「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第三十八帖 永久の華

枕草子の夢⑦ ~春はあけぼの・前編~

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「……それで、何かと思ったら!」
「そしてそして?」
「大きな鹿だったんですよ」
「まぁ、鹿?」
「ええ、とっても大きくな牡鹿。角が非常に立派で見事でした。神々しい程に……」

 鳳仙花は今、清少納言の手首から指先にかけて荏胡麻油を使い、ゆっくりと揉みほぐしている。着いたばかりの際には、男のなりをしている鳳仙花に驚いたものの、その後はやや気拙そうにしていた清少納言。その空気を取り払う為、手を揉みほぐす事を提案。普段は相手が話すままに、聞き役に徹する事が多い。だが、此度の件は自分から話題を提供した方が良さそうだと判断。旅の道中に遭遇した事を話して聞かせていた。

「それで、狩ったの?」
「いいえ」
「あら! そんな立派な鹿なら御門に献上すればさぞお喜びになるのに。更に隆家様から、と献上すれば……」
「ええ、そうですね。でも……」

 鳳仙花は昨夜の出来事を振り返った。

 それは夜明け前の、一番暗さが深くなる頃……。山道、ちょうど道が広がる場所で一休みしていた一行は、そろそろ出発しようと準備を始めていた。

「鳳仙花様、お車に戻りましょう」

 敦也はそう言って、鳳仙花を軽々と抱き上げる。鳳仙花は表面上は優雅な笑みで応じながら、内心では
……わーい、お姫様抱っこ七回目……
 などと無邪気に数を数えて喜んでいた。その時、ガサッガサガサッと左斜め奥の茂みから何かが蠢く音が響いた。途端に全員に緊張が走る。慌てて焚火を消そうとする従者に、「待て! 消すな!」と指示を出す。時と場合によるが、夜盗なら火を消して待ち構えた方が有利な時も多い。だが、態勢を整えている時間もない上に地の利はあちら側にある。長年の勘であった。鳳仙花は初めて命の危険を感じる出来事に遭遇した事に震えながらも、敦也の腕の中で不思議な安心感を覚えていた。彼の凛々しい顔、そして暗闇を打ち破る光の矢を想像させる凛とした声に夢見心地に軽く酔う……。

「落ち着け! 全員、車の前に扇型に構えて待機せよ!」

 敦也は従者達に素早くそう命ずると、

「鳳仙花様、こちらに!」

 続いて彼は鳳仙花のそう声をかけ、素早く車の中へと乗せた。

「このままここで、良いと申し上げるまで絶対に外には出ないで下さい」

 囁くようにそう言うと

「必ず戻ります!」

 振り向きざまに声をかけ、御簾を二重にピタリとおろした。その間もガサガサ、ガサガサ、とそれは徐々に一行に向かって近づいて来る。鳳仙花は何が起こるのか心配で小窓の御簾を開け、外の様子を見る。

 ガサガサガサ、何が出て来るのか? 夜盗か? 熊か? 猪か? 牛飼い童も含め、従者たちは命じられた通り車の前に扇型に陣を組み、つるぎを構えて待機している。敦也はその最前列に走って行くと、腰から剣を
引き抜き、構えた。
 ガサ、ガサガサ、怯える従者達に、「怯むな!」と喝を入れる敦也。鳳仙花はただただ全員が無事でいて欲しい、それだけを祈っていた。

 ガサガサガサッ、

 とうとうそれはすぐそこまで近づいて来た。恐怖に怯えだす従者達に、敦也は「怯むな! 落ち着けっ!」と鼓舞する。

 ガサガサガサッ

 一同が息を呑んで構える中、それはポーンと空を舞うように高く飛びだした。殆どの者が呆気に取られる中、

「気を緩めるな! 全員、対象物に構えよ!」

 と指示を出す敦也。

……うわぁ、何て……神々しい……

 とそれに見惚れる鳳仙花。それは圧倒的な存在感を持って敦也の前に堂々と立つ一頭の牡鹿であった。しなやかな体付き、すらりと長い足、そして何よりも大きく枝を二本の角だ。まるで大木のように形よく枝分かれしている。それは星の光を纏ったように金色こんじきに煌めき、火に照らし出されているせいか、体毛は薄い黄金色こがねいろに繊細に輝いているように見える。整った顔立ち、全てを見透したような深い葡萄色の瞳……。

 ただ一人、冷静に現実を見据えている敦也は鹿を見つめながら静かに刀をおさめると、背から弓を取り出した。そして矢を取ろうと右手をあげようとした時、

「お待ち下さい!」

 リン、と高く澄んだ声が響いた。敦也には天空で鈴の音が鳴り響いたような気がした。パタパタパタと軽やかな足取りが近づく。そしてふわりと白く高貴な香りと共に花びらが敦也の右手に触れた。

「お待ち下さい。この鹿は、私たちに危害を加えません。たまたま、この彼がやってきたところに私達が居ただけです。むしろ彼の邪魔をしたのは私たちです。ですから、殺生は、どうか……」

 敦也は見惚れた。我が手に触れたのは白き花びら、そう思ったのは鳳仙花の袖から仄かに見える白い指。天界の鈴の音と感じたのは彼女の声。烏帽子から零れ落ちるほつれた長い髪は、月の雫を垂らしたように艶めく。懇願するように潤んだ瞳、その白きかんばせは、

 (蓮の花の化身……)

 そう思えた。




「まぁ、それで射るのを辞めさせたのね?」

 清少納言は目を丸くして驚いている。

「ええ。牡鹿は私達をじっと見つめた後、ぽーんと地を蹴って高く舞い上がって反対側の茂みに消えていきました。だって、何だか牡鹿が……山の神の化身に見えて……」

 鳳仙花は困ったような笑いを浮かべる。

「なるほどねぇ。そう言えば、大樹だけじゃ無く。フクロウや牡鹿、イノシシなんかにも、山の神の化身が宿る、て聞いた事あるわ。それにしても、それは敦也様や従者も驚いた事でしょう」
「ええ、敦也様は何事も無かったかのように、私を抱き上げて車に連れて行ってくださいましたけど。従者たちは、私の突拍子の無い言動には慣れていますけど、敦也様はさぞや驚いたでしょうねぇ。だって私、夢中で車から飛び出してしまって、その……裸足だったんですもの」
「えー? あら、まぁ」
「ふふふふ、もう猫を被っても無駄になっちゃいました」

 鳳仙花はそう言って、あっけらかんと笑った。清少納言も楽しそうに笑う。ちょうど両手をほぐし終わり、手に残った余分な油を布で拭きとり終わったところだ。随分と寛いだ様子の清少納言を見て、そろそろ本題に触れても良い頃だ、と感じ取る。

「有難う。すごくすっきりして肩や首の凝りまで取れたみたい」
「それは良かった。この方法は、卜いでお爪に爪紅が出来ない時にもお勧めで。もう少し広めたいな、と思っているところです」
「それは良いと思うわ。女房装束はとにかく首と肩が凝るしね。……ところで、狩衣のままだと疲れない?」

 清少納言は気遣いを見せる。今がその機会だ、と思った。

「それが、もの凄く動き易くて楽なんですよ! 一度来たら癖になりそうです」
「あら! そうなの!?」
「はい」

 二人はひとしきり笑い合った。やがて鳳仙花は真顔になると、清少納言の目をしっかりと見つめる。そして声を一段下げ、ゆっくりと切り出した

「……やっぱり、文壇は清少納言さんが居ないとつまらないし引き締まりません」

  清少納言はハッとしたように鳳仙花を見つめる。しばらく沈黙が二人を包み込んだ。
 
 
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