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本編・第二部
69 溺れて、いるのだ。
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「はじめまして。邨上智と申します」
らしくなく、声が震えた。絢子の両親に挨拶に行くときも、ここまで緊張はしていなかった。落ち着け、と。心の中で己を叱咤する。
『……はじめまして。父の、博之です』
思ったよりも深みのある声だった。知香の声が、鈴を転がすような声だからか…電話口の声と、結びつかず。
ゆっくりと息を吸い、緊張で固まる脳に酸素を必死で送りながら、声をかけた。
「この度は事後報告になってしまい、申し訳ありません。知香さんと、結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
『……うん。智さん。知香に、聞こえないところに行けるかな』
……これは。事後報告を怒られるパターンだ。初っ端から印象最悪ではないか。結婚前提、という言葉が、自分の中で遠くなる。ぐらりと眩暈がおきそうになるのをぐっと堪えた。やはり、クリスマスの日に無理にでも電話をかけさせて挨拶しておくべきだっただろうか。
目を瞑り、ゆっくりと息を吸う。
「………はい、少々お待ちください」
その言葉を紡いで、目を開く。どんな誹りも受け入れる覚悟を決めて、知香を振り返った。
「知香に聞こえないところで話したいってことだから、ベランダ行ってくる」
知香の瞳が、不安で揺れている。知香を安心させるように。そして……己を奮い立たせるように。ふっと、笑みを浮かべて、ベランダへ続く窓をガラリと開けた。
『……知香の、過去のことは知っているのかい?』
ベランダに出ての、博之さんの第一声が、それだった。思わず息を飲む。
「……はい。僕も、同じような経験を、しています」
『そう、なのか』
スピーカーから驚いたような声が聞こえてきた。ぐっと唇を噛み締め、一気に言葉を吐き出した。
「……僕の場合は、彼女の方から婚約破棄を言い渡されました。僕は、知香さんの取引先で食品の営業をしています。彼女は、僕に公務員になって欲しいと、安定した生活がしたい、と願っていました。けれど、僕は今の仕事が好きで……それを、拒みました。それ故に、婚約破棄という形に至りました。彼女の願いを僕のエゴで拒み、婚約破棄となったのは当然ながら僕に非があります。それは否定しません。だから、博之さんが、知香さんに僕がふさわしくないと思われても、仕方ないと思っています」
『……』
沈黙が続く。けれど、俺は言葉を紡がなければならなかった。知香との……未来のために。
「それでも、僕は。知香さんに……救われたんです。僕の全てを否定されて、全てを砕かれて。それでも……それでも、何も聞かず、何も言わず。そばに寄り添って、僕を救い上げてくれた、知香さんを……世界一、幸せにしたいと思っています」
昨日の朝。知香が、狸寝入りをしている俺にくれた言葉。俺が、どれだけ嬉しかったか。知香には、きっと伝わってなどいないだろうが。当の昔に使い古されたような【愛している】という言葉よりも、破壊力のある一言だった。これだけで、俺はもう死んでもいいと思えるくらい……幸せを感じた。
『……そう、か……』
「はい」
博之さんの、大きなため息が聞こえる。長い長い、永遠とも思えるような沈黙があった。不意に、深みのある声が痛みを孕んだように響いた。
『……私の家内……知香の母親。もともと心臓病があって、病弱でな。知香の出産の時も、危うかった。それ以降、入退院を繰り返している。今は、落ち着いているのだけどね』
「……」
初耳だった。知香の両親の話は、あまり本人が口にしたがらない。複雑な家庭なのだろうか、と思っていた頃もあった。だからこそ、知香が話す気になったら聞こうと思っていたことだった。
『私は、家内の医療費と知香の教育費を賄うために必死で働いた。母親は入退院を繰り返し、父親は激務でいない。そんな知香が……同世代よりも大人びていくのは、必然だったと思う』
ふぅ、と、博之さんが息をついた。
「……そ、れは…」
知香の、一見大人びたような、落ち着いた雰囲気は、そこから来ているのか。深いところに触れれば、子どもっぽいところも、表情と考えていることが直結していてわかりやすいところも……少し、ドジなところも見えてくるが。
