【R18】音のない夜に

春宮ともみ

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4.appassionato/アパッシオナート

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 杏香がカチャンと玄関の鍵を下ろした瞬間、光昭はするりと杏香の腰を抱き寄せ、空いた手で杏香の顎を取り口づけた。手馴れたような動作の自然さに杏香は抵抗することも出来ずそのまま受け入れてしまう。

「んっ……」

 こじ開けられた唇。ぬるりと侵入する粘膜の感覚に杏香は小さく身じろぎをする。光昭は飢えた獣のように何度も角度を変えて舌を絡ませ、縮こまる杏香の舌をきつく吸いあげた。

「ふっ……ん、んっ……」

 繰り返される濃厚な口付けに上擦った声が杏香の鼻からこぼれ落ちていく。自分の声とは思えない甘い声に、杏香の胸の奥に込み上げた羞恥心がざわざわと大きく揺らめいた。

「口、閉じないで……」
「……ふ、あっ……」

 唇を合わせた状態で掠れた声を紡ぐ光昭に、杏香はただただ翻弄されるまま。

(と、け……そ、う)

 熱い舌が杏香の腔内を這いまわる。それだけで杏香は全てをとろとろに溶かされてしまいそうに錯覚してしまう。光昭の黒シャツにしがみつく杏香の服は光昭の手でゆっくりと剥ぎ取られていくが、長く続く激しい口付けに杏香はそれに気が付く余裕さえ持ち合わせていなかった。

 光昭が口付けを続けながら露わになった杏香の膨らみをブラジャーごとやわらかく包み込んだ。びくり、と、杏香の身体が跳ねる。一拍置いて、ようやっと光昭が杏香の唇を解放した。

「ベッド……どっち?」

 杏香の視界を占領する真っ赤な瞳は杏香の全てを魅了していた。身体も、心も、魂もが彼の所有物ものになったように錯覚してしまう。杏香の焦点が合っていない瞳は催眠術にかかったかのよう。蠱惑的なバリトンが耳朶を撫でる感覚に酔いしれたまま、彼女は自らの寝室の場所を光昭へと告げる。

「そこ……い、って……ひだり……、っ、ひゃぁ!?」

 杏香の言葉を最後まで聞き届けることなく、下着だけの杏香の身体を光昭はするりと抱え上げた。急激に全身を襲う浮遊感に杏香は慌てて光昭の首筋に縋りつく。彼女の身体を難なく抱える光昭の腕は逞しく、頬が触れる胸筋もしなやかなそれ。ぞわぞわと背筋に言いようのない快感が走る。

 光昭は杏香の言葉通り、廊下を通り過ぎた左手へと足を向けていた。目の前に現れたベッドへ、とすんと壊れ物のように杏香の身体をそこに横たえる。つい数秒前まで強い官能を誘うような口付けをしていたくせに、その所作はひどく優しい。

 光昭がベッドに膝をつくと、ぎしりとスプリングが軋んだ。次の瞬間、光昭が黒シャツの袖でぐいっと口元の唾液を拭う。その仕草に杏香の下腹がずくんと強く疼いた。杏香の火照った表情を見遣った光昭がふっと口の端を釣り上げる。

「とろんってして……すっごいエロい顔してる」

 揶揄うように笑みを浮かべた光昭の唇の隙間からは鋭利なキバが覗いている。ヴァンパイヤのコスプレの一環、ということを杏香は理性では理解していた。けれど、この場の雰囲気に完全に飲まれてしまっている今、それすらも杏香の激しい熱情を掻き立てるスパイスとなっていた。

(キス……だけで、)

 こんなにも気持ちよかったのに。このひとに触れられたら自分はどうなってしまうのだろう。杏香は蕩けた思考のままぼうっと光昭の表情を眺めていた。光昭は露わにしたキバで杏香の首筋を甘噛みすると、杏香の肌の上をピリッと電流が流れた。

(あぁ……わたし、本当に)

