「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第五帖 

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 紅は娘の乳母である保子の両手の爪先を入念に観察している。食い入るほど真剣に。保子も緊張しているようだ。何よりも一番緊張し、身を強張らせているのは鳳仙花であった。祈るような眼差しで母親を見上げる。

「……そうね。随分とよくなったわ。磨石の使い方、爪先の磨く方向を見極めないと、お爪は脆く折れやすくなってしまうから。お爪回りのお手入れも……まぁ、まずまずでしょう。色のむらはほとんど目立たないし、この程度ならまぁいけるかな」

「それじゃ……」

 声を弾ませて問いかける保子。鳳仙花は無言ですがるような眼差しを紅に向ける。

「いいわ。これなら私の補助役、任せても大丈夫でしょう。場合によったら、塗るのも任せる時も出てくるだろうし」

「あー、良かったですわねぇ、鳳仙花様」

 保子はまるで自分の事のように喜んでいる。

「はぁーーーーーーー緊張したーーーーー。良かったぁ……」

 鳳仙花は漸く普通に呼吸が出来たようだ。安堵の溜息とともに本音を吐露する。

「乳母や、有難う。爪を貸してくれたお陰だよ」
「とんでもない。綺麗にして頂いて。鳳仙花様の一人立ちの一歩のお役に立てて乳母としても光栄ですわ」

 紅はそんな二人のやり取りを、満足そうに眺めている。鳳仙花が磨爪師見習いとして紅の補佐役を務めあげる事が可能かどうか、その試験の結果が今告げられたのだ。保子の爪を、一から自分で作成した爪紅の紅色、整爪、手のお手入れ、塗り。その全ての過程が試験内容なのであった。紅の厳しい観察の結果、及第点を貰えたのである。

「これからが色んな意味で大変だけど。ひとまず安心したわ。明日から早速、私についてきて貰うわね」

 紅は微笑んだ。993年、風が植物の生き生きとした息吹を運び、爽やかに香る頃のことであった。 

……うわぁ、綺麗な男の人。背も高いし……

 鳳仙花は、初めて見かけた美しい男性に見とれていた。その人は定の定位置の御簾をくぐり抜け、帝が訪問されている時に親しげに輪に加わる。定期的にこうして訪れ、帝に漢文の手ほどきをするのだ。帝・一条天皇は漢文をこよなく愛していると聞く。

御門みかど(※①)の側近、公卿補任くぎょうぶにん伊周これちか様よ。定子様の三つ年上のお兄様。漢詩文の名人ね」

 紅に爪紅を施されている赤染衛門《あかぞめえも
 ん》は、紅の傍らに控えて補佐をしている鳳仙花に説明をした。

「あの方が、伊周様……」

 鳳仙花は、自邸の侍従達の噂話で伊周の噂話は何度か耳にしていた。頭脳明晰で容姿端麗だと。キャッキャとはしたない声を上げて熱っぽく彼の容姿について語り合う彼女達を、冷めた眼差しで見たものだ。

……噂なんてあてにならないと思う……

 と。けれども、噂以上の美しさだった。

「凄いです。あの中に清少納言さんも自然に溶け込んで……」

 帝、定子、伊周。そして清少納言と、四人で楽しそうに会話していた。よく見る光景らしい。

「あ、まぁ清少納言さんはね……特例というか特別というか。そのうち自然に分かると思うわ。でも、清少納言さんも最初からあんなに堂々とされてた訳じゃないのよ」

 赤染衛門はおかしそうにフフフ、と笑う。当時を思い出したのだろう。それは嘲り等の笑いの類ではなく、親しみを込めた感じのものだ。

「清少納言さんが? どういう事ですか?」
「清少納言さんはね、ここに来たばかりは……」
 
 赤染衛門は説明の途中ではっとしたように言葉を止める。

「これ以上は、悪口みたいになっちゃうから。鳳仙花ちゃんが直接本人に聞いてみてね」

 と意味ありげに笑った。

 その日は鳳仙花だけ岐路に着いた。母親は爪紅の仕込みがあるらしい。結局、清少納言には何も話す切っ掛けがなく一日が終わった。その内聞ける機会に恵まれるだろうと、先の楽しみにとっておく事にした。眠る前に、定子についておさらいをする。

