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本編・第二部
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「んん~! いい天気!」
ベランダで大きく伸びをする。
………一昨日の夜、散々求めあって。昨日は体力が尽きたようにふたりで惰眠を貪った。
今日は、今週お互い忙しくて色々と放置していた、洗濯物や掃除をしようと話し合って、分担しながらこなしていく。
濡れた身体のまま求め合ったから、マットレスも思ったよりもじっとりとしていて。マットレスからシーツを剥がし、少し考えて掛け布団のシーツも併せて剥がした。マットレスをベランダに立てかけて、風通しをしていく。ゆっくりと室内に戻ると、智さんが洗濯機の中から洗濯物を引き上げているところだった。剥がしたシーツ類を洗濯機に放り込み、また洗濯機を回す。ふたりで手分けして、洗濯物をピンチハンガーにかけていく。
「……うん。嬉しい誤算」
私の洋服をハンガーにかけながら、ぽつり、と、智さんが呟いて。
「へ?」
「いや。知香って脱いだら細いし。胸ふわふわだし。嬉しい誤算」
にっと、智さんが笑った。ぼんっと音を立てる勢いで、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「なっ……!?」
「挙句に感じやすいと来たもんだ。これを嬉しい誤算と言わずしてなんっつーんだ?」
ニヤリ、と、いつものように、口の端を釣り上げて、ダークブラウンの瞳が意地悪そうに歪んだ。
「っ、……智さんの、変態!」
「んんー? 知香のいう論理なら、その変態に付き合って何度も何度も求めてきた知香だって変態じゃね?」
その言葉に、一昨日の夜のことを思い出す。何度求められても、何度だって受け入れたいと願った私の………この上なく恥ずかしい姿を。
「……っ! もう! 知らない! 智さんのバカ!!!」
顔を真っ赤にしたまま、大きく顔を逸らした。
「はいはい」
くすくすと、智さんが声を上げて笑った。
「さ、それはいーから。シーツ干したら、知香ん家行こう。向こうも掃除して、荷造りしないと」
そう。私の自宅は、来月……2月の中旬で引き払うことにしたのだ。ある程度荷造りをして、智さんの車で日数を分けながら、こちらに運び込む。大型家具はほとんど必要がないので、業者さんを呼んで、リサイクルショップに持ち込み処分する予定だ。智さんが車を持っていて助かった、と、本当に実感した瞬間だったりする。
カチャリ、と鍵を開けると、少しだけ埃の香りがして、顔を顰めた。……よく考えると、先々週の金曜日の朝に出社してからずっと智さんの家にいたから、私の家に帰ってくるのは10日振り。
智さんも手伝ってくれるということで、まずは掃除をして、その後クローゼットの中を纏めていくことにした。
「……普段から片付けしてないのがよくわかりますねぇ、あはは」
乾いた笑いを浮かべながら雑巾がけをして智さんに向き直った。総合職に転換してから仕事のペースがなかなか掴めず、そちらにエネルギーを使っていたから。家事をする時間が、10月以降はほとんど取れていなかった。それ故に、家具の後ろは気が付かないうちに埃が溜まってしまっていたようだった。年末に大掃除をしようと思っていたけれど、それも仕事に忙殺されて叶わなかった。
「ん? 仕方ねぇよ、俺だって畜産チームから水産チームに異動になった時、同じだったぞ?」
慰めの言葉を紡いだ、というより、本当にそうだったのだというような顔で智さんが私に視線を向けてくれる。その優しさが、胸に染みた。
「うう……色々手伝って下さって、ありがとうございます……」
「敬語」
不意に飛び出た敬語に、じとっとした目を向けられる。……まだ、慣れなくて。少しむず痒い。
「……色々手伝ってくれて、ありがとう…」
「ん、よし」
満足そうな視線を私に向けて、背の高い智さんは、軽々と高い位置の掃除をやってくれていた。
「んっと、他の場所の掃除、進めておいてやるから。知香は服とか纏めたら? 分担したほうが早ぇだろ?」
「うう………いいの? なんか本当に申し訳ない…」
クローゼットの中を整理して衣類を畳み、持ち込んだ段ボールに詰めていく。もともと持っていた服は髪を切った時に処分したから、そんなに量があるわけでもなく……あっという間に纏め終わってしまった。
