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第五十話 二后並立
【第弐部・完】 契り・後編
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梅花の甘い香りと、沈香や百合等の落ち着いた香りがそこはかとなく漂う部屋。御簾越しに対面する隆家と鳳仙花。二人の緊張感が伝わるかのように、隔てている御簾と、四隅に設けられた燭台の灯りがゆらゆらと揺れる。限り無く白に近い桜の花びらを思わせる地に、鶴の狩衣に鶴の透かし模様の入った狩衣、藍色の指貫に烏帽子という姿の隆家は高貴で凛々しく、そして美しかった。
……やっぱり、月読命様みたい。月の光を纏っているかのように、神々しく見えるの。この姿も今日で見納めね。この目にしかと焼き付けておかないと。明日から、これを支えに目いっぱいお仕事頑張らないと……
鳳仙花は心の臓をもぎ取られるような想いで、彼を見つめる。
(さて、こうして無言のまま見つめ合っても始まらない。えーい、邪魔な御簾め)
一方、隆家の方は早く己の真の気持ちを伝えたいと逸る気持ちを抑えていた。御簾越しにひと目見た途端、鮮やかな紅に翠、黄緑、白などを重ねた桜萌黄の襲を身に纏った鳳仙花を見て、(鮮やかな紅もまたよく似合う。可愛らしいな)と感じた。そして初めから決めていた通り、己の想いを告げ、その上で鳳仙花に選択を委ねようと決意を新たにした。隆家を鳳仙花の元に送り出す直前に、敦也が告げた言の葉が今も耳から離れない。
『隆家様! もし、鳳仙花様を別れを選ぶような事がございましたら、鳳仙花様はこの敦也が頂きます故、何卒ご安心下さいますよう』
と、挑むように燃え盛る瞳で言ってのけたのだ。持ち前の負けん気に火がついた。
『ふん、何を生意気な。悪いが貴様の何千倍も我の方が自信があるわ!』
と啖呵を切って来たのだ。そして同時に確信した。いや、再確認したというべきか。やはり敦也も鳳仙花に強く惹かれている事に。それは己の欲望ではなく、ひたすら鳳仙花の幸せだけを願う清らかで純粋なものである事も。敢えて捨て身で、隆家に逆らうかのようにして焚き付け、鳳仙花との仲を取り持とうとしている必死な想いも全て受け止めた彼なりの空威張りであった。
「さて、今日の逢瀬だが……」
隆家は重苦しい雰囲気を取り払うようにしてお道化たように明るく沈黙を破る。
「そなたの真の想いを知り立たいと思うのだ。その前に、私の真の想いを述べよう」
鳳仙花はドキン、と心の臓が飛びだすように跳ねた。
……あぁ、いよいよ別れの切り札が渡されるのね……
覚悟を決めて頷き、御簾越しの彼をしっかりと見つめた。
「……私には、既に妻が五人いる。そして子供もな。それは知っての通りだと思うが……」
鳳仙花が静かに頷いたのを確認し、そのまま続けた。
「例の一件以来、何とも不安定な立ち場でな。道長殿の命令一つでどうにでもなるという、吹けばどこかへ飛んで行ってしまうような情けなさだ。故に、そなたに危機が迫っても地位の力で守り抜く事は出来ぬ」
……だから何? 遠回しに別れる為の理屈を羅列しているの? 隆家様らしくない。そんなに面子を保ちたい訳?……
大人しく耳を傾ける鳳仙花だが、彼の真意が見えずにムカムカと感情が波立って来た。
……落ち着くのよ。お別れの時くらい、冷静に淡々と格好良く行かないと。大人の女の余裕とやらを見せつけて後々思い出してさ、『別れたのは惜しい女だった』て思わせるんだから。大体、六人目の妻だなんて妻というより妾よね、うん、そうそう……
