16 / 65
第十六帖 斜陽①
長徳の変~前触れ~
しおりを挟む
鳳仙花は一人、詰所に居る。ここは紅と鳳仙花の控室だ。六畳ほどの部屋で、薄紫の屏風と黒の御簾で四方を仕切られ手いる。燭台は四隅に四か所設けられており、磨爪術に必要なものが常備されている。こういった場所も、定子の好意で用意して貰えたりと本当に有り難い事だった。
今は磨爪術の際に使う布を、施術の際すぐに使えるように手の平の程の大きさに切り分けているところだ。仕事が休みだったり、早く終わった時はこうして備品の補充や整理をし、いざという時に慌てないようにするのだ。特に布は消耗品だ。極力しっかりと洗って清潔を保つようにしているが、見た目に染みとして映るなら、いくら綺麗に洗っあっても捨て時である。
……やっぱり、貴族女性の「たしなみ」って。知識や教養、話術、和歌、楽器、襲《かさね》の色目や裁縫、家事と幅広く必要だけれど、薫物《たきもの》も重要だよねぇ……
今更のようにそれが如何に重要なのか感じている。薫物も、幼い頃から乳母の保子や母・紅より一通り学んではいるし今も使用はしている。けれども、磨爪師としてはあまり薫物を強く薫らせる事は良しとされていないのだ。何故なら施術される側が主役だからである。微かに清潔な香りのする薫衣香(※①)を身につける事が望ましい、と母親からしっかりと言い聞かせられていた。
今までは定子を始め、高貴な方であればある程上質な芳香をまとっているな、という意識しかなかった。それが、あの時をきっかけに『香り』の重要性を体感したのだ。
ふと、鼻先に若草の爽やかな香りがしたような気がした。
……隆家様の香り。香りはその人の個性を現すと言うものね。伊周様は梅の花みたいに甘い感じで……
そして不意に両頬がポッと熱く感じた。ほんのりと頬が桃色に染まる。先日、去り際に隆家が囁いた事を思い出したのだ。あの時、
『此度の件、本当に申し訳なかった。このお詫びと埋め合わせは、必ずいつかさせて貰うから』
そう囁いて兄を抱き抱えるようにして去って行った。若草を思わせる残り香。爽やかな初夏の風のようだった。
……お詫びかぁ。じゃぁ、逢引がいいでーす、なーんてね……
クスリと笑う。だが、すぐに真顔になった。そう浮かれて等いられない状況である。それはよく承知していた。ほんのひと時の秘かな息抜きだった。
文壇の庭先での出来事は、誰にも話すつもりは無い。秘密は墓場まで持って行くつもりだった。伊周の名誉にかけて。彼はあの時、鳳仙花にこう囁いた。
『……ごめんね。みっともない姿を見せた。貴族社会、とりわけ宮中は恐ろしい処だ。ここは生き馬の目を抜くような連中ばかり。己の出世や欲望を叶える為なら、人を陥れ、影で呪術を駆使し奈落の底に突き落としたり人を殺める事すら何とも思わない魔物の集まりだ。この世界で生き抜くなら、水のようあらゆる器にに順応し、柳のようにしなやかに強かに生きるんだよ、私のようになったら駄目だ!』
この言の葉で、彼の苦悩と真の心が理解出来たと感じた。そして、あの絞り出すような苦悩の吐露。自分にもっと力があればと悔やんでいた。彼の教えと一連の出来事は生涯忘れず、胸に焼き付け教訓として生かそう、そう誓った。秘密の日記にしっかりと記してある。万が一誰かに見られた時に、名前を知られる訳にはいかない。故に伊周を梅の花に。道長たちを桜の花に例えて物語に創作した。
万葉の時代は、花と言えば「梅」を現す程の人気だったという。それが、今は「桜」へと移り変わっている。そこを利用したのだ。
パタパタと衣擦れの音が近づく。直観的に母であると感じ、姿勢を正して座り直し作業の手を速めた。御簾を開ける音と同時に
「鳳仙花、入りますよ」
と紅の声。そして屏風を静かに寄せ、室内にいそいそと足を踏み入れる。そして娘の左隣に寄り添うようにして腰を下ろした。
