と書かれてあった。俺はその内訳を声に出して読んだ。英語二百点、国語二百点、数一A二B百点、物理百点、化学百点、地理B百点……
「……トータル九百?」
眼前の彼女は待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせて宣言した。
「今年のセンター満点は私だ!」
朝日は俺が他の女とうつつをぬかしている間に、受験を敢行していた。怒りに任せ、手加減を忘れ、ついつい全問正解してしまったのだと言う。俺は呆れながら二枚目に目をやった。
左隣の厚紙は、どうやらウチの大学の受験番号らしい。センター利用の受験者に配布される物だ。東大を受けたら良いのに、わざわざウチのような中堅大学を受験するから、後の速報でマイナー大学の受験生にセンター満点の学生がいたことが発覚し、ニュースになるという珍事が起こってしまうのだが、それは後の話である。
「えーとね、ここ、ここを見て」
彼女はパソコンに飛びついて画面の右端を指し示す。嫌な予感がそろそろと漂い始める。
「28549412……、ほら、ちゃんとあるでしょう?」
案の定、朝日の番号が載っていた。センター試験が満点なら、当たり前だ。
「言うことあるんじゃない?」
彼女は反応を伺うように、見つめて言った。
「……ご、合格おめでとう」
形だけで、まるで気持ちのこもらない声色だったと思うが、この祝辞を聞いた彼女は一気に表情を弾けさせた。
「Yeah!」
平台を越えて、彼女は再び俺の胸に飛び込んだ。同時に、放心していた俺は我に返り、
「おいっ、受験したなんて聞いてないぞ!」
「合格発表まで黙ってたの、驚かせようと思って!」
「この野郎……っ」
胸元にうずめた顔を持ち上げ、崩れた髪を直して、朝日は言った。
「これからは、一緒に登校できるね!」
彼女のかんばせに、懐かしい笑顔が灯った。
問題なのは、後者の情報だった。告白しよう。まだ朝日には言っていない。聞きたくなかったのだ。今でも俺の位置が正確に分かっているということは、この期に及んでまだ俺が朝日に愛情のようなものを抱いていることを暗示し、それがネックになっている。
殺人鬼に愛情を注ぐのは、それが無意識的であっても自分が許せない。だが、それ以上に、今感じている思いが嘘であるというのも許せなかった。操られた末の気持ちだとは死んでも認めたくなかった。それは倫理を超えた感情であり、痛みきった心の、最後の砦だった。
こんな支離滅裂な思考回路をしているようでは、すでに操られているのかもしれない。いずれにしても、また大切なことを後回しにして、日常を必死に演じていた。俺は臆病者だ……
―夕食の後、俺は居間でテレビを流し見ていた。破損したサッシには新聞紙を貼り付けただけで、大家に見つかってどやされる前に何とかしたいと算段を練りながら見るニュースは内容がまるで頭に入ってこない。
《パチンッ……パチン……》
新聞紙を取り出したついでにと、一枚広げて爪を切り出したてへぺろ女は、どこの民謡か分からない歌を口ずさみながら飄々としていた。
なぜそんなに呑気なのか。大家と仲が良いから、自分は叱られないってか? それで俺だけが唾ふっかけられて大きな声を出されるなら、世知辛いにも程がある……
途方に暮れていたところに、あるニュースが飛び込んだ。
(……あれ、この人どっかで)
目に入ったのは、男の顔写真だった。テレビ画面に映っていたのは字幕と顔写真、それから、県内某所の高層タワーマンションだった。真っ昼間に屋上から飛び降り自殺という、普段なら気にも止めないようなニュースだった。実名報道されていたが、その名前に覚えは無く、〇〇銀行の支店長という肩書きから言って、中堅大学の一学生である俺とは縁もゆかりもない。しかし、見過ごせないデジャブに襲われて、ギリギリ思い出せないもどかしさに頭を悩ませていると、爪を切る女が反応した。
「責任を取らされそうになったんだね」
「責任?」
「この人は会社の資金回収に失敗したんだ」
何の話をしているのだろう。分からない。
「知り合いなのか?」
「ううん、向こうは私のこと知らない」
「……?」
朝日が一方的に知っていた、ということか? 著名な方なのだろうか。
同居人は最後の爪を切って、やすりで形を整えながら、口を滑らせた。
「さすがに十億飛ばしたら、ただじゃ済まないよ」
―聞き覚えのある数字だった。そう言えば、俺達も十億円、当てたんだっけか、宝くじで。……宝くじ?