 このひとに生き血を吸われて、食べられてしまうかもしれない。そんなことを考えながらシーツをぎゅうと握り締めた。

「ね……杏香ちゃん、って呼んでいい?」
「ん、んっ……」

 首筋に光昭の吐息が触れる。耽美な囁きにこくこくと頷けば、ふっと息を漏らした光昭がふたたび杏香の首筋にキバを立てた。肌を刺すような痛みすらも杏香にとっては強い快感。はふ、と杏香が白い喉を晒して天を仰ぐ。そんな杏香の身体の反応を光昭が見逃すはずもなく、光昭の指先が杏香のくびれをするりと撫でた。

「ひ、あっ……!」
「い~反応。ねぇ、杏香ちゃん。俺って、杏香ちゃんの何人目のオトコ?」

 光昭は何か悪だくみを考えているような視線を杏香へ送り、嬲るような言葉を向けた。卑猥……とまではいかないが、ウブな杏香にとっては刺激が強すぎる問いかけ。杏香はかっと火照った身体に身じろぎしながら躊躇うように視線を彷徨わせる。

「…………その……私、はじめて…で……」

 杏香の言葉に光昭は大きく目を見開いた。僅かな呼吸すら聞こえなくなった杏香の胸に去来するのは、大きな不安感。杏香がおずおずと視線を戻す瞬間、「マジか……」という弱々しい声とため息が落ちてくる。

「あ、あのっ……重い、ですか」

 思わず杏香は上擦った声のまま慌てて光昭へと声をかけた。すると、光昭は頬を瞳と同じくらいに赤く染めて杏香を見つめている。

「や、ちがくて。……嬉しい」

 光昭はそのまま唇で、杏香の頬、耳、耳たぶへと口づけを落としていく。光昭の手によっていつの間にか杏香のブラジャーははだけられていた。初めは優しく膨らみをふにふにと揉みしだいていた光昭の指先は、その先端を執拗に弄ぶ動きへと変わる。何度もくりくりと転がしたり、甘く摘んだり。時折爪の先で弾かれ、強い快感が杏香の全身を襲う。

「あ、んっ……ふ、ぅ……」

 もう杏香の口からは嬌声しか紡げない。光昭の唇はその間にも啄むような口づけを落としながら首筋を辿り、鎖骨から胸元へと移動していた。光昭はすっかり硬くなって主張する頂きをぱくりと口に含んだ。

「ひゃ、ああっ……っ! はぁっ、んんっ……」

 光昭は指先で愛撫していたように、頂きを舌先でも転がしていく。ざらりとした舌で頂き全体を舐め上げては甘噛みを繰り返す。頂きにはキバを当てないようにしているのか、唇を離しては咥える位置を何度も調整しているようだった。

「んっ……あ、あぅ……」

 杏香はもう何も考えられなかった。光昭が杏香の身体に触れるたび快感が堰を切ったように溢れ、下腹にずくずくと強い疼きを生み出している。甘蜜がとろとろと閉じた隘路から溢れてショーツを湿らせていく。

「あっ、んんっ……」

 ただただシーツを握り締め、杏香は必死で光昭から施される愛撫を受け入れる。光昭は空いた方の手で杏香のショーツを手にかけ、器用に剥ぎ取った。羽毛のような感触の奥に潜む淫肉の濡れ具合を確認するかのように、秘裂をするりと撫で上げていく。

「っ、あっ……!」

 光昭はとぷとぷと湧き出る蜜を指先に絡め、張りつめた秘芯を擦り上げる。途端、ビクンと杏香の身体には強烈な快感が走った。一際甲高い嬌声を上げいやいやと頭を振る杏香を宥めるように、光昭は杏香の乱れた髪にちいさくキスを落とす。

「だいじょーぶ。ほら、ゆっくり息して……」

 光昭は至極やわらかな声色で杏香に声をかけ、つぷりと蜜壺に指を埋めた。杏香の窄まりは狭く、光昭の指をきつく締め上げている。杏香は自分でもそれがわかって羞恥心で胸が張り裂けそうだった。

