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第十七帖 斜陽②
長徳の変~再会~
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風が草の香りを運んで来る。五月五日の端午の節句に作成された薬玉の、清々しい香りも乗せて。尤も、道隆の件で薬玉もお飾りも質素なものにはなっているが。
花菖蒲が風に穏やかに揺れ、散る前に最後の力を振り絞って艶やかに咲いている。紫は妖艶に、白は清楚に。
……紫は夜の顔、白は朝の顔。そんな魅惑的な女の人みたい……
鳳仙花は庭先を眺めながらぼんやりと思う。自が大人の女になる事など微塵も想像は出来ないが、今の自分は十歳。定子は十一歳で入内し、一条天皇の寵愛を一心に受けた。そう考えると、今の自分がとても幼く感じる。けれども今はまだ、誰かと結婚して子供を設けるという事が、どこか遠い国の出来事のように感じていた。
伊周が失脚し、道長が政権を握るとなると、後ろ盾のない定子に残された道は帝の世継ぎを産む事、これに限るだろう。鳳仙花も、それが一番平和で誰も傷つかない得策に思えた。そして二人の命の結晶を楽しみにしていた。二人の仲は変わらず仲睦まじい。それは混迷を極めている今、とても微笑ましくホッとするものかつ希望の光であった。
六月十九日、帝は道長を右大臣に任命した。伊周より上の位である。これはもう、どう贔屓目で見ても、帝は道長に政権を任せる、という意思表示であろう。
道長はこれまでは割とおっとりと穏やかな風を装っていたのだろうか? と思われるほどに激変した。従者に対して、居丈高な態度で接するようになったり、女房たちに対しても傲慢で力で捻じ伏せるようなやり方で自分の者にしたりと、横暴な言動を露わにし始めたというのだ。
話はそれだけではない。道長が内覧となると同時に、隆家を権中納言から正式に中納言に昇進したという。
公になるのが少し遅れ、そしてひっそりと人から人に伝えられたのは、隆家の遠慮もあり、兄の面子を配慮しのだろう、と鳳仙花は推測していた。兄を差し置いて弟が出世、伊周の心情はいかばかりか。そしてまた出世してしまった隆家も、酷く気拙い思いをしているに違いない。
……本当に義に篤い方だと思うもの。隆家様って。だって……
爽やかな若草の香りと、甘く囁く彼の声が甦る。
『此度の件、本当に申し訳なかった。このお詫びと埋め合わせは、必ずいつかさせて貰うから』
鼓動が高鳴り、微かに両頬が熱く感じたのは気のせいではあるまい。
……私にも、あんな風に礼儀を尽くしてくださる方だもの。筋を通す御方なのよ。その上で『天下のさがな者』て呼ばれてるのだと思うわ……
その時、しずしずとこちらに近づく衣擦れの音と軽快な足音が近づいた。それに気付いた鳳仙花はサッと立ち上がり、両手で素早く衣装の乱れを整える。
近づいて来るのは、落ち着いた黄緑と白、柔らかな紫を重ねた『楝の襲を身に着けた、落ち着いた感じの女房だった。彼女は鳳仙花に笑いかける。鳳仙花はお辞儀をして笑顔で応じた。
「お待たせしちゃったわね」
彼女はそう声をかける。
「いいえ、今来たばかりですから。こちらこそ、お忙しいさ中に有難うございます」
鳳仙花は笑顔で応じた。彼女は赤染衛門。その控えめで落ち着いた物腰、冴え渡る知性、そして誠実な性格から定子を始め誰からも信頼され、頼りにされている。故に彼女はとても顔が広かった。歌合に出かけた際、たまたま赤染衛門の爪先を見て関心した男性が、娘にもやらせたい、と紹介を頼まれたのだ。今日は赤染衛門が、鳳仙花を彼の元へと案内するのである。
「では、行きましょう。牛車を待たせてあるの」
赤染衛門はそう行って、鳳仙花を誘導した。
「わぁ、有難うございます」