「定子様は正暦元年(990年)、関白である藤原道隆様の娘として十四歳で入内なされた。一条天皇が十一歳の時の初めてのお后であり、相思相愛。大変仲睦まじご様子。中関白家なかのかんぱくけである道隆様は、非常に美男であり、性格は明るく朗らかで冗談好き。奥様は国司階級の女官で、男性でも叶わないほどの知性の持ち主。……玉の輿に乗られたのね。羨ましいわ。……定子様も弟は隆家様。腕の強さに宮中内部でも一目置かれてらっしゃる。妹の原子様は今風で華やか、とても可愛らしい方で東宮の寵愛を受けてらっしゃる。うーん……なんて絢爛豪華なご一家かしら……」

 鳳仙花は日記を閉じると、うっとりと天を仰いだ。

「そして、定子様が率いる文壇の女房たちも、清少納言さんや赤染衛門さんを始め揃いも揃って全員が優秀な方々ばかり。そんな中でお仕事をさせて頂けるのって、母様が築き上げてきたご縁という絆と、定子様の型破りで斬新で情熱的な御性質、更には御門の柔軟で器の広い御人格のお陰よね」

 そこまで思うと、いつもほんの少しだけ不安になる。自分は果たして、母親のようにご縁を紡ぎ続ける事が出来るのだろうか、と。本来、『磨爪師』として宮中に出入りなど不可能な事なのだ。けれどもそこをぐっと堪え、丹田に力を込める。

「よーし! やってやろうじゃないの! 遣り甲斐あるこんな機会、無駄にしたら損だわ。人生およそ四十年。くよくよしてたらあっという間に終わっちゃうわ!」

 と自らに喝を入れた。そして鏡の前に移動し、ゆっくり髪を梳く。眠りにつく準備を始めた。

 いつものように、帝と定子、そして清少納言が集まって会話を楽しんでいるところへ、
内大臣である伊周これちかが訪ねて来た。大事そうに分厚い冊子を二つ抱えて。それを一つは帝に。もう一つは定子に捧げる。

「何と! これは貴重な高級品ではないか! 滅多にお目にかかれない紙であるのぅ」

 嬉しそうに帝は声を弾ませる。

……凄い! 見た事もない大きな冊子。高級そう。しかも白紙なんだ!……

 鳳仙花は御簾越しにそのやり取りを垣間見てワクワクした。帝が高級な紙とおっしゃるのだから、相当に素晴らしい紙に違いないのだ。何か素敵な和歌や物語が綴られるのではないか? そんな気がした。格式高いものを書き記す為の冊子なのだ。後世に遺すような……。

「本当に高級な質ですこと。……そうねぇ。古今和歌集でも書こうかしら」

 と定子は考えながら言の葉を放つ。

「では、われはこれに漢籍の『史記』を書かせる事としよう」

 漢の歴史や儒学から政治について学ぶ事に熱心であった帝の真摯なお姿がよく現われている。定子は何か迷っている様子だった。清少納言の方を見やると、

「さて、あなたならこの紙に何を書くかしら? 帝は漢籍の『史記』を写されるそうだけれども」

 と問いかけた。清少納言はにっこりと笑うと

「それでしたら、枕にしますわ」

 とすぐに応えた。定子はとても満足そうに微笑むと、

「では、この紙はあなたにあげるわ」

 と差し出した。

『あの、母様、枕ってどう言う意味ですか?』

 鳳仙花はちょうど一息ついている母親にこっそりと耳打ちする。

『漢のお国の「白楽天はくらくてん」の詩にね、「書物を枕にして昼寝をしている」とあるの。その事を、清少納言さんは冗談ぽく即座にお応えしてるのね。深い教養と知識が身についてらっしゃるからこそのお返事よ』

 紅は娘にそう耳打ちした。

……凄いなぁ。清少納言さん。そして定子様も……

 もっと色々学ぼう、と鳳仙花は感じた。そしていつの日かあの紙に、清少納言が書き綴ったものをしっかりと熟読し、意味を理解出来るようになれたら……と思った。 



……わ、今日も居る。当たり前か。御所飼われてる犬だもの。唐猫からねこちゃん達と違って、首輪をつけていたり、紐で繋がれている訳じゃないし、自由に御所内を行き来出来るんだもんね……