「やっ……たにがわ、さ……」

 光昭はお構いなしにくっと指を曲げ、杏香の入り口の浅瀬の部分を執拗に撫で上げていく。

「あっ、そ、れっ……」

 指の腹で強弱をつけ撫でられるたび、杏香の身体の奥からじんわりと熱い感覚が込み上げ、下腹がひくひくと波打った。

「杏香ちゃん……ここ、好きそうだね?」
「んんっ……はぁっ、あ、」

 愉しげな光昭の問いかけに杏香は答えられるはずもない。初めて感じる快感の波に翻弄され、頭の中はすでに真っ白だ。

「や、あぅっ、そこ、そこぉっ……」
「杏香ちゃんの気持ちいとこ、当たっちゃうねぇ」

 全身に広がる強い快感に身悶えする杏香をにやりと見つめ、光昭はことさらに臍側の浅瀬をくにくにと刺激する。下腹から生まれた強烈なナニカが背筋を這い上がる感覚を堪えきれず、杏香はシーツを握り締めたまま身を捩らせて涙を零す。その様子を光昭はただただ愉し気に眺めていた。

「やっぱ、狭……指増やすから、痛かったら言ってね?」

 飽きることなく内壁を刺激していた光昭だったが、そう呟きながら僅かに眉を顰めた。そして、おもむろに泥濘に沈めていた指を2本に増やす。押し開かれるような感覚に杏香はぐっと唇を噛み締めた。光昭は杏香が感じている痛みを緩和させようと、親指で張りつめた秘芽をゆっくりと嬲り、蜜壺の最奥をゆっくりと撫で上げた。

「んあっ!? あ、……あっ」

 びくり、と、杏香の身体が反応した。それと同時に、花襞の蠢きが大きくなっていく。まるで、光昭の指に吸い付くように――もっと奥へと誘っているよう、で。自分の身体だというのにひとつも自分の思う通りにならず、杏香はわけもわからない感覚に戸惑いを覚えふたたび眦から涙をこぼした。ふっと笑みを浮かべた光昭はワザと派手な水音を立てながら蜜壺の中に埋めたままの指を動かしていく。

「や、だっ……」

 ぐじゅぐじゅとあまりにも卑猥な音が杏香の聴覚を支配する。潤んだ目で光昭に訴えるが、光昭は杏香の懇願の視線をするりと跳ね除ける。

「た、にがわさっ……」
「光昭、って呼んで?」

 不敵な笑みを浮かべたまま、光昭は勢いよく服を脱ぎ捨てた。杏香の視界に映るのは均衡の取れたしなやかな光昭の上半身。杏香は彫刻のような光昭の身体をうっとりと眺め、そっと声帯を動かした。

「みつ、あき……さ、ん」
「ん。い~子」

 光昭は杏香の両足を大きく開いた。屹立し臨戦態勢の肉杭を、潤んだ隘路へとゆっくりと沈めていく。

「ん、ん゛っ……!」
「ゆっくり、息……して……」

 身体を引き裂かれるような強い破瓜の痛みに杏香の身体は無意識のうちに強張りを強めた。蜜壺の狭さは光昭の想像以上だったようで、彼も眉を顰め、ぐっと唇を噛み締めて腰を押し進めていく。

「んっ、んぅっ……」

 杏香は強い痛みに抗いながら涙を零し、シーツをこれでもかと握り締める。その様子を視認した光昭がシーツをきつく握り締めた杏香の手を自らの肩へと誘導した。杏香は無我夢中でしなやかな光昭の身体へしがみつく。

「はいっ……た」
「ふ、う、はぁあ……」

 限界まで怒張した光昭の楔を根元まで取り込んだ杏香の心の中は、喩えようもない幸福感で満たされていた。それは、初めて光昭の演奏を目にしたあの夜と同じくらいの大きさを持った感情。

「……大丈夫?」

 杏香の眦から零れ落ちていく涙を光昭が指先でゆっくりと拭っていく。杏香の蜜襞に馴染ませるように動かずにいた光昭は、不安げに杏香の顔を覗き込んでいた。

「は、ぁ……んっ、だい、じょ……ぶ、です」

 込み上げてくる幸福感を噛み締めるようにこくりと頷いた杏香は、光昭の口元に指先を当て口付けを強請った。光昭は優しく笑みを浮かべ、杏香の唇へ小さなキスを落とす。そして、ふたたび膨らみを緩やかに揉みながらゆっくりと律動を始めた。

