俺様エリートは独占欲全開で愛と快楽に溺れさせる

春宮ともみ

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本編・第二部

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「は?」

 私の、嘘、という言葉に。智さんが苛立ったように声を上げた。


 ゆっくりと、顔を上げて。赤ワインのグラスから、智さんの顔に視線を向ける。目の前に……智さんの、氷のような。冷たい瞳。その視線を向けられるだけで、まるで冷凍庫に放り込まれたように、全身がゆっくりと冷えていく。


 だけど。この瞳から、目を逸らしちゃいけない。
 理由はわからない。でも、逸らしちゃ、いけない。
 その一心で、細く、切れ長の瞳を見つめた。




 じっくりと、智さんの瞳を見れば。その冷たさの奥底に……途方もない哀しさが…宿って、いる。




 別れて欲しい、なんて。
 智さんは、自分自身にも、嘘をついている。




 智さんの思惑がどこにあるか、なんて、知らない。



(………思い通りになんか、させやしないんだから)



 そう、心の中で呟いて、目の前の智さんを強く睨みつけた。

「………別れて欲しい、なんて、嘘」
「嘘じゃねぇ」

 今までなかったような強く苛立った声がぶつけられる。



 怖い。私に向けられるその言葉の迫力に、冷たい声色に。心に、鋭いナイフがぐさりと突き立てられていくような、そんな気がして。

 でも、きっと。私のこの心の痛みよりも。






 ―――智さんの、心の痛みの方が、何十倍だって、痛いはずだから。






「じゃぁ。なんでワインなんか飲んでるの? なんで私の名前を呼ばないの?」
「………」

 ダークブラウンの瞳がわずかに揺れた。その揺れは、ほんの僅かな動きだった。

 けれど。

 智さんが、私の言葉に動揺しているとわかるには、それで十分だった。
 






 行ける。大丈夫。







 そう考えて、私は言葉を立て続けに被せる。

「私が、どれだけ智さんを想ってるのか。智さんは知らない」

 ぎゅ、と。私は唇を強く噛んで。智さんをふたたび睨みつけた。

「智さんが嘘をついてることくらい、すぐわかるよ」

 智さんのダークブラウンの瞳に、強い光が再度宿った。その強い瞳を。私の、強い意思で、強い視線で。睨み返す。

「別れて欲しい、なんて、嘘。そうでしょ」
「嘘、じゃねぇ」
「違う。智さんは、嘘ついてる」
「嘘じゃねえって。本心から、別れて欲しいって思ってんだって」
「嘘よ」

 ダンッ!! と、大きな音がする。その音に、心臓ごと全身が跳ねた。

「っ、どうして……!!」

 智さんの拳で、真四角のテーブルが叩かれて。ガチャン、と、テーブルのお皿が揺れた。ガッソーサが注がれたゾンビグラスが、闘牛のように激しく踊った。炭酸の泡が、底から、側面から、大きく揺れて。一気に水面に浮かび上がる。

「どうして、俺の気持ちをわかってくれねぇんだ……」

 ギリギリと。智さんが、拳を握り締めながら。私を、強い光を宿した瞳で睨みつける。

「わからないよ……嘘をつく智さんの気持ちなんて」

 その瞳の強さに、私の心が挫けそうになる。じわりと世界が歪み、目の奥が、胸の奥が熱くなる。

(……ここで、泣いちゃだめ)

 湧き上がる感情の波に、溺れないように。私はまた、智さんを真っ直ぐに見つめた。

「聞き分け悪すぎんだろ。俺は、別れてぇ、んだって」

 智さんが呆れたような表情を浮かべた。その表情すら……演技、ってことくらい。私にはわかってるんだから。ふつふつと滾る感情を押さえつける。智さんを追い込むように、言葉を畳みかけていく。

「本当に、別れたいなら。智さんが抱えてる本当の気持ちを言ってくれたほうが割り切れる」
「だから、言ったろ。お前に興味を失ったんだっつの」
「それが嘘なのよ。別れる、って嘘を私に言う勇気を持つ前に、智さんが抱えてる本当の気持ちを私に曝け出す勇気を持って」
「っ、ほんっとに、聞き分け悪ぃ女だな……」
「下手な嘘が、いちばんタチ悪いのよ。優しさと勘違いしてるの? なにも優しくなんてない」
「だから、嘘なんかじゃねぇって。なんでここまで言ってわかんねぇんだよ」

