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終章 自由への招待
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『神は死んだ。人間への同情のために、神は死んだ。
ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』
ただならぬ美麻からの連絡を受け、私は恭平のマンションへ向った。
鍵は開いていた。
室内に入り、私は言葉を失った。
「これは……」
床には、変わり果てた恭平が倒れていた。
長い髪が床に漂い、その切れ長の目は虚ろに天井を見上げたまま止まっていた。
均整のとれた褐色の肌には、深く包丁が突き刺さっていた。
そこから溢れ、下腹部を染める血は既に凝結を始めていた。
「恭平君……」
私は声もなくしばしの間、恭平の亡骸を見下ろしていた。
やがて、働きを取り戻した聴覚が、微かな物音を捉えた。
これは……。
「シャワーの音……?」
私は、弾かれたようにバスルームに向かった。
勢いよくバスルームの扉を開けると、むっとする蒸気が襲ってきた。
やがて、蒸気が消えていくにつれて、バスルームの内部が明らかになってきた。
「美麻っ!!」
そう叫ぶように言うと、私は血みどろのバスルームに踏み込んだ。
そこには血の気を失った美麻がバスタブにうなだれるようにして倒れていた。
その身体が浸かった湯は赤インクでも垂らしたかのように真っ赤に染まっていた。
美麻の身体はもうめちゃくちゃに傷つけられていた。
慌てて少女の手に目をやると、そこには銀色に光る長剣が握られていた。
それはたっぷりと美麻の血を吸ったらしかった。
「美麻っ!?美麻っ!!しっかりしろ!!目を開けてくれ!!美麻!!美麻!!」
私は美麻の身体を抱き上げ、その頬を叩いた。
その瞬間、奇跡が起こった。
美麻の目がゆっくりと開かれたのだ。
「……海杜……さ……」
「美麻……!!」
私はあの瞬間、生まれて初めて神に感謝した気がする。
美麻は、途切れ途切れに言った。
「お願いが……あるんです……」
何?と彼女の顔を覗き込んだ私に、美麻は呟くように言った。
「お願い。海杜さん……た……す……け……て?」
「ああ、今すぐに助ける。だから、もう何も言わないでくれ。傷に触る……!!」
私はただ、美麻の傷がフェータルなものでないことを祈りつつ、彼女を介抱した。
「海杜さ……ん」
「美麻。今は話すんじゃない!!大丈夫だ。君は助かる。助けてみせる。すぐに……すぐに……!!」
「ちがう……の」
何が違うんだ?そう聞き返そうとした私の耳元で、美麻が呟いた。
「わた……し……を……殺して……」
私は、また神に裏切られた。
「な……ん……だって……?」
「苦しいんです……。すごく……苦しいの……わたしの力じゃ……死にきれなくて……。もう助からないことはよくわかっているの。早く……楽になりたいの……だから……」
「何……何を言っているんだ。君は……。今、救急車を呼ぶ。だから……!!」
「やめて下さい……。助かりたく……ないの……。だって、私は……人殺しだから……」
夕貴……そして、恭平。
二つの命を奪った殺人鬼は、あまりに悲しい少女だった。
「美麻……私に……私に君を殺せと言うのか?」
愛した少女が己のためにその清らかな手を穢した。
そして、今度は愛した少女を私自身がこの手にかけなければならない……。
こんな……こんな罰があるだろうか……。
こんな……こんな惨すぎる審(さば)きが……。
「お願い……海杜さ……くる……しぃ……」
私は美麻の胸にその剣を突き刺していた。
美麻の身体が二、三度激しく痙攣したと思うと、ゆっくりと動かなくなった。
その紙のように蒼白になった美麻の顔に生気が宿ることはなかった。
美麻の手首を取ると、そこに生命のパルスは感じられなかった。
私はショックで目の前が真っ白になった。
