56 / 65
第四十八話 二つの華
奇しき筆遣ひ・中編
しおりを挟む
白檀に菊の花が混じり合ったような上品な香りがそこはかとなく漂う部屋。広さは十六畳ほどであろうか。鳶色の御簾と、白地に梅の花が描かれた屏風で部屋は仕切られている。奥には年季の入った木製の棚が二つほどあり、しっかりと磨きがかけられている。部屋の中央より少し奥寄りに黒の台を挟んで向かい合って座る二人の女房がいる。一人は棚を背にして座っており、小柄で一見すると少女と見紛うようなあどけなさが残る。だが、二眸は意志の強さを物語るように深い光を湛えている。鮮やかな朱赤の濃淡を重ねた蘇芳の襲を身に纏った鳳仙花である。長い髪を紅梅色の布を細く切ったもので後ろに一つに束ねており、更には両袖が邪魔にならぬよう肘まで腕をたくしあげ、向かい側の席に座る女房に磨爪術を施術していた。唇は終始穏やかに弧を描いている。
向かい側に座るの女房は、落ち着いた黄色の濃淡を重ねた香色の襲を身に着けている。波打つ黒髪を恥じる事なく堂々と垂らし、まるで鳶色のさざ波のように畳に流れている。少し浅黒い肌にほんの少しだけ白粉を塗っている。幅広のはっきりした二重瞼に丸みを帯びた大きな瞳は悪戯っ子のように生き生きと輝き、少し大きめの唇は終始楽しそうに綻んでいる。そう、清少納言である。二人は珍しく同時に休みが重なり、鳳仙花の邸にやって来ているのである。
この部屋は、先祖代々磨爪術をしに訪れる貴族女性たちの為に解放したものである。生前、紅も宮中に出入りするようになる前はこの部屋を利用していた。
「……やっぱり、道長様って定子様を虐めて……る、わよねぇ」
華やかで栄華を極めていた頃の伊周の話を恍惚として語った後、清少納言は声を落とし遠慮がちに切り出す。
「この部屋は訪れた方々の秘密を死守出来るように人払いを徹底してますから、気にしないでくださいね」
鳳仙花はそう前置きし、ちょうど爪紅の一度め塗りがひと段落ついた為手を止め、清少納言の目をしっかりと見つめる。
「ええ。分かり易いやり方ですから、皆様勘付いてらっしゃるかと。ただ、口には出せないだけで」
と応ずると、再び爪紅の二度塗りめを始める。
「……そうよねぇ。だってまず、定子様が還俗されて『宮中に一度出家した者を再び同じように招き入れる訳にはいきません!』とかで中宮職の御曹司に住まわせたり。鬼が出る、て噂もあるところよ?」
「ええ、掃除が大変でしたね」
「そうそう。あんな狭いところにおよそ二年以上もお住まいになる羽目に……」
「でも御門はその間ずっと通われて」
「そうね。愛の深さよねぇ。周りの冷たい視線なんかものともなさらず……」
二人は顔を見合わせ、うっとりとした眼差しで溜息をつく。
「まぁ今は御門が近くに別殿をご用意なされたから良かったけれど。道長様ってば定子様が出家なされてすぐに『后妃不在は言語道断』とかいってすぐに二人も女御を入内させたりねぇ」
と清少納言は苛立ちを露わにする。
「承香殿女御(※①)様と弘徽殿女御(※②)様ですね」
鳳仙花は穏やかに応じた。
「そう。御門は目もくれなかったけれど。本当は道長様の娘、彰子様を入内させたかったみたいだけれど、さすがにまだ八、九歳では裳着はおろか月のモノもまだで無理だったもんだから。……もう、そろそろ裳着の儀式をなさるそうね……」
「そうですねぇ……」
「いっそ、あの随筆に道長様の意地悪の数々を事細かに書いてやろうかしら! 私の筆遣ひ(※③)で後の世に知らしめてやるの!」
清少納言はまるでそこに道長がいるかのように虚空を睨みつける。そんな彼女を、鳳仙花は穏やかに見つめた。脳裏に彰子の聡明な眼差しが浮かぶ。
「お気もちは物凄くよく分かります。これはあくまで私の意見ですけれど……」
ゆっくりと切り出した。いつもは聞き役に徹している鳳仙花、が積極的に意見を述べる事をとても珍しく感じた清少納言は、彼女の話に耳を傾ける事にした。
