「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第三十六帖 雲居の花

枕草子の夢⑥ ~壮途・弐~

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(……何を、渡したのだろう……。そもそも兄上はあの娘に何を渡したというのだ? 薫物をあげた、とは聞いているが……)

 帰り道、牛車に揺られながら隆家は鳳仙花とのやり取りを思い出していた。彼女が兄に言付けたものが気になって仕方が無かった。

(兄上の事を話す時、嬉しそうにしていた。私との時は、時々憂いを秘めた表情を見せるのに……)

 預かった白い和紙の包みは、和歌かふみか……。中身を確かめたいという妄執が思考を、そして全身を支配する。

(馬鹿な! あの娘の真っすぐな想いを踏みにじるような事が出来るものか! ……しかし……)

 己の知らぬところで交わした兄と鳳仙花の姿が脳裏に浮かび上がる。何を話したのか。鳳仙花は、そして兄はどのような表情で……。ガタンと牛車が揺れた。「大変に失礼を致しました!」と言う従者の声。石でも踏んだのだろうか。我に返った隆家は、自嘲の笑みを漏らす。

(何を馬鹿な事を。これではまるで、兄上に嫉妬しているようではないか……)

 そう感じてハッとしたように目を大きく見開く。

(嫉妬……しているのか? 兄上に。……愚かな。あの子は妹のような者ではないか)

 そう思い直す彼の瞳は寂しそうな影を宿し、虚空を見上げた。


 
「狩衣、て事は! 色合いは禁色きんじき以外基本的には自由ですよね。でしたらせっかくですし。躑躅色つつじいろの指貫に淡い若草色なんて如何でしょう?」
「それは季節感無視で感性が無いわ」
「失礼ね、どうせ牛車内で見えないのだし、既成概念を外して楽しんでも良い、て言ってるのよ。摂津までなんて道中長いんだし」

 時を同じくして、鳳仙花の邸では侍女たちが色とりどりの布を広げて大はしゃぎしていた。

「こらこら、あなた達、おしゃべりもいいけどその分手を動かしなさい! 鳳仙花様は確かに、色合いは任せると言いましたが、常識を考えなさい。まずは指貫と狩衣を縫わない事には始まりませんよ! さっさとお色を決めてしまいなさい! いつまで時間かけてるのか!」

 保子は素早く叱責した。

(鳳仙花様……。いきなり従者八名を従えて摂津まで行くとおっしゃった時は、たった八名でなどと心配でしたけど、お一人強力な護衛をつけて頂けるようで安心しましたよ。それも、あの隆家様の右腕的存在の御方とか。……いっそ、隆家様の妻の御一人として加えて頂けましたら安心ですのに。流刑されたと言っても、あの御方は義に篤く、情の深い信頼に足る御方だと、この保子の勘が騒ぐのですよ、紅様)

 今は亡き女主人に語りかける。

(……ですけれど、隆家様が鳳仙花様に恋心を抱かれているかどうかは……微妙なところでございますねぇ。ご縁を大切になさる御方故に、放って置け無いだけというか。妹御に対するような情はありそうですけれども……)

 保子は鳳仙花が旅先に持参する手土産の手足用の保湿油を厳選しながら、束の間の物想いに耽る。



……あぁ、本当だ。悲しみを洗い流して、失った悲しみよりも楽しかった思い出が浮かんで来る。悲しみを、優しい思い出に変えてくれるような香りだ……

 鳳仙花は着て行く単衣、そして着替えで持って行く衣装に薫物を焚きしめつつ磨爪術の道具の最終確認をしていた。薫物は伊周が「悲しい時、辛い時に」と渡してくれたものである。この薫物なら、清少納言の心の傷も和らぐのではないか、そう思ったからである。改めて焚いてみると、それは藤袴のように仄かに甘く、そして菖蒲のように清々しく、そして桜のようにどこか懐かしい香りだった。
 それはあたかも、凝り固まった悲しみを、初夏の翠の雨が優しく洗い流し、その後に穏やかに晴れ渡る碧空に優しく降り注ぐ日輪と穏やかな風が頬を撫でていく、そんな光景を思わせる香りであった。




(鳳仙花ちゃん、いいえ。裳着の儀を終えたのですもの。鳳仙花さん、と呼ぶべきね。いきなりふみが届いたと思ったら、明後日訪問させて頂きますね、なんて……)


 その頃、清少納言は鳳仙花から届いたふみを読み返していた。燭台の灯りは手元に一つ。御簾で仕切られた八畳ほどの部屋には、四隅に燭台が設けられているが、敢えて手元に一つだけ灯しているようだ。微かに揺らめく灯りに照らしだされた顔は、浅黒い。化粧をしておらず、単衣の上に小袿を羽織っているだけという非常に寛いだ姿で座っている。

(清少納言さん、寂しいです。お話した事が雪のように積もるばかり。だから私、遊びに行かせて頂く事にしました、か。こんな風に童みたいに素直で無邪気なところは、憎めないというか。純粋だからこそ、許しちゃうというか……。ふみは自邸の従者に託したのね。しかも、「明後日こちらにお着きになる、という事です」なんて言わせて。私が拒否しないように強引に進めて)

 クスリ、と笑みを漏らす。

「それにしても、いい香りね。和むような、癒されるような。懐かく感じるのに、どこか真新しいものにも感じる。不思議な……」

 と、声に出して言いつつ、両手でふみを持ち顔に近づける。

 二番目の夫となる藤原棟世《ふじわらのむねよ》は、「しばらく身を寄せたい」という突然の申し出にも嫌な顔一つせず、そして理由も聞くことなく温かく迎えてくれた。そして未だに何も聞かず、清少納言が好きなように振る舞えるようにただ見守ってくれている。かつては穏やかで控えめな優しさに惹かれて契りを交わし、娘を一人儲けた。けれども無口な夫に時めきを感じずに退屈さばかりが募り、娘を連れて離れてしまった。今は、彼の寡黙さは賢さと度量の深さの象徴であり、控えめな優しさは相手を最大に敬う事にも繋がるのだという事を思い知り、その深さの魅力を噛みしめていた。

 
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