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本編・第二部

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「せ~んぱい? 今日は何の日でしょう~?」

 三木ちゃんが明るい髪を揺らしてニッコリと微笑みながら、お弁当を摘んでいる私に笑いかけた。

(今日? なにかあったかしら…)

 仕事のスケジュールを脳内に思い浮かべるも、心当たりはない。思わず、むぅ、と、口を尖らせて考える。

「うーん? 今日……14日?…あ!」

 今日は、3月…14日。ホワイトデー。

「そうです! はい、先輩。私からのホワイトデーですっ!」

 ひらり、と、ラッピングのリボンが揺らめいて。私の前に鮮やかなオレンジ色の箱が置かれていく。その光景に、驚きのあまり目を白黒させた。

「え!? 私、バレンタインあげていないのに…」

 そう、私はバレンタインは智さん以外にはあげていない。だから、こうして職場でホワイトデーのお返しを貰うなんて思ってもいなかった。ゆっくりと瞬きをして、目の前にあるブラックのアイライナーに彩られた勝気な瞳を見つめ返す。

「えぇ? 貰いましたよ? バレンタインの翌週に」

 きょとん、と。三木ちゃんが首を傾げる。その言葉に心当たりがなくて必死に考えを巡らせた。

 そして。バレンタイン前日に、随分と初歩的なミスをしてみんなに手伝って貰ったあの光景が脳裏に蘇る。片桐さんに仕事の抱え込みを指摘された……あの時。

 それが、片桐さんが張っている囲い込みの罠かもしれないから…警戒してくれ、と……ダークブラウンの真剣な瞳に貫かれた瞬間のことをも思い出して。心のうちでふるりと頭を振って、三木ちゃんに向き直る。

「あ、あれは私のミスをカバーしてくれたお礼よ? 気を遣わなくてよかったのに」

 あの時、三木ちゃんには仕事の順番の入れ替えをやって貰って、遠くの銀行まで行ってもらったから……相当な負担だったと思う。そう思って、三木ちゃんにはお値段は張るけれど地元の自慢の銘菓を実家にお願いして送ってもらい、お礼として手渡した。

 目の前に座る三木ちゃんが食堂で頼んだハンバーグをお箸で器用に割りながら、口の先を尖らせてじとっと私を見つめる。

「いいんです! 私がホワイトデーにかこつけて、先輩にあげたかっただけです。受け取ってくださいよぅ」

 ……だから、三木ちゃん。そのジト目、貴方の綺麗な顔に合ってないよ。そんなことを心の中で呟きながら三木ちゃんの顔と、目の前に置かれたオレンジの包装紙を交互に見遣った。

「ぅう~…なんだか申し訳なさすぎて受け取れない…」

 やっぱり、これは受け取れない。だって、仕事を手伝ってもらったお礼に対する、お礼だなんて……筋が通らないような、そんな気がする。

「先輩の喜ぶ顔を想像しながら選んだんですぅ~…お願いします! 受け取ってくださいっ」

 瞬時に、うるっと。勝気な瞳が大きく揺れて、湿っていくのがわかった。

 ……ここまで言われて、涙まで浮かべられて。その気持ちを無下にするのは心苦しい。

「………三木ちゃんがそこまでいうなら…ごめんね? ありがとう」

 一気に言い終えて、ぎゅっと唇を結んで。ぺこりと頭を下げると、三木ちゃんが満足そうに笑う笑顔が目に入った。

 同性の私から見ても、三木ちゃんって本当に可愛いなぁ、と思う。仕事も出来る上に、その場の意見の纏め役も出来て。こうやって気配りも出来て、美人で……笑顔も、こんなにキラキラして、とても魅力的なのに。

 この前、三木ちゃんが振られました、と声を震わせていたことを思い出すと、思わず眉間に皺がよる。

 ……こんなに魅力的な三木ちゃんを振ったという男の人が信じられない。その男の人が目の前にいたら思いっきり頬を引っぱたいてやるのに。

 ゴールドのラメが編み込まれた、イエローのリボンが社員食堂の無機質な照明に煌めいている。箱に手を伸ばして「開けていい?」と、視線で訊ねると、「もちろん」という視線が返ってきた。