 鳳仙花は牛車からおりて定子の文壇に行く際、時折ハラハラする事がある。それは『翁丸おきなまろ』と名付けられた老犬がうろついている時があるからだ。当時猫は宮中を始め上流貴族の間では唐から献上された唐猫が飼われ、非常に大切にされていた。首輪に紐をつけている事が多く、また鼠を食す事から重宝された。その一方で、犬は番犬としての役割から放し飼いがほとんどであった。

 翁丸は黄土色で鼻からお腹、そして足の部分が白く体は大きかった。長い舌、鋭く大きな牙、飛び掛かられそうで怖かったのだ。どうしても敬遠してしまう。けれども、文壇内ではとても人気がある。特に、右近と呼ばれる女房はお気に入りのようでとても可愛がっていた。

 その一方で、縁側で優雅に日向ぼっこをしている生き物がいる時がある。鳳仙花はその生き物が大好きだった。非常に可愛らしく、しなやかな体付き、頭と背中の部分は艶やかな漆黒。鼻からお腹、足の部分か純白に煌めいている。大きな琥珀色の瞳が神秘的な唐猫だ。この猫は『命婦みょうふのおとど』と名付けられ、五位の位が授けられている。帝の一番のお気に入りで昇殿が許され、更には彼女専用のお世話係までつけられているのだ。『命婦のおとど』もまた、文壇の女房達に可愛がられていた。 

 ある日、いつものように縁側で寛いでいる命婦のおとど。ポカポカとお日様を浴びて漆黒の毛並みが艶やかだ。

……いいなぁ、私も隣で日向ぼっこしたいな……

 休憩時間、その様子を近くで微笑ましく眺めていた鳳仙花。けれども、命婦のおとどはそのまま眠り込んでしまったようだ。彼女の御守り役が、困ったような表情を浮かべる。鳳仙花にはそれが不思議だった。

……せっかく気持ち良く眠っているのだから、そのままそっと寝かせておいてあげたら良いのに……

 そう思ったのだ。

「まぁまぁ、何てお行儀の悪い事でしょう! 高貴なご婦人は、このようなところでお休みになってはいけませんよ。さぁさぁ、すぐに中へお入り下さいませ」

 御守役の女房は半ば諭すようにして話しかけた。しかし、全く起きる気配は無い。本当に気持ち良さそうに寝入っている。完全に無視をされて気分を害した様子の女房。やはげ鳳仙花に取ってつけたような笑みを浮かべ、

「ごめんなさいね。すぐ戻るから、私が戻る間少しだけ命婦のおとど様を見ていて貰えないかしら?」

 と問いかけた。

「はい、大丈夫ですよ」

 鳳仙花は快く引き受けた。女房の作り笑いには不快感を覚えたが、帝の寵愛を一心に受けて居る特別な猫を任されて誇らしかったのだ。

「有難う。すぐ戻りますね」

 女房はそう言うと、すぐにしかめ面に戻り、プイッとどこかへ去って行った。

(全くもう。何かあったら御門に罰を受けるのは私なんですからね!)

 御守役はプリプリと怒りながら、何かを探すように御所内を歩く。

「あ! 居た居た! 翁丸、こっちへいらっしゃい」

 彼女は目的のものが見つかると、嬉しそうに声をかけた。

ワン! 食いしん坊の翁丸は、何か貰えると思ったのだろう。素直に彼女の元に近づいた。

「翁丸、いい子ね。ちょっとついて来て。お願いしたい事があるの」

 と言って頭を撫でた。そして袂から鮭の乾物を取り出し、与える。すっかり気を許した翁丸は、女房の後に従った。

……何だろう? ちょっと嫌な予感がする……

 お昼寝中の猫を見守りながら、鳳仙花は胸騒ぎを覚えた。 

……あ、戻って来た!……

 鳳仙花は、さほど時間が経たずに御守役が戻ってきた事に安堵する。だが、彼女が従えてきたものを見て硬直した。

……翁丸……

 御守役は、何故か翁丸を従えて来た。再び、嫌な予感に震えた。翁丸は嬉しそうに歩いて来る。御守役は、何故か真剣な面持ちだ。

「お待たせしました。有難うね。助かりましたわ」

 彼女は鳳仙花に近づくなり、笑顔で話しかける。鳳仙花は、いいえ、と愛想よく首を横に振りながら笑みを浮かべる。だが、内心ではハラハラしていた。何となく、縁側から退いて近くの空き部屋に入る。そして御簾越しに一部始終を見守った。女房は、まだ気持ち良さそうに眠っている猫を、呆れたように眺める。

