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本編・第二部
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ゆっくりと、オートロックを開錠する。無機質な音がして、自動ドアが開く。エレベーターに乗り込んで、大きく息を吐いた。
「……こっち、来ちゃったけど、どうしよう」
ぽつり、と呟いた言葉が、誰もいないエレベーター内に響いた。
「……今晩まで、泊めて欲しいって……連絡した方が、いいよね…」
鞄からスマホをそっと取り出して、智さんに電話をかける。長い呼び出し音が響いた。やがて、プツリ、と途切れて、留守番電話に切り替わった。
ディスプレイを確認すると、20時前……まだ、お仕事中なのだろう。ふぅ、と息をついて、何も吹き込まずに切った。
「勝手に智さん家上がったら……怒られるかな」
チン、と軽い音がして、エレベーターが到着を知らせてくれた。
「……」
いいや。怒られても、いい。鼻に残る、シトラスの香りを消し去りたい。智さんの香りに包まれたい。
(ちょっとだけお邪魔して、すぐ家に帰ろう)
カチャリ、と音を立てて私が玄関の扉を開けるのと、智さんから折り返しの着信があったのは同時だった。
「知香」
電話口から聞こえるはずの声が目の前から聞こえて。
「電話出れなくてすまない。風呂入ってたから。……どうした?」
「……っ」
濡れたままの髪も、まだ湿った身体も、気にならなかった。そのまま、智さんの胸に飛び込んだ。
ぽろぽろと、涙が溢れた。
私が、小林くんを痛めつけていることも。
見えないふりを、聞こえないふりをしていることも。
片桐さんが、私を逃がさないといったことも。
ただただ、苦しかった。
「どーした? 知香……」
ゆっくりと、背中を撫でてくれる、大きな手が、優しくて。
「……っぅ、急に来たからっ、…怒られるかなって、思って、ました」
しゃくりを上げながら話す私の背中を優しくさすったまま、智さんが笑う。
「怒るわけねぇじゃん。嬉しいよ、俺は。やっと……知香が自分から、俺を頼ってくれたってことだろ?」
ただただ、苦しかった。智さんに、こんなに優しくされてるのに。
ひたすらに………心が、苦しかった。
返事が欲しいと、朝の最寄駅で小林くんと視線を交わしたあの日以降。
一切その件には触れていない。私は何事もなかったかのように接してきた。
小林くんもそうだった。今まで通りの受け答えをしてくれていた。
だから、彼の気持ちは。ゆっくりと、「情」として昇華されていくんだろうと。そう思い込んでいた。
自分の鈍感さに、情けなさに。心が、苦しかった。
「ちょっと落ち着いたか」
智さんが背中をさすりながら声をかけてくれる。鼻声のまま、はい、と、返事をする。
「まだ喪服ってことは、夕食取ってねぇな? 腹減ってる時って思考力も低下するから。……一緒に食べよう。な?」
そんな風に笑いながら言ってくれ、私は智さんのやさしさに、ただただ泣き笑いの顔を向けるしかなかった。
リビングに行くと机の上にはたくさんのシャーレと乾燥食材と思しきものが乗っていた。入社直後に一度だけ見学に行ったことがある極東商社の商品開発部で見たような光景。不思議に思って「これは?」と、視線だけで尋ねてみる。
「池野課長からの課題」
「課題?」
智さんがいつもの寝間着のスエットを身に纏いながら「ん」と小さく頷いた。
「俺、課長代理に昇進しただろ?」
「……え!?」
昇進? 課長……代理? 日本語なのに、一瞬理解が出来なかった。
「あ……言ってねぇっけ」
しまった、という表情をする智さんの顔を精一杯睨みつけ、スエットの裾を引っ張って智さんの顔を引き寄せる。
「聞いてません! 新部門のリーダーになったっていうのは聞きましたけど」
