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本編・第二部
101
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浅い呼吸をしながら、顔をあげて、目の前の智さんを見据えて。必死に頭を回転させる。
「私の存在が、智さんの足枷になっているとしても…私は、智さんを失いたくない…」
私の心にグサリと刺されたナイフが、体重をかけて勢いよく下に引いていかれるような、まるで心が引き裂かれていくような。そんな痛みがする。
身体の奥深い場所からせりあがってくるような、この感情をどう言葉にしたらよいのだろう。智さんが関わると、私の理性なんて全く意味をなさないことを思い知らされていく。
ともすれば、このテーブルをひっくり返して、泣き喚いて。智さんににじり寄りたいほどの衝動が湧き上がってくるのを必死に堪え、智さんを引き留めるための言葉を紡いだ。
「黒川さんが、私になにかをやってくるなら、それに対する反撃を考えたらいい、手を出せないように、何かを考えたらいい」
私の存在が足枷になってしまうのなら。私が潔く身を引くべき。
そう、思っていても。私の喉から放たれる言葉は、裏腹な言葉でしかなくて。
……剥き出しになった、私が抱える野性的な本心が暴かれていく。
「私に思いつくことなんて些細な事かもしれない、だけど…頑張って、考えるから。智さんの足枷にならないように、行動するから……だから………」
『本当の自分』の醜さを突き付けられていく。智さんを心から愛しているなら、智さんが考えたように…身を引くべきだというのに。私は、私が抱える執着を…醜い感情を、手放せやしない、ということを。まざまざと、見せつけられて。
脈拍が上がって。世界が思い切り歪んだ。智さんの姿が滲んで、見えなくなる。
それでも、必死に。ダークブラウンの瞳を、狂おしいほど大好きな智さんの表情を、この目に焼き付けようと。必死で…顔を、上げ続けた。
「だから、私を…手放さないで……」
ほろり、と。私の頬を、熱いしずくが、零れ落ちていった。
「俺は……何度、知香を泣かせればいいんだろうな……」
智さんが、困ったように、それでいて優しく笑って。切れ長の瞳に…穏やかさを湛えながら、私の濡れた瞳を見つめている。
「泣かせたら、俺から奪ってやるって…宣戦布告されて、もう二度と泣かせねぇって決めたのに。すまなかった……」
すまなかった、という言葉で。私の本心を、智さんがしっかり受け止めてくれたと実感して。腰が抜けて、椅子に座り込んだ。堰を切ったように涙が溢れていく。
ぽたぽたと、重力に逆らうことなく…止め処なく私の頬を滑り落ちていく。その滑り落ちた涙が、私のスカートに吸い込まれていった。
しゃくりをあげながら泣く私をみて、智さんが席を立って。長い足を動かして、スーツの裾をさばきながら、私の真横の床に膝を曲げて座り込んだ。ダークブラウンの瞳が、私を下から覗き込んでいる。
「苦しかったろう。大声出して…怖がらせて、ごめんな。ひどく、傷付けた。……俺の嘘を見抜いてくれて…ありがとう、な」
智さんが、声を震わせて。私の髪を撫でた。ゆっくりと撫でてくれる、大きな手のあたたかさが、途方もなく愛おしくて。それが、私の涙を加速させていく。
私よりも智さんのほうが、苦しかったはずなのに。
自分の気持ちに蓋をして。心が千切れてしまいそうな痛みを堪えながら、私に未練を残させないために、冷酷な表情を作って。それを、貫き通そうと…喰らいつく私を何度も何度も突き放して。
私のためなら、智さん自身の心が壊れてしまっても、構わないと……そんな覚悟を持って、私に向き合ってくれていた。
きっと。きっと、私よりも―――――何十倍だって、苦しかった、はずなのに。
「っ、ごめん、な、さい…智さんのために、身を、引くべきだって、っ、わかってるのに……、わっ、わたしっ、そんなの、無理………」
私には、無理だ。智さんのために、智さんを諦めるなんて。できるはずもない。
智さんに、どれほど愛されているのか。嫌というほど、突き付けられる。
本心から、私が幸せであって欲しいと願ってくれる智さんが……あまりにも、眩しかった。
私が抱えるこの執着は、醜くて、汚い。自分のことしか、考えていない感情。
