「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第十二帖

落日②

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 それから数日が過ぎた。訪問者もなく、定子も不在。あれほど明るく場を盛り上げていた清少納言も、他の女房たちも同じだ。無論、紅と鳳仙花も皆、それぞれの仕事を黙々とこなしている。手が空いた者は、書物を読んだり、繕い物をしたり、書物を読んだりしてひっそりと静かに過ごしている。

 鳳仙花は文壇の片隅で、母親と共に磨爪術の道具や布の点検と整理整頓を行っていた。

(定子様は大丈夫だろうか。心労からお体を壊されないと良いけれど。帝は次期関白の事でお忙しくしているみたいだし……)

『これ、鳳仙花。手が疎かになっていますよ』

 母親の、小声で耳打ちする厳しい指摘に我に返る。紅は更に続けた。

『考えても何も解決出来ない場合は、目の前のやるべき事だけに集中しなさい。そうしないと、取り返しのつかない間違いを犯してしまう事もあるのですから。信頼を得るのは何年、何十年と積み重ねて行く事が大切ですが、信頼を失うのは一瞬です。その後の挽回は極めて難しい。よく覚えておきなさい』

 鳳仙花は黙って頷いた。母親が言っている意味は今はまだ朧気にしか分からなかったが、感覚的には理解出来た気がした。しっかりと胸に刻んでおこうと思った。

 不意に衣擦れの音と共にパタパタと文壇に近づく足音が聞こえて来る。しーんと静まり返った文壇に、それはよく響いた。同時に、あまり良くない知らせが近づくようにも思えた。 

「失礼します」

 声を落とし、挨拶もそこそこに御簾を開けて入ってきたのは式部のおもとだった。彼女は使いで炊事場に足を運んでいたのだが……少し慌てている様子だ。皆、それそれの作業を止めて彼女を見つめた。

「帝の御寝所に、皇太后詮子こうたいごうせんし様が訪ねていらっしゃったそうです」

 その一言で、文壇内にざわめきが起こる。

(帝が寛いでお休みになる場所に、母上様がいらっしゃるなんて……。余程腹に据えかねて、ていう事なのね)

 鳳仙花は思う。

「じゃぁ、やはりお噂通り……皇太后様は次期関白にご推薦なさりたいのは……」
「ええ。伊周様では……ないわね」
「帝は定子様を深く愛してらっしゃるから道隆様のお言葉通り伊周様を押したいところでしょうけれど……」
「ずっと、皇太后様のご意見を曖昧にしてかわしてらっしゃったみたいだけど……」

 式部のおもとも輪に加わり、女房達は囁き合う。紅は鳳仙花をそっと胸に抱き寄せた。

 母親の腕の中で、鳳仙花はぼんやりと皇太后の思惑を推し量る。

(……皇太后様は、道長様を溺愛なさっているという噂。その道長様を差し置いてお若い伊周様がトントンと出世なさるのを快く思っていなかった筈。きっと、道隆様の後を継ぐのは道長様になさい、と強く言い聞かせる為に帝の御寝所に行かれたのだわ)

 文壇にいる誰もがそう感じていた。

 その頃、道隆の元には公家たちが集まってきていた。道隆は、己が余命幾ばくも無い事を悟り、急遽出家したのだ。その知らせを受け、定子をはじめ東宮女御の原子《げんし》も駆けつけていた。そして道長も……。 


 道隆の周りに集まった僧侶たちが、必死で病回復の祈りを捧げる。しかし、その甲斐もなく徐々に衰弱して行く。四月十日、ついにその生涯を終えた。四十三歳であった。定子たちの細い嗚咽の声が、空に掻き消えるようにこだまする。

 その知らせは文壇にも間もなく届いた。女房たちの咽び泣く声が一斉に響き渡る。

(道隆様……伊周様や定子様の事、どれほど心残りだったでしょう……)

 鳳仙花は、知っている人が亡くなるという体験をしたのがこれが初めての事であった。道隆の整った美しい顔が思い浮かぶ。ごくたまに文壇を訪ねて来て、定子、清少納言の三人で大いに盛り上がり、豪快な笑い声で周囲を和ませた道隆。鳳仙花にも笑いかけてくれたりしてとても気さくな人柄だった。

(もう、あの溌剌として元気な笑顔は二度と拝見する事は叶わないのだ……)

 何か大切なものの一つがある日突然に消えてしまったような喪失感、そして空虚感を覚えた。胸の奥が締め付けられるように痛くなる。その痛みはすぐに喉の奥に移動し、そして視界がぼやけた。母親の衣装が滲んで見える。

 紅は、腕の娘が涙を堪えている事を悟る。抱き締めている両腕に力を込め、思い切り抱きしめた。やがてヒッーク、と込み上げる嗚咽を噛み殺して泣く鳳仙花。肩が小刻みに震えている。紅は右手で娘の頭を撫でながら、共に静かに泣いた。紅は思う。

(道隆様は細かい事には拘らず、非常におおらかで豪胆な方でいらっしゃった。娘の事も気にかけてくださり、思いやりも深い御方だった……。定子様のお人柄も、この道隆様の影響を多分に受けられている。女ばかりの文壇がギスギスせず、互いに切磋琢磨しながら仲間として結びつきば強くなったのは、ひとえに、定子様のお陰……)

 そして突如として不安感が襲った。

(定子様の後ろ盾が、無くなった! 恐らく、次期関白は道長様か道兼ね様になるわ。この子を、男の力になど頼らずとも磨爪術の腕一つで貴族社会の荒波を生き抜けるように導かなくては! 早急に)

 勿論、これまでもそう思って育てて来たつもりだ。だが、この時ほど危機感に似た想いに囚われたのは初めての事だった。何故か、自分の命もそう長くは無い、今ほど強く感じた事はなかった。

 それは、直感にも似た強い衝動。杞憂に終われば良いのだが。政権交代の波はもうそこまで押し寄せてきている。

 文壇には女房たちのすすり泣きに溢れ返る。 


 「時代」という名の巨大な波のうねりが、すぐそこまで近づいてきていた。
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