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第3話:盟約の力と温かな絆
しおりを挟むホードリング・ボアが倒れた後、洞窟内にはしばし重い静寂が支配していた。やがて、最初に口を開いたのは、杖を握りしめたまま呆然としていたバルドだった。
「……信じられん。まさか、あれほどの魔物を素手で……」
ゴルドも、脇腹を押さえながらゆっくりと身を起こした。彼の鎧には生々しい傷跡が残り、苦痛に顔を歪めている。
「レン殿……感謝する。おかげで命拾いした。しかし、一体あの力は……?」
俺は、まだ自分の両手を見つめていた。先程までの高揚感は薄れ、代わりに戸惑いが胸を満たしていく。ルナの髪の分け目の匂い。あの甘い香りが引き金になったとしか思えないが、それが何なのか、なぜあんな力が湧いてきたのか、皆目見当もつかなかった。
「俺にも……よくわからないんです。ただ、無我夢中で……」
「レンさん、大丈夫ですか? 怪我は……」
心配そうに駆け寄ってきたルナが、俺の顔を覗き込む。彼女の瞳には、まだ恐怖の残滓と、そして俺への気遣いが浮かんでいた。その純粋な眼差しに、俺は少しだけ救われたような気がした。
「ああ、俺は大丈夫だ。それよりゴルドさんこそ、傷の手当てをしないと」
ゴルドの傷は思ったより深いようだった。バルドが杖を取り出し、治癒魔法らしきものを詠唱し始める。淡い光がゴルドの脇腹を包み込むと、彼の表情がわずかに和らいだ。
「バルド殿、助かる。だが、完全には塞がらんな。一度、安全な場所でしっかりと治療が必要だろう」
ゴルドの言葉に、俺たちは顔を見合わせた。この洞窟の奥に何があるのかは不明だが、今のゴルドの状態では無理な探索は危険だ。
「ひとまず、洞窟の入り口付近まで戻って、少し休みましょう」俺は提案した。「そこで今後のことを考えませんか」
「それがよかろう」バルドも頷いた。「レン殿のあの力についても、少し話しておきたいことがある」
俺たちは、ゴルドに肩を貸しながら、慎重に洞窟の入り口へと引き返した。ホードリング・ボアの巨体は、まだそこに横たわっており、改めてその大きさに息を呑む。
入り口から少し離れた、比較的安全そうな場所に腰を下ろすと、ようやく緊張が解けてきた。バルドは、焚き火の準備を始め、ルナは水筒を取り出して皆に配ってくれる。その献身的な姿に、俺は自然と目がいった。
焚き火の暖かな光が俺たちの顔を照らし始めた頃、バルドが切り出した。
「レン殿。先程の力だが、儂はあれが『盟約の力』の一端ではないかと考えておる」
「盟約の力……?」
「うむ。古の文献によれば、勇者と呼ばれる者は、時に特定の誰かとの強い絆によって、内に秘めた力を覚醒させることがあると記されておる。それは、仲間を守りたいという強い意志や、深い信頼関係が奇跡的な力を呼び覚ますのだとか……」
バルドは、俺とルナを交互に見ながら続けた。
「レン殿がホードリング・ボアに立ち向かった時、ルナ嬢を庇い、彼女の助けを求める声に応えようとしていた。そして、あの時……何か特別な感覚はあったかな?」
特別な感覚。それは間違いなく、ルナの髪の匂いだった。あの甘く、懐かしいような香りが、俺の脳髄を刺激し、全身に力を漲らせたのだ。だが、それをどう説明すればいいのか。
「……ルナの、匂いです」
俺がぽつりと呟くと、バルドは僅かに目を見張り、ゴルドは意外そうな顔をした。ルナは、顔を赤らめて俯いてしまう。
「匂い、とな?」バルドが聞き返す。
「はい。ルナの髪の分け目から漂ってきた、甘い香りを嗅いだ瞬間、頭が冴えわたって、体が勝手に動いたような……そんな感じでした」
我ながら、おかしな説明だとは思う。だが、それが事実だった。
バルドは顎鬚を撫でながら、しばらく考え込んでいたが、やがて静かに口を開いた。
「なるほど……『盟約の力』の発現の仕方は、千差万別と聞く。特定の感覚がトリガーになることもありえんことではないのかもしれん。特に、ルナ嬢はエルフ族。エルフ族には、古来より不思議な力が宿るとも言われておるからのぅ」
「エルフ族……」俺はルナを見た。彼女の長い耳がぴくりと動く。
「レン殿。もしその力が本物なら、それは我々にとって大きな希望となる。しかし、その力を制御できなければ、諸刃の剣にもなりかねん。今はまだ、その力の全容も、発動条件も不明だ」ゴルドが冷静に付け加えた。
その通りだ。今回はたまたま上手くいったが、次も同じように力が発揮できる保証はない。それに、ルナの匂いがきっかけだなんて、あまりにも不安定な要素だ。
「……もっと、強くなりたいです」俺は思わず口にしていた。「自分の力で、仲間を守れるように」
魔法も剣術も知らない俺が、あの時感じたのは、圧倒的な高揚感と、そして自分の無力さへの焦燥だった。ルナを守りたい、ゴルドを助けたい。その一心だった。
俺の言葉に、ゴルドは静かに頷き、バルドは温かな眼差しを向けてくれた。ルナは、俯いたままだったが、俺の袖を小さく握りしめているのが分かった。その小さな手の温もりが、また俺の胸にじんわりと広がっていく。
「レンさん……」
顔を上げたルナの瞳は潤んでいたが、そこには確かな信頼の色が浮かんでいた。
「ありがとうございます。私、レンさんがいてくれて、本当に……心強いです」
彼女の言葉と、再びふわりと香った甘い匂いに、俺の心臓が小さく跳ねた。戦いの時とは違う、穏やかで、満たされるような感覚。
(この匂い……この温かさ……)
もしかしたら、この不思議な力は、ただ戦うためだけのものではないのかもしれない。ルナの存在そのものが、俺にとって何か特別な意味を持ち始めている。
「さて、ゴルド殿の傷も考えれば、今日はここで野営し、明日、一旦麓の村へ戻るのが賢明かもしれんな」バルドが提案した。「そこで情報を集め、体勢を立て直してから、改めてこの先のことを考えよう」
俺とゴルドもそれに同意した。洞窟の謎は気になるが、今は無理をすべきではない。
焚き火の火を見つめながら、俺は今日の出来事を反芻していた。初めての本格的な戦闘、謎の力の覚醒、そしてルナとの間に芽生え始めた不思議な絆。ゆるふわ天然パーマの俺が、本当に勇者なのかは分からない。でも、この仲間たちと共にいる限り、きっとどんな困難も乗り越えていける。そんな予感が、胸の奥で確かな温もりとなって広がっていた。
夜が更け、交代で見張りをすることになった。俺は、静かに寝息を立てるルナの隣で、空に浮かぶ月を見上げていた。彼女の髪から微かに漂う甘い香りが、夜風に乗って鼻腔をくすぐる。そのたびに、心が不思議と安らいでいくのだった。
この力と、この絆が、俺をどこへ導いてくれるのか。今はまだ、何もわからないけれど。
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