あまりの事態に、その体勢のまま、ずいっと智さんに詰め寄る。むぅ、と、私の口先が尖っていった。困ったように智さんが頭をガシガシと搔いている。
「あ~……すまない。言ったつもりになってた」
「もう……誰よりも早く、お祝いしたかったのに…」
会社の大きな歯車になりたいと、智さんが休日にも情報収集をして努力している姿は、付き合い始めて2週間という短い時間の中でもたくさん見てきた。だからこそ、昇進したらいの一番にお祝いしてあげたかった。ふい、と、智さんが私から視線を外して、言葉を紡いだ。
「気にすんなって。んで、な。池野課長は新部門立ち上げて原料から製品の一貫サービスを展開することが夢だった」
「……そういえば、新部門は池野さんの野望だったらしいって、そんな風に言われてましたね」
お弁当を摘みながら智さんが言っていた言葉を脳裏で反芻する。
「そう。なら、課長代理になったあなたの叶えたい夢は? ……ってな」
「夢……」
「俺は今回の昇進で管理職に王手だ。ここからは、叶えたい夢を持って仕事をしろ、そして成果をあげろ……ってこったな」
一般的に課長代理は、文字通り課長不在時に業務が円滑に回るよう、その権限を代行する役割だ。その他に、新規に立ち上げた部門……今回でいえば、智さんがリーダーとなる部門。今回は、そこがうまくいくかどうかの様子見の意味もある、ということ。……つまり、三井商社現幹部の意向として。智さんの課長への昇進がほぼ内定している、ということを意味しているのだろう。
新部門の立ち上げを行いつつ、三井商社の将来の幹部となるべく自分のやりたいことを見つけて遂行するチカラをつけろ。
そういう課題を出した、ということだろう。
「………スパルタですね、池野さん」
正直に言って、30歳の若さでこれはかなりの重責なのではないか。新部門を軌道に乗せることが最優先。軌道に乗ったら課長として会社の幹部に引き立てられる。それまでに己のやりたいことを見つけて足がかりを作っておけ、ということなのだから。
「俺が入社した時から変わってねぇんだよな、そういうところ」
智さんは困ったように、それでも楽しそうに笑いながら言葉を続けていく。
「俺の夢、いろいろ考えたんだけど。やっぱ、料理が好きだから。料理の手助けになれるものを取り扱いたくて」
「だから、乾燥食材」
私の言葉に首を縦に振った智さんが、広げてあったシャーレを片付けだす。
「柚子皮とか、そういったところに目ぇつけてんだ」
「確かに、乾燥柚子皮があるだけでもお吸い物の味違いますもんね」
私の言葉に「だろ?」と同意しながら、智さんが私を振り返った。
「専用ルートないと難しいだろうけど、漢方とかスパイスとかもやってみてぇんだよな」
カチャカチャとテーブルに広がったものを片付けて楽しそうに話しだす智さんが……とても、とても愛おしくて。
「叶えなきゃですね、その夢」
……自然と。笑顔が浮かんでいた。
「………やっと、笑ったな。知香」
「え……」
唐突にそんな風に指摘され、思わず呆けた。
「ん。やっぱ、笑ってるほうがいーよ、知香は」
そういって私の頭に手を伸ばして、わしゃわしゃと髪を撫でてくれた智さんが、ふぅわりと笑った。その優しい笑顔に、あたたかい手のひらに。また、涙が零れそうになった。
シャーレをすべて片付けた智さんに促されて、ソファに沈み込む。
「昨日の残りのカレーあっためるけど、いい?」
「はい、すみません」
昨晩の夕食は智さん特製のカレーだった。鶏ガラを煮込んでスープをとり、それをベースにソテードオニオンやチャツネ、ペーストにした人参などを加えてくつくつと煮込んだ本格的なもの。夕方からキッチンでカレーを作っている智さんの笑顔がとても楽しそうで、そんな智さんをこの距離で見れることは『彼女』特権だなぁと感じたのだった。