 何が入っているのかな。逸る気持ちを押さえながら、ゆっくりとリボンを解いて開封していく。

「わ………!! 可愛い!」

 そこに詰め込まれていたのは、リアルな薔薇の形をした入浴剤だった。赤、青、黄、オレンジ、水色の5色。一輪一輪が、筆記体で『Bath additive』と書かれた別々のクリアケースに、ちょこん、と、飾られている。

「泡風呂になる入浴剤なんです! 綺麗でしょ? 私のお気に入りなんです…!」

 ふふん、と。自慢げに三木ちゃんが笑っていた。赤い薔薇の箱を手に取ってじっと観察する。まるで本物の薔薇みたいに綺麗な造形をしている。花びらの葉脈までが繊細に再現されていた。

「綺麗……」

 そう呟いて、うっとりと。その繊細な造形を見つめた。

「ソープフラワーはメジャーでしょ? だから同じ形の別の何かにしたかったんです」

 三木ちゃんが外箱をすっと触ると、説明が書いてある小さな紙を手に取った。

「入浴剤が薔薇の花びらになってるんです。一枚ずつ剥がして、湯船に置いて、それからお湯を溜めてくださいね。そうすると、お湯が溜まる勢いで泡になっていくので」
「わぁ…ほんと、ありがとう! 素敵」

 こんなにワクワクする贈り物を貰ったのは久しぶりかもしれない。あと数日で智さんが日本を発つから、早速今夜のお風呂で使わせてもらって……先に智さんに入ってもらって、感想を聞いてから私も入ろう。

「ほのかにいい香りもするんですよ! しゅわしゅわの泡の肌触りも気持ちいいので、香りと泡の感触を……と一緒に、楽しんでくださいね?」

 三木ちゃんが何かを企んでいるように、悪戯っぽく笑う。その言葉の意味を理解して顔が熱くなっていくのを自覚した。

「っ、もうっ、三木ちゃんってば、何言ってるのっ?」

 三木ちゃんの言葉の直前に智さんのことを考えていたから余計に恥ずかしかった。赤い顔を必至で隠しながら三木ちゃんを恨めしく見つめる。


 私のその表情に三木ちゃんがくすくすと笑って。その笑顔が、嬉しそうなのに、なんとなく……違和感がある。強いていうなら、儚い、と表現するのが適切な気がして。


 先月も、こうやって社員食堂ここで話しているときに、一瞬だけ違和感のある表情をしていたのを思い出した。僅かに翳った勝気な瞳が、瞬時にいつもの瞳に戻ったあの光景が目の前に浮かんでくる。

(あのときの…悩みごと? 解決していないのかなぁ……?)

 その次の週に約束通り食事に行ったけれど、その時にも聞き損ねてしまっていたのだった。かといって、三木ちゃんが自分から話してくれないことを無理に聞き出すのも……気が引ける。