保子の教え通り、己を落ち着かせる為に深い呼吸を意識し、落ち着いて彼の話に耳を傾けている風を装う。
「だが、命を狙われている場合は話は別だ。この腕でそなたを守り抜いて見せる」
……え? え? どういう事?……
お道化た調子とは打って変わり、食い入るようにして見つめる彼に戸惑う。
「つまり、地位では守れぬが体を張ってなら守り抜ける、と言う事だ」
そう言って彼は立ち上がると、手を伸ばせば御簾が掻き分けられる位置までやってきて座った。ふわっと若草の薫りが鳳仙花の鼻をくすぐる。そして御簾の境目に右手を伸ばし、立ち膝になって鳳仙花を見つめた。
「これが、真の想いだ。このような頼りない我が身ではあるが、私では、駄目か? そなたの想いを聞かせて欲しい!」
囁くようにして告げた。御簾越しにでも分かる程に、炎のように燃え盛る瞳に見つめられ、全身が脈打ち体がカッと熱くなる。胸が幸福感でいっぱいになり、息が詰まる。そのまま彼の力強い腕で抱きすくめられ、なしくずし的に身を任せたい、という女の情が下腹部より激流の如く全身を駆け巡る。けれども、鳳仙花にも意地があった。
……簡単に陥落などしない。私は代々女手で一族を切り盛りしてきた磨爪一族のはしくれ! すぐに靡くような弱さなど見せるものか!……
スッと姿勢を正し、毅然とした態度で凛然と彼を見つめた。
(何と、神々しい……)
手を伸ばせば己の物になると思われた鳳仙花が、突如として軽々しく手が差出せぬ程神秘的かつ神々しく見え息を呑む。冷たい程に冴え渡る瞳は、まるで漆黒の泉に映る月のように神秘的に輝きが揺らめく。
「私は元より、隆家様を栄華に導いて差し上げる地位にはございません」
凛と夜空に響き渡る鈴の音のように冴え冴えと澄んだ声色が、紅の椿の蕾を思わせる唇から紡ぎ出される。
(そのような事、望んではおらぬ! そもそもが己の出世の為に女を利用する結婚は好みではない)
と心の中で叫びつつ、口に出すのは控えた。それほどに今の鳳仙花には犯し難い神秘性があった。
「ですから、守って頂こうとは最初から思ってはおりません。時の世に埋もれていく私だからこそ、お疲れになった隆家様の束の間の憩いの場となれるのでしたら幸いでございます。そして英気を養って頂き、また現実という戦いの場に帰って行かれましたら。鳳仙花はそう思っておりまする」
ころころと鈴が転がるような音色に聞き惚れながら、隆家はゆっくりとその言の葉の意味を噛みしめる。気負い過ぎていた己の心が、柔らかく解れていく。彼女の言の葉を噛みしめる毎に、喜びが胸にこみ上げていく。
「……ではもし、我らに子供が出来たら?」
震える声で龍家は問う。今までに見た事も会った事もない女性に心が打ち震える。鳳仙花は迷う事く彼を見つめながら、涼やかに答えた。
「女の子が出来たら、私の跡を継げるように育てます。男の子でしたら……そうですね。敦也さまのように主に忠誠を誓う武士のようになってくれたら」
敦也の名を聞いて、ムッと嫉妬の念が湧く。鳳仙花は素直に己を表現する彼を意外に感じつつも、少年のようで可愛らしいとも感じる。特にそれを狙って名を借りた訳ではなく、思ったままを伝えただけなのだが。
「口説いている私の前で、他の男の名を口にするなど許せぬ! 例え子供の事でもだ! そなたは私の妻となるのだから!」
隆家は、近くに控えてさぞや気を揉んでいるであろうと思われる保子と敦也に、そして何よりも鳳仙花本人に宣言するように声高らかに言い切った!