私は美麻の髪を撫でながら、歯を食いしばって泣いた。
後から後から涙が止め処なく流れてくる。
私は子供のようにただ泣いていた。
壊れた蛇口のように私の涙は枯れることがなかった。
私は今までこんなに涙を流したことはなかった。
今までの人生の中の・・いや、これからの人生の分の全ての涙を今この瞬間に使い果たしてしまってさえもいいと思った。
恐らく、私の人生の中で、この刻ほど悲しい時など訪れることなどないだろうから。
美麻という存在を喪った瞬間、確実に私の心の中の何かは壊れてしまったのだ。
私はきつくきつく美麻の身体を抱き締めた。
ありったけの謝罪と鎮魂を込めて。
*
「これが、僕の立てた仮説の全てだ」
長い熊倉君の話が終わり、あたしたちの間に言いしれぬ沈黙が落ちてきた。
「そう。彼は法医学まで熟知し、僕たち監察医がどこに目を向けるか、よ~く心得ている訳だ。
僕は釈迦の掌の上で転がされていた孫悟空のような存在だったようだね。ははは……」
熊倉の乾いた笑いが響いた。
「まさに、完全犯罪だ……。恐れ入ったね……。君が対峙していた相手は……本当にとんでもない相手だったと言う訳さ」
「嘘……」
「この僕まで見事にペテンにかけられた。不覚だったよ」
「あなただけじゃないわ……。わたしだって……わたしだって同じ……」
彼に利用された。
彼はあたしの気持ちを知った上で、あたしを深夜のアリバイ証人として利用するために……。
あたしを抱いた。
「先輩……!!どこに行くんですか!?」
「証拠は何ひとつないんだよ?未央君。悔しいが、僕たちにできることは何もない……」
「そうですよ!!先輩!!どうするつもりなんですか!?……先輩!!」
あたしは苗子や熊倉君の声を振り切り、一課を後にした。
*
この事件の真相は、恐らく熊倉の仮説通りなのだろう。
あたしの中の刑事の勘がそう告げていた。
でも……。
利用されたんだとしても、構わない。
だって、あたしはあの夜……。
本当に幸せだった。
あたしはハンドルを握りながら、とめどなく溢れる熱いものを必死で手の甲でぬぐった。
カラスのようなシルエット。
矢保将。
彼がふいにサングラスを外すと、微笑んだ。
「俺の目は、人殺しの目なんだぜ?」
あいつと同じ眼差しを持った男……雪花海杜……。
もうあたしは随分前から気がついていたはずなのだ。
あいつと同じ目を彼も持っていた。
それは、彼もまた人殺しだったから……。
ただ、信じられなくて、信じたくなくて、あたしは自分の心に鍵をかけた。
あたしは、彼を……。
愛していたから。
見慣れた一面ガラス張りのビルが見えてくる。
あたしは警備員の制止を振り切り、愛車を雪花コーポレーションの駐車場へと突っ込んだ。
*
長い沈黙の後、僕は彼の背中に声をかけた。
「あなたの復讐の目的は雪花一族の抹殺ならば、まだ……終わっていないのではありませんか?」
僕の問いに彼は我が意を得たりというような声で答えた。
「そう。本当はまだ終っていないんだよ。英葵。まだ……僕がいる。雪花一族の血を引いたこの僕が」
「これから……どうされる……おつもりですか……」
彼は僕に背を向けたまま、答えた。
「そうだな。死ぬのも面倒だ……。君、殺してくれないか?」
*
雪花コーポレーション社長の新米秘書・不知火李は、秘書課で宛てもなく、ただおろおろとデスクの前を行ったり来たりしていた。
何度電話をしても社長室での応答がなかったからだった。
応答が得られないうちに、海杜宛ての電話が山積みになった。
「海杜様、どうされたんでしょう。英葵様とお部屋にいらっしゃるはずなのに……」
その時、
「警察よ。緊急の用件なのよ。離しなさい!!」
と、どこか聞き覚えのある声と同時にエレベーターが開かれた。
その声に振り返ると、いつかの女刑事が両脇に陣取る警備員たちと睨み合っていた。
「ねえ、あなた。雪花社長はいるかしら?」
その鋭い眼差しに気圧され、李はマニュアル通りに受け答えするだけで精一杯だった。
「はい。社長室で執務をされています……」
