「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第十六帖 斜陽①

長徳の変~前触れ~

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 鳳仙花は一人、詰所に居る。ここは紅と鳳仙花の控室だ。六畳ほどの部屋で、薄紫の屏風と黒の御簾で四方を仕切られ手いる。燭台は四隅に四か所設けられており、磨爪術に必要なものが常備されている。こういった場所も、定子の好意で用意して貰えたりと本当に有り難い事だった。

 今は磨爪術の際に使う布を、施術の際すぐに使えるように手の平の程の大きさに切り分けているところだ。仕事が休みだったり、早く終わった時はこうして備品の補充や整理をし、いざという時に慌てないようにするのだ。特に布は消耗品だ。極力しっかりと洗って清潔を保つようにしているが、見た目に染みとして映るなら、いくら綺麗に洗っあっても捨て時である。

……やっぱり、貴族女性の「たしなみ」って。知識や教養、話術、和歌、楽器、襲《かさね》の色目や裁縫、家事と幅広く必要だけれど、薫物《たきもの》も重要だよねぇ……

 今更のようにそれが如何に重要なのか感じている。薫物も、幼い頃から乳母の保子や母・紅より一通り学んではいるし今も使用はしている。けれども、磨爪師としてはあまり薫物を強く薫らせる事は良しとされていないのだ。何故なら施術される側が主役だからである。微かに清潔な香りのする薫衣香くぬえこう(※①)を身につける事が望ましい、と母親からしっかりと言い聞かせられていた。
 
 今までは定子を始め、高貴な方であればある程上質な芳香をまとっているな、という意識しかなかった。それが、あの時をきっかけに『香り』の重要性を体感したのだ。

 ふと、鼻先に若草の爽やかな香りがしたような気がした。

……隆家様の香り。香りはその人の個性を現すと言うものね。伊周様は梅の花みたいに甘い感じで……

 そして不意に両頬がポッと熱く感じた。ほんのりと頬が桃色に染まる。先日、去り際に隆家が囁いた事を思い出したのだ。あの時、

『此度の件、本当に申し訳なかった。このお詫びと埋め合わせは、必ずいつかさせて貰うから』

 そう囁いて兄を抱き抱えるようにして去って行った。若草を思わせる残り香。爽やかな初夏の風のようだった。

……お詫びかぁ。じゃぁ、逢引がいいでーす、なーんてね……

 クスリと笑う。だが、すぐに真顔になった。そう浮かれて等いられない状況である。それはよく承知していた。ほんのひと時の秘かな息抜きだった。

  文壇の庭先での出来事は、誰にも話すつもりは無い。秘密は墓場まで持って行くつもりだった。伊周の名誉にかけて。彼はあの時、鳳仙花にこう囁いた。

『……ごめんね。みっともない姿を見せた。貴族社会、とりわけ宮中は恐ろしい処だ。ここは生き馬の目を抜くような連中ばかり。己の出世や欲望を叶える為なら、人を陥れ、影で呪術を駆使し奈落の底に突き落としたり人を殺める事すら何とも思わない魔物の集まりだ。この世界で生き抜くなら、水のようあらゆる器にに順応し、柳のようにしなやかに強かに生きるんだよ、私のようになったら駄目だ!』

 この言の葉で、彼の苦悩と真の心が理解出来たと感じた。そして、あの絞り出すような苦悩の吐露。自分にもっと力があればと悔やんでいた。彼の教えと一連の出来事は生涯忘れず、胸に焼き付け教訓として生かそう、そう誓った。秘密の日記にしっかりと記してある。万が一誰かに見られた時に、名前を知られる訳にはいかない。故に伊周を梅の花に。道長たちを桜の花に例えて物語に創作した。

 万葉の時代は、花と言えば「梅」を現す程の人気だったという。それが、今は「桜」へと移り変わっている。そこを利用したのだ。

 
 パタパタと衣擦れの音が近づく。直観的に母であると感じ、姿勢を正して座り直し作業の手を速めた。御簾を開ける音と同時に

「鳳仙花、入りますよ」

 と紅の声。そして屏風を静かに寄せ、室内にいそいそと足を踏み入れる。そして娘の左隣に寄り添うようにして腰を下ろした。

「大事なお話があります」

 紅はそう前置きすると、右袖を口元に添え、娘の左耳にゆっくりと、そして冷静に語り始めた。

(……人を陥れ、影で呪術を駆使し奈落の底に突き落としたり人を殺める事すら何とも思わない魔物の集まりだ……)

 伊周が囁いた助言が頭を過る。

『先程、御門が道長様を内覧(※②)にすると宣旨せんじを与えられました』

「そんな! それでは……」

 鳳仙花は伊周様は?! と言いそうになるのを辛うじて止めた。両袖で自らの口元を覆う。紅はあくまで冷静だった。娘が落ち着いたのを見計らって、再び耳打ちを始める。

『御門は定子様を深く寵愛されていますから、伊周様を関白にするつもりだったようですが、土壇場で皇太后様の懇願に肯定せざるを得なかったようです。今後の政権の事を考え、苦渋の決断だったようですね』

 帝の愛が変わらない事に、鳳仙花は安堵しながら、母の話に耳を傾ける。

『内覧と言っても、関白という役職を担う者が不在なのですから、実質は道長様が関白と言ってもいいでしょうね。加えて、道長様はうじの頂点に立たれた訳ですから、まつりごとの実権を握った事になるでしょう』

『では、中関白家の皆様は……』

 鳳仙花はそれ以上言わなかったが、紅は静かに頷いて肯定を示した。二人の胸に共通するのは「失脚」の二文字。

 995年、五月十一日の事であった。鳳仙花は伊周を始め、定子、そして隆家……一族の心情をおもんばかる。

 燭台の焔がゆらゆらと小刻みに揺れた。


 



(薫衣香※① 衣装に焚きしめる白檀や沈香等を混ぜ合わせた「練りお香」の事)
(内覧※② 帝に提出される書類を先に下見する役職。関白に準ずるもの)

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