電子レンジにカレーを放りこんで、コップと水を持ってきてくれる。チン、と音がして、カレーの良い香りが漂った。カレーとスプーンを持ってきて、隣に腰かけてくれる。
「食べながらでいい。ゆっくり話して。……何が、あった?」
智さんのその言葉に、こくり、と頷いた。
「………今日、いろいろあって。話せば、すごく長くなっちゃうんですけど」
「いーよ、聞く」
智さんがカレーをひと掬いして口に運んでいく動作を見ながら。私は、お腹は減っているのに、まだ口に入れられるような気分では全くない。
水を少しだけ口に含んで、こくりと飲み干した。ゆっくりと、息を吸う。
「………土曜日の、あの人。片桐柾臣さんと言って。うちの……中途さんでした」
「は?」
一気に智さんの声が低くなった。スプーンを持って口に運ぼうとしたその右手が固まっている。
「………すみません」
「いや……なんで知香が謝んの」
イライラしたような、怒気を孕んだ言葉をぶつけられる。思わず身を竦めた。
「なんか………怒って、ますよね。智さん」
「腹立つだろ、普通。知香を口説いたやつが知香と一緒に働く? 胸糞わりぃ」
激しい感情の渦がその瞳に宿っている。我を忘れているのか、言葉遣いが普段より荒い。
……もし、私が智さんの立場だったら。
智さんにしなだれかかる女性が、智さんとともに働くことになったとしたら。とてもとても……不愉快だ。
「……」
智さんの心のうちを想像すると、なにも言えなくなった。申し訳なさすぎて…どうしたらいいのか、わからなくなる。
「んで? まさかとは思うが、通夜終わって家教えろって付け回されてここに来たって話じゃねぇよな?」
確認するように智さんが私に向き直る。一言一句、相違がない。居た堪れなくなって、そっと顔を伏せた。
「………その通りです…」
ソファに水の入ったコップを持って縮こまったまま、私は顔を上げることが出来なかった。
「………あの野郎……………ぶち殺してやる」
ぎりっと、智さんが拳を握ったのを視界の端で認めて、私は慌てた。
「ちょっ、物騒なことはやめてくださいっ」
「………わかった。じゃ、殴るだけにしといてやる」
いや、そうじゃない。一瞬、真顔になりかかったのを必死で堪えながら、私は智さんを宥めるべく言葉を紡いだ。
「それもなしで……特に何かされたわけじゃないですから、出来れば平和的に…」
「えぇー……」
不満気に智さんが声を上げた。固まっていた右手を口に運びながら、智さんが怒りを堪えた顔で考え込んだ。
「……とりあえず、しばらくは知香ん家帰るの禁止。あっちはオートロックじゃないから、なんかあったら押し入られるかもしれない。落ち着くまでここに泊まること。……知香が早出でも俺も一緒の時間に出勤する。家割られてんなら朝から待ち伏せされてる可能性がある」
「…ぁ……」
考え、つかなかった。確かにそうだ。家を知られている。それは、朝から待ち伏せして一緒に出勤し、共に過ごす時間を確保する、というのを狙ってのことかもしれない。
「出勤前のランニングはしばらく控えて、一緒にいてやるから。……生活に必要なのは、土曜日に一式揃えてるし、泊まり込みになってもそう大して不便は無いだろう」
確かに智さんが口にした通り。先日色々なものを揃えたから、こちらで生活するにはさして不便もなさそうだ。智さんが軽く息を吐く。
「……ご迷惑かけて、すみません」
「謝んなって。知香が悪いわけじゃない。……んで? あとは?」
………やっぱり、私は智さんには隠し事なんて、出来ない。ぼんやりとそう考えながら手に持ったコップの水を見つめる。
コップの水面が揺れている。私の心の中を表すかのように。ぎゅう、と、コップを握りしめて、震える声で絞り出す。
「…………周りの人の気持ちをしっかりみろって」