「私は、あの随筆には定子様の素晴らしいお姿を。楽しまれる姿、文壇やお仕えする女房を颯爽と導くお姿、御門と仲睦まじいご様子。そして道隆様を始め、伊周様や隆家様の煌びやかにご活躍なされるお姿など。悲しみや辛さなど微塵も感じさせないものが良いと思うのです」
「え? どうして?」
清少納言には、鳳仙花の意見が突拍子もないものに思えた。けれども鳳仙花は落ち着き払って真っすぐに清少納言を見つめる。
「道長様の事をつまびらかにしてしまうと、あのお話自体書けないように握り潰されてしまう可能性があると思うのです」
「そうかぁ、それは確かにあるかもね。私たちは女ばかりだし」
「はい。それに、素敵な事、楽しい事、定子様の素晴らしさを詳細に渡って書けば……後の世の人々は素晴らしい定子様の御姿を感じる事が出来きます。永遠に咲き誇る常花のように鮮明に艶やかに……。ですから文壇の事も、女房たちの生き生きとした姿を。宮中の闇に当たる部分は、きっと別の御方が何人か記してくださる筈ですから」
「言われてみればそうよね! 道長様に靡かない御方もいらっしゃるわね。既に記録(※④)してらっしゃるものね。藤原実資様とか」
二人はにやりと微笑み合った。
「……それに私、凄く素敵だと思うんです」
鳳仙花は夢見るように言った。
「ん? どんなところが?」
清少納言は不思議そうに問いかけた。
「文章のどこかに、必ず定子様を称える表現をほのめかして散りばめられているでしょう? それがまるで暗号みたいに神秘的で。でも分かる方にはすぐに気づいて。……例えば冒頭の『春は曙』の紫だちたる雲、紫雲は天皇の事ですし、更に紫の雲は瑞祥(※⑤)の表しで、最近では中宮の暗喩として和歌などに詠まれたりしていますものね」
清少納言の胸にッと熱いものが込み上げた。
(伝わっているんだ、伝わる人には……)
「……有難、う!……。もう、迷わない……」
溢れ出そうになある涙を堪える為、辛うじて出た言の葉だった。胸がいっぱいで、それしか言えなかった。その日を境に、清少納言は、ただひたすら定子の為に。定子を勇気づけ、慰め、そして称える為だけに書こう! と腹を括ったのだった。
(※① 右大臣、藤原彰光の娘の元子)
(※② 藤原公季の娘の義子)
(※③ この場合は「筆の力」の意味)
(※④「小右記」。公卿、藤原実資の漢文日記。「小野宮右大臣の日記」をもじってつけられた)
(※⑤ 吉兆)
向かい側に座るの女房は、落ち着いた黄色の濃淡を重ねた香色の襲を身に着けている。波打つ黒髪を恥じる事なく堂々と垂らし、まるで鳶色のさざ波のように畳に流れている。少し浅黒い肌にほんの少しだけ白粉を塗っている。幅広のはっきりした二重瞼に丸みを帯びた大きな瞳は悪戯っ子のように生き生きと輝き、少し大きめの唇は終始楽しそうに綻んでいる。そう、清少納言である。二人は珍しく同時に休みが重なり、鳳仙花の邸にやって来ているのである。
この部屋は、先祖代々磨爪術をしに訪れる貴族女性たちの為に解放したものである。生前、紅も宮中に出入りするようになる前はこの部屋を利用していた。
「……やっぱり、道長様って定子様を虐めて……る、わよねぇ」
華やかで栄華を極めていた頃の伊周の話を恍惚として語った後、清少納言は声を落とし遠慮がちに切り出す。
「この部屋は訪れた方々の秘密を死守出来るように人払いを徹底してますから、気にしないでくださいね」
鳳仙花はそう前置きし、ちょうど爪紅の一度め塗りがひと段落ついた為手を止め、清少納言の目をしっかりと見つめる。
「ええ。分かり易いやり方ですから、皆様勘付いてらっしゃるかと。ただ、口には出せないだけで」
と応ずると、再び爪紅の二度塗りめを始める。
「……そうよねぇ。だってまず、定子様が還俗されて『宮中に一度出家した者を再び同じように招き入れる訳にはいきません!』とかで中宮職の御曹司に住まわせたり。鬼が出る、て噂もあるところよ?」
「ええ、掃除が大変でしたね」
「そうそう。あんな狭いところにおよそ二年以上もお住まいになる羽目に……」
「でも御門はその間ずっと通われて」