 相談に乗ってあげたい気持ちはあるけれど…どう声をかけたらいいのだろう。

 つぅ、と。手元のお弁当に視線を落とした。

 智さんが毎日作ってくれているお弁当。このささやかな幸せを手にするまで、辛いことも苦しいこともたくさんあった。すれ違うことも、ぶつかることもあった。

 だけど。報われない苦しみなんて、ないんだと……そう、素直に思うから。




「三木ちゃん。私はいつだって、三木ちゃんの味方だよ。今は辛いと思うけど、絶対報われる日がくるから。三木ちゃんは間違ってなんかないと思うよ」 



 ……自然と、その言葉が出てきた。三木ちゃんが抱えている事情は、私にはわからない。だけど、この言葉を言わなきゃならないような、そんな気がした。

 三木ちゃんの勝気な瞳が、大きく見開かれて、揺れた。三木ちゃんが、なにか一言を言い出そうと口を動かした……その、瞬間。










「知香ちゃ~ん? 俺からも、はい。ホワイトデー」


 人懐っこい声が、真横から割り込んでくる。癪に障るようなその声の方向を振り向くと。いつの間にか、片桐さんが三木ちゃんの真横に座っていた。

 ヘーゼル色の瞳が、私を静かに見つめている。

 す、と。その蛇のような瞳が、私から視線を動かして……片桐さんの真横に座った三木ちゃんを見据えた。

「真梨ちゃん? 俺も君の選択は間違っていないと思うよ?」
「っ」

 片桐さんが紡いだ言葉に、三木ちゃんが驚いたように息を吸って、ふっと物憂げに目を伏せた。その仕草に違和感を感じた。

「……?」

 怪訝な顔をした私を、片桐さんがくす、と笑って。腕を伸ばして、手に持っていた淡いブルーの箱を私の前に置いていく。

「はい。これ。俺からのホワイトデー。いつも仕事でお世話になってるお礼。イギリスのメーカーのチョコレートだよ。智くんと食べて?」

 真梨ちゃんにも。と言いながら、片桐さんが三木ちゃんの前にも淡いブルーの箱を置いていく。

 智さんと食べて、と片桐さんが口にした通り、私の前に置かれた箱は三木ちゃんのそれよりも一回り大きいものだった。

 けれど、智さんにこれを食べてもらうなんて考えたくもなかった。智さんが告白されたと言う人のチョコレートを受け取らず、自宅に持って帰ってこなかったように、私だって片桐さんからのホワイトデーのお菓子を受け取りたくない。

「……私は、いりません。お返しします」
「ええ~。つれないなぁ。別に愛の告白のつもりで渡したわけじゃな~いよ?」

 片桐さんが、こてん、首を傾げる。飄々とした雰囲気をその身に纏わせながら、ふわりと笑った。首を動かすと同時に、さらり、と。明るめの髪が揺れる。

 その仕草に思わず顔を顰めながら、ヘーゼル色の瞳を睨み返す。

「そういうつもりがなくても、私は受け取れません。お返しします」

 仕事でお世話になっているお礼だなんて。片桐さんが育ったイギリスでのホワイトデーの習わしなんてわからないけれど、少なくとも、私は片桐さんから受け取るような義理はないはず。

「んん~。お菓子勿体ないじゃん。せっかく食べられるために作られたのにさ?」

 片桐さんが困ったように笑う。

 すっとした高い鼻が映える整った顔に……その仕草。見る人が見れば、色っぽく感じるのだと思うけれど。

 ……片桐さんは、バッサリ断ったって、何度も食いついてくるのだから。正直、鬱陶しくてたまらない。その容姿なら引く手数多だろうになぜ私に固執しているのかも……わからない。

「……では片桐さんが召し上がったらどうですか」

 私の言葉に、片桐さんが不機嫌そうに眉根を寄せて口を尖らせる。

「俺、甘いの食べれないんだ」
「……駄々っ子ですか」

 はぁ、と、大きくため息をつく。

 ……食材を無駄には、したくない。目の前のお菓子だって、棄てられるために作られたわけじゃないのだから。

 先日、グリーンエバー社に見学に行った時のことを思い出す。きっと、このお菓子だって……たくさんの人の手が関わって、ここにあるもの。仕事で食品の取り扱いをしているからこそ、このお菓子がどんな工程を辿って生産されてきたのか。それに思いを馳せると……申し訳ない気持ちも溢れてくる。

 ぎゅ、と、唇を結んで、斜め前に座る片桐さんを見つめた。

「一度受け取ったら、その先は私の自由ですよね?」

 私の言葉に、へにゃり、と。片桐さんがふたたび困ったように笑った。

「ん~……知香ちゃんが何を考えてるか大体想像ついたけど。まぁ、いいよ? 受け取ったあとは自由だよ」

 よし。言質は取れた。ならば、私が一旦受け取った、そのうえで。

「……三木ちゃん。あげる」
「えっ……私でいいんですか?」

 三木ちゃんの、その大きな瞳がこぼれ落ちそうなほど見開かれる。私はその瞳を見つめて、うん、と頷いた。

 このまま受け取りたくはない。だけど、お菓子を無駄にはしたくない。そんな思いで出した結論。

「最近、実家に帰る機会が増えたって言ってたでしょ? ご家族のみなさんに持って帰って」

 三木ちゃんはご実家が自営業なんだそう。時折帰っては自営業のお手伝いをしている、という話しを聞いたから。これくらいの大きさのお菓子なら、ご家族の方々にすぐ召し上がっていただけるだろう。

 私の言葉に片桐さんが思いっきり苦笑する。

「もう、ホントにつれないよねぇ、知香ちゃんってば」

 そして。その苦笑いが……心底、愉しそうな笑顔に変わって。









「ねぇ。小林くんのウワサ、聞いた?」










 ヘーゼル色の瞳が。獲物を見据えたように……歪んだ。
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