智さんが抱える愛情は、どこまでも、清らかで―――私には、もったいないほど、眩しい。
違う、と。智さんが首を振りながら、その長い指で私の涙を拭って。
「独りで、先走りすぎた。そうだよな…俺は、独りじゃ、ないんだ」
智さん自身に言い聞かせるように。ゆっくりと、言葉を紡いで。私の輪郭を、慈しむようになぞっていく。
「三人寄れば文殊の知恵っていうもんな。知香と………一緒に、これからのことを考えればよかった。独りで抱え込んで……嘘をついて、すまなかった」
長い指が、私の唇に触れた。ダークブラウンの瞳が………まるで、赦しを乞うように、ふるふると揺れ動いている。
こんなに、私のことを想ってくれている智さんを。赦さない、なんて……これっぽっちも思えない。
「ずっと悩んでいた智さんの気持ちもわかってあげられなくて、それでこんなに執着して…汚い私だけど、っ、ずっとそばに…置いて、くれる……?」
きっと、今の私は、涙でくしゃくしゃになっている。それでも智さんは、穏やかで、温かく…私を、包み込んでくれた。次々にこぼれ落ちていく私の涙を拭うように。ゆっくりと、私の顔に触れて。
「汚くなんかねぇさ。知香が俺に向ける気持ちが、曇りのない深い気持ちだからこそ、俺の嘘を見抜いてくれたんだ。だから………俺だけが、悪かったんだ」
私が抱える醜い感情の全てを受け止めて。そのうえで、それらを曇りのない気持ち、と言ってもらえて。自分勝手な感情の全てが、智さんの手によって、ゆっくりと。浄化されていくような気がした。
切れ長の瞳が、ゆっくりと瞬きをして。視線が交差する。
「知香…愛してる。お願いだ。そばに、いてくれ」
その言葉に。また、涙が零れ落ちていく。
セックス以外で、愛していると言われたことは初めてだった。私たちの距離が、マイナスに振りきれるほどに近まって。感情が昂って、口にしてくれているのだろう、と。いつも、そう思っていた。
だから私は。熱に浮かされたように。
人生で、初めて。この言葉を口にした。
「私も、……智さんのこと。愛してる」
智さんの目が大きく見開かれて。そうして、私の世界が、白と赤に染まった。ワイシャツに私の涙が吸い込まれていく。赤いネクタイが……あのすれ違いの日を思い出させた。
「もう。もう、二度と、嘘をつかないで…智さんが考えてること……全部教えて……?」
智さんの、速い鼓動と、智さんの低い嗚咽だけが……耳に、残った。
「ちょっと父さんに連絡する」
ふたりで泣き合ったあと、お互いの顔の酷さに笑い合って。冷え切ったパスタをはんぶんこにしながら、ふたりで食べた。会計をして、私たちは手を繋いで、ゆっくりと歩いていく。
既にいつもの駅を通り過ぎていた。きっと、お互いに。もう一駅の距離くらいは…愛の言葉を囁き合った余韻に浸りながら、時間を共にしたい、と思っているのだと思う。
アルコールが入った智さんは、顔が赤くなったりしていなくて、普段と全く変わらないけれど。繋いだ手のひらから伝わる体温が、いつもよりも高い気がした。
「え? 徹さんに? どうして?」
ご実家でなにかがあったのかしらと、そう思って真横の智さんを見上げていると、智さんがバツが悪そうに私に視線を合わせた。
「知香が合流する前に、今日は実家に帰るって連絡したんだ」
私があの個室に入る前…智さんはすごく難しい顔をしてスマホを見ていた。そんなに前から…私に別れを告げる準備をしていたんだと気が付かされて。智さんの覚悟の深さを、改めて突き付けられる。
もし、私が、智さんの嘘を見抜けていなかったら。この手はもう、私の手の中にはなかっただろう。そう思うと、胸が張り裂けそうなほど悲しくなって、ぎゅう、と、智さんの手を強く握った。私の気持ちを悟ったのか、智さんも、ぎゅっと握り返してくれる。
「義姉さんに布団の準備してもらったりとか…負担かけるから、さ。事前に連絡しておこうと思って」
そう呟いて。智さんが片手でスマホを操作して耳にあてた。スマホから漏れ出る呼び出し音が私の耳にも届く。
「父さん? ごめん、そっちに帰るって言ったけど、帰らねぇから」
やわらかい風が吹き抜けていく。夜空を見上げると、地元ほどではないけれど…きれいな星空が広がっていた。
岸辺の桜が爛漫に咲いて、水面に甘く散り落ちていく季節には。
青々とした夏草に、目映い真昼の光がキラキラと降り注ぐ季節には。