「どうせあの後輩のことだろ」
「……っ、」
これから口にしようと思ったことを言い当てられて、弾かれたように顔を上げた。視界に映り込む智さんは、心底つまらなさそうにカレーを掬い上げていた。
「……こっち、来ちゃったけど、どうしよう」
ぽつり、と呟いた言葉が、誰もいないエレベーター内に響いた。
「……今晩まで、泊めて欲しいって……連絡した方が、いいよね…」
鞄からスマホをそっと取り出して、智さんに電話をかける。長い呼び出し音が響いた。やがて、プツリ、と途切れて、留守番電話に切り替わった。
ディスプレイを確認すると、20時前……まだ、お仕事中なのだろう。ふぅ、と息をついて、何も吹き込まずに切った。
「勝手に智さん家上がったら……怒られるかな」
チン、と軽い音がして、エレベーターが到着を知らせてくれた。
「……」
いいや。怒られても、いい。鼻に残る、シトラスの香りを消し去りたい。智さんの香りに包まれたい。
(ちょっとだけお邪魔して、すぐ家に帰ろう)
カチャリ、と音を立てて私が玄関の扉を開けるのと、智さんから折り返しの着信があったのは同時だった。
「知香」
電話口から聞こえるはずの声が目の前から聞こえて。
「電話出れなくてすまない。風呂入ってたから。……どうした?」
「……っ」
濡れたままの髪も、まだ湿った身体も、気にならなかった。そのまま、智さんの胸に飛び込んだ。
ぽろぽろと、涙が溢れた。
私が、小林くんを痛めつけていることも。
見えないふりを、聞こえないふりをしていることも。
片桐さんが、私を逃がさないといったことも。
ただただ、苦しかった。
「どーした? 知香……」
ゆっくりと、背中を撫でてくれる、大きな手が、優しくて。
「……っぅ、急に来たからっ、…怒られるかなって、思って、ました」
しゃくりを上げながら話す私の背中を優しくさすったまま、智さんが笑う。
「怒るわけねぇじゃん。嬉しいよ、俺は。やっと……知香が自分から、俺を頼ってくれたってことだろ?」
ただただ、苦しかった。智さんに、こんなに優しくされてるのに。
ひたすらに………心が、苦しかった。
返事が欲しいと、朝の最寄駅で小林くんと視線を交わしたあの日以降。
一切その件には触れていない。私は何事もなかったかのように接してきた。
小林くんもそうだった。今まで通りの受け答えをしてくれていた。
だから、彼の気持ちは。ゆっくりと、「情」として昇華されていくんだろうと。そう思い込んでいた。
自分の鈍感さに、情けなさに。心が、苦しかった。
「ちょっと落ち着いたか」
智さんが背中をさすりながら声をかけてくれる。鼻声のまま、はい、と、返事をする。
「まだ喪服ってことは、夕食取ってねぇな? 腹減ってる時って思考力も低下するから。……一緒に食べよう。な?」
そんな風に笑いながら言ってくれ、私は智さんのやさしさに、ただただ泣き笑いの顔を向けるしかなかった。
リビングに行くと机の上にはたくさんのシャーレと乾燥食材と思しきものが乗っていた。入社直後に一度だけ見学に行ったことがある極東商社の商品開発部で見たような光景。不思議に思って「これは?」と、視線だけで尋ねてみる。
「池野課長からの課題」
「課題?」
智さんがいつもの寝間着のスエットを身に纏いながら「ん」と小さく頷いた。
「俺、課長代理に昇進しただろ?」
「……え!?」
昇進? 課長……代理? 日本語なのに、一瞬理解が出来なかった。
「あ……言ってねぇっけ」
しまった、という表情をする智さんの顔を精一杯睨みつけ、スエットの裾を引っ張って智さんの顔を引き寄せる。
「聞いてません! 新部門のリーダーになったっていうのは聞きましたけど」
あまりの事態に、その体勢のまま、ずいっと智さんに詰め寄る。むぅ、と、私の口先が尖っていった。困ったように智さんが頭をガシガシと搔いている。