「んっ、あんっ、……ふ、あっ」

 ゆるゆると、杏香を労るように。優しい律動が繰り返される。しばらくすると、杏香は痛みの中で確かな快感を拾うようになった。緩慢な動きだが、光昭の雄槍の先端によって確実に悦い場所を擦られていく。もう何も考えられない。汗ばんだ光昭の肌の感覚さえ、杏香には快感を引き寄せる呼び水でしかなかった。

「ああっ! みつ、あきさっ、ああっ、あぅっ」

 溺れるような官能の波が杏香の全身を襲う。自らの身体がどこかへと行ってしまいそうで、杏香は光昭の肩に置いていた手を首筋へと回した。

「っ、やば……イきそ」

 ひとりごとを小さく零した光昭も杏香の求めに呼応するかのように杏香の身体をぎゅうと抱き締める。ぴとりとくっついた肌から伝わってくる互いの早い鼓動が、ふたりをさらに高みへと誘った。

「う、うんっ、あ、も、ダメぇっ……わか、んなくなるっ」
「ちょッ、杏香ちゃ、……締めすぎっ……」
「あ、あっ、うんっ、あっ、あぅっ」

 杏香の甘い啼き声は光昭の律動に合わせて規則的なものへと変遷していく。生まれて初めての官能を覚えた杏香の腰が光昭の動きに合わせて揺らめいていく。びくびくと収斂を繰り返すやわらかな媚肉の感覚と共に、杏香の視界が白く弾ける。

「あ、あ、や、んっ……!!」
「く……っ!」

 強烈な陶酔のうねりに白い喉を晒して大きく仰け反った杏香の隧道ずいどうで、灼熱の楔が薄い膜越しにどくんと弾けた。



 ♯ ♭ ♯



 今から一年前。光昭は指を怪我し、しばらくの間ピアノが弾けなくなっていた。絶望の淵に立たされるもは待ってくれない。勤めている楽器店での仕事をこなし、バックヤードでぼうっと将来のことを考えているとき。このショッピングモールの管理事務所からテナントに向けて月一回配られる広報紙のフリーコラムで、彼女のことを知った。

『ままならない現実に疲れたとき、呼吸することと食べることだけを目標にしたらいいとアドバイスをもらったことがあって。その時、そうだなって素直に思ったんです。だから、今はそういったお手伝いができたらいいなと思ってお店に立っています。『食べること』の楽しさを知ったひとが元気になってくれますように』

 いつかピアニストとして花開くことを夢みて、高校も大学も、光昭はただひたすらに練習を重ねてきた。音大を卒業したあとは大きなホテルのレストランでの演奏やチャペルでの演奏を請け負って演者として経験を重ねた。それでも演奏家の仕事だけでは食べていけず、師範の伝手で就職した濱村楽器店で働きながら年に一度コンクールの場に立ち、ピアニストとしての夢を掴み取ろうとしていた。

 指の負傷はそのコンクールの直前。今年こそは、と意気込んで練習を重ねてきた光昭はこれまでにないほど落ち込んだ。指が治っても後遺症が残ったら? もうピアニストという夢は捨てなければならないのだろうか。その時の光昭は昏く深い絶望の淵に立たされていた。


 そんな折、想像もしないタイミングで触れた杏香の言葉は、光昭にとっての『救いの一言』だった。ピアノが弾けない自分には、何もできない、もうなんの価値も何もない、呼吸する価値さえない、と……そう思っていた。光昭はわけもわからず、広報紙を握り締めたままただただ嗚咽を零すしかなかった。


 それからリハビリに強い病院の戸を叩き、怪我をする前の状態へ戻せるよう必死に努力を積み重ねた。音楽というのは1日やらないだけで3日分腕が落ちるといわれている。鍵盤を叩く感覚や運指の技術を取り戻すため、必死に努力を重ねた。

 光昭を救ったのは杏香だが、光昭は一方的に知っているだけでいいと思っていた。……ルヴァンの店頭で、呼び込みをする彼女の姿を目にするまでは。


 衝撃で息が止まるかと思った。すっと伸びた背筋と、美しい立ち振る舞い。いついかなる時も穏やかな微笑みを絶やさない。その姿はフリーコラムで語ってたように『食べることの楽しさ』を伝えたいという真っ直ぐな信念を光昭に感じさせた。