「大事なお話があります」
紅はそう前置きすると、右袖を口元に添え、娘の左耳にゆっくりと、そして冷静に語り始めた。
(……人を陥れ、影で呪術を駆使し奈落の底に突き落としたり人を殺める事すら何とも思わない魔物の集まりだ……)
伊周が囁いた助言が頭を過る。
『先程、御門が道長様を内覧(※②)にすると宣旨を与えられました』
「そんな! それでは……」
鳳仙花は伊周様は?! と言いそうになるのを辛うじて止めた。両袖で自らの口元を覆う。紅はあくまで冷静だった。娘が落ち着いたのを見計らって、再び耳打ちを始める。
『御門は定子様を深く寵愛されていますから、伊周様を関白にするつもりだったようですが、土壇場で皇太后様の懇願に肯定せざるを得なかったようです。今後の政権の事を考え、苦渋の決断だったようですね』
帝の愛が変わらない事に、鳳仙花は安堵しながら、母の話に耳を傾ける。
『内覧と言っても、関白という役職を担う者が不在なのですから、実質は道長様が関白と言ってもいいでしょうね。加えて、道長様は氏の頂点に立たれた訳ですから、政の実権を握った事になるでしょう』
『では、中関白家の皆様は……』
鳳仙花はそれ以上言わなかったが、紅は静かに頷いて肯定を示した。二人の胸に共通するのは「失脚」の二文字。
995年、五月十一日の事であった。鳳仙花は伊周を始め、定子、そして隆家……一族の心情を慮る。
燭台の焔がゆらゆらと小刻みに揺れた。
(薫衣香※① 衣装に焚きしめる白檀や沈香等を混ぜ合わせた「練りお香」の事)
(内覧※② 帝に提出される書類を先に下見する役職。関白に準ずるもの)
今は磨爪術の際に使う布を、施術の際すぐに使えるように手の平の程の大きさに切り分けているところだ。仕事が休みだったり、早く終わった時はこうして備品の補充や整理をし、いざという時に慌てないようにするのだ。特に布は消耗品だ。極力しっかりと洗って清潔を保つようにしているが、見た目に染みとして映るなら、いくら綺麗に洗っあっても捨て時である。
……やっぱり、貴族女性の「たしなみ」って。知識や教養、話術、和歌、楽器、襲《かさね》の色目や裁縫、家事と幅広く必要だけれど、薫物《たきもの》も重要だよねぇ……
今更のようにそれが如何に重要なのか感じている。薫物も、幼い頃から乳母の保子や母・紅より一通り学んではいるし今も使用はしている。けれども、磨爪師としてはあまり薫物を強く薫らせる事は良しとされていないのだ。何故なら施術される側が主役だからである。微かに清潔な香りのする薫衣香(※①)を身につける事が望ましい、と母親からしっかりと言い聞かせられていた。
今までは定子を始め、高貴な方であればある程上質な芳香をまとっているな、という意識しかなかった。それが、あの時をきっかけに『香り』の重要性を体感したのだ。
ふと、鼻先に若草の爽やかな香りがしたような気がした。
……隆家様の香り。香りはその人の個性を現すと言うものね。伊周様は梅の花みたいに甘い感じで……
そして不意に両頬がポッと熱く感じた。ほんのりと頬が桃色に染まる。先日、去り際に隆家が囁いた事を思い出したのだ。あの時、
『此度の件、本当に申し訳なかった。このお詫びと埋め合わせは、必ずいつかさせて貰うから』
そう囁いて兄を抱き抱えるようにして去って行った。若草を思わせる残り香。爽やかな初夏の風のようだった。
……お詫びかぁ。じゃぁ、逢引がいいでーす、なーんてね……
クスリと笑う。だが、すぐに真顔になった。そう浮かれて等いられない状況である。それはよく承知していた。ほんのひと時の秘かな息抜きだった。
文壇の庭先での出来事は、誰にも話すつもりは無い。秘密は墓場まで持って行くつもりだった。伊周の名誉にかけて。彼はあの時、鳳仙花にこう囁いた。