《―!》
背筋に電流が走った。機密文書のように黒塗りにされた記憶が朝日の言葉で明るみに出る。
「この人っ、宝くじ売り場で―」
合いの手を入れるように朝日は言葉を挟んだ。
「そうそう、宝くじ買う前にお腹壊してたあの人だよ」
そうだ、急に腹抱えてスーパーに駆け込んで、それから……
―思考が一旦停止した。おかしい、と思ったからだ。まるで、彼だけあの日の記憶から抜け落ちていたような、そんな感覚があった。俺はなぜだか、今までずっと、完成していないジグソーパズルに満足していた。
ようやく完成図を取り戻したパズルは、一枚の、あまりに都合が良すぎる絵を俺に見せた。俺達が買ったくじは、元々彼が購入しようとした物であり、それも、番号指定という手の込みようだった。そこでタイミング良く腹を壊して体調不良に陥り、すかさず朝日が買い取った。ただそれだけで十億円を手にした。何から何まで、意図的に仕組まれた茶番だとしか思えない。
「朝日」
「何?」
「あの人が宝くじ買う時、何かやったか」
「うん、お腹が緩くなるように仕向けた。あと、周囲の意識から彼の印象を限界まで薄めておいた。念のためにね」
(……そんなことが出来るのか)
徐々に悪魔の片鱗を見せ始めた彼女は、爪切りを一通り完了して、丸めた新聞紙をゴミ箱に投げた。上手くゴミの上で跳ねて、それは枠内にきちんと収まった。
「ナイスコントロール!」
自画自賛する朝日の表情には陰りがなかった。
俺はかつて立てた仮説と、思い出した記憶、今し方聞き及んだ情報を照応させ、そして、ある都市伝説をなぞることになる。
「あの人は宝くじの当選番号を知っていた……」
俺は虚空を見ながら、唐突に話し始めた。
「あの宝くじの運営元は〇〇銀行だ。そこの支店長だった彼は、なぜかは分からないけど、高額当選くじの回収を任されていた」
「あの人の正体に勘付いたお前は、彼が宝くじを購入する時を狙って、それを横取りした」
「十億円損失の責任を問われて、追い詰められた末に彼は、……自殺を選んだ」
片膝を抱えて、切りたての足の爪を眺める悪魔は、簡単な口調で世間話を始めた。
「彼ね、曰く付きの人だったの。〇〇銀行の頭取にとっては、遠縁の親戚一家の問題児。この辺では有名なごろつきだったんだけど、警察のお世話になったり、金遣いが荒くて一文無しになって、見かねた頭取が会社にポストを用意したんだ。前科持ちの支店長だって、社内は大騒ぎだったらしいよ。近所の婦人会じゃ、語りぐさなんだから」
「更生させるためとは言え、そこまでしてあげるなんて頭取は慈悲深い人だ、なんておば様方はおっしゃったけど、銀行の頭取が善人なわけない。資金回収の汚れ役を押し付けて利用したんだ。身内だし、恩義もあるから、口止めしやすかったんだろうね。失敗すれば切り捨てたら良いだけの捨て駒としか思われてなかったのが本当のところじゃないかな」
「彼も分かってたと思う、だから、叔父に認めて貰おうと必死だった。ミスは許されなかった。そんな矢先に大失態をしでかした」
「下手に危ない橋を渡ろうとして、橋から落っこちた、だから死んだ」
緊張感のない声色と、他人事のような冷たい口調に我慢ならず、俺は言いたいことを言った。
「落っこちたんじゃなくて、突き落としたんだろ……」
彼女はシニカルな笑みを浮かべた。
「そう。三千円で、彼を殺した。実行犯は私で、出資者が優理。私達は共犯だ」
俺はこんな事を望んでいなかった。なのに、気付いたら殺人の片棒を担がされていた。
