「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第三十七帖 宮中の花

枕草子の夢⑥ ~壮途・参~

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 丑三つ時……。周囲の雑草や木々はひっそりと佇んでいる。瑠璃色の空に星屑が煌めく。上弦の月は白く輝き、男の乗る愛馬を艶やかに照らし出す。しなやかな体付きのそれは漆黒で、黄金色こがねいろの鞍が暗闇に光を放つ。馬上の男は右手に手綱を持ち、左手に松明を持って行く先を照らし牛車と並走している。松明に照らし出された男は、薄紫色の狩衣に紺色の指貫姿ですらりと背が高い。大きな弓と沢山の矢が入った袋を軽々と背負っており、恐らくは武士であろうと思われる。思いの外端正な顔立ちをしており、涼やかな目元は落ち着いた光を湛えていた。
 牛車はごく一般的な網代車あじろぐるまで、車体に扇の文様が施されており、入り口と小窓にはしっかりと簾が二重に降ろされている。見たところ、男車(※①)のようだ。牛車は牛飼い童を先頭に、左右に四人ずつ草色の狩衣姿の従者たちが運んでいた。
 
 男の名は卜部敦也うらべあつなりと言った。彼は少しだけ過去を振りる。


「くれぐれも危険の無いように。しっかりとお守りしろ」

 あるじである隆家は繰り返しそう言って送り出した。代々磨爪師という特殊な身分の家系の女性と聞く。従者の数が少ないのと、今まで危険らしい危険に出会った事がない為、いざという時従者たちの対応能力が心許ないとの事だった。そこで、女性は男のなりをして旅をするという。それを聞いた時、『なんと奇抜な発想をする女なのか』と内心で眉を潜めた。主の声の調子や真剣な表情から、非常に大切な御方なのだろうと推測される。母君を亡くしてまだ一年も経っていないという。だが、条件の断片だけを聞いて繋ぎ合わせると……
(かなり勇ましく奇抜な女)という逞しい女性しか思い浮かばない。勿論、主の命は絶対だ。言われた通りに任務は完遂する。しかし、果たして自分の護衛は必要なのだろうか? という疑問が正直なところだった。

 子の刻、殆どの人が寝静まっている時……。そこはかとなく甘く上品な香りが漂う中、その人は松明を掲げる侍従たちに囲まれ、早咲きの菊の花が咲き乱れる庭に佇んでいた。白い菊の花がボーッと暗闇に浮かび上がり、松明は篝火のようにその女性を照らす。後ろ姿で佇む姿は、若竹色の狩衣に紺色の指貫姿、黒の烏帽子の中にきっちりと髪をしまい込んだ……。

(何と華奢で小柄な……)

 さぞや千早ちはや(※②)な女性であろうと想像していた彼にとって、その姿はあまりにも頼りなくそして儚げだった。その人はゆっくりと振り返り、彼に微笑みかける。男は思わず息を呑んだ。

(何と! まるで蓮の蕾が花開いたかのような……純白の蓮の花……)

 小さな卵型ぼ顔の輪郭のわりに、丸みを帯びた大きな瞳は黒目がちで、黒水晶のように澄んでいる。目尻が少し上がり気味なところと高い鼻筋は、気位の高さと気の強さを思わせた。

「初めまして。鳳仙花と申します。遠いところよりわざわざご足労頂きまして、有難うございます」

 物怖じせず、真っすぐに自分を見つめて優雅に頭を下げる様は、上級貴族の一流の教育を受けた女子となんら変わりはなかった。だが、それよりも彼の心を捉えたのは、紅く熟れた茱萸ぐみのような唇から転がるように紡ぎ出された、澄んだ鈴の音のような声だった。


 
……隆家様の右腕的存在というから、どんな猛者が来るかと思ったら。野生の虎みたいな感じで隙の無い感じ。しかも美形なんだもの。びっくりしたわ……


 自邸の庭で待っていた際、
「御頼み申す! 主の命により参りました!」
 と、暗闇を突き破る光の矢を思わせるような凛とした声が響いた。迎えに出た従者の一人に連れられて、颯爽とやって来た彼は
「卜部敦也と申します」
 とはきはきと名乗り
「敦也とお呼びくださいませ、鳳仙花様」
 と言って素早く跪いたのだった。

……いやー、もうね、お姫様みたいに扱って下さるから照れちゃう。でも、せっかく隆家様が気を遣ってくださったのだもの。下品で無教養、なんて思われないように悠然と構えてないと。でも、でもでも! 車内の中では見えないし、ちょっとばかり空想に浸ってもいいわよね。ね? 母様。だってね、これって、姫と従者の愛の逃避行みたいでワクワクするじゃない? あーぁ、私に清少納言さん程の文才があれば、間違いなく物語を書いちゃうのになぁ……

 鳳仙花は頬を両手で覆い、しきりに頬を赤らめるのだった。

……ねぇ、母様? 在原業平様と藤原高子ふじわらのたかいこ様、または在原業平様と斎姫いつきひめの許されない恋の伝説とか素敵よね。あ、でも在原業平様は浮名を流し過ぎだわ……


 その頃、清少納言は侍女数名を従えて沐浴の最中であった。鳳仙花からふみを貰ってすぐに吉凶を占い、洗髪はしてある。邸内と庭では、侍従たちが掃除に勤しんでいた。鳳仙花を迎える為である。その様子を、棟世は穏やかに微笑み、見守っていた。そして勤務の時刻になると、侍従の一人に「行って来る」と声をかけ、静かに邸を後にした。
 




(※① 車内は男性が乗っているであろうと思える牛車)
(※② 勢いが激しく荒々しいという意味)
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