『だからこそ……だからこそ、だ。知香は一人っ子だというのに、甘える、という経験をほとんどしてこなかった。唯一記憶にあるのは…幼稚園に入った初めの年に、私はお友達と違う、クリスマスケーキと誕生日ケーキが別々じゃない、と、泣いた事くらいだ』
そう言えば。誕生日がいつか、という話題になった時に、そういうエピソードを聞いた。微笑ましいエピソードだな、と思っていたが、そのタイミングで自分の家庭のことに気がつき……独りで、なんでもこなす様になったのか。
博之さんが、また軽くため息をついた。
『私はお友達と違う。それに気がついたら、自分の家庭が他の家庭と少し違うことに気がつくのも必然だった。そうして、自分の願いを押し殺すようになったのだよ。良くも悪くも、幼い時点から…他人に頼る、という選択肢が頭から消え去ってしまった』
心当たりがありすぎる。知香は、これまで俺に頼ろうとしてこなかった。
凛と。水面に一輪咲き誇る、蓮の花のように……彼女は、いつだって、独りで。
だからこそ……今日、片桐に付け回され、不安を感じ、自宅に帰らずに、こちらを選んでくれた、というのが。
不謹慎ながらも、とても嬉しかったのだ。
『実際、総合職になるということも、知香の独断だった。私も驚いたよ』
「……独断、だったんですか」
『他人に頼る経験をしてこなかったからこそ……凌牙くんは、物足りなかったんだろうね。知香は独りで、何でも解決してしまうから』
女に頼られてなんぼだと思っている男はこの世にうじゃうじゃいる。大抵の男は「頼られることで自分の存在価値を確認している」からだ。
俺も、その中のひとりにすぎない。
他人に頼られる、ということは。必要とされているから起こりうる状況であるから。故に、身近な存在……恋人である存在に頼られないということは、恋人からの愛情を信じられなくなり、自分には存在価値が無いのか、と……苦悩するという事態に直結する。
そうした流れの中、元カノ……元奥さんに頼られたことで自分の存在価値を再確認した。それ故に、浮気に走った。知香を捨て、承認欲求を満たせる存在に……走った。
博之さんは知香の過去のことをそう考えているのだ。
「それは、違うと思います」
ぐっと拳を握った。……どんなに愛情を向けたって、他者に目移りする輩は存在する。人間である以上、それは誰にだって訪れる煩悩に過ぎない。決して、知香の所為では。
『いや、違わないよ。これから先の人生を考えるなら、他人に頼ることを覚えなければならない。実際、女性は子どもを授かったら、一人では立ち回れない』
思わず息を飲んだ。……言葉が、出なかった。
子どもを、授かったならば。否応なしに、産み落とした人間の人生を背負っていくことになる。だからこそ、独りで抱え込まず、他人を頼ることを覚えなければならない。
博之さんのいうことは、正論だった。
俺には―――到底、思いつきもしない視点。
『知香にとっては、大変な痛手だっただろう。私たちの所為で、知香の今の性格を形成させてしまったのだから。私たちは……知香に、謝っても謝りきれないことをしたと、思っている』
「……そう、だったんですか」
『私たちの事情に知香を振り回してしまった。詫びようもない。そう思っている』
ふたたび沈黙が訪れる。深みのある声が……俺を強く揺さぶった。
『智さん。私たちは、知香にもう二度と傷ついて欲しくないんだ。……君は、知香に頼られなくても、知香を捨てないかい』
「捨てるつもりは毛頭ありません」
即答した。愚問、だとすら思った。びゅう、と、強い風がベランダに吹き付けた。まるで、俺の強い意志を現すかのように。
「僕を救ってくれた知香さんを、僕から手放すつもりはありません」
ぐっと。また、拳を握りしめた。手放すつもりなんて、ない。
知香は知らないだろう。知香を縛り付けて……誰にも渡したくない、と。監禁して誰の目にも映したくない、と願うほどの劣情を抱えている、俺の本心を。
「……正直な話、知香さんを、僕から逃がすつもりも、ありません」
『そうか……君は、知香を逃がしてくれるつもりはないんだな』
はは、と、電話の向こう側で笑い声が響いた。
『それにしても、職場の人とトラブルを起こして付き纏われる、とはね。知香はあまりそのようなタイプではないと思っていたのだが……何があったのか、詳しく知っているかい?』