『……ごめんね。みっともない姿を見せた。貴族社会、とりわけ宮中は恐ろしい処だ。ここは生き馬の目を抜くような連中ばかり。己の出世や欲望を叶える為なら、人を陥れ、影で呪術を駆使し奈落の底に突き落としたり人を殺める事すら何とも思わない魔物の集まりだ。この世界で生き抜くなら、水のようあらゆる器にに順応し、柳のようにしなやかに強かに生きるんだよ、私のようになったら駄目だ!』
この言の葉で、彼の苦悩と真の心が理解出来たと感じた。そして、あの絞り出すような苦悩の吐露。自分にもっと力があればと悔やんでいた。彼の教えと一連の出来事は生涯忘れず、胸に焼き付け教訓として生かそう、そう誓った。秘密の日記にしっかりと記してある。万が一誰かに見られた時に、名前を知られる訳にはいかない。故に伊周を梅の花に。道長たちを桜の花に例えて物語に創作した。
万葉の時代は、花と言えば「梅」を現す程の人気だったという。それが、今は「桜」へと移り変わっている。そこを利用したのだ。
パタパタと衣擦れの音が近づく。直観的に母であると感じ、姿勢を正して座り直し作業の手を速めた。御簾を開ける音と同時に
「鳳仙花、入りますよ」
と紅の声。そして屏風を静かに寄せ、室内にいそいそと足を踏み入れる。そして娘の左隣に寄り添うようにして腰を下ろした。
「大事なお話があります」
紅はそう前置きすると、右袖を口元に添え、娘の左耳にゆっくりと、そして冷静に語り始めた。
(……人を陥れ、影で呪術を駆使し奈落の底に突き落としたり人を殺める事すら何とも思わない魔物の集まりだ……)
伊周が囁いた助言が頭を過る。
『先程、御門が道長様を内覧(※②)にすると宣旨を与えられました』
「そんな! それでは……」
鳳仙花は伊周様は?! と言いそうになるのを辛うじて止めた。両袖で自らの口元を覆う。紅はあくまで冷静だった。娘が落ち着いたのを見計らって、再び耳打ちを始める。
『御門は定子様を深く寵愛されていますから、伊周様を関白にするつもりだったようですが、土壇場で皇太后様の懇願に肯定せざるを得なかったようです。今後の政権の事を考え、苦渋の決断だったようですね』
帝の愛が変わらない事に、鳳仙花は安堵しながら、母の話に耳を傾ける。
『内覧と言っても、関白という役職を担う者が不在なのですから、実質は道長様が関白と言ってもいいでしょうね。加えて、道長様は氏の頂点に立たれた訳ですから、政の実権を握った事になるでしょう』
『では、中関白家の皆様は……』
鳳仙花はそれ以上言わなかったが、紅は静かに頷いて肯定を示した。二人の胸に共通するのは「失脚」の二文字。
995年、五月十一日の事であった。鳳仙花は伊周を始め、定子、そして隆家……一族の心情を慮る。
燭台の焔がゆらゆらと小刻みに揺れた。
(薫衣香※① 衣装に焚きしめる白檀や沈香等を混ぜ合わせた「練りお香」の事)
(内覧※② 帝に提出される書類を先に下見する役職。関白に準ずるもの)
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
大和型重装甲空母
ypaaaaaaa
歴史・時代
1937年10月にアメリカ海軍は日本海軍が”60000トンを超す巨大戦艦”を”4隻”建造しているという情報を掴んだ。海軍はすぐに対抗策を講じてサウスダコタ級戦艦に続いてアイオワ級戦艦を12隻建造することとした。そして1941年12月。日米は戦端を開いたが戦列に加わっていたのは巨大戦艦ではなく、”巨大空母”であった。
表紙はNavalArtというゲームの画像で、動画投稿者の大和桜花さんに作っていただきました
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる