「磨爪師」~爪紅~

大和撫子

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第五十話 二后並立

契り・中編

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 麗らかな春の午後の陽射しが、桜の蕾を煌びやかに包み込む。葉は光を吸って透明感のある翠色と化す。蕾は丸くはち切れそうに膨らみ、そろそろ開花するのではないかと見るものを期待させる。柔らかな水色の空には、白の生絹すずしを広げたような雲がかかる。そろそろ日が傾き始める頃だ。
 そんな中、桜並木をガタゴトと進む網代車があった。牛飼い童を先頭に、従者は左右に五人程。全体を見守るように、少し離れて牛車を追う馬上の男がいる。黒い馬に黒の引立烏帽子、草色の直垂ひたたれに身を包んだ敦也である。彼は神妙な面持ちで、車内のあるじを気に掛けていた。 車の物見も御簾もピタリと閉められ、中を窺い知る事は出来ない。
 
 敦也が隆家と話をしてからひと月と半ほど過ぎた。牛車の向かう先は鳳仙花の邸だ。二人は漸く今後の事について話し合うのだ。その結果如何で、その日の内にあるじを迎えに行ってそれきり鳳仙花の元には訪れないか、それとも三日三晩送り迎えをする(※①)事になるか決まるのだ。どのような結論を出すのか二人に委ねると決めていても、鳳仙花の事が心配でならなかった。

 車内の隆家は、胡坐かいて右前に座り虚空を見上げていた。

(……道長め。『尼僧は中宮として認める事は出来ないから』という理由で、姉上に神事に関わらせずにこれみよがしに彰子殿にやらせたりしおって。確かに尼ならそうだが、御門は還俗させたではないか!)

 苛立ちのあまり歯ぎしりをしながら、拳を固める。だが、次の瞬間力なく項垂れる。そうは思っても、定子の為に何もしてやれない自分が情けなかった。もう、何度同じ事を思っただろう?
 隆家は更に思う。兄の伊周に加担して事件を引き起こした事自体に、後悔は無い。本来なら花山院も公にはしない筈だという目論見は見事に外れてしまったが。恐らく、何もかもが最初から道長が綿密に仕組んだものだったのだ。そうなると、花山院も道長の罠に嵌められたと言ってよい。まんまと罠に嵌まり、今や道長に逆らえば益々定子への風当たりは強くなる。絶大な権力でまつりごとを支配している道長に形式上だけでも従わざるを得ない事がやるせなかった。

 定子はといえば、相変わらず道長からあからさまな嫌がらせを受けても気丈に振る舞い、一条天皇を始め女房たちの前でも笑顔と機知に富んだ会話を欠かさない。帝は定子が皇子を産んだ事を大いに喜んだ。それは勿論、第一皇女が生まれた時もであるが。敦康親王を次期天皇にすべく、道長と闘う事。それが一条天皇と定子の絆をより深めたようだ。彰子の妊娠の兆しが見えない事、道長の顔を立てつつ合間を塗って定子の元へ通い続ける帝。それはもう一人男子を作る事で、定子の立ち場を確固たるものにして道長と闘い抜く事、そうした静かなる決意が感じ取れる。定子もまた、それに応える事で共に闘う事、そして今一度中関白家の復活を賭けているのである。

 彼らの悲痛な想いが痛い程伝わる為、隆家は道長に迎合せざるを得ない事が口惜しく、やり切れなかった。

(……このような愚かな、情けない身の上で。果たして鳳仙花殿を生涯守り抜く事が出来るのだろうか?……)