「面会したいの。いいかしら」
「それが、海杜様……いえ、社長はちっとも電話にもお出になって下さらなくて……。今、来客中ですので、むやみにお邪魔する訳にも……」
「来客……?それは、誰?」
「英葵様です」
「咲沼英葵なのね?」
「……はい」
女刑事は、一瞬思案した後、くるりと踵を返すと、社長室へと歩を進めた。
李は慌ててその背中を追った。
「け、刑事さん!!お待ち下さいませ……!!」
*
美麻が残した手記(それはあの手紙の宣言通り、美麻が倒れていた浴室に置かれていた)が燃えゆく様を眺めていた時、ふいにあの晩のことが思い出された。
「どうして、あんなこと……夕貴を殺したりしたんだ?」
私がそう問うた瞬間、美麻は私の胸に頬を押しつけた。
そして、すすり泣くような声で答えた。
「もう。あなたに誰も殺して欲しくなかったから……」
「………………・」
「私ね……思うんです。あなたのために……これから何ができるんだろうって……」
「僕のため……?」
美麻は私の目を見返すと、力強く頷いた。その頬は、涙で濡れていた。
私は「二度目」となった美麻のそんな呟きに問おうとしたが、今度は美麻の指で制された。
私はその指先にキスをすると、先程の借りを返すかのように彼女の唇を奪った。
長い口付けの後、美麻はぽつりと言った。
「ねぇ……海杜さん……」
「ん……?」
「もうあなたは苦しまなくていいの……。私があなたの重荷を全部全部背負ってあげる。……だから……」
「美麻……?」
彼女は今にも泣き出しそうな瞳を上げた。
「私……怖いものなんてありません。ただ……あなたを失うことだけが怖い」
私だって同じだ。
私も君を失ったら……。
だが、君は灰になった。
この手記と同じように。
「あなたを撃ったのは美麻との近親相姦の事実ではなく、美麻が……雪花会長の実の娘だったという事実だ。
美麻はあなたが憎むべき雪花家の血を持つターゲットのひとりだった。
だが、神はあなたに更に過酷な運命を与えた」
そうだ。
美麻は……雪花幸造の娘であるのと同時に。
城崎美咲の娘でもあったのだ。
そうだ。
どうして気が付かなかったのだろう。
美麻は、あんなにも美咲に似ていたではないか。
あの容姿も、あの声も、あのピアノの才能も。
「あなたは、愛する女性の忘れ形見を……」
そうだ。
私はあの子をこの手で……。
既に歯車は回り始めていた。
私自身が動かしたはずなのに、私自身の手では止めることが叶わない、運命という歯車は。
何を私は考えているのだ?
後悔しているというのか?
馬鹿な。
事態は最良のカタチで幕を下したのではないか。
計画通りに。
ただ一つ、イレギュラーだったのは、咲沼美麻という少女の存在。
あの日。
初めてあの少女に出会った日。
私は本当に驚いた。
咲沼英葵に妹がいたことは調べていた。
だが、まさかその子があんなにも美咲に生き写しだったとは。
美麻はまさに美咲に生き写しだった。
私は本気で美咲が蘇ったと思った。
確かに私の前で灰となった美咲が、再びこの世に光臨したかのような錯覚を覚えた。
美咲が失われた時、私はこの世界を彷徨っていたのだろう。
私が行き着いたのは……この世の果てだったのかもしれない。
美麻は私を愛することで、私を最果ての地から連れ戻そうとしたのだ。
そして美麻を失い、私はまたこの世の果てへと舞い戻った。
私は美麻の純真さに負けたのだ。
結果はわかっていたことではないか。
あの子があの人の、そしてあの男の子供ならば、初めから勝てるはずなどなかったのだ。
美麻が父の娘だったということが、何よりの証拠ではないか。
美麻の存在こそ、美咲があの男を愛した何よりの証拠だったのだから。
結局、私は美咲がもっとも愛した男をこの手で殺した。
私はやはり勝てなかった。
父に、そして運命に。
私は懺悔したかったのかもしれない。
美麻に……美咲に。そして……。
*
もうこの人は僕が知っているあの人ではない。
こうするしかないのか?