憂いを帯びた見えない月が、薄い雲を貼りつけた空に昇る季節には。
永遠まで歩いていけそうなほど…地面を覆う白い花びらが舞う季節には。
私たちの関係はどうなっているのだろう。
このまま、優しく。ゆるやかで、穏やかな日々を過ごしていけたらいい。そんな風に、思う。
ふ、と。ヘーゼル色の瞳と、ねっとりとした声が思い出されて。ふるりと身震いをした。
……智さんと過ごす、この穏やかな日々を守っていきたい。だから…私は、私にできることを、やる。
「ん? ……まぁ、そういうこと。……わ~ってるって。俺が悪かったし、ちゃんと謝ったから。大丈夫」
智さんがスマホから耳を外して、思いっきり苦笑しながら私を向いた。
「親父に怒られた。知香を泣かせるな、だってさ」
親って、なんで言ってねぇことがわかるんだろうなぁ…と、智さんが小さく呟いた。その声が、3月の夜空に吸い込まれていく。
きっと、智さんにそっくりな。丁寧で、それでいて反論を許さないような口調で……徹さんが電話口で諭していたのだろう、と思うと、くすり、と笑みが漏れる。
「……さっき、さ。ゴールデンウィークまでには出て行ってくれ、って言ったろ?」
智さんが私の視線を追うように、星空を見上げた。ずぅっと、光が沈まない街。私たちが、日々を過ごしている街の……変わらない、夜空。
「………もう…これから先の人生を、独りで生きようと思ってな。知香の幸せを遠くから見守っててやりたかった。それで、ひとりで住める家を買おうと思って…いろいろ調べて、ゴールデンウィーク明けに引き渡し可能な物件をスマホで探してたんだ」
南の星空に、僅かに残っている冬の大三角を見上げながら……声を震わせる智さんを、じっと見つめた。
その横顔に、紡がれた言葉に、強烈な寂しさを感じた。独りで、生きる、だなんて。
「そんな覚悟をするくらいなら、初めからちゃんと私に向き合ってくれたらよかったのに」
わざと、ぷぅ、と。頬を膨らませて。怒っている、と、主張する。
「……独りでなんて、生きさせないんだから…」
智さんの最期を看取るのは私でありたい。いや、でも…この世界にひとり遺されるのは嫌だから…どうせなら、同じ時間に、こうして…手を繋いで、一緒に、この世界を旅立ちたい。
ゆっくりと歩を進めながら、できるはずもないことを、ぼんやりと考えていく。
いつか。いつか、いのちは尽きる。その時に、後悔しないでいいように。
私と過ごしたこの日々が幸せであったと言って欲しいから。
だから。私は私に―――嘘をつきたくない。
そう思ったら。智さんを手放したくないという、自分勝手な醜い感情だって……私の大事な一部なんだ、と。ストン、と、納得できた。
「ん。ありがとう、な」
智さんの優しい声が響いた。
私は、私に嘘をつかないために。智さんの足枷にならなくて済むように…考えを絞っていく。
「お互いの位置がわかるGPS付きのアプリがあったと思うから。それを入れるよ。智さんのスマホにも、それを入れて? もし、私と連絡が取れなくなったら…それを見て」
私の言葉に、わかった、と。智さんが頷いた。
「俺も、黒川のことを池野課長に相談しておく。忠告したでしょう、って、でっけぇ雷落とされるだろうけど……何かがあって事前に話を通してねぇよりマシだと思う」
藤宮くんの襟首を掴みながら、柔和でありながらも般若のお面を被ったような池野さんの笑顔を思い出す。
池野さんが三井商社内でどれほどの影響力を持っているのかは私はわからないけれど。智さんが、池野さんに全幅の信頼を寄せているということはとてもよく知っているから。
だから……大丈夫。
「もし何かあったら、警察に相談できるように…日記をつけておくよ」
「ん、そうだな…ネット経由で共有できるようなやつがあったろ? イタリアにいる時は、スマホ使わねぇようにするつもりなんだ。PCに連動できるようなアプリを探そう。俺が出張中はそれに書き込んでくれ。手が空いたらPC繋いでそれを見るから」
日本にいない智さんと、日々の出来事をインターネットで共有、だなんて。すごく、楽しそう。
「……ねぇ、智さん。それ、交換日記みたいにしよう?」
きっと、とっても楽しいと思うの。
そう、呟いた私の言葉に。
智さんが……飛びっきりの笑顔をみせてくれた。
(愛、してる)
抉られるような苦しみや痛みや……哀しみを胸に抱えて。蹲ったまま、夜明けを迎えても。