「お前さ、罪悪感とかねぇの……?」
悪魔は首をもたげた。
「どうして?」
「お前が平気そうにしてるからだろ。人を死なせたと分かったら、普通の人間は青ざめて落ち着かなくなったり、取り乱すもんなんだよ、それなのにお前ときたら足伸ばしてくつろいで……、どんな神経してんだ!」
「もう二人殺してるってのに、冗談じゃねぇ!」
気付けば大声を出していた。今まで朝日のことが怖くてずっと本気で叱れずにいたが、抑えきれず、溜まったフラストレーションが爆発していた。もうこんな張りぼての日常は嫌だった。
朝日は怒鳴られて、少ししょげた風に言った。
「私にだって、罪悪感くらいある」
「だったら―」
言いかけて口をつぐんだ。彼女の瞳が橙色に染まるのが見えたからだ。
「近頃の私は、心が動揺しそうになると、どこからか冷たい気分が流れ込んできて、すぐに落ち着くようになった。おかげで、何人殺そうと、その罪悪感に押しつぶされずに済んでいる」
「……でも」
すっと瞳から琥珀の輝きが消えた。見慣れた黒い瞳は弱って見えた。
「優理にそんなこと言われたら、つらいよ……」
曲げた膝に額を押し当てた朝日は、ふさぎ込んだまま動かなくなった。
「……朝日?」
少しして、肩が微かに上下し始めた。朝日は声を押し殺して泣いていた。三人の人間を死に追いやった凶悪な悪魔が、極めて孤独で、矮小な、か弱い女の子に見えた。
今泣いているのが、朝日だ。根拠なんてないけど、俺には分かる。
初めて見せた笑顔を思い出す。優しい微笑みだ。あの朝日が人を殺せるはずがない。
多分、朝日の中に、もう一人いる。悪魔だ。そいつが殺人を代行したんだ。
誰も悪くないんだ。朝日も俺も、被害者だ。
いや、そんなこと言いたいわけじゃない。そういう話じゃない。
朝日が目の前で泣いている。もう泣かせないって決めたのに、俺は何をしているんだ。
どうしてこんなに不甲斐ないんだ。どうして俺は泣いているんだ……
―無意識の内に、俺は朝日のそばにいて、彼女の泣き顔を見ないようにして抱き寄せていた。こうせねばならないと直感していた。
「うぅ、あ、あぁ……」
胸元で小さくうめく朝日の頭に手をやって、毛流れに沿ってなで下ろす。
抱きしめた時に体から伝わる温もりを、少しだけ愛しいと思うこの気持ちは果たして本物だろうか。操られていやしないだろうか。不安になって、さらに強く抱きしめる。
「ゆ……う……りぃ……」
「ん、どうした」
「ゆるして、……ゆるして……」
声はかすれていた。悲しみが溢れ、心の崩壊から逃れるように、俺の胸ぐらにしがみついていた。支えなければすぐに壊れてしまいそうな、そんな危うさを感じた。
「……あぁ、許すよ、大丈夫、俺だけは、お前を許す……」
世界はきっと朝日を許さないだろう。けれど、一つの許しも無い世界では、誰だって、生きてはゆけないはずだから―
泣き止み、目を擦る朝日と一つ約束をした。
「いいか、朝日。もう二度と人を殺したり、死なせるような事は禁止だ。たとえどんな理由があっても、絶対するんじゃないぞ」
朝日は鼻をすすりながらうなずく。
「……うん」
「よし、約束だ」
指切りをした。
朝日は誓いを結んだ小指を見つめ、頬を染めた。
「彼氏と初めて約束をした……」
「初めてって、お前、今まで付き合った男とは、何も約束しなかったのか?」
朝日は鳩が豆鉄砲でも喰らったような顔をして、それから、悪魔とは対極を為す乙女の表情を作って、愛想良く言った。
「初彼」
彼女は俺を指差している。