 はぁっ、と。智さんが大きく息を吐いて、頭をガシガシと搔いた。

 智さんの、その様子に。私は確信を持った。







 やっぱり。やっぱり、智さんは、嘘を言ってる。







「じゃぁ。なんで…」

 すぅ、と。大きく息を吸って。
 ダークブラウンの瞳を、強く見つめ返した。




「なんで、敬語じゃ、ないの?」




 智さんが。大きく息を飲んだ。


 別れたい、と、智さんが主張して。私が聞き分けが悪くて。私がそれを受け入れないこの状態を、智さんが本心から…本気で、怒っていたなら。


 智さんの口調が。丁寧で、それでいて、冷酷な話し方に、変わるはずだから。



 お正月に、私をかどわかそうとした凌牙と相対したとき。
 片桐さんが、あのエントランスで私を待っていたとき。

 智さんは、本気で怒っていた。
 その時の口調は―――敬語、だった。


 だから。今の智さんは、本心から怒っていないし、嘘を言っている。演技、している。

 私の言葉に、呆然とする智さんを睨みつけた。

「だから、言ったでしょ。……私が、どんなに、智さんを想っているのか。思い知れば、いい」















 私たちの間に。重い、重い沈黙が訪れた。

 ゾンビグラスの炭酸の泡が、ふわふわと水面に浮いていく様子を視界の端に捉えながら、今にも泣き出しそうな智さんを見つめていた。

「……やっぱ……知香には、適わねぇ、な」
「………」

 智さんが、困ったように。それでいて、優しく。哀しそうに……笑った。ダークブラウンの瞳から、涙が、一筋零れていった。

「……なんで、嘘をついたの?」

 キラリと光った涙に、その智さんの表情に。私の胸が、ぎゅう、と締め付けられていく。はぁ、と。智さんが大きなため息をついて、その角ばった親指で、目元を乱暴に拭った。

「池野課長から、釘を刺された。社内で………知香の存在を匂わせるな、と」
「釘? どうして?」

 私の存在。脈絡のない話に目をぱちぱちと瞬かる。

「俺は……最年少幹部候補、だ。恨み辛みが、バレンタインの時は、俺に向けられた。けど…次があれば。今度は、もしかしたら…知香に直接、向けられるかもしれねぇんだ」

 思わずひゅっと息を飲んだ。

 そうだ。なぜ、そこに思い当たらなかったのか。智さんの出世を妬む人なら、あらゆる手を使って、智さんの妨害をする可能性だってある。

 片桐さんが…私を手に入れようと、小林くんを揺さぶったように……智さんを引き摺りおろすために、私に接触してくる可能性だってあるのだ。

「……黒川は。俺を……引き摺り下ろそうと、している」
「………え」

 黒川さん。あの、おどおどとしたような、それでいて、人の話しを聞かないような。先ほど相対した面長の細い瞳と、ねっとりとしたあの声が、脳裏に甦った。

『邨上……お前、また邪魔すんの?』

 また。また、ということは、以前にも同じように…女性にしつこく絡む黒川さんを智さんが咎めたことがあった、ということだろう。

 終始、苛立ったように智さんを見つめていたこと。
 智さんは黒川さんに敬語を使っていたこと。
 黒川さんは智さんに敬語でなかったこと。

(名刺……)

 ふと思い立ち、中河さんの連絡先を追加して、そのままざっくり纏めてテーブルの端に置いていた名刺入れに手を伸ばす。逸る気持ちを押さえて、名刺を探し出す。

 挨拶の時。名刺交換して、名前は確認した。けれど……役職までは、確認、していなかった。

「……主任、黒川…大輔…」

 智さんは、課長代理。
 黒川さんは、主任。

 先ほどの会話の様子から見て。
 黒川さんが先輩で……智さんが、後輩。

 後輩に役職で追い抜かれて、プライドが許すはずもない、と…いうこと、だろうか。

「……さっき、知香をあの場から離した時。黒川は…知香と俺の関係を察した。俺が…失言、した」

 細く切れ長の瞳が、深い後悔で揺れて。智さんの薄い唇が、苦しそうに歪んだまま。言葉が紡がれる。その表情に、私も胸を深く抉られていく。

「失言…?」
「……あん時、営業3課時代、って…言ったろ。俺は、対外的には未だ3課に所属していることになっている。黒川を欺くには今でもお世話になっている、と……口にするべきだった」

 黒川さんが、智さんは私のことを知っているのか、と、問いかけた時のこと。

 とても単純な、一言だったけれど。それでも、黒川さんの目には強烈な違和感として残ってしまった、ということだろう。

 智さんが間に入ってくれる前に、私が話していた言葉すらも。もしかしたら……黒川さんが勘付くヒントになっていたかもしれない。そう考えると、ひどく…遣るせなく、なった。