必ず、どちらかが、お互いを救いあげていく。
(ね? そうでしょ? ……智)
こうして、手を取りあって。いつか私たちが……この世界から消えてしまう日まで。
ふたりで―――――歩いて、いける。
「私の存在が、智さんの足枷になっているとしても…私は、智さんを失いたくない…」
私の心にグサリと刺されたナイフが、体重をかけて勢いよく下に引いていかれるような、まるで心が引き裂かれていくような。そんな痛みがする。
身体の奥深い場所からせりあがってくるような、この感情をどう言葉にしたらよいのだろう。智さんが関わると、私の理性なんて全く意味をなさないことを思い知らされていく。
ともすれば、このテーブルをひっくり返して、泣き喚いて。智さんににじり寄りたいほどの衝動が湧き上がってくるのを必死に堪え、智さんを引き留めるための言葉を紡いだ。
「黒川さんが、私になにかをやってくるなら、それに対する反撃を考えたらいい、手を出せないように、何かを考えたらいい」
私の存在が足枷になってしまうのなら。私が潔く身を引くべき。
そう、思っていても。私の喉から放たれる言葉は、裏腹な言葉でしかなくて。
……剥き出しになった、私が抱える野性的な本心が暴かれていく。
「私に思いつくことなんて些細な事かもしれない、だけど…頑張って、考えるから。智さんの足枷にならないように、行動するから……だから………」
『本当の自分』の醜さを突き付けられていく。智さんを心から愛しているなら、智さんが考えたように…身を引くべきだというのに。私は、私が抱える執着を…醜い感情を、手放せやしない、ということを。まざまざと、見せつけられて。
脈拍が上がって。世界が思い切り歪んだ。智さんの姿が滲んで、見えなくなる。
それでも、必死に。ダークブラウンの瞳を、狂おしいほど大好きな智さんの表情を、この目に焼き付けようと。必死で…顔を、上げ続けた。
「だから、私を…手放さないで……」
ほろり、と。私の頬を、熱いしずくが、零れ落ちていった。
「俺は……何度、知香を泣かせればいいんだろうな……」
智さんが、困ったように、それでいて優しく笑って。切れ長の瞳に…穏やかさを湛えながら、私の濡れた瞳を見つめている。
「泣かせたら、俺から奪ってやるって…宣戦布告されて、もう二度と泣かせねぇって決めたのに。すまなかった……」
すまなかった、という言葉で。私の本心を、智さんがしっかり受け止めてくれたと実感して。腰が抜けて、椅子に座り込んだ。堰を切ったように涙が溢れていく。
ぽたぽたと、重力に逆らうことなく…止め処なく私の頬を滑り落ちていく。その滑り落ちた涙が、私のスカートに吸い込まれていった。
しゃくりをあげながら泣く私をみて、智さんが席を立って。長い足を動かして、スーツの裾をさばきながら、私の真横の床に膝を曲げて座り込んだ。ダークブラウンの瞳が、私を下から覗き込んでいる。
「苦しかったろう。大声出して…怖がらせて、ごめんな。ひどく、傷付けた。……俺の嘘を見抜いてくれて…ありがとう、な」
智さんが、声を震わせて。私の髪を撫でた。ゆっくりと撫でてくれる、大きな手のあたたかさが、途方もなく愛おしくて。それが、私の涙を加速させていく。
私よりも智さんのほうが、苦しかったはずなのに。
自分の気持ちに蓋をして。心が千切れてしまいそうな痛みを堪えながら、私に未練を残させないために、冷酷な表情を作って。それを、貫き通そうと…喰らいつく私を何度も何度も突き放して。
私のためなら、智さん自身の心が壊れてしまっても、構わないと……そんな覚悟を持って、私に向き合ってくれていた。
きっと。きっと、私よりも―――――何十倍だって、苦しかった、はずなのに。
「っ、ごめん、な、さい…智さんのために、身を、引くべきだって、っ、わかってるのに……、わっ、わたしっ、そんなの、無理………」
私には、無理だ。智さんのために、智さんを諦めるなんて。できるはずもない。
智さんに、どれほど愛されているのか。嫌というほど、突き付けられる。
本心から、私が幸せであって欲しいと願ってくれる智さんが……あまりにも、眩しかった。
私が抱えるこの執着は、醜くて、汚い。自分のことしか、考えていない感情。
智さんが抱える愛情は、どこまでも、清らかで―――私には、もったいないほど、眩しい。
