「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第二十九帖 雲居の花

枕草子の夢①

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 鳳仙花は磨爪術を終えて、詰所に戻ろうと渡殿(廊下)を歩いている。今日は書物や紙墨の類、楽器を司る『書司』に呼ばれたのだ。以前は母親が定期的に訪れていた所の一つだ。これで、母親の方が良かった、と判断されたら次はもう呼ばれなくなる。宮中に戻って来て半月ほど経つ。仕事の依頼は頻繁に受けるが、母親が受け持っていた部署からの依頼も増え、鳳仙花自身の真価が問われる日々が続いていた。控室で一人でいる時以外、少しも気を抜け無い。しかし、その忙しさがともすると紅を失った事への悲しみや、隆家や伊周の事が気になって仕事に集中出来なくなってしまう。今は仕事に集中出来る環境がただただ有り難かった。

 喪に服している事を示す為、萱草色かんぞういろの巾着袋に磨爪術の道具を入れて持ち歩いている。近親者が亡くなった時は、それが近ければ近いほど黒墨に近い色の喪服を着る。けれども宮中では華やかさを損なう訳にはいかず、この萱草色が大活躍した。鳳仙花にはこの黄色みがかった優しい橙色は、目にも故人にも優しい感じがした。

 仕事の後も気を抜かず、姿勢を伸ばして上品に歩く。衣装や髪の乱れには特に気を遣った。前方より直衣姿の男が歩いて来る。無意識に緊張し、体が強張らないように深い呼吸を心がける。優雅に、落ち着いて……。男は一見すると人好きのする笑顔を絶やさない。親しみ易い印象を与える。けれどもどことなく唇の端に、下がり気味の目尻に狡猾そうな雰囲気を感じるのは鳳仙花だけではないであろう。

……頭中将とうのちゅうじょう様……

 男は帝の側近の一人、藤原斉信ふじわらのたたのぶであった。文壇にもたまに顔を出している。鳳仙花は通り過ぎる少し前から、道を譲るようにして左端によけ、軽くお辞儀をして男が通り過ぎるのを待つ。

……この人、清少納言さんの事最初気に入らなくて、渡郎ですれ違う時に顔を隠したりした器の小さい人だ。それでいて、見直したとかで今度は清少納言さんに言い寄って結婚を迫ったり(※①)、油断ならないわ……

 穏やかな微笑みを浮かべながら、何かの時に素早く対応が出来るよう内心では素早く人物を分析する。生き残る為には必要な術でもあった。

「鳳仙花殿、ですね。お噂はかねがね。この度は紅殿が……お悔やみ申し上げます。大変でしたね」

 通り過ぎるかと思いきや、男は立ち止まってそう声をかけてきた。如何にも優し気な声で。まさか声をかけられるとは思わなかったので意外に思いつつも彼にしっかりと向き合うようにして立つと、しっかりと目を見つめて丁寧に頭を下げる。

「頭中将様、お心遣い有難うございます」
「とんでもない。あなたに紹介したい女房どのが沢山いるのでね。一度、あなたとゆっくり話してみたかったのですよ。紅殿とも……もっと早くに行動に出るべきでした。悔やまれてなりません」

……調子の良い男。何か企んでいかしら……
「何と有り難いお言葉。母もきっと喜んでいる事でしょう。頂いたお言葉に恥じぬよう、日々精進致します」

 言の葉と立ち振る舞いに細心の注意をはらいながら、軽く頭を下げる。斉信はそんな鳳仙花を満足そうに見つめる。

「では、近々お声をおかけしますよ。では、あまり根をつめないように。体を大切になさいね」
「有難うございます」

 そんな会話を交わして、通り過ぎる男の背を見送った。そしてまた控え室へと向かう。


『……そうなのよ。定子様や伊周様があんな風になってから、あからさまに道長様に尻尾を振るのっていやらしいわよね』
『藤原斉信様って前からそういうところありましたよね』
『清少納言さんと良い仲で……』

 何の因果か。文壇に「ただ今戻りました」と一言報告をしに行くと、先程まさにすれ違い、会話を交わした人物の噂話をしているではないか。

……主《あるじ》が不在の文壇は、荒れ放題でだらしないこと……

 「お帰りなさい」と惰性で答える女房たちに笑顔で応じ、半ばうんざりしながら控え室へと急いだ。漸く一人になれる、とホッとしながら御簾を掻き分けようとした時

「お疲れ様。鳳仙花さん、少し散歩でもしない?」

 という声に降り返る。

「清少納言さん!」

 そこには憔悴の色を浮かべた彼女が弱々しく微笑んでいた。

「あ、それじゃぁこの控え室で一緒に……」
「それは有り難いけど、遠慮しとくわ。そこは紅さんとの大切な思い出の場所でもあるでしょう?」

 清少納言はやんわりと制した。見れば、彼女は葡萄色えびいろ(※②)の壺装束を身につけている。市女笠を手に持ち、外出するつもりでいる事は一目瞭然だ。

「分かりました。すぐ着替えてきますね」
「ごめんんさい、突然に」
「平気です。今日はもう仕事は無いですし。それに、一度ゆっくり清少納言さんと話したい、と思っていたんです」

 と笑顔で答えて控え室に入り、大急ぎで壺装束に着替えるのだった。胡桃の襲を意識して、落ち着いた薄茶色に緑を重ねた壺装束を選ぶ。



「……私の噂、色々なところでされてるでしょ?」

 人通りの少ない方を選んで歩く。しばらく無言で歩いた後、清少納言はそう切り出した。虫の垂衣越しの表情が、悲しそうに歪んで見える。

「清少納言さんのお耳にも?」
「わざと聞こえよがしに言ってるものね」
「事実に反する事なのに、反論はなさらないのですか?」

 この場合、隠しても無駄なので正直に応じる。

「有難う。そう言ってくれるの、あなたとあと数名くらいしか居なくなっちゃったわ」

 寂しそうに溜息をつく。鳳仙花はどう言葉をかけて良いか迷った

「噂なんて根も葉もな物事に、尾ひれがくっついて広がっていきやすいじゃない? ここで否定すれば余計に怪しまれるし。気にしても仕方無いのだけれど……」(※③)
「それは、確かに……」
「でしょ? でも、どうにも耐えられ無くなったら、しばらくどこかに雲隠れするわ」

 さらりと大胆な事を言ってのける清少納言に、鳳仙花はギョッとする。

「そんな! でも、今こそ定子様の為にも文壇をお守りすべきでは……」
「しばらく居ない方が誤解も解けるかも、と判断したら少しの間消えるわ。行き先はこっそり知らせるから」

 悪戯っ子のように相好を崩す彼女の瞳は、心なしか涙を浮かべているように見えた。何も言葉をかけてあげられない自分が歯がゆかった。文壇を守り、定子を支えたい。誰よりもそう感じているのは他でも無い。清少納言自身である事が分かるからだ。

 清少納言が文壇にいとまを告げたのは、それから三週間ほど経ってからであった。期限は未定、との事。多少は気が咎めるのか、文壇の雰囲気はしばらくぎこちないものとなった。





(※① 枕草子 第七八段に清少納言と藤原斉信との経緯が、第一二八段には彼からの求愛のエピソードが描かれている)
(※② 山葡萄の古名「葡萄蔓ぶどうかずら」が熟した色に似ているので名づけられた。宮中の人々に親しまれた色で、かさねの色目びは四季を通して使える。江戸の中期あたりから海老色と区別される事になった)

(※③枕草子 第一一九段、一三六段に描かれいる)

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