「……」
クローゼットの奥に仕舞い込んでいた箱を取り出す。凌牙との、思い出が詰まっている箱。社内恋愛だったから、一緒に外出をしたりするのは憚られ、ずっと自宅デートばかりだった。凌牙の家で撮った写真とか、僅かな外出時間で買ってもらったものとか。捨てよう、捨てようと思っていたけれど、総合職になり、仕事に忙殺されて捨てる機会を逸していた。
(ちょうどいい機会だから……分別して捨てよう)
パカリ、と箱を開けて可燃物と不燃物に分けて。不思議なもので、別れた当時はあんなにも………捨てたくない、と泣いていたのに、今となっては憑き物が落ちたように、あの時の私を客観的に見れる。
……本当に。私は、あの時、凌牙に振られて、良かったと感じる。だって、こんなに素敵な智さんに出会えた。色んなことを学べた。
ひどく、それはもうひどく傷つけられたけれど。でも、それも……人生の、ひとつのスパイス。そう考えられるように、なった。
「……」
せっかく、こんな気持ちになれたのだから。昨日、智さんと微睡んでいる時に考えていたこと。今、この瞬間に、智さんに話すべきこと、だと思えた。
「最近ね? よく思うの」
その思い出の箱を膝に抱えながら、ぽつりと呟いた。
「ん?」
くるりとこちらを振り返った智さんはキッチンを整理してくれていた。使える調味料などは、智さん宅に持って帰ろう。ぼんやりとそんなことを考えつつ、言葉を紡いだ。
「道ですれ違う人はすれ違うだけの人だと思ってた。けど、コンビニの店員さんも、スーパーのレジ待ちで偶然一緒になった人も、ついさっきすれ違った、お隣の人も。……みんなみんな、その人が過ごしてきた何十年という人生があって。みんなみんな……いっぱい、藻掻いて、わらって、生きてる。それに気がついたら、私が凌牙に振られて苦しかったのって、人生を生きる上で、当たり前のことだった……なんというか、人生のスパイス、だったんだな、って」
キッチンの整理をする手を止めて、じっと考え込んだ智さんを見つめた。
「……そうだなぁ。俺も、そう思う。絢子に振られて、人生のどん底に叩き落された気分だったし、死にたいって思った。俺が築き上げてきた、全てを……絢子と、その母親に砕かれた。けど…」
「みんな、色んなことを抱えて、いっぱいいっぱい生きてる。そう、でしょ?」
私の言葉に「ん」と、智さんが短く頷いた。
「そう考えたら…なんていうか。心底悪い人って、いないんじゃないかって思ったの」
ダークブラウンの瞳と、視線が交差した。ぎゅっと、手のひらを握りしめて、智さんの瞳を見つめ返す。
「だから……片桐さんにも、片桐さんの生きてきた人生があって。その中で、傷ついて、立ち直れなくなっていて…どんな傷を負っていたのか、わからないし、それを救えたのかもわからない。だけど…私は、そうして声をかけれた私を、誇りたい」
しばらく、無言の時間が続いて。智さんが、ふっと笑った。
「うん。知香なら、そう言うと思ってたよ」
その笑顔に、ほっとしつつも。智さんの気持ちを考えるなら、これだけは伝えたかった。
「智さんはそういうの、本当は嫌かもしれないけど。今回だけは……赦してほしい」
もし、智さんが、無意識に女性を口説くような言葉を使っていたとしたら。私は、堪えられない。けれど、もう吐いてしまった言葉は戻らない。私が傷つくかも、と思って伏せてくれていた智さんの気持ちも、大切にしたい。そう考えての、私の正直な気持ちだった。
「だから……うん、今後は考えなしで知らない人にそういう声をかけるのは、やめる。あの時マスターに間に入って貰えなかったら、どうなってたか、わからないし……」
そっと、智さんがそばに寄ってきてくれて。ふわりと頭を撫でてくれた。
「ん~ん。大丈夫。そのままの、知香でいい」
ゆっくりと、頭を撫でられて。けれど私は納得できなくて、口を尖らせた。
「でも…でも。今回みたいなことになっちゃうかも……だし…」
今回はマスターが間に入ってくれて、智さんと一緒に居て、すぐに智さんが対策を講じてくれたから、今のところ大丈夫なだけで。もし、また同じようなことになってしまったら? ……私一人では、対処できないかもしれない。だから知らない人に思わず深入りして、そういう言葉をかけるのをやめようと考えていた。