「きゃっ!」
鳳仙花は思わず短く悲鳴をあげた。だが、それ以上は何も言えなかった。隆家が強引に御簾をかき上げ、鳳仙花を押し倒すような形で胸に抱きしめたからである。トクットクッとやや早めに音を刻む彼の鼓動に、心地よく耳を傾けた。
若草の薫りと、梅花、沈香と百合の控えめな香気が混じり合い、一つに溶け合っていく。
翌朝、桜が一つ、また一つと言祝ぐようにして開花を始めた。
それから立て続けに合わせて三日三晩。黄昏時に隆家は鳳仙花の邸を訪れ、夜明け前に自邸に帰っていく。三日目の夜に、鳳仙花の家人が総出で祝言の儀を挙げた。こうした鳳仙花は、希望通り世に知らせずひっそりと藤原隆家と夫婦の契りを交わしたのだった。
そして時は過ぎ、1000年の二月二十五日。「忙しい歳の暮れから新年に至るまで特に行事ごとが目白押しにも関わらず、中宮定子は尼の為に神事は行えぬ。女御の彰子が代わりに行うという異例の自体は嘆かわしい。よって彰子を中宮に致す!」と道長は声高らかに命じた。
一条天皇は定子もこのままの地位に留めるよう強く道長に抵抗した。辟易した道長は、その件についていつものように極秘にて安倍晴明に卜わせた。その結果、定子はそのまま中宮として留まる事となり「皇后」と。彰子は「中宮」として呼ばれるようになった。世に言う前代未聞の『二后並立』の誕生である。
【第弐部 完】
……やっぱり、月読命様みたい。月の光を纏っているかのように、神々しく見えるの。この姿も今日で見納めね。この目にしかと焼き付けておかないと。明日から、これを支えに目いっぱいお仕事頑張らないと……
鳳仙花は心の臓をもぎ取られるような想いで、彼を見つめる。
(さて、こうして無言のまま見つめ合っても始まらない。えーい、邪魔な御簾め)
一方、隆家の方は早く己の真の気持ちを伝えたいと逸る気持ちを抑えていた。御簾越しにひと目見た途端、鮮やかな紅に翠、黄緑、白などを重ねた桜萌黄の襲を身に纏った鳳仙花を見て、(鮮やかな紅もまたよく似合う。可愛らしいな)と感じた。そして初めから決めていた通り、己の想いを告げ、その上で鳳仙花に選択を委ねようと決意を新たにした。隆家を鳳仙花の元に送り出す直前に、敦也が告げた言の葉が今も耳から離れない。
『隆家様! もし、鳳仙花様を別れを選ぶような事がございましたら、鳳仙花様はこの敦也が頂きます故、何卒ご安心下さいますよう』
と、挑むように燃え盛る瞳で言ってのけたのだ。持ち前の負けん気に火がついた。
『ふん、何を生意気な。悪いが貴様の何千倍も我の方が自信があるわ!』
と啖呵を切って来たのだ。そして同時に確信した。いや、再確認したというべきか。やはり敦也も鳳仙花に強く惹かれている事に。それは己の欲望ではなく、ひたすら鳳仙花の幸せだけを願う清らかで純粋なものである事も。敢えて捨て身で、隆家に逆らうかのようにして焚き付け、鳳仙花との仲を取り持とうとしている必死な想いも全て受け止めた彼なりの空威張りであった。
「さて、今日の逢瀬だが……」
隆家は重苦しい雰囲気を取り払うようにしてお道化たように明るく沈黙を破る。
「そなたの真の想いを知り立たいと思うのだ。その前に、私の真の想いを述べよう」
鳳仙花はドキン、と心の臓が飛びだすように跳ねた。
……あぁ、いよいよ別れの切り札が渡されるのね……
覚悟を決めて頷き、御簾越しの彼をしっかりと見つめた。
「……私には、既に妻が五人いる。そして子供もな。それは知っての通りだと思うが……」
鳳仙花が静かに頷いたのを確認し、そのまま続けた。
「例の一件以来、何とも不安定な立ち場でな。道長殿の命令一つでどうにでもなるという、吹けばどこかへ飛んで行ってしまうような情けなさだ。故に、そなたに危機が迫っても地位の力で守り抜く事は出来ぬ」
……だから何? 遠回しに別れる為の理屈を羅列しているの? 隆家様らしくない。そんなに面子を保ちたい訳?……
大人しく耳を傾ける鳳仙花だが、彼の真意が見えずにムカムカと感情が波立って来た。
……落ち着くのよ。お別れの時くらい、冷静に淡々と格好良く行かないと。大人の女の余裕とやらを見せつけて後々思い出してさ、『別れたのは惜しい女だった』て思わせるんだから。大体、六人目の妻だなんて妻というより妾よね、うん、そうそう……
保子の教え通り、己を落ち着かせる為に深い呼吸を意識し、落ち着いて彼の話に耳を傾けている風を装う。
「だが、命を狙われている場合は話は別だ。この腕でそなたを守り抜いて見せる」
……え? え? どういう事?……
お道化た調子とは打って変わり、食い入るようにして見つめる彼に戸惑う。