知香は基本的に温厚だ。穏やかな、争いを好まない性格をしている。だからこそ博之さんの疑問は当然のことだった。片桐のことも、本人の意図しない形での展開を迎えている。親に心配をかけたくなくて知香は先ほど言葉を濁したのだろうが、ここで下手に隠すより事実を端的に述べた方が……今後何かが起こった時のためになる。土曜日にチラリと見遣ったヘーゼル色の瞳を脳裏に思い浮かべ、ぐっと拳を握った。
「同僚が……知香さんに言い寄っているそうで。今日は、自宅を教えろと付け回されたようでした。それで、僕の家に駆け込んだそうで」
ひゅっと、博之さんが息をのんだ。驚いたような声で、語り掛けられる。
『それは、知香が、自分からってことかい?』
「はい」
電話口の向こう側の博之さんが、ふぅとため息をついている。考え込むような沈黙が訪れた。
『智さん。知香を、よろしく頼むよ』
一瞬、意味が分からなかった。紡がれた言葉の意味を理解して、軽く呼吸が止まる。
―――合格、を、貰えた。
それを理解した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……っ、はい。僕の命に代えても、彼女を守り、幸せにします」
『おや、まるで結婚の挨拶のようだね』
くすり、と。博之さんが楽しそうに笑う声が聞こえた。
「お許しがでるなら、すぐにでも結婚させていただきたいくらい知香さんのことを大切に想っています」
『……そうか……いいひとに、出会えたんだね、知香』
俺の紛れもない本心に、ふっと。博之さんが、また笑ったように感じた。
『知香の自宅は、近いうちに引き払うといい』
「……えっ」
思いがけない言葉に動揺した。カタリ、と。ベランダに置いている灰皿が、揺れる。
『智さんの過去のことや、今の話を聞いて、君は信用に値すると思った。知香を、よろしく頼む。……守って、やってくれ』
「は、い。ありがとうございます」
『お正月は知香も帰ってこなかったから、家内も寂しがっていたよ。ゴールデンウィークにでも、一緒に帰っておいで』
ぐっと、拳を握る。
頼む、という言葉の重さと。帰っておいで、という言葉に込められた信頼に。
……応えない選択肢は。俺には存在、しない。
「ありがとう、ございます。必ず、ご挨拶に伺わせていただきます」
『家内の、彌月には…私から話しておくよ。知香が決めたことなら、大丈夫』
くれぐれも、よろしく頼む。そう言って、博之さんが電話を切った。
---
耳からスマホを下ろした。心臓がうるさい。それ以上に…ほっとした。大きく深呼吸を繰り返す。ゆっくり、ゆっくりと。
完全な事後報告で。罵られてもおかしくない状況だった。だというのに、しっかりと話を聞いてくれた。紛れもなく……知香の、親御さんだ。この親にして、この子あり。そう感じた。
ゆっくりと、室内に戻る。知香に、あっちは引き払うように言われたと伝え、その華奢な体を掻き抱いた。
力の限りぎゅう、と俺を抱き締め返す知香。その頭を撫でていると、ふと気になる事柄が脳裏に浮かび小さく訊ねた。
「なぁ……片桐に、なんかされなかった?」
「えっ」
びくり、と。知香が俺の胸の中で身動ぎをした。知香は、わかりやすい。こういうところも含めて。意図して声を低くして、知香に問いかける。
「……どこ、触られた」
「えっと……右手首を……掴まれて」
その言葉を最後まで聞き入れず即座に右手首を握る。白魚のような指と、その華奢な手首にキスの雨を降らせた。甘い吐息が、漏れていく。
「……消毒」
そう呟いて、知香を強引にベッドに引き摺り込んだ。
「やっ。今日はっ、もう……寝かせてっ」
「うん。寝よう」
俺のその言葉に、知香がぴしりと固まる。
「……え」
「ん? ……もしかして、今から抱いていーの?」
期待してたのか、と……カマをかける。本当に、知香はわかりやすい。俺を見つめている顔があっという間に真っ赤になっていく。
「……っ、智さんの、バカ!!」
そう言い放ち、知香はくるりと背中を向けた。
その表情も、その甘い声も。……知香の全てを。本当に、誰にも見せたくないほど愛しく感じている。
―――この家に、閉じ込めておきたい。片桐の目になんか、映してやりたくない。
この家から出さず、閉じ込めて。誰の目にも触れさせたくない。俺だけを、その瞳に映して欲しい。
むくむくと湧きあがる劣情。醜い感情とはわかっている。
けれどそれを実行すれば…知香が、哀しむだけだ。
知香は、強い。俺よりも、強い。凛とした意思を貫く強さを、持ち合わせているのだから。
だから、ここに閉じ込めておくことはできない。
それでも。仔犬にも、狂犬にも、……蛇にも。知香をくれてやるつもりは、ない。