私の不満気な表情に、ふっと。ふたたび智さんがやわらかく微笑んだ。
「そん時は、そん時だ。俺を頼ってくれるだろ? まぁ、なんとかするさ。……俺は、俺が惚れた、知香のままでいて欲しい」
「……っ」
どんな殺し文句だろう。単に、愛している、とか言われるより、ずっとずっと。
「だめか? 俺は、そういう知香に…惚れたんだ」
やわらかく微笑む、その笑顔に。私は。
(……本当に、智さんに出会えて……良かった……)
そう、心から思った。ゆっくりと、智さんに口付ける。触れるだけの……軽い、口付け。唇が離れて。私たちは、くすくすと笑いあった。
纏めた段ボールを車に積み込んで、後部座席のドアを閉めた。助手席に座って、シートベルトを閉めた瞬間に、智さんから声をかけられた。
「帰る前に寄りたいところあるんだけど、いい?」
「え? なんか買い物ありましたっけ?」
ぱっと考えても、冷蔵庫の中や生活用品で足りないものはなかった気がする。買い物とはなんだろう、と考え込んでいたら。つぅ、と……私を見つめている切れ長の瞳が細められた。
「……一昨日、使い切ったから。また買ってくる」
「……っ…」
その言葉に、かぁっと顔が赤くなる。
使い切った、とは。そんなに……シていたのだろうか、私たちは。正直、私はいつ眠りに堕ちたのか、いつまで起きていたのか、ほとんど記憶がない。顔を赤くして視線を彷徨わせた私の様子に、智さんがニヤリと口の端を上げた。
「それと今『ありましたっけ?』って敬語使いましたね? ……まぁ、今夜は覚悟しておいてくださいね?」
「うっ…」
声のトーンと口調が変わった。ざわりと肌が粟立つ。ふふふ、と。智さんの愉し気な笑い声が車内に響いて消えていく。
ひ、卑怯だ。まだ慣れないだけだというのに。横暴にもほどがある、と考えつつ、引き攣れた声で抗議していくけれど。
「ま、まだ慣れないだけだから許して…!!」
「だめです。許しません。その身体に、教え込めばいいんでしょう?」
智さんが、口の端をつり上げたまま、不敵に笑った。そうして、車が駐車場からゆっくりと動き出す。
私はまだ、呆然としながら。
(………付き合い始めた時も、こんなこと、あった気が……)
そんなことを考えながら……赤くなった顔のまま。智さんの横顔を見つめていた。
ベランダで大きく伸びをする。
………一昨日の夜、散々求めあって。昨日は体力が尽きたようにふたりで惰眠を貪った。
今日は、今週お互い忙しくて色々と放置していた、洗濯物や掃除をしようと話し合って、分担しながらこなしていく。
濡れた身体のまま求め合ったから、マットレスも思ったよりもじっとりとしていて。マットレスからシーツを剥がし、少し考えて掛け布団のシーツも併せて剥がした。マットレスをベランダに立てかけて、風通しをしていく。ゆっくりと室内に戻ると、智さんが洗濯機の中から洗濯物を引き上げているところだった。剥がしたシーツ類を洗濯機に放り込み、また洗濯機を回す。ふたりで手分けして、洗濯物をピンチハンガーにかけていく。
「……うん。嬉しい誤算」
私の洋服をハンガーにかけながら、ぽつり、と、智さんが呟いて。
「へ?」
「いや。知香って脱いだら細いし。胸ふわふわだし。嬉しい誤算」
にっと、智さんが笑った。ぼんっと音を立てる勢いで、顔が赤くなるのが自分でも分かった。
「なっ……!?」
「挙句に感じやすいと来たもんだ。これを嬉しい誤算と言わずしてなんっつーんだ?」
ニヤリ、と、いつものように、口の端を釣り上げて、ダークブラウンの瞳が意地悪そうに歪んだ。
「っ、……智さんの、変態!」
「んんー? 知香のいう論理なら、その変態に付き合って何度も何度も求めてきた知香だって変態じゃね?」
その言葉に、一昨日の夜のことを思い出す。何度求められても、何度だって受け入れたいと願った私の………この上なく恥ずかしい姿を。
「……っ! もう! 知らない! 智さんのバカ!!!」
顔を真っ赤にしたまま、大きく顔を逸らした。
「はいはい」
くすくすと、智さんが声を上げて笑った。
「さ、それはいーから。シーツ干したら、知香ん家行こう。向こうも掃除して、荷造りしないと」
そう。私の自宅は、来月……2月の中旬で引き払うことにしたのだ。ある程度荷造りをして、智さんの車で日数を分けながら、こちらに運び込む。大型家具はほとんど必要がないので、業者さんを呼んで、リサイクルショップに持ち込み処分する予定だ。智さんが車を持っていて助かった、と、本当に実感した瞬間だったりする。