違う、と。智さんが首を振りながら、その長い指で私の涙を拭って。
「独りで、先走りすぎた。そうだよな…俺は、独りじゃ、ないんだ」
智さん自身に言い聞かせるように。ゆっくりと、言葉を紡いで。私の輪郭を、慈しむようになぞっていく。
「三人寄れば文殊の知恵っていうもんな。知香と………一緒に、これからのことを考えればよかった。独りで抱え込んで……嘘をついて、すまなかった」
長い指が、私の唇に触れた。ダークブラウンの瞳が………まるで、赦しを乞うように、ふるふると揺れ動いている。
こんなに、私のことを想ってくれている智さんを。赦さない、なんて……これっぽっちも思えない。
「ずっと悩んでいた智さんの気持ちもわかってあげられなくて、それでこんなに執着して…汚い私だけど、っ、ずっとそばに…置いて、くれる……?」
きっと、今の私は、涙でくしゃくしゃになっている。それでも智さんは、穏やかで、温かく…私を、包み込んでくれた。次々にこぼれ落ちていく私の涙を拭うように。ゆっくりと、私の顔に触れて。
「汚くなんかねぇさ。知香が俺に向ける気持ちが、曇りのない深い気持ちだからこそ、俺の嘘を見抜いてくれたんだ。だから………俺だけが、悪かったんだ」
私が抱える醜い感情の全てを受け止めて。そのうえで、それらを曇りのない気持ち、と言ってもらえて。自分勝手な感情の全てが、智さんの手によって、ゆっくりと。浄化されていくような気がした。
切れ長の瞳が、ゆっくりと瞬きをして。視線が交差する。
「知香…愛してる。お願いだ。そばに、いてくれ」
その言葉に。また、涙が零れ落ちていく。
セックス以外で、愛していると言われたことは初めてだった。私たちの距離が、マイナスに振りきれるほどに近まって。感情が昂って、口にしてくれているのだろう、と。いつも、そう思っていた。
だから私は。熱に浮かされたように。
人生で、初めて。この言葉を口にした。
「私も、……智さんのこと。愛してる」
智さんの目が大きく見開かれて。そうして、私の世界が、白と赤に染まった。ワイシャツに私の涙が吸い込まれていく。赤いネクタイが……あのすれ違いの日を思い出させた。
「もう。もう、二度と、嘘をつかないで…智さんが考えてること……全部教えて……?」
智さんの、速い鼓動と、智さんの低い嗚咽だけが……耳に、残った。
「ちょっと父さんに連絡する」
ふたりで泣き合ったあと、お互いの顔の酷さに笑い合って。冷え切ったパスタをはんぶんこにしながら、ふたりで食べた。会計をして、私たちは手を繋いで、ゆっくりと歩いていく。
既にいつもの駅を通り過ぎていた。きっと、お互いに。もう一駅の距離くらいは…愛の言葉を囁き合った余韻に浸りながら、時間を共にしたい、と思っているのだと思う。
アルコールが入った智さんは、顔が赤くなったりしていなくて、普段と全く変わらないけれど。繋いだ手のひらから伝わる体温が、いつもよりも高い気がした。
「え? 徹さんに? どうして?」
ご実家でなにかがあったのかしらと、そう思って真横の智さんを見上げていると、智さんがバツが悪そうに私に視線を合わせた。
「知香が合流する前に、今日は実家に帰るって連絡したんだ」
私があの個室に入る前…智さんはすごく難しい顔をしてスマホを見ていた。そんなに前から…私に別れを告げる準備をしていたんだと気が付かされて。智さんの覚悟の深さを、改めて突き付けられる。
もし、私が、智さんの嘘を見抜けていなかったら。この手はもう、私の手の中にはなかっただろう。そう思うと、胸が張り裂けそうなほど悲しくなって、ぎゅう、と、智さんの手を強く握った。私の気持ちを悟ったのか、智さんも、ぎゅっと握り返してくれる。
「義姉さんに布団の準備してもらったりとか…負担かけるから、さ。事前に連絡しておこうと思って」
そう呟いて。智さんが片手でスマホを操作して耳にあてた。スマホから漏れ出る呼び出し音が私の耳にも届く。
「父さん? ごめん、そっちに帰るって言ったけど、帰らねぇから」
やわらかい風が吹き抜けていく。夜空を見上げると、地元ほどではないけれど…きれいな星空が広がっていた。
岸辺の桜が爛漫に咲いて、水面に甘く散り落ちていく季節には。
青々とした夏草に、目映い真昼の光がキラキラと降り注ぐ季節には。
憂いを帯びた見えない月が、薄い雲を貼りつけた空に昇る季節には。