鳳仙花は彼女と二人で車に乗り合わせ乗るという事にワクワクした。一人、または母親と乗る事はあったが、女房と二人で、という経験は少なかったからだ。何だかれっきとした貴族女子のような気分になるのだ。
……女車なら、従者は二十人くらいかな。男と偽装するなら十人程度だろうな……
前述の通り、大変に物騒な世の中なのだ。女性の外出は兎に角危険なのである。
牛車は、ありがちな派手な飾りものもなく、ごく平均的で落ちついた物で「網代車」であった。簾も黒と焦げ茶色の地味なものだ。牛飼い童と、十人程の重要が待機していた。
従者の手を借り、向かい合って乗り込む。車はゆっくりと動き始めた。
「私達は男性に扮してるのですね」
小声で鳳仙花は笑う。
「ええ、そうよ。こんな美女二人組が外出なんて、危なくて仕方ないもの」
赤染衛門はお道化たように言う。二人は小声でクスクスと笑いあった。
それから小一時間弱でその場所に着いた。俄かに鼓動が激しくなって行く。
……紹介してくださる赤染衛門さんの面子を潰さないようにしないと。大丈夫かなぁ。『期待外れだ!』なんてつまみ出されたらどうしよう……
赤染衛門の誘導に従って渡廊を歩く。一足進む毎に不安が募る。
「もう少しで着くわ。あら? お外で待ってらっしゃるわ」
ドキンと鼓動が大きく跳ねた。出会う相手は、先日中納言になった隆家の跡を継いで権中納言となった男の娘……。男は黒の直衣に身を包んでいる。緊張のあまり、落ち着いて彼の顔を見る事が出来ない。
「よくいらして下さった。待ちかねたよ。ささ、中へ。娘が首を長くし待っていてな」
男は赤染衛門の紹介を待たずに自らが声をかける。いかにも待ちわびたというように。その声を、どこかで聞いた事がある、と不思議と懐かしい感覚を覚えた。
「権中納言様、こちらが鳳仙花さんです」
鳳仙花は赤染衛門の紹介と同時に丁寧に頭を下げ、
「初めまして。鳳仙花と申します」
ほんの少し声がうわずるのを恥ながらスッと頭を上げた。目を細めて、嬉しそうに鳳仙花を見つめる男。それに反して、驚愕のあまり目を大きく見開き、男を見つめる鳳仙花。何事かと二人を交互に見つめる赤染衛門。
「……ち、父……上……様」
鳳仙花はうわごとのように呟いた。
花菖蒲が風に穏やかに揺れ、散る前に最後の力を振り絞って艶やかに咲いている。紫は妖艶に、白は清楚に。
……紫は夜の顔、白は朝の顔。そんな魅惑的な女の人みたい……
鳳仙花は庭先を眺めながらぼんやりと思う。自が大人の女になる事など微塵も想像は出来ないが、今の自分は十歳。定子は十一歳で入内し、一条天皇の寵愛を一心に受けた。そう考えると、今の自分がとても幼く感じる。けれども今はまだ、誰かと結婚して子供を設けるという事が、どこか遠い国の出来事のように感じていた。
伊周が失脚し、道長が政権を握るとなると、後ろ盾のない定子に残された道は帝の世継ぎを産む事、これに限るだろう。鳳仙花も、それが一番平和で誰も傷つかない得策に思えた。そして二人の命の結晶を楽しみにしていた。二人の仲は変わらず仲睦まじい。それは混迷を極めている今、とても微笑ましくホッとするものかつ希望の光であった。
六月十九日、帝は道長を右大臣に任命した。伊周より上の位である。これはもう、どう贔屓目で見ても、帝は道長に政権を任せる、という意思表示であろう。
道長はこれまでは割とおっとりと穏やかな風を装っていたのだろうか? と思われるほどに激変した。従者に対して、居丈高な態度で接するようになったり、女房たちに対しても傲慢で力で捻じ伏せるようなやり方で自分の者にしたりと、横暴な言動を露わにし始めたというのだ。
話はそれだけではない。道長が内覧となると同時に、隆家を権中納言から正式に中納言に昇進したという。
公になるのが少し遅れ、そしてひっそりと人から人に伝えられたのは、隆家の遠慮もあり、兄の面子を配慮しのだろう、と鳳仙花は推測していた。兄を差し置いて弟が出世、伊周の心情はいかばかりか。そしてまた出世してしまった隆家も、酷く気拙い思いをしているに違いない。