博之さんにも話した通り。知香を、俺から逃がす気は、ない。それほどまでに、俺は。
俺は……彼女に。溺れて、いるのだ。
らしくなく、声が震えた。絢子の両親に挨拶に行くときも、ここまで緊張はしていなかった。落ち着け、と。心の中で己を叱咤する。
『……はじめまして。父の、博之です』
思ったよりも深みのある声だった。知香の声が、鈴を転がすような声だからか…電話口の声と、結びつかず。
ゆっくりと息を吸い、緊張で固まる脳に酸素を必死で送りながら、声をかけた。
「この度は事後報告になってしまい、申し訳ありません。知香さんと、結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
『……うん。智さん。知香に、聞こえないところに行けるかな』
……これは。事後報告を怒られるパターンだ。初っ端から印象最悪ではないか。結婚前提、という言葉が、自分の中で遠くなる。ぐらりと眩暈がおきそうになるのをぐっと堪えた。やはり、クリスマスの日に無理にでも電話をかけさせて挨拶しておくべきだっただろうか。
目を瞑り、ゆっくりと息を吸う。
「………はい、少々お待ちください」
その言葉を紡いで、目を開く。どんな誹りも受け入れる覚悟を決めて、知香を振り返った。
「知香に聞こえないところで話したいってことだから、ベランダ行ってくる」
知香の瞳が、不安で揺れている。知香を安心させるように。そして……己を奮い立たせるように。ふっと、笑みを浮かべて、ベランダへ続く窓をガラリと開けた。
『……知香の、過去のことは知っているのかい?』
ベランダに出ての、博之さんの第一声が、それだった。思わず息を飲む。
「……はい。僕も、同じような経験を、しています」
『そう、なのか』
スピーカーから驚いたような声が聞こえてきた。ぐっと唇を噛み締め、一気に言葉を吐き出した。
「……僕の場合は、彼女の方から婚約破棄を言い渡されました。僕は、知香さんの取引先で食品の営業をしています。彼女は、僕に公務員になって欲しいと、安定した生活がしたい、と願っていました。けれど、僕は今の仕事が好きで……それを、拒みました。それ故に、婚約破棄という形に至りました。彼女の願いを僕のエゴで拒み、婚約破棄となったのは当然ながら僕に非があります。それは否定しません。だから、博之さんが、知香さんに僕がふさわしくないと思われても、仕方ないと思っています」
『……』
沈黙が続く。けれど、俺は言葉を紡がなければならなかった。知香との……未来のために。
「それでも、僕は。知香さんに……救われたんです。僕の全てを否定されて、全てを砕かれて。それでも……それでも、何も聞かず、何も言わず。そばに寄り添って、僕を救い上げてくれた、知香さんを……世界一、幸せにしたいと思っています」
昨日の朝。知香が、狸寝入りをしている俺にくれた言葉。俺が、どれだけ嬉しかったか。知香には、きっと伝わってなどいないだろうが。当の昔に使い古されたような【愛している】という言葉よりも、破壊力のある一言だった。これだけで、俺はもう死んでもいいと思えるくらい……幸せを感じた。
『……そう、か……』
「はい」
博之さんの、大きなため息が聞こえる。長い長い、永遠とも思えるような沈黙があった。不意に、深みのある声が痛みを孕んだように響いた。
『……私の家内……知香の母親。もともと心臓病があって、病弱でな。知香の出産の時も、危うかった。それ以降、入退院を繰り返している。今は、落ち着いているのだけどね』
「……」
初耳だった。知香の両親の話は、あまり本人が口にしたがらない。複雑な家庭なのだろうか、と思っていた頃もあった。だからこそ、知香が話す気になったら聞こうと思っていたことだった。
『私は、家内の医療費と知香の教育費を賄うために必死で働いた。母親は入退院を繰り返し、父親は激務でいない。そんな知香が……同世代よりも大人びていくのは、必然だったと思う』
ふぅ、と、博之さんが息をついた。
「……そ、れは…」
知香の、一見大人びたような、落ち着いた雰囲気は、そこから来ているのか。深いところに触れれば、子どもっぽいところも、表情と考えていることが直結していてわかりやすいところも……少し、ドジなところも見えてくるが。
『だからこそ……だからこそ、だ。知香は一人っ子だというのに、甘える、という経験をほとんどしてこなかった。唯一記憶にあるのは…幼稚園に入った初めの年に、私はお友達と違う、クリスマスケーキと誕生日ケーキが別々じゃない、と、泣いた事くらいだ』