僕があなたを救うには。
こうするしか……。
僕はゆっくりと、デスクの上に置かれたペーパーナイフに手をかけた。
*
白い世界がふいに色彩の光景に転じた。
ああ、ここはあの庭だ。
私が生まれ育ったあの家の。
なんだかとても賑やかだ。
ふと視線を泳がせると、懐かしい顔ぶれにぶつかった。
夕貴も、恭平も、菊珂も、父もおまけに母さんもいる。
なんだ。みんな揃って何をしているんだ?
みんな私の問いに答えず、楽しげに談話をしているようだった。
菊珂が笑顔のまま、私にポットを振って見せた。
ああ、ティーパーティだったのか。
なんだ、みんな夢だったのか?
そうだ。あんな馬鹿げたことが、現実だったはずがない。
母さん、あなたもそんなに残酷な人のはずがないじゃないか。
そうだ。父さん、あなたも。
ふと振り返ると、愛おしい少女が立っていた。
あの日のままの柔らかな笑みを浮かべて。
君は美咲か?美麻か?
『そんなこと、どうでもいいじゃない?』
彼女がそう微笑んでいる。
そうだ。そんなこと、どうだっていいじゃないか。
私はただ、一言、口にするだけでいいのだ。
ずっと言えなかったことを。
ずっと言いたかったことを。
『愛しているよ。美―――。』
*
「ほらほら、どうした?ボールから目を離しちゃ、いけないじゃないか」
僕は脱兎の如く駆け出すと、彼からボールを奪った。
「そうだ。それでいいんだよ。上達して来たじゃないか」
なぜか自分のことのように嬉しそうな彼を見て、僕も堪らなく嬉しくなった。
「お兄ちゃん!!大好き!!」
「うわっ!?重いっ!?」
あの初夏の柔らかな日差しのように優しいあなたの微笑みが、僕は大好きだった。
あの頃の……そして、今のあなたの……。
緩やかに眩しいあの夏の思い出が緩やかに溶け出し、見慣れた無機質な社長室のフォルムに変わる。
そして、その窓辺に佇む背中に。
僕はそっと足を運んだ。
あの頃と同じように、その大好きな背中に抱きつくために。
こうするしか、僕はあなたに罪滅ぼしができない。
彼の背中が陽炎のように揺らめいた。
同時に僕の頬に暖かいものが伝った。
僕は彼の背中に抱きついた。
その瞬間、小さな呻きと刃が突き刺さる確かな手応えを感じた。
ペーパーナイフごしに、生暖かいものが止め処なく流れる。
あなたはこれで救われるのですね?
救われたのですね?
僕の問いに、彼が微笑んだ気がした。
『そうだ。それでいいんだよ。』と。
あの日のような優しい笑みで。
*
「お待ち下さいませ!!」
不知火李はやっとの思いで未央の前に回り込むと、「ワタクシが……ワタクシがお伺い致します!!」と息の上がった声で言った。
羽鳥未央もその必死の様子に異論を唱えず、ただ頷いた。
李は辿り着いた社長室のドアをノックした。
「海杜様。海杜様。いらっしゃいませんか?」
彼女は、ゆっくりとドアノブを回し、扉を押し開けた。
「……えっ……?」
「これは……」
そこでは……。
咲沼英葵が血の海の中で、雪花海杜を抱き締めていた。
「きゃああああっ!!誰か!!誰か!!海杜様が!!海杜がああっ!!」
*
あなたは、この世の果ての風景を見たことがありますか?