……本当に義に篤い方だと思うもの。隆家様って。だって……
爽やかな若草の香りと、甘く囁く彼の声が甦る。
『此度の件、本当に申し訳なかった。このお詫びと埋め合わせは、必ずいつかさせて貰うから』
鼓動が高鳴り、微かに両頬が熱く感じたのは気のせいではあるまい。
……私にも、あんな風に礼儀を尽くしてくださる方だもの。筋を通す御方なのよ。その上で『天下のさがな者』て呼ばれてるのだと思うわ……
その時、しずしずとこちらに近づく衣擦れの音と軽快な足音が近づいた。それに気付いた鳳仙花はサッと立ち上がり、両手で素早く衣装の乱れを整える。
近づいて来るのは、落ち着いた黄緑と白、柔らかな紫を重ねた『楝の襲を身に着けた、落ち着いた感じの女房だった。彼女は鳳仙花に笑いかける。鳳仙花はお辞儀をして笑顔で応じた。
「お待たせしちゃったわね」
彼女はそう声をかける。
「いいえ、今来たばかりですから。こちらこそ、お忙しいさ中に有難うございます」
鳳仙花は笑顔で応じた。彼女は赤染衛門。その控えめで落ち着いた物腰、冴え渡る知性、そして誠実な性格から定子を始め誰からも信頼され、頼りにされている。故に彼女はとても顔が広かった。歌合に出かけた際、たまたま赤染衛門の爪先を見て関心した男性が、娘にもやらせたい、と紹介を頼まれたのだ。今日は赤染衛門が、鳳仙花を彼の元へと案内するのである。
「では、行きましょう。牛車を待たせてあるの」
赤染衛門はそう行って、鳳仙花を誘導した。
「わぁ、有難うございます」
鳳仙花は彼女と二人で車に乗り合わせ乗るという事にワクワクした。一人、または母親と乗る事はあったが、女房と二人で、という経験は少なかったからだ。何だかれっきとした貴族女子のような気分になるのだ。
……女車なら、従者は二十人くらいかな。男と偽装するなら十人程度だろうな……
前述の通り、大変に物騒な世の中なのだ。女性の外出は兎に角危険なのである。
牛車は、ありがちな派手な飾りものもなく、ごく平均的で落ちついた物で「網代車」であった。簾も黒と焦げ茶色の地味なものだ。牛飼い童と、十人程の重要が待機していた。
従者の手を借り、向かい合って乗り込む。車はゆっくりと動き始めた。
「私達は男性に扮してるのですね」
小声で鳳仙花は笑う。
「ええ、そうよ。こんな美女二人組が外出なんて、危なくて仕方ないもの」
赤染衛門はお道化たように言う。二人は小声でクスクスと笑いあった。
それから小一時間弱でその場所に着いた。俄かに鼓動が激しくなって行く。
……紹介してくださる赤染衛門さんの面子を潰さないようにしないと。大丈夫かなぁ。『期待外れだ!』なんてつまみ出されたらどうしよう……
赤染衛門の誘導に従って渡廊を歩く。一足進む毎に不安が募る。
「もう少しで着くわ。あら? お外で待ってらっしゃるわ」
ドキンと鼓動が大きく跳ねた。出会う相手は、先日中納言になった隆家の跡を継いで権中納言となった男の娘……。男は黒の直衣に身を包んでいる。緊張のあまり、落ち着いて彼の顔を見る事が出来ない。
「よくいらして下さった。待ちかねたよ。ささ、中へ。娘が首を長くし待っていてな」
男は赤染衛門の紹介を待たずに自らが声をかける。いかにも待ちわびたというように。その声を、どこかで聞いた事がある、と不思議と懐かしい感覚を覚えた。
「権中納言様、こちらが鳳仙花さんです」
鳳仙花は赤染衛門の紹介と同時に丁寧に頭を下げ、
「初めまして。鳳仙花と申します」
ほんの少し声がうわずるのを恥ながらスッと頭を上げた。目を細めて、嬉しそうに鳳仙花を見つめる男。それに反して、驚愕のあまり目を大きく見開き、男を見つめる鳳仙花。何事かと二人を交互に見つめる赤染衛門。
「……ち、父……上……様」
鳳仙花はうわごとのように呟いた。
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