永遠まで歩いていけそうなほど…地面を覆う白い花びらが舞う季節には。
私たちの関係はどうなっているのだろう。
このまま、優しく。ゆるやかで、穏やかな日々を過ごしていけたらいい。そんな風に、思う。
ふ、と。ヘーゼル色の瞳と、ねっとりとした声が思い出されて。ふるりと身震いをした。
……智さんと過ごす、この穏やかな日々を守っていきたい。だから…私は、私にできることを、やる。
「ん? ……まぁ、そういうこと。……わ~ってるって。俺が悪かったし、ちゃんと謝ったから。大丈夫」
智さんがスマホから耳を外して、思いっきり苦笑しながら私を向いた。
「親父に怒られた。知香を泣かせるな、だってさ」
親って、なんで言ってねぇことがわかるんだろうなぁ…と、智さんが小さく呟いた。その声が、3月の夜空に吸い込まれていく。
きっと、智さんにそっくりな。丁寧で、それでいて反論を許さないような口調で……徹さんが電話口で諭していたのだろう、と思うと、くすり、と笑みが漏れる。
「……さっき、さ。ゴールデンウィークまでには出て行ってくれ、って言ったろ?」
智さんが私の視線を追うように、星空を見上げた。ずぅっと、光が沈まない街。私たちが、日々を過ごしている街の……変わらない、夜空。
「………もう…これから先の人生を、独りで生きようと思ってな。知香の幸せを遠くから見守っててやりたかった。それで、ひとりで住める家を買おうと思って…いろいろ調べて、ゴールデンウィーク明けに引き渡し可能な物件をスマホで探してたんだ」
南の星空に、僅かに残っている冬の大三角を見上げながら……声を震わせる智さんを、じっと見つめた。
その横顔に、紡がれた言葉に、強烈な寂しさを感じた。独りで、生きる、だなんて。
「そんな覚悟をするくらいなら、初めからちゃんと私に向き合ってくれたらよかったのに」
わざと、ぷぅ、と。頬を膨らませて。怒っている、と、主張する。
「……独りでなんて、生きさせないんだから…」
智さんの最期を看取るのは私でありたい。いや、でも…この世界にひとり遺されるのは嫌だから…どうせなら、同じ時間に、こうして…手を繋いで、一緒に、この世界を旅立ちたい。
ゆっくりと歩を進めながら、できるはずもないことを、ぼんやりと考えていく。
いつか。いつか、いのちは尽きる。その時に、後悔しないでいいように。
私と過ごしたこの日々が幸せであったと言って欲しいから。
だから。私は私に―――嘘をつきたくない。
そう思ったら。智さんを手放したくないという、自分勝手な醜い感情だって……私の大事な一部なんだ、と。ストン、と、納得できた。
「ん。ありがとう、な」
智さんの優しい声が響いた。
私は、私に嘘をつかないために。智さんの足枷にならなくて済むように…考えを絞っていく。
「お互いの位置がわかるGPS付きのアプリがあったと思うから。それを入れるよ。智さんのスマホにも、それを入れて? もし、私と連絡が取れなくなったら…それを見て」
私の言葉に、わかった、と。智さんが頷いた。
「俺も、黒川のことを池野課長に相談しておく。忠告したでしょう、って、でっけぇ雷落とされるだろうけど……何かがあって事前に話を通してねぇよりマシだと思う」
藤宮くんの襟首を掴みながら、柔和でありながらも般若のお面を被ったような池野さんの笑顔を思い出す。
池野さんが三井商社内でどれほどの影響力を持っているのかは私はわからないけれど。智さんが、池野さんに全幅の信頼を寄せているということはとてもよく知っているから。
だから……大丈夫。
「もし何かあったら、警察に相談できるように…日記をつけておくよ」
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「……ねぇ、智さん。それ、交換日記みたいにしよう?」
きっと、とっても楽しいと思うの。
そう、呟いた私の言葉に。
智さんが……飛びっきりの笑顔をみせてくれた。
(愛、してる)
抉られるような苦しみや痛みや……哀しみを胸に抱えて。蹲ったまま、夜明けを迎えても。
必ず、どちらかが、お互いを救いあげていく。
(ね? そうでしょ? ……智)
こうして、手を取りあって。いつか私たちが……この世界から消えてしまう日まで。
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