「命婦のおとど様、そろそろ起きませんと」

 近づいて声をかけるも、目を覚まさない。しゃがみ込むと、傍らにいる翁丸に

「かくなる上は、仕方ありませんね。少し脅かしてやりましょう。さぁ、翁丸。あの猫に噛みついてしまいなさい!」

 周りに聞こえぬようにであろう、小声でそう指示した。

……え? そ、そんな!……

 鳳仙花は衝撃を受けた。

……帝の大切な猫を、御所で飼っている年老いた犬に襲わせようだなんて! 翁丸、命令を拒否して! 命婦のおとど、逃げてっ!……

 心の中で叫ぶ。だが、翁丸は人間からの命令を忠実にこなす律儀な性格だった。

ワンッ!

 元気よく返事をすると、一気に猫に襲い掛かった!

ミャー?!

 彼女は目を覚ますと、驚きの声を一声あげて一目散に逃げだした。それは俊敏な動きであっという間に走り去った。

ワン、ワン

 翁丸は必至で追いかけるも追いつかない。諦めて引き返してくる。鳳仙花は何の怪我も追わなかった猫と、怪我を負わせたら酷い罰を受けるであろう老犬を思い、ホッと胸を撫で下ろした。

「ご苦労様。さ、自由にしていいわよ」

 女房は戻って来た翁丸の頭を撫でる。老犬はクンクンと鼻を鳴らして、命令をこなせなかった自分に落ち込んだのか、尻尾を下げ、頭を垂れてすごすごと退散していった。

「どうしたの?」
「何事?」

 ほどなくして、騒ぎを聞きつけた女房たちが何人か出てきた。皆、文壇の女房たちだ。

「こら! 翁丸!!」

 ちょうど翁丸が命婦のおとどに噛みつこうとしたところを目撃似た近衛府このえふ、警備の武官たちが数名が、翁丸を追いかける。その中の一人が、命婦のおとどの行方を見極める為その場に残った。御守役は何食わぬ顔で残った武官の傍へと近づく。

ミャーーーン

「ん? 何事だ? どうした?」

 驚いた命婦のおとどは、近くの部屋で朝食中だった帝の胸に飛び込んだのだった。

「どうしたのだ? 何を怖がっている?」

 帝は左手で優しく抱きしめ、右手で頭を撫でてやりながら愛猫に問いかける。「何が起きたのか調べて参れ!」

 傍らに控えていた臣下に命じた。

「承知いたしました」

 速やかに立ち上がり、足早にその場を後にした。


……翁丸、大丈夫かな。御門の愛猫をかじろうとするなんて、厳しい罰を受けないかな。翁丸は、御守役に命じられたから従っただけなのに……

 鳳仙花は祈るような気持で、御簾越しに成り行きを見守る。庭が急に騒がしくなった。武官と帝の臣下、そして御守役が何やら話している。臣下は足早に部屋に戻った。嫌な予感がした。しばらくして臣下が戻って来ると、

此度こたびの件、帝は大変にお怒りだ。翁丸を捉えて懲らしめ、犬島へ流してしまえ! との事だ!」

 それを聞くや否や

「御意!」

 武官は答え、翁丸を追っている仲間の元へと走った。


……そんな!!! 犬島って、確か淀川の中州にある、罪を犯した犬たちの流刑地……

 鳳仙花は衝撃のあまり崩れ落ちるようにして座り込んだ。その時、わずかな物音に気付いた清少納言が鳳仙花に気が付いた。同時に、そろそろ休憩時間が終わる頃なのに戻らない娘を心配して探しに来た紅もまた、同時に気づいた。

「鳳仙花?!」
「鳳仙花ちゃん?!」

 二人はほぼ同時に駆け寄り、声をかけた。清少納言が御簾を上げ、紅は立ち膝になり、娘と同じ目線になる。そして両手を娘の両肩に置いた。

「どうしたの? 何を泣いているの?」

 紅は驚愕した。鳳仙花はその瞳に大粒の涙をたたえていたのだ。

「……翁丸が、翁丸が……ひっく……」

 母親を見て安心したのだろう。涙が頬を零れ落ち、しゃくりあげる。紅は状況がよく分からなかったが、まずは娘を安心させ、落ち着かせる事が先だと判断した。両手でそっと胸に引き寄せると、右手で静かに頭を撫で始めた。これまでこのように感情を露わにして泣いた事など無い。よほど衝撃を受けたのだろうと感じた。

 清少納言は心配そうに鳳仙花を見守りながら中に入って御簾を下し、紅と鳳仙花が外から見えぬようにして立っている。

「翁丸が、どうしたの?」
「……命婦のおとどが、ひっく……縁側で……ぐっすり寝てたの」
「うんうん、それで?」

 鳳仙花はしゃくりあげながらもぽつり、ぽつりと話し始める。紅は優しく、そしてゆっくりと相槌を打ちながら先を促す。

「御守役さんが、一生懸命起こそうとしても……起きなくて。それで……ひっく」
「うん」
「少しの間……命婦のおとどを見てて欲しいって言うから、見てたの」

 徐々に落ち着きを取り戻して行く。清少納言は、縁側近くでたむろし、彼女たちの話からおおよその出来事を把握する。

(鳳仙花ちゃん、全てを見聞きしていたのね)

 と思いながら鳳仙花を見守った。

「御守役さんは、翁丸を連れて戻ってきて、それで命婦のおとどに噛みつけ、て……」
「まぁ!」
「でもすぐに逃げて、怪我はしてないのだえど、翁丸が、翁丸が、流罪って……ひっく。御守役さんが命じられた通りにしただけ……」

 それ以上は言わせないように紅は娘を両手で強く抱きしめ、

「そう、それは怖かったし悲しかったわね。でも、その事は私と清少納言さん、そして鳳仙花、三人だけの秘密よ」

 と諭すように言った。

「どうして? だって翁丸は悪くな……」
「しーーー」

 母親の胸を両手で押し、キッと顔を上げる鳳仙花。瞳も頬も涙でぐっしょりと濡れていた。だが、その瞳は燃えるように爛々と輝いている。紅は、いつも己の心の中で内緒にしておきなさい、という時に使う合図をした。右人差し指でそっと娘の唇に触れるのだ。 


……こんな酷い事も、黙認しないと生きていけないんだ。怖い、大人の世界って。大人になるの、嫌だ……

 鳳仙花はそう悟った。計り知れない衝撃が胸を締め付ける。もう何も考えられない。

「兎に角、戻りましょう」

 清少納言は冷静に母子に話しかけた。紅は大きく頷くと、娘を抱き上げ、清少納言に続いて文壇に戻る。

「おい! 居たぞ! あっちだ!」
「追えっ!」

 外では警備の武者たちの怒号が飛び交っていた。

「ね、鳳仙花ちゃん。ここ何日かでこんな時どう対応するのかお手本を見せてあげるわね」

 と清少納言は紅の胸に顔を埋めたままの鳳仙花に優しく声をかけた。

文壇では、一連の事件を知った女房たちが口々に語り、嘆いていた。

「何て可哀想な翁丸。いつも自信満々であんなに堂々としていたのに、急にこのような事になるなんて……信じられないわ」
「ついこの間の桃の節句は、彼の晴れ舞台だったわよね。柳の枝で作った冠を頭んに乗せて貰って、綺麗に着飾って。堂々と御所を歩いていたじゃない……それが、まさかこんな事になるなんて、夢にも思わなかったでしょうに」