 まるで、津波のように…押し寄せては引いて、大きくなっていく後悔とともに。ぎゅう、と……唇を噛み締める。

「嫌がらせのチョコレート。アレは恐らく、黒川だ。証拠がねぇから、なんとも言えねぇが。元々、俺と黒川は折り合いが悪かったのが、今回の新部門のことで決定的になった」

 バレンタインの時。紛れ込まされた、と、智さんが大きく舌打ちをした、あの朝の光景が脳裏に蘇った。すでに綺麗に治ったはずの指先が……じん、と。痛んで、熱を持ったような気がした。

 智さんが赤ワインに手を伸ばして、残った全てのワインを呷っていく。私も、自分を落ち着けるように。ガッソーサに口を付けた。初めに口付けたよりも、炭酸が抜けてしまって仄かなレモンの香りだけが、喉を滑り落ちていく。

 最後の一滴を口に含んで、グラスを口から離す。カラン、と、軽い音を立てて氷が音楽を奏でた。グラスに付いた水滴が、痛んで熱を持った人差し指を、ゆっくりと…冷やしてくれる。

「さっき、言ったろ……見たまんま、だって。仕事は出来ねぇけど、プライベートでは横柄だ。バレンタインの時みてぇに小賢しい嫌がらせの積み重ねであればいい。けど…あいつは、何をやらかすかわからねぇんだ。商談でも、斜め上の方向に持っていきやがる」

 はぁっ、と。智さんが大きなため息をついて、視線をテーブルに落とした。食べかけのパスタは、もう、きっと…冷え切ってしまっている。

「だから…知香を、俺から離さないと。知香が、危ない。そう……思ったんだ」

 智さんの、喉の奥から、身体の奥から絞り出すような声が、この個室の白い壁紙に吸収されていく。

「いつか、知香が…黒川から、刃物を向けられるかもしれない。スタンガンで痛めつけられるかもしれない。本当に、ドラマみてぇだけど……俺を憎んでいる黒川なら…………やりかねねぇんだ」




 私は、やっと。『別れて欲しい』といった、智さんの真意を悟った。




「…だから……智さんは、自分の気持ちに蓋をして、そうして……私に、別れを告げて…私を、守ろうとしてくれたの……?」



 私が、傷つかなくて、いいように。
 私を、巻き込まなくて、いいように。



「知香の、指に…まち針が当たって、傷ついたあの紅さが。忘れられねぇ。池野課長に釘を刺されたあの日から……俺のそばに縛り付けて……いいのか、ずっと、考えてた」

 いつも通りだった。私が接してきていた智さんは、いつもの、智さんだった。はずなのに。



 私は、ちっとも。智さんの苦しみを、わかってあげられていなかった。



「……こんな、くだらねぇ争いに巻き込んで傷つける可能性があるかもしれねぇなら……俺以外の男と歩んで幸せになってほしかった。小林でも、片桐でも、知香が幸せならそれでいい」
「そんなことっ…」

 智さんが紡いだ言葉に、思わず席から立ち上がった。哀しみに揺れるダークブラウンの瞳を見つめ返す。


 勝手、すぎる。私をここまで智さんに溺れさせたのは、智さん自身なのに。それなのに、今更になって。

「…そんな、勝手なこと……言わないでよ……」

 呼吸が、出来なくなっていく。



 私の存在が、智さんの足枷になってしまうなら。私は潔く身を引くべきなんだろう。
 智さんの真意も汲み取れず、抱えていた苦しみすらわかってあげられず。

 そんな、私が……智さんのそばに、いて、いいのだろうか。

 ぐるぐると急速に回りだす思考。負のイメージが延々と連鎖して。これほどまでに智さんが私に与えている影響が大きいということを、再認識した。



 心が凍りつくほどの悲しみが押し寄せてくる。浅く呼吸をする。喉がひゅうひゅうと音を立てて。


 ここが、レストランでよかった。自宅だったら。泣いて喚いて、我を忘れて智さんに詰め寄っていたはずだから。

 智さんが絡むと、私はもうだめ。理性なんてほとんど意味をなさない。この狂おしいまでの感情を、理性で何とかしようと思う方が間違っている、と。……そう気がついた。


 だって。私という存在が、智さんの足枷になるとわかっていても。それでも。



「私は……智さんのそばに、いたい……」



 そばにいたいと、思ってしまうのだから。
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