そう言えば。誕生日がいつか、という話題になった時に、そういうエピソードを聞いた。微笑ましいエピソードだな、と思っていたが、そのタイミングで自分の家庭のことに気がつき……独りで、なんでもこなす様になったのか。
博之さんが、また軽くため息をついた。
『私はお友達と違う。それに気がついたら、自分の家庭が他の家庭と少し違うことに気がつくのも必然だった。そうして、自分の願いを押し殺すようになったのだよ。良くも悪くも、幼い時点から…他人に頼る、という選択肢が頭から消え去ってしまった』
心当たりがありすぎる。知香は、これまで俺に頼ろうとしてこなかった。
凛と。水面に一輪咲き誇る、蓮の花のように……彼女は、いつだって、独りで。
だからこそ……今日、片桐に付け回され、不安を感じ、自宅に帰らずに、こちらを選んでくれた、というのが。
不謹慎ながらも、とても嬉しかったのだ。
『実際、総合職になるということも、知香の独断だった。私も驚いたよ』
「……独断、だったんですか」
『他人に頼る経験をしてこなかったからこそ……凌牙くんは、物足りなかったんだろうね。知香は独りで、何でも解決してしまうから』
女に頼られてなんぼだと思っている男はこの世にうじゃうじゃいる。大抵の男は「頼られることで自分の存在価値を確認している」からだ。
俺も、その中のひとりにすぎない。
他人に頼られる、ということは。必要とされているから起こりうる状況であるから。故に、身近な存在……恋人である存在に頼られないということは、恋人からの愛情を信じられなくなり、自分には存在価値が無いのか、と……苦悩するという事態に直結する。
そうした流れの中、元カノ……元奥さんに頼られたことで自分の存在価値を再確認した。それ故に、浮気に走った。知香を捨て、承認欲求を満たせる存在に……走った。
博之さんは知香の過去のことをそう考えているのだ。
「それは、違うと思います」
ぐっと拳を握った。……どんなに愛情を向けたって、他者に目移りする輩は存在する。人間である以上、それは誰にだって訪れる煩悩に過ぎない。決して、知香の所為では。
『いや、違わないよ。これから先の人生を考えるなら、他人に頼ることを覚えなければならない。実際、女性は子どもを授かったら、一人では立ち回れない』
思わず息を飲んだ。……言葉が、出なかった。
子どもを、授かったならば。否応なしに、産み落とした人間の人生を背負っていくことになる。だからこそ、独りで抱え込まず、他人を頼ることを覚えなければならない。
博之さんのいうことは、正論だった。
俺には―――到底、思いつきもしない視点。
『知香にとっては、大変な痛手だっただろう。私たちの所為で、知香の今の性格を形成させてしまったのだから。私たちは……知香に、謝っても謝りきれないことをしたと、思っている』
「……そう、だったんですか」
『私たちの事情に知香を振り回してしまった。詫びようもない。そう思っている』
ふたたび沈黙が訪れる。深みのある声が……俺を強く揺さぶった。
『智さん。私たちは、知香にもう二度と傷ついて欲しくないんだ。……君は、知香に頼られなくても、知香を捨てないかい』
「捨てるつもりは毛頭ありません」
即答した。愚問、だとすら思った。びゅう、と、強い風がベランダに吹き付けた。まるで、俺の強い意志を現すかのように。
「僕を救ってくれた知香さんを、僕から手放すつもりはありません」
ぐっと。また、拳を握りしめた。手放すつもりなんて、ない。
知香は知らないだろう。知香を縛り付けて……誰にも渡したくない、と。監禁して誰の目にも映したくない、と願うほどの劣情を抱えている、俺の本心を。
「……正直な話、知香さんを、僕から逃がすつもりも、ありません」
『そうか……君は、知香を逃がしてくれるつもりはないんだな』
はは、と、電話の向こう側で笑い声が響いた。
『それにしても、職場の人とトラブルを起こして付き纏われる、とはね。知香はあまりそのようなタイプではないと思っていたのだが……何があったのか、詳しく知っているかい?』
知香は基本的に温厚だ。穏やかな、争いを好まない性格をしている。だからこそ博之さんの疑問は当然のことだった。片桐のことも、本人の意図しない形での展開を迎えている。親に心配をかけたくなくて知香は先ほど言葉を濁したのだろうが、ここで下手に隠すより事実を端的に述べた方が……今後何かが起こった時のためになる。土曜日にチラリと見遣ったヘーゼル色の瞳を脳裏に思い浮かべ、ぐっと拳を握った。
