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第五十一話 久遠の花
【第三部】魂鎮め・序章
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薄墨色の空に、藍色の衣が掛かる。燭台を一つ灯した部屋は、そこはかとなく牡丹を思わせる香りと若草の香りが混じり合い、艶と爽快がほどよく調和された空間のようだ。桜色の褥に重なり合うようにして敷かれている薄空色の褥が、するすると滑らかな音を立てた。続いて桜色の褥もするりするりと淑やかな音を立てる。やがてスーッと几帳をどかす音と共に、二つの衣擦れの音が遠ざかっていった。
薄空色の褥の上に藍色の衣を羽織る背の高い男が、小柄な女の手を引いて渡廊を歩く。女は桜色の褥に蘇芳色の衣を羽織っており、こっくりとした黒い髪が背中に小川のように流れていた。縁側に出ると、男は女の背後から両手で肩を抱くようにして共に腰を下ろした。女は男の胸に背中を預けるようにして座り、男と共に夜空を見上げた。
夜明け前の月は、朧に柔らかい光を奏でる。月明りに照らされた二人。男の整った顔周りに、結い上げた髪の解れ毛が妙に艶めかしい。涼やかな瞳は愛しさと憂いを同時に秘め、複雑な奥行きの影が差す。女は白き蓮の花を思わせる儚さと、常夏(※①)のような可憐さを同時に合わせ持つ。磨きあげられた黒水晶のようのように、深みのある双眸が勝気さと芯の強さを示していた。そう、男は隆家、女は鳳仙花である。
「……姉上は、幸せだっただろうか……」
やがて、ポツリと呟くようにして隆家は言った。
「……憶測でしかないですし、本来は私のような者が御心情などを推測し、口にすべきでは無いのかもしれません。ですが……」
鳳仙花はゆっくりと静かに、一つ一つ言の葉を選びながら慎重に口を開く。隆家は両腕に力を込めて抱きしめ、「構わないよ、続けて」と甘く囁くように言った。鳳仙花は甘えるように隆家を見上げる。そして口元を綻ばせると、言の葉を続けた。
「……少なくとも、御門は一筋に愛してらっしゃいました。御立ち場上、藤壺様(※②)の事も鑑みながらも最大に定子様を御守りになられた。そういう意味では、きっと、きっと幸せだったと……」
グッと胸の奥に痛みが走り、声が詰まる。見上げた朧なる月の輪郭が、更にぼやけて見えた。
「お前、もう良い。すなまかった……」
そう言って、更に右腕に力を込めて抱きしめ、左手で妻の頭を撫でた。裳着の儀を迎える前の鳳仙花に、隆家がよくしてやったように。その隆家の瞳に、透明の膜が張る。その声に湿り気が帯びる。
男の忍び泣く声と、女のか細いすすり泣く声が夜の庭に響いた。
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
(※③)定子は敦康親王を出産した後、数か月で懐妊した。まだ産後で体が不安定な時で、母体が危ぶまれた。更に、この三度めの妊娠は精神的な不安もあってか、調子が優れない事が続いた。本来なら中宮である定子について祈りを捧げるべき僧侶たちは、道長に睨まれる事を気にして彰子のご機嫌取りに訪れる始末だったという。故に、身内の僧侶たちが加持祈祷や誦経をする事となった。定子を心配する者たちは、清少納言た鳳仙花を始め文壇の女房たちと身内のものしかいなかった。殆どのものが道長に恐れをなして知らぬふりを通した。
そんな中、帝は定子の体を心配し、使いの者に見舞いの品を頻繁に届けさせたがはせめてもの救いとなった。伊周や龍家も、頻繁に訪れていた。
臨月の十二月十五日の夜、産気づいてすぐに女子を出産。力つきてこと切れてしまったという。出産に立ち会い、終始付き添っていた伊周は亡骸を抱きしめ、人目を憚らず号泣した。
皇后藤原定子崩御、享年25歳。あまりにも若く、儚く散った美しき皇后の一生であった。(※③)
ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー・ー
(※①…カワラナデシコの古名)
(※②…藤の花を愛し、庭先にも多く植えられたという。藤原彰子の事)
(※③…栄花物語より)
薄空色の褥の上に藍色の衣を羽織る背の高い男が、小柄な女の手を引いて渡廊を歩く。女は桜色の褥に蘇芳色の衣を羽織っており、こっくりとした黒い髪が背中に小川のように流れていた。縁側に出ると、男は女の背後から両手で肩を抱くようにして共に腰を下ろした。女は男の胸に背中を預けるようにして座り、男と共に夜空を見上げた。
夜明け前の月は、朧に柔らかい光を奏でる。月明りに照らされた二人。男の整った顔周りに、結い上げた髪の解れ毛が妙に艶めかしい。涼やかな瞳は愛しさと憂いを同時に秘め、複雑な奥行きの影が差す。女は白き蓮の花を思わせる儚さと、常夏(※①)のような可憐さを同時に合わせ持つ。磨きあげられた黒水晶のようのように、深みのある双眸が勝気さと芯の強さを示していた。そう、男は隆家、女は鳳仙花である。
「……姉上は、幸せだっただろうか……」
やがて、ポツリと呟くようにして隆家は言った。
「……憶測でしかないですし、本来は私のような者が御心情などを推測し、口にすべきでは無いのかもしれません。ですが……」
鳳仙花はゆっくりと静かに、一つ一つ言の葉を選びながら慎重に口を開く。隆家は両腕に力を込めて抱きしめ、「構わないよ、続けて」と甘く囁くように言った。鳳仙花は甘えるように隆家を見上げる。そして口元を綻ばせると、言の葉を続けた。
「……少なくとも、御門は一筋に愛してらっしゃいました。御立ち場上、藤壺様(※②)の事も鑑みながらも最大に定子様を御守りになられた。そういう意味では、きっと、きっと幸せだったと……」
グッと胸の奥に痛みが走り、声が詰まる。見上げた朧なる月の輪郭が、更にぼやけて見えた。
「お前、もう良い。すなまかった……」
そう言って、更に右腕に力を込めて抱きしめ、左手で妻の頭を撫でた。裳着の儀を迎える前の鳳仙花に、隆家がよくしてやったように。その隆家の瞳に、透明の膜が張る。その声に湿り気が帯びる。
男の忍び泣く声と、女のか細いすすり泣く声が夜の庭に響いた。
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(※③)定子は敦康親王を出産した後、数か月で懐妊した。まだ産後で体が不安定な時で、母体が危ぶまれた。更に、この三度めの妊娠は精神的な不安もあってか、調子が優れない事が続いた。本来なら中宮である定子について祈りを捧げるべき僧侶たちは、道長に睨まれる事を気にして彰子のご機嫌取りに訪れる始末だったという。故に、身内の僧侶たちが加持祈祷や誦経をする事となった。定子を心配する者たちは、清少納言た鳳仙花を始め文壇の女房たちと身内のものしかいなかった。殆どのものが道長に恐れをなして知らぬふりを通した。
そんな中、帝は定子の体を心配し、使いの者に見舞いの品を頻繁に届けさせたがはせめてもの救いとなった。伊周や龍家も、頻繁に訪れていた。
臨月の十二月十五日の夜、産気づいてすぐに女子を出産。力つきてこと切れてしまったという。出産に立ち会い、終始付き添っていた伊周は亡骸を抱きしめ、人目を憚らず号泣した。
皇后藤原定子崩御、享年25歳。あまりにも若く、儚く散った美しき皇后の一生であった。(※③)
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(※①…カワラナデシコの古名)
(※②…藤の花を愛し、庭先にも多く植えられたという。藤原彰子の事)
(※③…栄花物語より)
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