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第2話:初めての戦いと覚醒の予兆
しおりを挟む洞窟の奥から響く唸り声は、徐々に大きさを増していく。それは、明らかに友好的なものではなかった。
「警戒を!」
騎士風の男、ゴルドが低い声で指示を出す。彼の全身を覆う鎧は鈍い光を放ち、手にした鋼の剣は臨戦態勢を示していた。老魔術師のバルドは、杖をしっかりと握りしめ、詠唱の準備に入っているようだ。ルナは、俺の背に身を寄せ、その小さな震えが伝わってくる。長い耳は完全に伏せられ、不安げな様子が窺えた。
洞窟の入り口が、ぬらりと音を立てて開いた。姿を現したのは、一体の巨大な牙を持つ猪のような魔物だった。鋭い眼光は怒気に満ち、体毛は逆立ち、鼻からは荒い息が漏れている。
「ホードリング・ボアか!」ゴルドが叫んだ。「数は一体のようだが、油断するな!」
ホードリング・ボアは、俺たちを認識するや否や、地面を力強く踏みしめ、突進してきた。その巨体からは想像もつかないほどの速さだ。
「ルナ、後ろに!」
俺は反射的に彼女を背後に庇った。ゴルドが即座に前に出て、剣を構える。バルドは杖を前に突き出し、何か魔法を発動しようとしている。
「ファイアボルト!」
バルドの杖先から、赤い光の塊が放たれた。それは正確にホードリング・ボアに命中したが、魔物は僅かに動きを緩めただけで、止まることなく突進してくる。どうやら、見た目以上に頑丈なようだ。
ゴルドは避けきれずにホードリング・ボアの突進を受け止め、大きく後ろに押しやられた。金属的な衝突音が洞窟内に響き渡る。
「ぐっ!」
ゴルドの口から苦悶の声が漏れた。体勢を立て直そうとする彼に、ホードリング・ボアは再び強烈な頭突きを繰り出す。
「ゴルドさん!」ルナが悲鳴を上げる。
俺は、ただ見ていることしかできない自分の無力さに苛立ちを感じていた。魔法も使えない。剣術の訓練も受けたことがない。こんな状況で、一体何ができるというんだ?
ホードリング・ボアの牙が、倒れたゴルドに向かって迫る。絶体絶命のピンチ!
その瞬間、ルナが小さな勇気を振り絞って、俺の袖をわずかに引っ張った。上目遣いで俺を見つめる彼女の瞳には、恐怖と、そして微かな希望が宿っていた。
「レンさん……どうか、ゴルドさんを助けてください!」
その声は、震えてはいるものの、決意に満ちていた。彼女のこの真摯な願いが、俺の内なる何かを目覚めさせようとしていたのかもしれない。
しかし、具体的に何をすればいいのか、やはりわからない。焦燥感だけが募る。
次の瞬間、ホードリング・ボアの巨大な体が、ゴルドに強大な一撃を加えようとした。もう間に合わない! 頭に血が上った。どうすれば……どうすればいいんだ!
その時、突如、鼻腔をくすぐる甘い香りがした。
それは、すぐ後ろにいるルナの、髪の分け目から漂ってくる特別な匂いだった。さっき、洞窟内で感じた、あの独特で、どこか懐かしいような香り。埃っぽいような、植物のような、彼女だけの特別な匂いが、突如、脳髄を直接刺激した。
(あ……この匂い……)
ほんの数秒前までのパニックが嘘のように、俺の頭の中がクリアになっていくのを感じた。集中力が高まり、周囲の状況がスローモーションのように感じられる。ホードリング・ボアの動き、ゴルドの位置、バルドの詠唱のリズム……全てが鮮明に理解できる。
そして、同時に、俺の体の中に、温かく、しかし力強い何かが満ちていくのを感じた。それは、今まで感じたことのない、しかし確かに存在するエネルギーだった。
「させるか!」
俺は考える間もなく、地面を蹴り上げ、ホードリング・ボアに向かって跳躍していた。まるで、長年訓練を積んだ戦士のように、自然な動きだった。
手に武器はない。だが、奇妙な自信が俺を満たしていた。
ホードリング・ボアは、突然眼前に現れた小さな人影に戸惑ったのか、動きを止めた。その隙を逃さず、俺は全身の力を込めて、魔物の前足の関節部分を蹴り上げた。
「ゴォ!?」
ホードリング・ボアは予想外の痛みに短く叫び、体勢を崩した。鈍い打撃音が洞窟内に響く。
一度体勢を崩した巨大な魔物は、簡単に立て直せない。よろめいたホードリング・ボアに、俺は畳み掛けるように低く潜り込み、今度はその腹部に向けて、ありったけの力を込めた拳を叩き込んだ。
メキメキ、という奇妙な音がした気がした。
ホードリング・ボアは腹を押さえ、苦悶の表情を浮かべて後ずさる。その巨体が不気味に揺らいだかと思うと、ドスン、と重い音を立てて地面に倒れ伏した。もはや動きはない。
洞窟内は、暫しの静寂に包まれた。ゴルドは呆然と倒れたまま、バルドは詠唱を中断し、杖を持ったまま目を見開いている。ルナは、俺の背後から、信じられないものを見るような目で俺を見つめていた。
「れ……レンさん……? 今、一体……?」
ルナの声は、まだ震えていたが、先程までの恐怖の色は薄れていた。
俺自身も、何が起こったのか理解できていなかった。ただ、あの時、ルナの髪の分け目の匂いを嗅いだ瞬間から、体の内側に湧き上がってきた奇妙な力。そして、考える間もなく体が動いたこと。
「……わ、からない」
俺は正直に答えた。自分の手を見つめる。特別な変化は見られない。だが、確かに、何かが以前とは違う。
「ま、まさか……あれが、勇者様の『盟約の力』の……一つの現れ方なのでしょうか……?」
バルドが、老齢ながらも興奮した声で呟いた。
「仲間を思う強い気持ちが、隠された力を引き出す……古い文献にも、そのような記述があったような……」
ゴルドもゆっくりと体を起こし、信じられないといった表情で俺を見つめていた。
「レン殿……率直に言って、驚きました。まさか、あのような動きを見せるとは……」
俺は照れ臭く、頭を掻いた。仲間のピンチを何とかしたいと思ったのは確かだ。だが、それが本当に「盟約の力」とやらなのかは、まだ半信半疑だった。
ただ、あの時、確かにルナの髪の分け目の匂いが、俺の内なる何かの鍵を開けたような気がしたのだ。
「ルナ、大丈夫だった?」
俺は背後を振り返り、ルナに優しく声をかけた。彼女は、まだ少し怯えた様子だったが、小さく頷いた。
「はい……レンさんが、助けてくれたから……ありがとうございます」
彼女の瞳には、先程までの恐怖に加えて、感謝のような光が灯っているように見えた。そして、再び、微かにあの甘い香りが漂ってきた。
(まただ……)
また、体の内側に温かい何かが芽生える予感がした。今度は、戦う必要はない。ただ、彼女の傍にいるだけで、心が安らぐような、不思議な感覚だった。
初めての戦いは、予期せぬ形で幕を閉じた。俺自身も知らない力の一端を垣間見た。そして、ルナという少女の存在が、俺にとって特別なものになりつつあることを、ぼんやりと感じ始めていた。
この先、一体どんな出会いがあり、どんな困難が待ち受けているのだろうか。ゆるふわ天然パーマの勇者の、遥かに長い物語は、まだ始まったばかりだ。
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