「同僚が……知香さんに言い寄っているそうで。今日は、自宅を教えろと付け回されたようでした。それで、僕の家に駆け込んだそうで」
ひゅっと、博之さんが息をのんだ。驚いたような声で、語り掛けられる。
『それは、知香が、自分からってことかい?』
「はい」
電話口の向こう側の博之さんが、ふぅとため息をついている。考え込むような沈黙が訪れた。
『智さん。知香を、よろしく頼むよ』
一瞬、意味が分からなかった。紡がれた言葉の意味を理解して、軽く呼吸が止まる。
―――合格、を、貰えた。
それを理解した瞬間、心臓が大きく跳ねた。
「……っ、はい。僕の命に代えても、彼女を守り、幸せにします」
『おや、まるで結婚の挨拶のようだね』
くすり、と。博之さんが楽しそうに笑う声が聞こえた。
「お許しがでるなら、すぐにでも結婚させていただきたいくらい知香さんのことを大切に想っています」
『……そうか……いいひとに、出会えたんだね、知香』
俺の紛れもない本心に、ふっと。博之さんが、また笑ったように感じた。
『知香の自宅は、近いうちに引き払うといい』
「……えっ」
思いがけない言葉に動揺した。カタリ、と。ベランダに置いている灰皿が、揺れる。
『智さんの過去のことや、今の話を聞いて、君は信用に値すると思った。知香を、よろしく頼む。……守って、やってくれ』
「は、い。ありがとうございます」
『お正月は知香も帰ってこなかったから、家内も寂しがっていたよ。ゴールデンウィークにでも、一緒に帰っておいで』
ぐっと、拳を握る。
頼む、という言葉の重さと。帰っておいで、という言葉に込められた信頼に。
……応えない選択肢は。俺には存在、しない。
「ありがとう、ございます。必ず、ご挨拶に伺わせていただきます」
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くれぐれも、よろしく頼む。そう言って、博之さんが電話を切った。
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完全な事後報告で。罵られてもおかしくない状況だった。だというのに、しっかりと話を聞いてくれた。紛れもなく……知香の、親御さんだ。この親にして、この子あり。そう感じた。
ゆっくりと、室内に戻る。知香に、あっちは引き払うように言われたと伝え、その華奢な体を掻き抱いた。
力の限りぎゅう、と俺を抱き締め返す知香。その頭を撫でていると、ふと気になる事柄が脳裏に浮かび小さく訊ねた。
「なぁ……片桐に、なんかされなかった?」
「えっ」
びくり、と。知香が俺の胸の中で身動ぎをした。知香は、わかりやすい。こういうところも含めて。意図して声を低くして、知香に問いかける。
「……どこ、触られた」
「えっと……右手首を……掴まれて」
その言葉を最後まで聞き入れず即座に右手首を握る。白魚のような指と、その華奢な手首にキスの雨を降らせた。甘い吐息が、漏れていく。
「……消毒」
そう呟いて、知香を強引にベッドに引き摺り込んだ。
「やっ。今日はっ、もう……寝かせてっ」
「うん。寝よう」
俺のその言葉に、知香がぴしりと固まる。
「……え」
「ん? ……もしかして、今から抱いていーの?」
期待してたのか、と……カマをかける。本当に、知香はわかりやすい。俺を見つめている顔があっという間に真っ赤になっていく。
「……っ、智さんの、バカ!!」
そう言い放ち、知香はくるりと背中を向けた。
その表情も、その甘い声も。……知香の全てを。本当に、誰にも見せたくないほど愛しく感じている。
―――この家に、閉じ込めておきたい。片桐の目になんか、映してやりたくない。
この家から出さず、閉じ込めて。誰の目にも触れさせたくない。俺だけを、その瞳に映して欲しい。
むくむくと湧きあがる劣情。醜い感情とはわかっている。
けれどそれを実行すれば…知香が、哀しむだけだ。
知香は、強い。俺よりも、強い。凛とした意思を貫く強さを、持ち合わせているのだから。
だから、ここに閉じ込めておくことはできない。
それでも。仔犬にも、狂犬にも、……蛇にも。知香をくれてやるつもりは、ない。
博之さんにも話した通り。知香を、俺から逃がす気は、ない。それほどまでに、俺は。
俺は……彼女に。溺れて、いるのだ。
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