「あ~……すまない。言ったつもりになってた」
「もう……誰よりも早く、お祝いしたかったのに…」
会社の大きな歯車になりたいと、智さんが休日にも情報収集をして努力している姿は、付き合い始めて2週間という短い時間の中でもたくさん見てきた。だからこそ、昇進したらいの一番にお祝いしてあげたかった。ふい、と、智さんが私から視線を外して、言葉を紡いだ。
「気にすんなって。んで、な。池野課長は新部門立ち上げて原料から製品の一貫サービスを展開することが夢だった」
「……そういえば、新部門は池野さんの野望だったらしいって、そんな風に言われてましたね」
お弁当を摘みながら智さんが言っていた言葉を脳裏で反芻する。
「そう。なら、課長代理になったあなたの叶えたい夢は? ……ってな」
「夢……」
「俺は今回の昇進で管理職に王手だ。ここからは、叶えたい夢を持って仕事をしろ、そして成果をあげろ……ってこったな」
一般的に課長代理は、文字通り課長不在時に業務が円滑に回るよう、その権限を代行する役割だ。その他に、新規に立ち上げた部門……今回でいえば、智さんがリーダーとなる部門。今回は、そこがうまくいくかどうかの様子見の意味もある、ということ。……つまり、三井商社現幹部の意向として。智さんの課長への昇進がほぼ内定している、ということを意味しているのだろう。
新部門の立ち上げを行いつつ、三井商社の将来の幹部となるべく自分のやりたいことを見つけて遂行するチカラをつけろ。
そういう課題を出した、ということだろう。
「………スパルタですね、池野さん」
正直に言って、30歳の若さでこれはかなりの重責なのではないか。新部門を軌道に乗せることが最優先。軌道に乗ったら課長として会社の幹部に引き立てられる。それまでに己のやりたいことを見つけて足がかりを作っておけ、ということなのだから。
「俺が入社した時から変わってねぇんだよな、そういうところ」
智さんは困ったように、それでも楽しそうに笑いながら言葉を続けていく。
「俺の夢、いろいろ考えたんだけど。やっぱ、料理が好きだから。料理の手助けになれるものを取り扱いたくて」
「だから、乾燥食材」
私の言葉に首を縦に振った智さんが、広げてあったシャーレを片付けだす。
「柚子皮とか、そういったところに目ぇつけてんだ」
「確かに、乾燥柚子皮があるだけでもお吸い物の味違いますもんね」
私の言葉に「だろ?」と同意しながら、智さんが私を振り返った。
「専用ルートないと難しいだろうけど、漢方とかスパイスとかもやってみてぇんだよな」
カチャカチャとテーブルに広がったものを片付けて楽しそうに話しだす智さんが……とても、とても愛おしくて。
「叶えなきゃですね、その夢」
……自然と。笑顔が浮かんでいた。
「………やっと、笑ったな。知香」
「え……」
唐突にそんな風に指摘され、思わず呆けた。
「ん。やっぱ、笑ってるほうがいーよ、知香は」
そういって私の頭に手を伸ばして、わしゃわしゃと髪を撫でてくれた智さんが、ふぅわりと笑った。その優しい笑顔に、あたたかい手のひらに。また、涙が零れそうになった。
シャーレをすべて片付けた智さんに促されて、ソファに沈み込む。
「昨日の残りのカレーあっためるけど、いい?」
「はい、すみません」
昨晩の夕食は智さん特製のカレーだった。鶏ガラを煮込んでスープをとり、それをベースにソテードオニオンやチャツネ、ペーストにした人参などを加えてくつくつと煮込んだ本格的なもの。夕方からキッチンでカレーを作っている智さんの笑顔がとても楽しそうで、そんな智さんをこの距離で見れることは『彼女』特権だなぁと感じたのだった。
電子レンジにカレーを放りこんで、コップと水を持ってきてくれる。チン、と音がして、カレーの良い香りが漂った。カレーとスプーンを持ってきて、隣に腰かけてくれる。