 何度も何度も己に問いかけたが、未だ結論が出ないでいた。敦也と話をしたひと月半ほど前に想いを馳せる……。

 あの時、敦也は酷く思い詰めたような表情で切り出した。

「……お分かり頂いていたとはさすがでございます、話は早い」
「遠慮せずに申して見よ」

 いつも忠実な彼が、相当に悩んだ上に苦渋の決断をして物申す、そんな経緯が見て取れる。隆家は耳を傾けるつもりでいた為、穏やかに応じた。

「では、大変に恐れながら……」

 敦也はそう言って跪き、真っすぐにあるじを見つめた。隆家はその視線を柔らかく、だが真剣に受け止める。侍従のその瞳の奥に、己と同じ白き蓮の花の影を見ながら。

「もう、鳳仙花様の元に通われるようになられて、二年ほど経ちます。このまま、曖昧な御関係をいつまでお続けになるおつもりでしょうか?」
「……そうだな、もう二年も経つのだな」

 隆家は自嘲の溜息をつきながら応じる。敦也の瞳の奥の鳳仙花に話しかけるようにして続けた。

「……妻にしたい、と何度も思った。御簾を掻き分けてこの腕に抱き締めたいと何度思った事か。その度に、必死で己を制して来た」
「何故でございます? 鳳仙花様も……」

 激情のあまり思わず口を挟んでしまったのであろう敦也に、隆家は軽く右手をあげて制する。

「我の立ち場が、あまりにも不安定だからだ。道長殿の命令一つで如何様にもされてしまう。加えて鳳仙花殿は極めて特殊な一族の者だ。後ろ盾のない彼女は、今後色々な者に利用価値があるとして様々な陰謀に巻き込まれる可能性が高い。そんな中、我のような立ち場の者が、彼女を守り切れるか? 例えば、清少納言殿の元夫である橘則光たちばなののりみつ(※②)殿のように、文壇を離れて引きこもっていた彼女を道長側へと引き入れようと企む者たちから守り抜いたように。道長殿と敵対していると言っても良い我にはそれは出来ない。かと言って、御前の言うようにこのままの状態も良く無い」

 従者に己の弱みを吐露する事はどれほど屈辱であろう? 未だに「天下のさがな者」と世間に言わしめるほどの彼だ。敦也にはあるじがどれほど誠実に鳳仙花の事を想っているのかひしひしと伝わった。だが、鳳仙花の事を思うとこのまま引き下がる訳にはいかない。気持ちを新たに、強い眼差しで隆家を見つめた。

「隆家様の真剣なお気もちはこの敦也、痛い程に伝わりました。ですが、鳳仙花様は恐らく……普通の女性のように、結婚したら女性側の家柄により夫の出世に協力する事と引きかえに、己の身の保護などは求めてはいらっしゃらないと思われます」

 隆家は興味深そうに彼を見つめる。

「ほう? では彼女は何と思っていると?」
「己の身は己で。邸も己の腕で守ると。そういう価値観の元にお育ちになったのだと思われます。故に、隆家様と結婚されても、磨爪師のお仕事はこれまで通りお続けになるのではないでしょうか」

 と、一点の曇りもない眼差しで当然のように答えた。隆家の胸に、ズキンと痛みが走る。それは嫉妬と言う名の針で刺された痛みだ。だが、そんな小さな己を認めるには己の誇りが許さなかった。平然として応ずる。

「成る程。しかし、確か一度しか彼女に会った事は無い筈だが。どこでそう感じたのだ? 本人から聞いた訳ではあるまい?」
「はい。それは、彼女の旅のお供をさせて頂く際、男のなりをして出かけた事で分かりました」

 敦也の恐るべき洞察力に舌を巻くと同時に、彼が無意識に鳳仙花に惹かれている事を隆家は確信したのだった。

 牛車の速度が緩やかになった。まもなく、鳳仙花の邸に到着する。


……しっかり、けじめつけなきゃ。夢の時間は、いつか終わりを迎えるのだもの。それが今からだった。て事よね……

 そう覚悟を決め手。鳳仙花は隆家を待つ。




(※① 三日三晩通う、即ち当時の「結婚する」事を意味する)
(※② 清少納言の最初の夫。二人の間には息子が生まれている。離婚はしたが宮中で再会。兄と妹のような新しい関係を築いた。一条天皇の強い意思により、定子が還俗して再び宮中に戻って来た事を境に立場上道長派であった彼とは疎遠になったと思われる)
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