 そこでさり気無く、清少納言も会話に加わる。

「定子様がお食事なされる際、翁丸は毎回お庭に控えていてお下がりを待っていましたね。あの食いしん坊の姿がもう見られないなんて、とても寂しいですわね」

 その日は定子も交え、文壇は翁丸の話で持ち切りだった。

……翁丸、悪くないのに……

 紅は部屋の隅で、紅にぴたりと寄り添うようにしながらぼんやりと思った。紅は、そんな娘の頭を静かに撫で続けた。 

……大人になるって、いけないことをいけない、て言えなくて。黙ってニコニコ上の人が気に入るように振る舞うようになるんだ……

 鳳仙花はその夜、なかなか寝付けなかった。

 それから三、四日経った昼頃、激しく鳴く犬の声が響き渡る。いつまで経ってもなきやまない。鳳仙花は母親にしがみついた。

「何かあったのかしら……」

 文壇の皆は聞き耳を立てる。どうやらあちこちの犬が鳴き声のする方向へ一斉に走って行っている様子だ。間もなく侍従が駆け足でやってきて、

「大変です! 流刑になった犬が戻ってきました!。警備の者が二人がかりで『よくも帰って来たな!』と打ちのめしています。このままでは、死んでしまします!」

「翁丸!」

 鳳仙花は声を上げた。他の女房たちも

「可哀想に。せっかく帰って来たのに」

 と口々に言ってる。

「翁丸を打つのはもうよしなさい! と伝えなさい」

 定子は御簾越しに厳しい声をあげた。

「はい、承知致しました!」

 侍従は弾かれるように走って行った。ほどなくして、鳴き声がやむ。皆、ホッとしたものも束の間、先ほどの侍従が戻ってくる。

「間に合いませんでした。翁丸は死んでしまったので門の外へ捨てたとのことでした」

 との報告だった。

「そんな、酷い!」
「こんな惨いこと、あって良いのかしら」

 皆、嘆いた。

「そんな……翁丸、可哀想……」

 鳳仙花は声をあげて泣いた。

「可哀想ね、酷いわね……」

 瞳を潤ませながら、紅は娘を抱きしめた。しばらく皆、翁丸を忍んだ。 

 その日の黄昏時、鳳仙花は御簾越しにボーッと庭を眺めていた。すると所在なげにうろついている犬を見かけた。背格好、薄茶色、もしかしたら……。鳳仙花は縁側に出て行く。
 するとその犬は、顔も体も腫れ上がって傷だらけで震えながらうろうろしているではないか。痛そうで酷く辛そうだ。急いで文壇に戻る。母親は爪紅の施術中だった為、ちょうど一息ついていた清少納言のもとへと駆け寄った。そして『庭に傷だらけの犬が震えてるの』とそっと耳打ちする。清少納言は任せて、と言うように微笑んだ。そして何食わぬ顔で基調をずらし、御簾越しに庭を見つめる。

「あら? あれは翁丸ではないかしら?」

 と声を上げた。ちょうど傍にいた女房が清少納言の隣にやってくると、

「翁丸や」

 と名を呼んでみる。けれども犬は知らん顔で何の反応も示さない。そうこうする内に、他の女房たちも几帳をずらしてやってくる。

「あれは翁丸よ」
「えーそうかな」
「違うと思うな」

 と口々に言い合う。全てを見守っていた定子が声をかける。

「御門に仕えている右近なら、翁丸の事を知っている筈です。急用だとここに呼びなさい」

 よ指示した。すぐに駆けつける右近。

「この子は翁丸か?」

 定子は問いかけた。右近はうずくまって辛そうな犬をよく観察する。

「はい、非常に良く似ております。ですがこの犬はあまりにも気味悪く、醜いです。もし彼なら、名前を呼べば尻尾を振って飛んできます。ですがこの犬は名を呼んでもこちらに来ません。警備の者たちは、御門に翁丸を打ち殺して捨てたと報告していました。あのように屈強な男たちが、二人がかりで打ちのめしたのでは、生き残ることは難しいと思われます」