僕はあるんですよ。
あの寒々とした恐ろしい光景を……。
了
ーーフリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ』
ただならぬ美麻からの連絡を受け、私は恭平のマンションへ向った。
鍵は開いていた。
室内に入り、私は言葉を失った。
「これは……」
床には、変わり果てた恭平が倒れていた。
長い髪が床に漂い、その切れ長の目は虚ろに天井を見上げたまま止まっていた。
均整のとれた褐色の肌には、深く包丁が突き刺さっていた。
そこから溢れ、下腹部を染める血は既に凝結を始めていた。
「恭平君……」
私は声もなくしばしの間、恭平の亡骸を見下ろしていた。
やがて、働きを取り戻した聴覚が、微かな物音を捉えた。
これは……。
「シャワーの音……?」
私は、弾かれたようにバスルームに向かった。
勢いよくバスルームの扉を開けると、むっとする蒸気が襲ってきた。
やがて、蒸気が消えていくにつれて、バスルームの内部が明らかになってきた。
「美麻っ!!」
そう叫ぶように言うと、私は血みどろのバスルームに踏み込んだ。
そこには血の気を失った美麻がバスタブにうなだれるようにして倒れていた。
その身体が浸かった湯は赤インクでも垂らしたかのように真っ赤に染まっていた。
美麻の身体はもうめちゃくちゃに傷つけられていた。
慌てて少女の手に目をやると、そこには銀色に光る長剣が握られていた。
それはたっぷりと美麻の血を吸ったらしかった。
「美麻っ!?美麻っ!!しっかりしろ!!目を開けてくれ!!美麻!!美麻!!」
私は美麻の身体を抱き上げ、その頬を叩いた。
その瞬間、奇跡が起こった。
美麻の目がゆっくりと開かれたのだ。
「……海杜……さ……」
「美麻……!!」
私はあの瞬間、生まれて初めて神に感謝した気がする。
美麻は、途切れ途切れに言った。
「お願いが……あるんです……」
何?と彼女の顔を覗き込んだ私に、美麻は呟くように言った。
「お願い。海杜さん……た……す……け……て?」
「ああ、今すぐに助ける。だから、もう何も言わないでくれ。傷に触る……!!」
私はただ、美麻の傷がフェータルなものでないことを祈りつつ、彼女を介抱した。
「海杜さ……ん」
「美麻。今は話すんじゃない!!大丈夫だ。君は助かる。助けてみせる。すぐに……すぐに……!!」
「ちがう……の」
何が違うんだ?そう聞き返そうとした私の耳元で、美麻が呟いた。
「わた……し……を……殺して……」
私は、また神に裏切られた。
「な……ん……だって……?」
「苦しいんです……。すごく……苦しいの……わたしの力じゃ……死にきれなくて……。もう助からないことはよくわかっているの。早く……楽になりたいの……だから……」
「何……何を言っているんだ。君は……。今、救急車を呼ぶ。だから……!!」
「やめて下さい……。助かりたく……ないの……。だって、私は……人殺しだから……」
夕貴……そして、恭平。
二つの命を奪った殺人鬼は、あまりに悲しい少女だった。
「美麻……私に……私に君を殺せと言うのか?」
愛した少女が己のためにその清らかな手を穢した。
そして、今度は愛した少女を私自身がこの手にかけなければならない……。
こんな……こんな罰があるだろうか……。
こんな……こんな惨すぎる審(さば)きが……。
「お願い……海杜さ……くる……しぃ……」
私は美麻の胸にその剣を突き刺していた。
美麻の身体が二、三度激しく痙攣したと思うと、ゆっくりと動かなくなった。
その紙のように蒼白になった美麻の顔に生気が宿ることはなかった。
美麻の手首を取ると、そこに生命のパルスは感じられなかった。
私はショックで目の前が真っ白になった。
私は美麻の髪を撫でながら、歯を食いしばって泣いた。
後から後から涙が止め処なく流れてくる。
私は子供のようにただ泣いていた。
壊れた蛇口のように私の涙は枯れることがなかった。