カチャリ、と鍵を開けると、少しだけ埃の香りがして、顔を顰めた。……よく考えると、先々週の金曜日の朝に出社してからずっと智さんの家にいたから、私の家に帰ってくるのは10日振り。
智さんも手伝ってくれるということで、まずは掃除をして、その後クローゼットの中を纏めていくことにした。
「……普段から片付けしてないのがよくわかりますねぇ、あはは」
乾いた笑いを浮かべながら雑巾がけをして智さんに向き直った。総合職に転換してから仕事のペースがなかなか掴めず、そちらにエネルギーを使っていたから。家事をする時間が、10月以降はほとんど取れていなかった。それ故に、家具の後ろは気が付かないうちに埃が溜まってしまっていたようだった。年末に大掃除をしようと思っていたけれど、それも仕事に忙殺されて叶わなかった。
「ん? 仕方ねぇよ、俺だって畜産チームから水産チームに異動になった時、同じだったぞ?」
慰めの言葉を紡いだ、というより、本当にそうだったのだというような顔で智さんが私に視線を向けてくれる。その優しさが、胸に染みた。
「うう……色々手伝って下さって、ありがとうございます……」
「敬語」
不意に飛び出た敬語に、じとっとした目を向けられる。……まだ、慣れなくて。少しむず痒い。
「……色々手伝ってくれて、ありがとう…」
「ん、よし」
満足そうな視線を私に向けて、背の高い智さんは、軽々と高い位置の掃除をやってくれていた。
「んっと、他の場所の掃除、進めておいてやるから。知香は服とか纏めたら? 分担したほうが早ぇだろ?」
「うう………いいの? なんか本当に申し訳ない…」
クローゼットの中を整理して衣類を畳み、持ち込んだ段ボールに詰めていく。もともと持っていた服は髪を切った時に処分したから、そんなに量があるわけでもなく……あっという間に纏め終わってしまった。
「……」
クローゼットの奥に仕舞い込んでいた箱を取り出す。凌牙との、思い出が詰まっている箱。社内恋愛だったから、一緒に外出をしたりするのは憚られ、ずっと自宅デートばかりだった。凌牙の家で撮った写真とか、僅かな外出時間で買ってもらったものとか。捨てよう、捨てようと思っていたけれど、総合職になり、仕事に忙殺されて捨てる機会を逸していた。
(ちょうどいい機会だから……分別して捨てよう)
パカリ、と箱を開けて可燃物と不燃物に分けて。不思議なもので、別れた当時はあんなにも………捨てたくない、と泣いていたのに、今となっては憑き物が落ちたように、あの時の私を客観的に見れる。
……本当に。私は、あの時、凌牙に振られて、良かったと感じる。だって、こんなに素敵な智さんに出会えた。色んなことを学べた。
ひどく、それはもうひどく傷つけられたけれど。でも、それも……人生の、ひとつのスパイス。そう考えられるように、なった。
「……」
せっかく、こんな気持ちになれたのだから。昨日、智さんと微睡んでいる時に考えていたこと。今、この瞬間に、智さんに話すべきこと、だと思えた。
「最近ね? よく思うの」
その思い出の箱を膝に抱えながら、ぽつりと呟いた。
「ん?」
くるりとこちらを振り返った智さんはキッチンを整理してくれていた。使える調味料などは、智さん宅に持って帰ろう。ぼんやりとそんなことを考えつつ、言葉を紡いだ。
「道ですれ違う人はすれ違うだけの人だと思ってた。けど、コンビニの店員さんも、スーパーのレジ待ちで偶然一緒になった人も、ついさっきすれ違った、お隣の人も。……みんなみんな、その人が過ごしてきた何十年という人生があって。みんなみんな……いっぱい、藻掻いて、わらって、生きてる。それに気がついたら、私が凌牙に振られて苦しかったのって、人生を生きる上で、当たり前のことだった……なんというか、人生のスパイス、だったんだな、って」
キッチンの整理をする手を止めて、じっと考え込んだ智さんを見つめた。
「……そうだなぁ。俺も、そう思う。絢子に振られて、人生のどん底に叩き落された気分だったし、死にたいって思った。俺が築き上げてきた、全てを……絢子と、その母親に砕かれた。けど…」
「みんな、色んなことを抱えて、いっぱいいっぱい生きてる。そう、でしょ?」