「……はい?」
小中高と女子校通いだったうぶな女は、恋愛がひどく不得手で、ともすれば、嫉妬のあまり悪魔に豹変する。俺だって大した恋愛経験は無い。どこに地雷があるのか知れない危険なカップルだと、各自認識を新たにする必要があった。
「そ、そうだったのか……」
久しぶりに恥じらって、俺は目をそらした。奇妙な間が開いた。
「辛気臭くなっちゃったから、……次は楽しい話をしよう」
朝日は自分の鞄からクリアファイルを取り出し、同時にパソコンを持ってきて、すでに開かれていた画面を俺に見せた。八桁の数字が少し飛び飛びに並ぶ画面。
「これは……?」
「えっと、それよりも、まずはこっちを見て」
彼女は引っ張ってきた平台の上に二枚、新聞の切り抜きと厚紙を並べ、褒められるのを待つ子供みたくにったり笑っている。
新聞の切り抜きにはタイトルとして解答速報と書かれてあった。俺はその内訳を声に出して読んだ。英語二百点、国語二百点、数一A二B百点、物理百点、化学百点、地理B百点……
「……トータル九百?」
眼前の彼女は待ってましたと言わんばかりに瞳を輝かせて宣言した。
「今年のセンター満点は私だ!」
朝日は俺が他の女とうつつをぬかしている間に、受験を敢行していた。怒りに任せ、手加減を忘れ、ついつい全問正解してしまったのだと言う。俺は呆れながら二枚目に目をやった。
左隣の厚紙は、どうやらウチの大学の受験番号らしい。センター利用の受験者に配布される物だ。東大を受けたら良いのに、わざわざウチのような中堅大学を受験するから、後の速報でマイナー大学の受験生にセンター満点の学生がいたことが発覚し、ニュースになるという珍事が起こってしまうのだが、それは後の話である。
「えーとね、ここ、ここを見て」
彼女はパソコンに飛びついて画面の右端を指し示す。嫌な予感がそろそろと漂い始める。
「28549412……、ほら、ちゃんとあるでしょう?」
案の定、朝日の番号が載っていた。センター試験が満点なら、当たり前だ。
「言うことあるんじゃない?」
彼女は反応を伺うように、見つめて言った。
「……ご、合格おめでとう」
形だけで、まるで気持ちのこもらない声色だったと思うが、この祝辞を聞いた彼女は一気に表情を弾けさせた。
「Yeah!」
平台を越えて、彼女は再び俺の胸に飛び込んだ。同時に、放心していた俺は我に返り、
「おいっ、受験したなんて聞いてないぞ!」
「合格発表まで黙ってたの、驚かせようと思って!」
「この野郎……っ」
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真矢すみれ
恋愛
生まれつき心臓の悪い少女陽菜(はるな)と、12年間同じクラス、隣の家に住む幼なじみの男の子叶太(かなた)は学校公認カップルと呼ばれるほどに仲が良く、同じ時間を過ごしていた。
だけど、陽菜はある日、叶太が自分の身体に責任を感じて、ずっと一緒にいてくれるのだと知り、叶太から離れることを決意をする。
すれ違う想い。陽菜を好きな先輩の出現。二人を見守り、何とか想いが通じるようにと奔走する友人たち。
2人が結ばれるまでの物語。
第一部「12年目の恋物語」完結
第二部「13年目のやさしい願い」完結
第三部「14年目の永遠の誓い」←順次公開中
※ベリーズカフェと小説家になろうにも公開しています。
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