私は今までこんなに涙を流したことはなかった。
今までの人生の中の・・いや、これからの人生の分の全ての涙を今この瞬間に使い果たしてしまってさえもいいと思った。
恐らく、私の人生の中で、この刻ほど悲しい時など訪れることなどないだろうから。
美麻という存在を喪った瞬間、確実に私の心の中の何かは壊れてしまったのだ。
私はきつくきつく美麻の身体を抱き締めた。
ありったけの謝罪と鎮魂を込めて。
*
「これが、僕の立てた仮説の全てだ」
長い熊倉君の話が終わり、あたしたちの間に言いしれぬ沈黙が落ちてきた。
「そう。彼は法医学まで熟知し、僕たち監察医がどこに目を向けるか、よ~く心得ている訳だ。
僕は釈迦の掌の上で転がされていた孫悟空のような存在だったようだね。ははは……」
熊倉の乾いた笑いが響いた。
「まさに、完全犯罪だ……。恐れ入ったね……。君が対峙していた相手は……本当にとんでもない相手だったと言う訳さ」
「嘘……」
「この僕まで見事にペテンにかけられた。不覚だったよ」
「あなただけじゃないわ……。わたしだって……わたしだって同じ……」
彼に利用された。
彼はあたしの気持ちを知った上で、あたしを深夜のアリバイ証人として利用するために……。
あたしを抱いた。
「先輩……!!どこに行くんですか!?」
「証拠は何ひとつないんだよ?未央君。悔しいが、僕たちにできることは何もない……」
「そうですよ!!先輩!!どうするつもりなんですか!?……先輩!!」
あたしは苗子や熊倉君の声を振り切り、一課を後にした。
*
この事件の真相は、恐らく熊倉の仮説通りなのだろう。
あたしの中の刑事の勘がそう告げていた。
でも……。
利用されたんだとしても、構わない。
だって、あたしはあの夜……。
本当に幸せだった。
あたしはハンドルを握りながら、とめどなく溢れる熱いものを必死で手の甲でぬぐった。
カラスのようなシルエット。
矢保将。
彼がふいにサングラスを外すと、微笑んだ。
「俺の目は、人殺しの目なんだぜ?」
あいつと同じ眼差しを持った男……雪花海杜……。
もうあたしは随分前から気がついていたはずなのだ。
あいつと同じ目を彼も持っていた。
それは、彼もまた人殺しだったから……。
ただ、信じられなくて、信じたくなくて、あたしは自分の心に鍵をかけた。
あたしは、彼を……。
愛していたから。
見慣れた一面ガラス張りのビルが見えてくる。
あたしは警備員の制止を振り切り、愛車を雪花コーポレーションの駐車場へと突っ込んだ。
*
長い沈黙の後、僕は彼の背中に声をかけた。
「あなたの復讐の目的は雪花一族の抹殺ならば、まだ……終わっていないのではありませんか?」
僕の問いに彼は我が意を得たりというような声で答えた。
「そう。本当はまだ終っていないんだよ。英葵。まだ……僕がいる。雪花一族の血を引いたこの僕が」
「これから……どうされる……おつもりですか……」
彼は僕に背を向けたまま、答えた。
「そうだな。死ぬのも面倒だ……。君、殺してくれないか?」
*
雪花コーポレーション社長の新米秘書・不知火李は、秘書課で宛てもなく、ただおろおろとデスクの前を行ったり来たりしていた。
何度電話をしても社長室での応答がなかったからだった。
応答が得られないうちに、海杜宛ての電話が山積みになった。
「海杜様、どうされたんでしょう。英葵様とお部屋にいらっしゃるはずなのに……」
その時、
「警察よ。緊急の用件なのよ。離しなさい!!」
と、どこか聞き覚えのある声と同時にエレベーターが開かれた。
その声に振り返ると、いつかの女刑事が両脇に陣取る警備員たちと睨み合っていた。
「ねえ、あなた。雪花社長はいるかしら?」
その鋭い眼差しに気圧され、李はマニュアル通りに受け答えするだけで精一杯だった。
「はい。社長室で執務をされています……」
「面会したいの。いいかしら」
