「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第四十三帖 二つの華

 狭間・後編

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 ……高貴な身分の御方は時に追われる事がないからゆっくりと優雅に進む、と聞いていたけれど本当だわ。これなら歩いた方が早いほどだもの。それにゆったりした乗り心地。余計な飾り物がない分広々とした感じなのね……

 鳳仙花は大人しく淑やかにしている風を装いつつ、車の内部を観察していた。牛車に乗る際は、後方から乗って前方から降りるという作法であるが、乗り込む際には従者が踏み台を用意する。小柄な鳳仙花は、その踏み台でも車内に届きにくいので従者たちの手を借りて乗り込む事が殆どだ。その度に、隆家に抱えられて乗った事が思い浮かぶ。そして仄かに若草の香りも。それはほんの僅かの時だったれども。そして今日は敦也の事も思い浮かんだ。けれども気を引き締めてかからねばならぬ為、今ここに意識を集中させている。

 目的地は、道長の邸。そこで道長の長女、彰子しょうしに逢わせたい、との事であった。道長はさらりと一言そう言っただけだったが、今やまつりごとの最高権力者である道長である。その彼が自邸に、しかもこれから入内させようとしている長女に合わせたいと言うのだ。鳳仙花は、背中にひやりと雪の玉を入れられたような気がした。既に訪問の知らせは届いているだろう。斉信が、牛車を用意させると同時に届けさせている筈だ。

……何が目的なのかしら。やはり仕事柄色々な立場の方からの話を聞くし、定子様のこととか、文壇の事とか聞き出そうとしているのかしら。それで、私を密偵に使おうとしていたり。これは、相当慎重にいかないと私が闇に消されそう……

 考えただけで、寿命が縮みそうだった。しかし、意図して張りつめようとする緊張状態は、そう長時間に耐えられるものではない。

 前の右側、つまり上座に道長、左側に斉信、そして道長の隣に鳳仙花が、それぞれ向かい合って座っている。まだ外は明るい。簾の隙間から漏れる日差しは、細い筋となって室内を照らし出す。光の筋は道長にも斉信にも、そして鳳仙花にも伸び、その姿を柔らかく映し出している。そうしてみると、道長も斉信も優しい人柄かつ美形に見える効果があるらしい。

……これだけゆっくりなら、灯りも倒れたりする危険はないわね。網代車あじろぐるまは、急いで走らせる時も多いから、灯りはつけない事が多いのだけど。そう考えると、隆家様も敦也様も、とても気を使って走らせるようにしてくれていたのね。……と、だめだめ。今はこの場に集中しないと……

 そうは思うものの道長も斉信も特に話はせず、ただ静かに乗っているだけであった。

……こう静かだと、眠気が襲ってきちゃう……

 眠気と闘いながら、秋風に揺れる桔梗の花を思い浮かべる。自らが桔梗になったつもりで上品さと淑やかさを演出し続けた。やがて道長が

「そろそろだな」

 とぽつりと言った。牛車は滑らかに速度を落とし、そして止まった。「失礼致します」という従者の声と共に静かにゆっくりと御簾が開けられる。道長、斉信、そして鳳仙花の順におりる。目的地まで歩かずとも済むよう、邸の入口まで車が止められている。予め、十名ほどの侍女たちが入口に迎えに出ていたらしい。一斉に頭を下げている。皆、お辞儀の角度がしっかりと揃っている。道長の神経質な性質を物語るようで急に怖くなった。心臓が雪で包まれたようにひんやりとし、鼓動が早鐘のように打ち付ける。頭はボーッとのぼせて、大地を踏みつける足は、まるで底なし沼に沈んでいくような気がした。そのまま気を失ってしまいそうだ。

……母様、どうしよう? 怖いよ……

 無意識に、心の中で助けを求める。

『落ち着きなさい! 不安に呑み込まれたら負けよ! まずは真実を見極めなさい!』

 その時、本当に母親の声が聞こえた気がした。張りのあるよく通る声。時に叱咤激励、時に労い、いつも鳳仙花に寄り添い、絶対的な味方でいてくれた懐かし声。それは天から真っすぐに脳のいただきに落ち、脳内で直接響いたようだった。不思議なほど、すぐに気持ちが静まる。そして不安が消えた。

……はい!……

 心の中で母にこたえる。足は地を踏みしめ、丹田のあたりに力がみなぎる気がした。背筋を伸ばし、上品に歩く。道長たちの後に続いて渡殿を歩く。

 ……凄い! 大きなお邸。遣り水が、本当の川みたい!……

 すっかり周りの風景に目が行き届く余裕が出ていた。見事な庭だ。一際大きく手入れの行き届いた待つ庭全体に重厚さを醸し出している。

……そうよ。まずは事の本質を見極めないと。憶測は誤解と失敗の元だわ。貴重じゃない。道長様のご自慢の娘様に誰よりも早くお会いできるなんて。しかも道長様の自邸よ、ここ。ね、母様……

 そして開き直った。先頭を歩いていた道長が足を止める。ほぼ同時に斉信も足を止めた。道長より数歩下がってつき従ってきた侍女は、道長や斉信、そして鳳仙花に頭を下げると、先に立って御簾に右手をかける。そして「失礼致します。皆様お見えになりました」と声をかけた。

……いよいよ、彰子しょうし様に会える……

 鳳仙花に再び緊張が走る。侍女が先に室内に入っていく。彰子の意向を聞きに行くのだろう。ほどなくして侍女が戻って来ると、明らかに困惑した表情で道長に頭を下げる。

……まさか、ご機嫌が宜しくなくて会うの拒否、とか?……

 安心したような、それでいてどこか失望したような、何とも言えない複雑な思いがした。

「どうした?」

 道長は至って穏やかに話しかける。見たところ、表情も落ち着いている。だが侍女が僅かに震えているのを鳳仙花は見逃さなかった。

「そ、それが……彰子様鳳仙花様と二人だけでお話ししたい、と。人払いをして欲しい、との事で……」

 次女は困惑気味に話す。ほんの少し沈黙が走った。だが、すぐに道長は鳳仙花に笑顔を向ける。それは意外なほど優しい笑みだった。先度一瞬みせた笑みよりも情感豊かなもので、鳳仙花も静かに笑みで応じながらも、道長がそのような笑みを浮かべる事に意外性を感じた。

「すまぬ。娘は一度言い出したら聞かぬのでな。まだ裳着の儀も迎えていないわらわだ。多めに見てやって、一人でうてはくれぬか?」

 やはりそれは一人の父親の姿だった。愛しくて仕方ない娘を語る時の。萩の方と会話する父親の姿と重なって見えた。

「はい、勿論でございます。仰せのままに、喜んで」

 笑顔のまま、すぐに応じた。ほんの少しだけ、父親に愛されている事を羨ましいと思いつつ。道長と斉信が道を譲るように下がり、侍女が御簾を開ける。そして「鳳仙花様がお入りになります」と声をかけた。侍女はどうぞ、というように鳳仙花が通りやすいように御簾を開ける。

「失礼致します。鳳仙花でございます」

 そう声をかけ、部屋に足を踏み入れた。すぐに侍女が仕切りである屏風をどかす。中に足を踏み入れると、百合のように品のある、それでいて菖蒲のように清々しい香りがふわりと鼻をかすめた。


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