 もうどうしようもなかった。
 姿を見てしまえば、彼女に触れたくなってしまった。


 一般の客を装ってルヴァンでパンを購入した。レジでのやり取りの際、彼女の左手人差し指の付け根にできたタコが目を引いた。光昭はそれだけで彼女が【フルート奏者】なのだと窺い知ることが出来た。人前に立つ彼女の凛とした姿は、きっとステージに立つという経験を積み重ねてきたからこそなのだと感じた。けれど、彼女の本名でインターネット上を漁っても、どこかで演奏していると言う情報は掴めなかった。


 もう、歯止めが利かなかった。
 触れてしまえば、彼女を手に入れたくなってしまった。
 気づけば、光昭は杏香に全てを絡め取られていた。
 彼女しか欲しくないとさえ思ってしまった。
 

 光昭は彼女に関する情報を出来るだけ集めた。一度だけ彼女を尾行し、彼女の自宅を把握した。勘づかれないようにルヴァンを遠巻きに眺め、彼女のシフトの規則性を調べた。それらの行動は全て楽器店での仕事や翌年のコンクールへ向けての練習の合間だったが、光昭にとっては至福の時間でもあった。

 リハビリの合間で普段は弾かないストリートピアノも弾くようになった。音楽に触れてきた彼女がどこかで見つけてくれるように、動画投稿サイトにその様子をアップロードするようにした。

 そして、夏のあの日。彼女の中番シフトの退勤時間を見計らってベイストリートで1曲弾いた。光昭の演奏に杏香が足を止めてくれるかどうかは、一か八かの賭けだった。足を止めたまま食い入るように光昭の姿を見つめていた杏香の行動で、光昭は杏香のことを『音楽の道を諦めた人間』なのだと推察した。

 その直後、彼女の自宅の近くへと引っ越した。退勤の時間をかぶらせ、『いつも一緒になりますね』と声をかけて距離を縮めようとゆっくりと外堀を埋めはじめた。


 けれど――幸か不幸か。いや、光昭にとっては僥倖の出来事ハプニングが起きた。
 酔った男たちに囲まれている彼女の姿を見た光昭は、咄嗟に計画を変更した。目の前にあるチャンスを逃すという選択肢があるわけもなかった。


 杏香に告げた『学生の時に演劇部だった』という話は嘘では無い。小学生の時のクラブ活動では、光昭は演劇部に所属していたからだ。
 邪魔者を排除したのち、光昭は杏香へゆっくりと揺さぶりをかけた。光昭が巧妙な罠を仕込んだ一言一言を放つたび、杏香は表情には出さないものの動揺しているようだった。

 もう一押し――――そう認識すれば、ゆっくりと脳が冴え渡っていった。
 杏香の潤んだ瞳に先に囚われ雁字搦めになっていたのは、光昭の方だったのだろう。彼女が欲しくて欲しくて仕方ない。そう考えていた時だった。


「もしよかったら私の家で召し上がってくださいません?」


 たった一言だった。けれど、その一言で光昭の理性は見事に焼き切れた。



 ♯ ♭ ♯



 ふっと、光昭の意識が浮上した。微睡みの中、緩やかな追憶が光昭の思考を支配していた。込み上げる欠伸を我慢することなく吐き出すと、腕の中の杏香が小さく身じろぎをする。

「……」

 杏香はすぅすぅと規則的な寝息を立てていた。その姿に、光昭は横になったまま腕を伸ばし艶のある髪に指を入れた。

(やっと……)

 欲しかった彼女を手に入れた。有り得ない偶然の積み重ねだったが、この幸運を引き寄せられたことも、光昭の努力策略の賜物だろう。光昭は、くつくつと喉の奥が鳴るのを自覚した。


(もう……逃がさない)


 淡い月明かりが差し込む、音のない夜に。
 光昭は穏やかに眠る彼女の髪を――――飽きることなく、ゆっくりと梳き続けた。
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