「そうね。愛の深さよねぇ。周りの冷たい視線なんかものともなさらず……」
二人は顔を見合わせ、うっとりとした眼差しで溜息をつく。
「まぁ今は御門が近くに別殿をご用意なされたから良かったけれど。道長様ってば定子様が出家なされてすぐに『后妃不在は言語道断』とかいってすぐに二人も女御を入内させたりねぇ」
と清少納言は苛立ちを露わにする。
「承香殿女御(※①)様と弘徽殿女御(※②)様ですね」
鳳仙花は穏やかに応じた。
「そう。御門は目もくれなかったけれど。本当は道長様の娘、彰子様を入内させたかったみたいだけれど、さすがにまだ八、九歳では裳着はおろか月のモノもまだで無理だったもんだから。……もう、そろそろ裳着の儀式をなさるそうね……」
「そうですねぇ……」
「いっそ、あの随筆に道長様の意地悪の数々を事細かに書いてやろうかしら! 私の筆遣ひ(※③)で後の世に知らしめてやるの!」
清少納言はまるでそこに道長がいるかのように虚空を睨みつける。そんな彼女を、鳳仙花は穏やかに見つめた。脳裏に彰子の聡明な眼差しが浮かぶ。
「お気もちは物凄くよく分かります。これはあくまで私の意見ですけれど……」
ゆっくりと切り出した。いつもは聞き役に徹している鳳仙花、が積極的に意見を述べる事をとても珍しく感じた清少納言は、彼女の話に耳を傾ける事にした。
「私は、あの随筆には定子様の素晴らしいお姿を。楽しまれる姿、文壇やお仕えする女房を颯爽と導くお姿、御門と仲睦まじいご様子。そして道隆様を始め、伊周様や隆家様の煌びやかにご活躍なされるお姿など。悲しみや辛さなど微塵も感じさせないものが良いと思うのです」
「え? どうして?」
清少納言には、鳳仙花の意見が突拍子もないものに思えた。けれども鳳仙花は落ち着き払って真っすぐに清少納言を見つめる。
「道長様の事をつまびらかにしてしまうと、あのお話自体書けないように握り潰されてしまう可能性があると思うのです」
「そうかぁ、それは確かにあるかもね。私たちは女ばかりだし」
「はい。それに、素敵な事、楽しい事、定子様の素晴らしさを詳細に渡って書けば……後の世の人々は素晴らしい定子様の御姿を感じる事が出来きます。永遠に咲き誇る常花のように鮮明に艶やかに……。ですから文壇の事も、女房たちの生き生きとした姿を。宮中の闇に当たる部分は、きっと別の御方が何人か記してくださる筈ですから」
「言われてみればそうよね! 道長様に靡かない御方もいらっしゃるわね。既に記録(※④)してらっしゃるものね。藤原実資様とか」
二人はにやりと微笑み合った。
「……それに私、凄く素敵だと思うんです」
鳳仙花は夢見るように言った。
「ん? どんなところが?」
清少納言は不思議そうに問いかけた。
「文章のどこかに、必ず定子様を称える表現をほのめかして散りばめられているでしょう? それがまるで暗号みたいに神秘的で。でも分かる方にはすぐに気づいて。……例えば冒頭の『春は曙』の紫だちたる雲、紫雲は天皇の事ですし、更に紫の雲は瑞祥(※⑤)の表しで、最近では中宮の暗喩として和歌などに詠まれたりしていますものね」
清少納言の胸にッと熱いものが込み上げた。
(伝わっているんだ、伝わる人には……)
「……有難、う!……。もう、迷わない……」
溢れ出そうになある涙を堪える為、辛うじて出た言の葉だった。胸がいっぱいで、それしか言えなかった。その日を境に、清少納言は、ただひたすら定子の為に。定子を勇気づけ、慰め、そして称える為だけに書こう! と腹を括ったのだった。
(※① 右大臣、藤原彰光の娘の元子)
(※② 藤原公季の娘の義子)
(※③ この場合は「筆の力」の意味)
(※④「小右記」。公卿、藤原実資の漢文日記。「小野宮右大臣の日記」をもじってつけられた)
(※⑤ 吉兆)
0
あなたにおすすめの小説
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
【時代小説】 黄昏夫婦
蔵屋
歴史・時代
江戸時代、東北地方の秋田藩は貧かった。