私の言葉に「ん」と、智さんが短く頷いた。
「そう考えたら…なんていうか。心底悪い人って、いないんじゃないかって思ったの」
ダークブラウンの瞳と、視線が交差した。ぎゅっと、手のひらを握りしめて、智さんの瞳を見つめ返す。
「だから……片桐さんにも、片桐さんの生きてきた人生があって。その中で、傷ついて、立ち直れなくなっていて…どんな傷を負っていたのか、わからないし、それを救えたのかもわからない。だけど…私は、そうして声をかけれた私を、誇りたい」
しばらく、無言の時間が続いて。智さんが、ふっと笑った。
「うん。知香なら、そう言うと思ってたよ」
その笑顔に、ほっとしつつも。智さんの気持ちを考えるなら、これだけは伝えたかった。
「智さんはそういうの、本当は嫌かもしれないけど。今回だけは……赦してほしい」
もし、智さんが、無意識に女性を口説くような言葉を使っていたとしたら。私は、堪えられない。けれど、もう吐いてしまった言葉は戻らない。私が傷つくかも、と思って伏せてくれていた智さんの気持ちも、大切にしたい。そう考えての、私の正直な気持ちだった。
「だから……うん、今後は考えなしで知らない人にそういう声をかけるのは、やめる。あの時マスターに間に入って貰えなかったら、どうなってたか、わからないし……」
そっと、智さんがそばに寄ってきてくれて。ふわりと頭を撫でてくれた。
「ん~ん。大丈夫。そのままの、知香でいい」
ゆっくりと、頭を撫でられて。けれど私は納得できなくて、口を尖らせた。
「でも…でも。今回みたいなことになっちゃうかも……だし…」
今回はマスターが間に入ってくれて、智さんと一緒に居て、すぐに智さんが対策を講じてくれたから、今のところ大丈夫なだけで。もし、また同じようなことになってしまったら? ……私一人では、対処できないかもしれない。だから知らない人に思わず深入りして、そういう言葉をかけるのをやめようと考えていた。
私の不満気な表情に、ふっと。ふたたび智さんがやわらかく微笑んだ。
「そん時は、そん時だ。俺を頼ってくれるだろ? まぁ、なんとかするさ。……俺は、俺が惚れた、知香のままでいて欲しい」
「……っ」
どんな殺し文句だろう。単に、愛している、とか言われるより、ずっとずっと。
「だめか? 俺は、そういう知香に…惚れたんだ」
やわらかく微笑む、その笑顔に。私は。
(……本当に、智さんに出会えて……良かった……)
そう、心から思った。ゆっくりと、智さんに口付ける。触れるだけの……軽い、口付け。唇が離れて。私たちは、くすくすと笑いあった。
纏めた段ボールを車に積み込んで、後部座席のドアを閉めた。助手席に座って、シートベルトを閉めた瞬間に、智さんから声をかけられた。
「帰る前に寄りたいところあるんだけど、いい?」
「え? なんか買い物ありましたっけ?」
ぱっと考えても、冷蔵庫の中や生活用品で足りないものはなかった気がする。買い物とはなんだろう、と考え込んでいたら。つぅ、と……私を見つめている切れ長の瞳が細められた。
「……一昨日、使い切ったから。また買ってくる」
「……っ…」
その言葉に、かぁっと顔が赤くなる。
使い切った、とは。そんなに……シていたのだろうか、私たちは。正直、私はいつ眠りに堕ちたのか、いつまで起きていたのか、ほとんど記憶がない。顔を赤くして視線を彷徨わせた私の様子に、智さんがニヤリと口の端を上げた。
「それと今『ありましたっけ?』って敬語使いましたね? ……まぁ、今夜は覚悟しておいてくださいね?」
「うっ…」
声のトーンと口調が変わった。ざわりと肌が粟立つ。ふふふ、と。智さんの愉し気な笑い声が車内に響いて消えていく。
ひ、卑怯だ。まだ慣れないだけだというのに。横暴にもほどがある、と考えつつ、引き攣れた声で抗議していくけれど。
「ま、まだ慣れないだけだから許して…!!」
「だめです。許しません。その身体に、教え込めばいいんでしょう?」
智さんが、口の端をつり上げたまま、不敵に笑った。そうして、車が駐車場からゆっくりと動き出す。
私はまだ、呆然としながら。
(………付き合い始めた時も、こんなこと、あった気が……)
そんなことを考えながら……赤くなった顔のまま。智さんの横顔を見つめていた。
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