 と悲しそうにこたえた。定子は益々哀しげな表情を浮かべる。

……本当に翁丸じゃないのかなぁ……

 鳳仙花は少しだけ希望を持っていた。 

 夕暮れ時、清少納言は鳳仙花の手を引いて、その犬に食べ物を与えに行った。何人か女房たちもついてくる。

……お願い、食べて。食べて少しでも力つけなきゃ……

 鳳仙花は祈るようにして見つめた。だが、犬は少しも食べようとしない。

「翁丸なら食いしん坊の筈よ」
「いつも定子様のお下がりをがっついて食べていたもの」
「この犬は、翁丸ではないのね……」
「今日はもう休みましょう」

 清少納言は鳳仙花の手を引いて文壇に戻った。

……何か、警戒してて食べないだけなんじゃないかなぁ。やっぱり、翁丸のような気がするんだけどなぁ……

 なんとなく、鳳仙花はそんな気がした。

 翌朝、紅の傍らで御簾越しに定子がお化粧している様子をうっとりと眺める。

……綺麗な髪。御簾越しでも輝いて見える……

 清少納言が手鏡を持って定子のお化粧のお手伝いをしている。仕上げに紅と鳳仙花がおつ爪のお手入れをするのだ。鳳仙花は何の気なしにふと、庭に目をやった。

……あれ?……

 よく見ると、柱の下であの犬がうずくまっていたのだ。

「あっ! 昨日の犬……」

 鳳仙花は思わず声をあげた。紅も定子も清少納言も、文壇の女房たちもその犬を見やった。 

 清少納言は、鳳仙花をはじめこの場にいる誰もが感じてるであろう事を口にした。

「男たちに翁丸は酷く打たれてしまったのよね。可哀想に……翁丸は死んでしまったとの事だけど、本当に可哀想に。翁丸は亡くなった後、来世では何に生まれ変わるのでしょう? 打たれて亡くなる時は、それほど痛くて辛かったことでしょうね……」

 すると、静かにうずくまって聞いていた犬が、目に涙を沢山ためているではないか! 体を震わせて、大粒の涙をぽたりぽたりと流している。

「やっぱり、翁丸だ! 夕べはきっと、翁丸だと知れると、また打たれると思ったから知らないふりをしていたんだ!」

 鳳仙花は嬉しそうに母親に語り掛ける。

「なんて、不憫なんでしょう……」

 紅も涙を湛えて応じた。ざわつく文壇内。

「お前はやはり、翁丸なのね!」

 清少納言は語り掛けた。

くうん、くうん、と甘えた声で鳴く。定子も非常に驚き、そして笑顔を見せた。そしてすぐに使いをやり、右近を呼ぶ。

「やっぱり、昨日の犬は翁丸だったわ」

 と説明した。

「翁丸」「翁丸!」

 女房たちも集まり、嬉しそうに声をかける。すると翁丸は声に反応するのだ。まだ顔が腫れて痛々しい。

「薬を塗って、手当をしてあげたいわ」

 清少納言は言った。

「清少納言さん、とうとう翁丸の正体を見破ったわね!」

 と皆は大笑いするのだった。だが……

「翁丸が戻ってきたというのはまことですか?」

 すぐに警備の役人が駆けつけて来たようだ。使いの者をよこした。

「そんな犬はここには居ないし来てもいません」

 と使いの者に清少納言は伝言をする。すると使者はすぐに戻ってきて

「隠しても無駄です。すぐに見つけますから」

 とのことだった。

「なんと恐ろしい……」

 文壇内は凍り付いた。けれども、定子のとりなしもあり、翁丸は流罪が解かれた。また元気いっぱい晴れやかに御所内を歩けるのだ。

「清少納言さんの声掛けで、翁丸が泣き出したの、感動しました!」

 鳳仙花は目を輝かせる。

「人から温かい言葉をかけられて泣いてしまうのは、人も動物も同じ。心が通い合うものなのね」

 清少納言は瞳を潤ませながらこたえた。

 

~「枕草子 第六段 うえにさむらう御ねこは」より~ 
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 江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。  そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。  秋田藩での仕事は勘定方である。  仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。 ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。   そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。  娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。  さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。    「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。  今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。  この風習は広く日本で行われている。  「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。  「たそかれ」という言葉は『万葉集』に 誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」 — 『万葉集』第10巻2240番 と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。  「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に 「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」 — 『源氏物語』「夕顔」光源氏 と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。  なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。  またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。 漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。  「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。  この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。  それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。  読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。  作家 蔵屋日唱    

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

楽将伝

九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語 織田信長の親衛隊は 気楽な稼業と きたもんだ(嘘) 戦国史上、最もブラックな職場 「織田信長の親衛隊」 そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた 金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか) 天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!

江戸の夕映え

大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。 「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三) そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。 同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。 しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。

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