「それが、海杜様……いえ、社長はちっとも電話にもお出になって下さらなくて……。今、来客中ですので、むやみにお邪魔する訳にも……」
「来客……?それは、誰?」
「英葵様です」
「咲沼英葵なのね?」
「……はい」
女刑事は、一瞬思案した後、くるりと踵を返すと、社長室へと歩を進めた。
李は慌ててその背中を追った。
「け、刑事さん!!お待ち下さいませ……!!」
*
美麻が残した手記(それはあの手紙の宣言通り、美麻が倒れていた浴室に置かれていた)が燃えゆく様を眺めていた時、ふいにあの晩のことが思い出された。
「どうして、あんなこと……夕貴を殺したりしたんだ?」
私がそう問うた瞬間、美麻は私の胸に頬を押しつけた。
そして、すすり泣くような声で答えた。
「もう。あなたに誰も殺して欲しくなかったから……」
「………………・」
「私ね……思うんです。あなたのために……これから何ができるんだろうって……」
「僕のため……?」
美麻は私の目を見返すと、力強く頷いた。その頬は、涙で濡れていた。
私は「二度目」となった美麻のそんな呟きに問おうとしたが、今度は美麻の指で制された。
私はその指先にキスをすると、先程の借りを返すかのように彼女の唇を奪った。
長い口付けの後、美麻はぽつりと言った。
「ねぇ……海杜さん……」
「ん……?」
「もうあなたは苦しまなくていいの……。私があなたの重荷を全部全部背負ってあげる。……だから……」
「美麻……?」
彼女は今にも泣き出しそうな瞳を上げた。
「私……怖いものなんてありません。ただ……あなたを失うことだけが怖い」
私だって同じだ。
私も君を失ったら……。
だが、君は灰になった。
この手記と同じように。
「あなたを撃ったのは美麻との近親相姦の事実ではなく、美麻が……雪花会長の実の娘だったという事実だ。
美麻はあなたが憎むべき雪花家の血を持つターゲットのひとりだった。
だが、神はあなたに更に過酷な運命を与えた」
そうだ。
美麻は……雪花幸造の娘であるのと同時に。
城崎美咲の娘でもあったのだ。
そうだ。
どうして気が付かなかったのだろう。
美麻は、あんなにも美咲に似ていたではないか。
あの容姿も、あの声も、あのピアノの才能も。
「あなたは、愛する女性の忘れ形見を……」
そうだ。
私はあの子をこの手で……。
既に歯車は回り始めていた。
私自身が動かしたはずなのに、私自身の手では止めることが叶わない、運命という歯車は。
何を私は考えているのだ?
後悔しているというのか?
馬鹿な。
事態は最良のカタチで幕を下したのではないか。
計画通りに。
ただ一つ、イレギュラーだったのは、咲沼美麻という少女の存在。
あの日。
初めてあの少女に出会った日。
私は本当に驚いた。
咲沼英葵に妹がいたことは調べていた。
だが、まさかその子があんなにも美咲に生き写しだったとは。
美麻はまさに美咲に生き写しだった。
私は本気で美咲が蘇ったと思った。
確かに私の前で灰となった美咲が、再びこの世に光臨したかのような錯覚を覚えた。
美咲が失われた時、私はこの世界を彷徨っていたのだろう。
私が行き着いたのは……この世の果てだったのかもしれない。
美麻は私を愛することで、私を最果ての地から連れ戻そうとしたのだ。
そして美麻を失い、私はまたこの世の果てへと舞い戻った。
私は美麻の純真さに負けたのだ。
結果はわかっていたことではないか。
あの子があの人の、そしてあの男の子供ならば、初めから勝てるはずなどなかったのだ。
美麻が父の娘だったということが、何よりの証拠ではないか。
美麻の存在こそ、美咲があの男を愛した何よりの証拠だったのだから。
結局、私は美咲がもっとも愛した男をこの手で殺した。
私はやはり勝てなかった。
父に、そして運命に。
私は懺悔したかったのかもしれない。
美麻に……美咲に。そして……。
*
もうこの人は僕が知っているあの人ではない。
こうするしかないのか?