「つまり、地位では守れぬが体を張ってなら守り抜ける、と言う事だ」
そう言って彼は立ち上がると、手を伸ばせば御簾が掻き分けられる位置までやってきて座った。ふわっと若草の薫りが鳳仙花の鼻をくすぐる。そして御簾の境目に右手を伸ばし、立ち膝になって鳳仙花を見つめた。
「これが、真の想いだ。このような頼りない我が身ではあるが、私では、駄目か? そなたの想いを聞かせて欲しい!」
囁くようにして告げた。御簾越しにでも分かる程に、炎のように燃え盛る瞳に見つめられ、全身が脈打ち体がカッと熱くなる。胸が幸福感でいっぱいになり、息が詰まる。そのまま彼の力強い腕で抱きすくめられ、なしくずし的に身を任せたい、という女の情が下腹部より激流の如く全身を駆け巡る。けれども、鳳仙花にも意地があった。
……簡単に陥落などしない。私は代々女手で一族を切り盛りしてきた磨爪一族のはしくれ! すぐに靡くような弱さなど見せるものか!……
スッと姿勢を正し、毅然とした態度で凛然と彼を見つめた。
(何と、神々しい……)
手を伸ばせば己の物になると思われた鳳仙花が、突如として軽々しく手が差出せぬ程神秘的かつ神々しく見え息を呑む。冷たい程に冴え渡る瞳は、まるで漆黒の泉に映る月のように神秘的に輝きが揺らめく。
「私は元より、隆家様を栄華に導いて差し上げる地位にはございません」
凛と夜空に響き渡る鈴の音のように冴え冴えと澄んだ声色が、紅の椿の蕾を思わせる唇から紡ぎ出される。
(そのような事、望んではおらぬ! そもそもが己の出世の為に女を利用する結婚は好みではない)
と心の中で叫びつつ、口に出すのは控えた。それほどに今の鳳仙花には犯し難い神秘性があった。
「ですから、守って頂こうとは最初から思ってはおりません。時の世に埋もれていく私だからこそ、お疲れになった隆家様の束の間の憩いの場となれるのでしたら幸いでございます。そして英気を養って頂き、また現実という戦いの場に帰って行かれましたら。鳳仙花はそう思っておりまする」
ころころと鈴が転がるような音色に聞き惚れながら、隆家はゆっくりとその言の葉の意味を噛みしめる。気負い過ぎていた己の心が、柔らかく解れていく。彼女の言の葉を噛みしめる毎に、喜びが胸にこみ上げていく。
「……ではもし、我らに子供が出来たら?」
震える声で龍家は問う。今までに見た事も会った事もない女性に心が打ち震える。鳳仙花は迷う事く彼を見つめながら、涼やかに答えた。
「女の子が出来たら、私の跡を継げるように育てます。男の子でしたら……そうですね。敦也さまのように主に忠誠を誓う武士のようになってくれたら」
敦也の名を聞いて、ムッと嫉妬の念が湧く。鳳仙花は素直に己を表現する彼を意外に感じつつも、少年のようで可愛らしいとも感じる。特にそれを狙って名を借りた訳ではなく、思ったままを伝えただけなのだが。
「口説いている私の前で、他の男の名を口にするなど許せぬ! 例え子供の事でもだ! そなたは私の妻となるのだから!」
隆家は、近くに控えてさぞや気を揉んでいるであろうと思われる保子と敦也に、そして何よりも鳳仙花本人に宣言するように声高らかに言い切った!
「きゃっ!」
鳳仙花は思わず短く悲鳴をあげた。だが、それ以上は何も言えなかった。隆家が強引に御簾をかき上げ、鳳仙花を押し倒すような形で胸に抱きしめたからである。トクットクッとやや早めに音を刻む彼の鼓動に、心地よく耳を傾けた。
若草の薫りと、梅花、沈香と百合の控えめな香気が混じり合い、一つに溶け合っていく。
翌朝、桜が一つ、また一つと言祝ぐようにして開花を始めた。
それから立て続けに合わせて三日三晩。黄昏時に隆家は鳳仙花の邸を訪れ、夜明け前に自邸に帰っていく。三日目の夜に、鳳仙花の家人が総出で祝言の儀を挙げた。こうした鳳仙花は、希望通り世に知らせずひっそりと藤原隆家と夫婦の契りを交わしたのだった。
そして時は過ぎ、1000年の二月二十五日。「忙しい歳の暮れから新年に至るまで特に行事ごとが目白押しにも関わらず、中宮定子は尼の為に神事は行えぬ。女御の彰子が代わりに行うという異例の自体は嘆かわしい。よって彰子を中宮に致す!」と道長は声高らかに命じた。
一条天皇は定子もこのままの地位に留めるよう強く道長に抵抗した。辟易した道長は、その件についていつものように極秘にて安倍晴明に卜わせた。その結果、定子はそのまま中宮として留まる事となり「皇后」と。彰子は「中宮」として呼ばれるようになった。世に言う前代未聞の『二后並立』の誕生である。
【第弐部 完】
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