「食べながらでいい。ゆっくり話して。……何が、あった?」
智さんのその言葉に、こくり、と頷いた。
「………今日、いろいろあって。話せば、すごく長くなっちゃうんですけど」
「いーよ、聞く」
智さんがカレーをひと掬いして口に運んでいく動作を見ながら。私は、お腹は減っているのに、まだ口に入れられるような気分では全くない。
水を少しだけ口に含んで、こくりと飲み干した。ゆっくりと、息を吸う。
「………土曜日の、あの人。片桐柾臣さんと言って。うちの……中途さんでした」
「は?」
一気に智さんの声が低くなった。スプーンを持って口に運ぼうとしたその右手が固まっている。
「………すみません」
「いや……なんで知香が謝んの」
イライラしたような、怒気を孕んだ言葉をぶつけられる。思わず身を竦めた。
「なんか………怒って、ますよね。智さん」
「腹立つだろ、普通。知香を口説いたやつが知香と一緒に働く? 胸糞わりぃ」
激しい感情の渦がその瞳に宿っている。我を忘れているのか、言葉遣いが普段より荒い。
……もし、私が智さんの立場だったら。
智さんにしなだれかかる女性が、智さんとともに働くことになったとしたら。とてもとても……不愉快だ。
「……」
智さんの心のうちを想像すると、なにも言えなくなった。申し訳なさすぎて…どうしたらいいのか、わからなくなる。
「んで? まさかとは思うが、通夜終わって家教えろって付け回されてここに来たって話じゃねぇよな?」
確認するように智さんが私に向き直る。一言一句、相違がない。居た堪れなくなって、そっと顔を伏せた。
「………その通りです…」
ソファに水の入ったコップを持って縮こまったまま、私は顔を上げることが出来なかった。
「………あの野郎……………ぶち殺してやる」
ぎりっと、智さんが拳を握ったのを視界の端で認めて、私は慌てた。
「ちょっ、物騒なことはやめてくださいっ」
「………わかった。じゃ、殴るだけにしといてやる」
いや、そうじゃない。一瞬、真顔になりかかったのを必死で堪えながら、私は智さんを宥めるべく言葉を紡いだ。
「それもなしで……特に何かされたわけじゃないですから、出来れば平和的に…」
「えぇー……」
不満気に智さんが声を上げた。固まっていた右手を口に運びながら、智さんが怒りを堪えた顔で考え込んだ。
「……とりあえず、しばらくは知香ん家帰るの禁止。あっちはオートロックじゃないから、なんかあったら押し入られるかもしれない。落ち着くまでここに泊まること。……知香が早出でも俺も一緒の時間に出勤する。家割られてんなら朝から待ち伏せされてる可能性がある」
「…ぁ……」
考え、つかなかった。確かにそうだ。家を知られている。それは、朝から待ち伏せして一緒に出勤し、共に過ごす時間を確保する、というのを狙ってのことかもしれない。
「出勤前のランニングはしばらく控えて、一緒にいてやるから。……生活に必要なのは、土曜日に一式揃えてるし、泊まり込みになってもそう大して不便は無いだろう」
確かに智さんが口にした通り。先日色々なものを揃えたから、こちらで生活するにはさして不便もなさそうだ。智さんが軽く息を吐く。
「……ご迷惑かけて、すみません」
「謝んなって。知香が悪いわけじゃない。……んで? あとは?」
………やっぱり、私は智さんには隠し事なんて、出来ない。ぼんやりとそう考えながら手に持ったコップの水を見つめる。
コップの水面が揺れている。私の心の中を表すかのように。ぎゅう、と、コップを握りしめて、震える声で絞り出す。
「…………周りの人の気持ちをしっかりみろって」
「どうせあの後輩のことだろ」
「……っ、」
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