僕があなたを救うには。
こうするしか……。
僕はゆっくりと、デスクの上に置かれたペーパーナイフに手をかけた。
*
白い世界がふいに色彩の光景に転じた。
ああ、ここはあの庭だ。
私が生まれ育ったあの家の。
なんだかとても賑やかだ。
ふと視線を泳がせると、懐かしい顔ぶれにぶつかった。
夕貴も、恭平も、菊珂も、父もおまけに母さんもいる。
なんだ。みんな揃って何をしているんだ?
みんな私の問いに答えず、楽しげに談話をしているようだった。
菊珂が笑顔のまま、私にポットを振って見せた。
ああ、ティーパーティだったのか。
なんだ、みんな夢だったのか?
そうだ。あんな馬鹿げたことが、現実だったはずがない。
母さん、あなたもそんなに残酷な人のはずがないじゃないか。
そうだ。父さん、あなたも。
ふと振り返ると、愛おしい少女が立っていた。
あの日のままの柔らかな笑みを浮かべて。
君は美咲か?美麻か?
『そんなこと、どうでもいいじゃない?』
彼女がそう微笑んでいる。
そうだ。そんなこと、どうだっていいじゃないか。
私はただ、一言、口にするだけでいいのだ。
ずっと言えなかったことを。
ずっと言いたかったことを。
『愛しているよ。美―――。』
*
「ほらほら、どうした?ボールから目を離しちゃ、いけないじゃないか」
僕は脱兎の如く駆け出すと、彼からボールを奪った。
「そうだ。それでいいんだよ。上達して来たじゃないか」
なぜか自分のことのように嬉しそうな彼を見て、僕も堪らなく嬉しくなった。
「お兄ちゃん!!大好き!!」
「うわっ!?重いっ!?」
あの初夏の柔らかな日差しのように優しいあなたの微笑みが、僕は大好きだった。
あの頃の……そして、今のあなたの……。
緩やかに眩しいあの夏の思い出が緩やかに溶け出し、見慣れた無機質な社長室のフォルムに変わる。
そして、その窓辺に佇む背中に。
僕はそっと足を運んだ。
あの頃と同じように、その大好きな背中に抱きつくために。
こうするしか、僕はあなたに罪滅ぼしができない。
彼の背中が陽炎のように揺らめいた。
同時に僕の頬に暖かいものが伝った。
僕は彼の背中に抱きついた。
その瞬間、小さな呻きと刃が突き刺さる確かな手応えを感じた。
ペーパーナイフごしに、生暖かいものが止め処なく流れる。
あなたはこれで救われるのですね?
救われたのですね?
僕の問いに、彼が微笑んだ気がした。
『そうだ。それでいいんだよ。』と。
あの日のような優しい笑みで。
*
「お待ち下さいませ!!」
不知火李はやっとの思いで未央の前に回り込むと、「ワタクシが……ワタクシがお伺い致します!!」と息の上がった声で言った。
羽鳥未央もその必死の様子に異論を唱えず、ただ頷いた。
李は辿り着いた社長室のドアをノックした。
「海杜様。海杜様。いらっしゃいませんか?」
彼女は、ゆっくりとドアノブを回し、扉を押し開けた。
「……えっ……?」
「これは……」
そこでは……。
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「きゃああああっ!!誰か!!誰か!!海杜様が!!海杜がああっ!!」
*
あなたは、この世の果ての風景を見たことがありますか?
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了
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