そんな中、真面目なひとりの武士がいた。同僚からは馬鹿にされていたが真面目な男であった。俸禄は低く貧しい。娘二人と実母との4人暮らし。
秋田藩での仕事は勘定方である。
仕事が終わると真っ直ぐ帰宅する。
ただひたすら日中は城中では勘定方の仕事をまじめにして、帰宅すれば論語を読んで知識を習得する。
そんな毎日であった。彼の名前は立花清左衛門。年齢は35歳。
娘は二人いて、一人はとめ15歳。もう一人は梅、8歳。
さて|黄昏《たそがれ》は、一日のうち日没直後、雲のない西の空に夕焼けの名残りの「赤さ」が残る時間帯のことを言う。「|黄昏時《たそがれどき)」。 「黄昏れる《たそがれる》」という動詞形もある。
「たそがれ」は、江戸時代になるまでは「たそかれ」といい、「たそかれどき」の略でよく知られていた。夕暮れの人の顔の識別がつかない暗さになると誰かれとなく、「そこにいるのは誰ですか」「誰そ彼(誰ですかあなたは)」とたずねる頃合いという意味で日常会話でよく使われた。
今回の私の小説のテーマはこの黄昏である。
この風習は広く日本で行われている。
「おはようさんです」「これからですか」「お晩でございます。いまお帰りですか」と尋ねられれば相手も答えざるを得ず、互いに誰であるかチェックすることでヨソ者を排除する意図があったとされている。
「たそかれ」という言葉は『万葉集』に
誰そ彼と われをな問ひそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」
— 『万葉集』第10巻2240番
と登場するが、これは文字通り「誰ですかあなたは」という意味である。
「平安時代には『うつほ物語』に「たそかれどき」の用例が現れ、さらに『源氏物語』に
「寄りてこそ それかとも見め たそかれに ほのぼの見つる 夕顔の花」
— 『源氏物語』「夕顔」光源氏
と、現在のように「たそかれ」で時間帯を表す用例が現れる。
なおこの歌は、帖と登場人物の名「夕顔」の由来になった夕顔の歌への返歌である。
またこの言葉の比喩として、「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態」をという語句の用い方をする。
漢語「|黄昏《コウコン》」は日没後のまだ完全に暗くなっていない時刻を指す。「初昏」とも呼んでいた。十二時辰では「戌時」(午後7時から9時)に相当する。
「たそがれ」の動詞化の用法。日暮れの薄暗くなり始めるころを指して「空が黄昏れる」や、人生の盛りを過ぎ衰えるさまを表現して「黄昏た人」などのように使用されることがある。
この物語はフィクションです。登場人物、団体等実際に同じであっても一切関係ありません。
それでは、小説「黄昏夫婦」をお楽しみ下さい。
読者の皆様の何かにお役に立てれば幸いです。
作家 蔵屋日唱
楽将伝
九情承太郎
歴史・時代
三人の天下人と、最も遊んだ楽将・金森長近(ながちか)のスチャラカ戦国物語
織田信長の親衛隊は
気楽な稼業と
きたもんだ(嘘)
戦国史上、最もブラックな職場
「織田信長の親衛隊」
そこで働きながらも、マイペースを貫く、趣味の人がいた
金森可近(ありちか)、後の長近(ながちか)
天下人さえ遊びに来る、趣味の達人の物語を、ご賞味ください!!
江戸の夕映え
大麦 ふみ
歴史・時代
江戸時代にはたくさんの随筆が書かれました。
「のどやかな気分が漲っていて、読んでいると、己れもその時代に生きているような気持ちになる」(森 銑三)
そういったものを選んで、小説としてお届けしたく思います。
同じ江戸時代を生きていても、その暮らしぶり、境遇、ライフコース、そして考え方には、たいへんな幅、違いがあったことでしょう。
しかし、夕焼けがみなにひとしく差し込んでくるような、そんな目線であの時代の人々を描ければと存じます。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる